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「分割自我復元」
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[97]
■
★分割自我復元★その96 【自我復元の報告】
by:
鈴木崩残
2012/05/26(Sat)19:03:25
報告のおたより
●今回、紹介します報告は、「主観部分」の変化に関するもので、
客観的変化は、これとは別に報告されています。
読んでいて、久々に、私の目から見て、
スカっとする報告でしたので、紹介することにしました。
3-主観的な自分の変化
今現在の基本的な自分の在り方がどうなっているのか、
現自我率での観察力が如何ほどのものか怪しい限りですが、
まとめてみました。
1.信頼性
何より前提としてあるのが自身への絶対的な信頼というべきもので、
日によって、または対する人や状況などによって相当ゆらぎはするものの、
今の私を基軸にして物事の判断が下されます。
昔よく思った「ふつうって何だろう?」の「ふつう」が今の私だといえます。
これは別段、失敗しなくなったとか全自我に戻ったとかいうのではなく
希釈自我そのままのボンヤリしたいつもの私なのですが、
それでもまず「信用、信頼」ありきという感じです。
「自分のことに対し全責任を持つ覚悟」ありき、
といった方がいいかもしれません。
今の「私」は自分の内面に巣くう不平、不満の親としての立ち位置に似ています。
実際子供はいませんが、父性、母性の感覚は、
このようなものなのかなあと想像しています。
それは今日は責任があって、
明日はだらけようとかいうあまいものではなく、
なんというか、もし自分への約束を破ったら内側から、
その自分が暴れだし人生をブチ壊してよい、殺してよいというそんな厳しいもので、
とにかく何としてもこの場所に居座ることが必要だという
切羽詰まった認識があるためです。
意識がない状態では何をやっても自分はダメだと、
さんざん身にしみている為か、内面にいやな塊が湧き出しても
「あんた今こんな姿してまっせ」と自分をまるごと照らし出してしまえば、理解は早く、
ああそうだと聞き分けよく消えていきます。
前回も書いたと思いますが、内面は随分静かになり、
暴走したり泣きごと言ったりと、手に負えない状態が極端に減っています。
暴走ぎみになるのは、まあ性の部分で、
名付けると「背徳の悦楽」に引っ張られぎみです。
2.責任
全責任を持つということは必然今この瞬間に意識が縛り付けられるようです。
(気持ちのみごりっぱで、ちゃんとできてるとは言いがたいのですが)
今にある欲求、感情、行動を逐一照らし出し、
その状態を理解している必要があるので結構、くたびれます。
今はもう感じませんが、1か月程前の一時期、
自分の目の前5センチのところにTVの大画面があって、
それを何時間も凝視している感覚がありました。
絶えず内面に浮かぶ想いに気が向いている状態は、正直しんどいですが、
ほんのかすかな思考の流れの正体が理解できた時は喜びが沸きます。
これをする(?)こと、あるいはこの態度の維持は、
今の立ち位置に必要な条件とすら感じます。
3.立場
この「自分」というものは一度まるごと受け入れてしまえば、
特に劣等、優越を感じる対象ではなく、嫌悪するものでも否定するものでも、
必死こいて擁護するものでもなく、
今の私にはどうも単なる「点」のようにさえ感じられます。
ある位置を占めている視点のようなものです。
(まきこまれていない状態での話ですが)
それも、たったひとつではなく多重人格的に、
ある欲求になったものがいくつか点在しているようです。
ある人、物、状況に対峙した時、それに呼応した形で、
内面からわきあがってきては、ある立場を主張するもの、
それがいわゆる「自分」ではないのか・・・?
