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●あなたは生でも死でもない●
by:
●〓方山〓●
2000/08/25(Fri)08:21
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●他人の死を通じて分かることといえば、
「死そのもの」についてではなく、
言うまでもなく、その死と自分の生との「関連」のみである。
●死そのものは本人が「いろいろな意味で」死んでみなければわからない。
●人間という動物がどのように扱おうと、
生死は観念上のものにすぎない。
というのも、生死という言葉と観念の分別がなければ、
ただ生きて死に、そこに不条理もなければ、哲学もない。
むしろ、いかなる不条理な死であっても、
それは、ときには、ある種の美しい現象として認識される。
そんな当たり前の美しい死は、よく動物たちの世界に沢山ある。
●その人の死は、あくまでも、その死者自身の問題である。
その人の死についてどうこう言うのは、
常に、そのまだ生きている者と、死んだ者との観念的な「距離の遠近」に
よって、まだ生きている者の立場から語るものにすぎない。
●ところで、死についての人間の姿勢といえば、
基本的には、いくつもの種類があるようだ。
1/死んでも、記憶や歴史として何かが継続すると考える。
2/死んでも、生の一部、あるいは何かが転生すると考える。
3/死んだら、すべて消えるから空しいと考える。
4/死んだら、すべて消えるから清清すると考える。
5/死を通じてこそ生が、より意味を持つと考える(臭っ)。
6/生を通じてこそ、その最後の死が意味を持つと考える(これも臭っ)。
●だいたいこんなものだが、
私見では、このどれもが、単なる妄想の産物である。
というのも、生と死が区別の出来ないものであることが、
毎日の生活の(というよりこの今の瞬間の)中で
常に実感されている場合には、
人にとって生死は、哲学上の課題にすらならないからである。
なぜならば、もともと、ないもの(生死の区別)について論じる意味は
ないからだ。
●ただ、死の本質の全体ではなく、ごく純度の低い一部分を感じる機会は
いろいろとあるだろう。
身内の死体に触れてみたり、まるで壊れた機械のようになった動物の
死体に触れたときとか、
あるいは、大切な物が「なくなったり、壊れたりした」とき。
●つまり、ようは、それが他者や他の物の死である場合には、
それに対する主観的な愛着の度合いによって、
それが「自分の目の前から消えてしまう」という事に、
自分で自分を哀れに思うわけである。
厳密な意味において、完璧に利他的な哀れみは存在しない。
何かしら、そこに自分との関係性による愛着がある場合にしか
悲しみは感じ取れないのも言うまでもないことである。
だから、我々は風呂場のカビに対して哀れみを
心底から感じることは出来ない。(カビマニアやカビ研究家でないかぎりは)
●さて、これと同じことが、たとえば自己の思考上で生ずる機会といえば、
たとえ自分や対象が死ななくても、別れたくない誰かや物と
「離別する時」である。
つまり、とにかく、死とは、
それが物質であるか内面的なものかであるかに関係なく、
それを「見る本人」にとって、
「それが知覚上や記憶上から失われること」、
または、「失われると思い込むこと」と単純化してもいいだろう。
●このように認識すると、実は、死は、毎日、毎秒、
我々の感覚や思考の中で、常に起き続けているのである。
したがって、本当の意味での、死に対する準備とは、
この瞬間の中において、死と生が表裏一体となっていることの
実感を持って在ることである。
ただし、それは「生の為の死」というような陳腐なものではなく、
生死のどちらがどちらの為にあるのでもなく、
生死がありのままで、そこに共存している、今この瞬間瞬間を
無心に受け入れるしかないのである。
●人は、そもそも今、そこで、生きていると思い込んでいる。
そして、この世界で、いかにも、人は生きている「ように」見える。
しかし、そこでは、本当は、一体何が生きているのだろうか?
◆↓にリンクした詩句は、そうした事を一人静かに思うときの、
ちょっとしたヒントになるかもしれない。
http://www.mumyouan.com/e/eosiku.html
●
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