とまあ、確証は持てず、理屈をこねくり回すのも苦手で余計こんがらがりますが、
ただ内面だけでなく、他人に対しての「立場」を重んじるようには
自然と変わっていきました。
よく昔の記憶の感覚がよみがえってきたりしますが、
「ああ、あの時の経験は、自分の立ち位置がこうで、
むこうさんが、こういう立ち位置で、そのふたつがぶつかって
あんな空間が作られて、自分の内面にこんな感覚が生じたんだ・・・」と、
いろいろと総括し直していますし、
今、物事を眺める場合でも、自然とこんな感じになっていくようです。
そうでないと実際に何が起こっていたのか、の理解に至りそうにないですし、
その思考や感情を持つ自分の姿をも露わにする作業が、どうしても必要になってきます。
その際には対峙した相手の正体も、同時に浮かび上がってくるようですので。
自分がかきあつめていたのはガラクタだったが、
「ガラクタを背負った自分」は理解に至る糧かもしれないと今は思えます。
「自分」は単体で独立しておらず、ワンセット、
あるいは対峙しているものとのペアであるように感じます。
ですので「自分」視点のみで生きていた頃、
世界のなかの単なる1パーツのみでは問題の解決にいたれなかったのは、
むしろ当然だったのだなあ、と。
(そのパーツ全体をもまともに見れなかったわけですし、
ちゃんと受け入れてもいなかったので)
まだ見つけていない内面の感覚も、わんさかありそうですから、
そいつらのことも分かってやらにゃならんわけでして。
ぼーっとして見逃しているサインが多々あるんだろうなと、
今の意識状態では正直心もとないです。
無駄な動き、明確な意思なき行動が多すぎるし全体的にも、
まあ、しまりがよくない。
現に今も指が勝手に動いていたり、右ひじに余計な力が入っていたりする。
にしても「自分」発信の悩みで、どーたらこーたらというのは、
今の私には合わないようです。
自分の「へっぽこカウンセラー」くらいには、なれてると思いますので。
欲をいえば現在進行形で、
大勢の人々の思惑が飛び交う中で冷静さを保ち、分析できれば言うことなしですが
今はまったくもって出来そうにありません。
間をおいて、静かな環境で考えてすらあまりできてはいなし、
時間がかかってしょうがない感じですから・・・
現在、新しい仕事をやろうってことで、
人とメールでの意見のやり取りをしょっちゅうするのですが、
相手の立場を読み切れず、見逃す部分も多々あって、
それはまた次の展開に持ち越してしまっています。
こんな感じで双方の落とし所を探るのにさんざん苦労しています。
まあ、それでも拒否や無視ではなく、
いつも「理解」「消化」する方向へは流れて行くようです。
4.否定
自分の周りの空間に否定的なニオイをあまり感じなくなっています。
ネガティブな感覚は、しょっちゅう湧いてくるのですが、
何というか、否定的なものを否定せず見ている、という感覚です。
それは私の内面であっても、向き合っている人や状況であってもあてはまります。
ただ世界に対し責任と尊敬を忘れると、
ブワブワとネガティブな感覚が沸いてきて
ほっとくと収拾がつかなくなるので気をつけています。
瞬間的に乱暴な感情が飛び出す時が多々あり、
そんな場合は何か自分と世界の間にズレがあるんだと、
いったん立ち止まりバランスをとろうとします。
なんにしても動作はゆっくりと丁寧にした方がいいようです。
あまり多くの人と深く関わるようなことはしない私ですが、
このごろは何に向き合うにせよ、私の態度はあまり変わらないように思えます。
その時々でころころ変わるという感じはせず、
だいたいいつも同じような向き合い方をしています。
5.支配
同じように支配のニオイがしなくなりました。
支配の動きはずっと内面でも気付かずに、ひっきりなしに行われていたようでした。
「・・・すべき」という強要もその典型的な動きで、
ある思考と、それが投影する否定的自己像との間を、根が同じものだとは気付かずに、
引き裂こうとする茶番劇を随分と演じていたものでした。
自分で自分を縛る構造になっていたようで、
勝手に強要し、強要されるという、なんともアホらしいことをしていたようです。
その引っ張り合いの動きは結局「自己不信」に基づくものでしたので
今はそれも単発的に浮上して来はするものの、
がっちり同化するまでには至らず、理解されては自然と消えていくようです。
外部に対しても無理な強制が行われていないようです。
無理に何かの形を変えようとしていない。力みがない。強引さがない。
駆け引きの力加減が随分うまくなっている。
うまい言葉で表現できませんが、「状況と仲が良い感じ」です。
反面、外部では、いたるところで「支配」のにおいがススンとします。
何気ない電車の中刷り広告や人の発する何気ない言葉や、
あふれる娯楽の中にそれを感じるようになってきました。
特に(男が作る)性の部分で、性に結びつければ商品が売れる、
人を注目させられるといった乱暴な意識がここ東京では充満している気がします。
それに、立派に、まきこまれている私自身もここにいるのですが。
物がこんなにもあふれかえっている世の中なのは基本、
人は、心的枯渇状態の在り方でいるんだろうなと思います。
それを認識しないように、あるいはさせないように働いている。
6-その他の「ユニーク」な変化
特にユニークではないですが、相手が、私の言わんとしていることや、
意識状態の把握についてくるわずかな時間が把握できることが、
このごろ多くなっています。
昔はその感覚が分からず、人の心にズカズカ入っていくようなことを
していたんだろうなあと思いました。
前回からあまり日が経っていないですが
新しい仕事を始めるにあたって環境もちょっと大きく変わるはずですので
現時点での自我率をちゃんと把握しておきたいのです。
どうぞ自我判定をよろしくお願いします。
___________________________________________________________
■どれも、決して大げさな装飾のない、
ごく平易な言葉による表現なのですが、
自我復元に伴う、視点の変化が、よく現れていました。
そして、実はこの方は、スタート地点は10%近辺でした。
それが今では、もう少し行くと、50%に行けるまでに復元されています。
ただし、のちに確認したのですが、
この方の最初の判定の時には、精度に不安定さがあった判定方法でしたので、
本当に10%であったのかどうか、少し疑問がありました。
●のちに、2度目の判定をした時には、既に「現在の判定方法」で、
そのときには自我率が28%でしたので、それは間違いなく正しいといえます。
ただし、その前、つまり「スタート地点」は、
実際には10%ではなく、1/7自我や、15%近辺だった可能性があります。
●ところで、「2010年内」に私が行った自我判定をした人は、そう多くありませんが、
当時、自我判定をして、その後、一度もしていない方は、
もしも、まだ「自我復元というものや、御自分の自我率に関心がある場合」には、
二度目の判定をするのも良いと思います。
ただし、単なる誤差の確認だけの判定ではなく、
自我復元をやっている人、報告をきちんとされた方に限らせて戴きます。
誤差などは、せいぜい5%程度しかないのですから。
「単なる判定のし直し」をしても大した差はありません。
●今まで見てきた感じでは、2010年内の私の自我判定は、
最大で、約5%ほどの誤差がある場合があります。
むろん、1/4自我の人を、1/2自我と間違えるといったことはありませんが、
微妙な数値までの判定では、2011年以後の、今使っている判定法が正しいものですから。
なお、新方式になる「前」の時には、滲み書は付きませんでした。
当時は、禅書の注目文字4文字のうち、二文字を判定にあてるという方法でした。
当時は滲み書はつきませんでした。
「滲み書」があるものは、すべて2011年の1月に確立された、
新方式の判定法になって以後のものです。
___________________________
希釈自我の地獄絵
■「分割自我が作り出す地獄絵」というテーマでは、
「分割自我復元理論」というCDにも収められていますが、
ここでは、もう少し、細部について書きます。
■「分割自我復元」のDVDが発売されてから、そろそろ2年になり、
自我判定を開始してからは、約20ヶ月ほどになりますが、
膨大な回数の、自我判定をし、また個々の方たちに、
それぞれに必要と思える、細かい助言をしてきて、
その中で、「分割自我復元理論」には収録しなかった、
もっと微細な「自我率のそれぞれの境界線」というものが、
いやというほど、見えてきました。
■たとえば、かなり面白いのは、1/8自我あたりから上がってきた人が、
1/4自我のラインに至るときには、あきらかに、大きな変化があるということです。
それに比べると1/2自我の通過ポイントにはあまり目立った変化はない。
私の中では、主に、8分割方式と、12分割方式で、
それぞれの自我の性質の「区分」が定義されていますが、
1/8自我までは、何とか維持できている人間の尊厳といいますか、
自我の尊厳のようなものがあります。
それはその人が書いてくる文章にも明確に出ています。
しかし、1/10自我、1/11自我、1/12自我、または1/16自我になると、
完全に喪失されてくるものがあります。
これは1/8自我には、まだ維持できているのですが、
1/12自我あたりでは、喪失しています。
それは、一言に言うと、
自我壁に穴があいている状態に似ているということです。
むろん、それは、自我がないのでもなく、精神的に楽であるのでもなく、
生活に問題がないのでもありません。
ただ、1/8以上の自我の人たちが必ず持っている、苦への感覚が、
ひどく鈍感すぎて、いわゆる、私が以前に言ったところ、
「苦しむことすら出来ないほど、鈍感な希釈自我」の人達のことです。
●1/8自我あたりの人達は、かなり屈折していて、
以前ならばゾンビと言われてしまうタイプですが、それでも、プライドがあります。
薄っぺらでもなんでも、「自我」自体を守るためのプライドです。
それは、その後に、自我復元をした場合には、非常に重要な力になります。
●ところが、1/10自我あたりになると、
そのプライドさえ、他者からの借り物で、中身と実体がなく、
まるで、憑依されたままであるのかと思えるほど、個性がなく、
自我が薄すぎるのです。
おもしろいことに、1/8自我あたりの人は、
自我がまだあるだけに、多少ひねくれたり、無礼ところもあるのですが、
1/10自我以下になると、そのひねくれという個性さえも、
育っていなかったために、社交辞令的な言葉の使い方をよく使います。
つまりこれも単に、表面的に、教育をされただけのものなので、
実感や、心がこもってはおらず、スッカスッカの社交辞令なのですが、
それでも社会的には通用してしまいます。
●そして、おかしなことに、
この1/10自我あたり、つまり、1/9自我、1/10自我、1/11自我あたりには、
学校の教師とか、坊主とか、弁護士との職種の人がいる場合が、ままあります。
なんと、こういう自我率でも、社会で暮らせてしまうわけです。
しかし、それもそのはずで、
すべてを、「借り物の知識と、借り物の言葉」で固めてしまえば、
あるいは、それしか、なすすべがない自我なのであれば、
とうぜん、周囲の常識や、怠惰や、利権にはどっぷり漬かることが出来ます。
●もともと、自我というものを押し通せば、
相当に周囲との対立をかき分けて、そこから突出しやすいですから、
ある意味では、平穏に上手くやっていけるわけがありません。
ですので、1/8自我以上の人は、ふてくされていても、性格が悪くても、
それでも、自我を死守しようとするが故に、苦しみを、リアルに感じます。
何か自分がおかしい、という事ぐらいは、ずっと自覚をもっています。
●しかし、1/8自我「未満」になると、その「変だ」という、
最後の砦である、正常な「監視機能」が失われてゆきます。
この、自我の最後の砦のような監視機能が失われると、
希釈自我の状態から発生する問題について、
苦しむという機能そのものが麻痺し始めます。
だからこそ、1/10自我あたりから這い上がるのは大変なのです。
しかし、自我復元で、それをやってのける人たちが確実にいますので、
悲観することはありません。
●もしも自我復元というものがなかったら、
この1/8自我未満の領域は、ある意味では、どんなカウンセリングでも
救い出すことは出来ません。
この領域の自我の人たちの最大の特徴は、
自分の考えと思っていることが、「すべて他人や外部の考え」なのですが、
そのことに、気付ける可能性がほとんどないという絶望的な状態にあります。
しかし、それでも、教師、弁護士、坊主とかが務まってしまうという点から、
この人達は、東電の社員だって出来ますし、公務員や官僚になれると思います。
なにしろ、自分の考えなどゼロで良く、また自分の考えがゼロの、
政府の飼い犬でないと勤まらないのが、それらの官僚の仕事ですから。
●まー、それを思えば、あの管直人が、1/8自我だったというのは、
彼は、本当に、ボンクラの馬鹿でしたが、多少なりとも、プライドから、
ポーズぐらいは作ろうとする自我は残っていたのかもしれません。
おそらく野田はそれ以下です。
(ただし、まだ野田や、枝野や、石原の、自我判定はしていませんが。)
1/9自我以下の野郎が、この日本を背負っているのかと思うと、
私は、絶望的な気分になります。
むろん、だかといって、反原発をやっている人達が、
1/8自我以上だという意味ではありませんよ。
●さて、1/9自我、1/10自我、あたりの人達というのは、
私もリアルの世界でも、何度か見たことがあります。
1/11自我、1/12自我に該当する人は、現在までに判定した中では、
約5名ぐらいでしたが、中にはそこから抜け出した人もいますが、
その他は、すべて、傾向は同じです。
社会的には、ある意味では、1/6自我あたりの人よりも
一見すると、世渡りをしているように見えるものの、
一度、家庭が崩壊したり、その人を保護していた人から見放されたらば、
1/12自我という希釈自我の「本領」が発揮(?)されます。
大抵の場合には、精神に異常を生ずるか、自殺するか、犯罪に走ります。
かろうじて、家庭や職場が、それにブレーキをかけているという
環境への依存状態にあります。
この点では、1/8自我以上の人は、もしも周囲が完全に壊れても、
たとえ瀕死の状態であっても、はいずっても自分の力で、生きてゆきます。
そこには、まだ自我の核だけは、残っているからです。
●一年ほど前までは、私は、1/8自我と、それ以下の自我の区分は
あまり明確に出来ませんでしたが、
最近は、そのあたりの大きな違いが分かるようになってきました。
ちなみに1/16自我という人のサンプルも4回ほどリアルの世界で
見たことがありますが、
はっきり言って、「次は動物に生まれた方がいい」と思えました。
わずかにあるその自我を、全く「使っていない」からです。
とてもつまらない、とるにたらない、人間のプライドとはまた違う、
まるで、動物のプライドといいますか、私にはよく理解できない、
「原始的なプライド?」のようなものはあるのですが、
ようは、飢えたり、他人が殴ったり、または自爆して大怪我をしないと、
何ひとつも理解できないという意味では、動物的です。
いちおう人間の格好はしていますが、1/16自我の人と関わる場合には、
四足歩行の動物と思ったほうが、
無理のない、より「正しい付き合い方」が出来ます。
それを間違っても、「同じ人間」だと思って関わると、
必ず、トラブルが起きます。
1/8自我未満の人に、もっとも似合う言葉は、
「気付きということから、これほどに遥か遠くに離れている人たちはいない」
というぐらいの、「無自覚さ」です。
これは、自我復元以外の方法で、回復することは、ほぼ100%不可能です。
自分のことには、全く何にも気付けないというのが、その特徴です。
むろん、とりあえず人間をやっているのですから、
問題意識がゼロではありませんが、
本当に問題だと切実に感じられることは、1つ程度しかないことがほとんどです。
あとは、悩みがあっても、それも問題意識がある「ふり」にすぎません。
これが、自我率が1/8自我から1/6自我あたりになると、
問題意識は、3つか4つに多層的になり、増えています。
つまり何かを問題だ、苦痛だと感じるセンサーと葛藤回路は、
1/8自我「未満」の人よりも、はるかにマトモです。
また、1/12自我あたりまでは、まだそれでも「社会的な体裁」を
作っていられる環境にいたり、生活面で誰かの保護下にあるうちは、
周囲に「なんとか無害」のままです。
しかし、これが、1/16自我になると、そろそろそのあたりから、
「自己愛性人格障害」に似たものが出始めて、周囲に迷惑な人間になります。
___________________________
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