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素朴な疑問シリーズ/2/「反戦意識とは??」
by:
ほ う ざん
2002/03/21(Thu)09:23
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◆「日本国内に限れば」の話ですが、
あと数十年後には、第二次世界大戦を直に経験した人達は
日本にはいなくなる。
◆被爆の被害者の遺族の人や、
終戦後の不自由な生活を強いられた人達は残るとしても、
本土で戦争を経験した人たちは、いずれいなくなる。
そうなった場合に、
反戦とは何なのか?というのが私の疑問のひとつです。
というのも、世の中には、その事件や事故の「当事者」をよそ目に
何かの「運動」で自分の無価値さの「穴埋め」をする人たちが
すごく多いからです。
この人達は、自分に対して「平気で嘘をつく人達」または、
全く眠りこけている人たちです。
◆つまり戦争の直接の体験者と、戦争の傷跡に悩む人達、
そうした人たちに比べて、全くそういう経験のない人たちが口にする
戦争反対には、どれだけ意味があるのか?が疑問なのです。
むろん、戦争ということについて、蚊屋の外で「論じる自由」は
誰にでもありますが、
戦争の痛みとか、悲惨さを、報道画像や新聞や本ではなく、
直に経験してきた人達と、そうでない人達では、
あまりにもギャップが大きいだろうということです。
◆そして、この全く同じ「ギャップ」というものは、
「受験戦争」の時代を生きた子供のことは、
「受験戦争」の無かった時代を生きた大人には理解できないという
という、逆の世代関係でも存在します。
つまり、つねに、経験のないものに対しては、人は部外者なのです。
◆しかし、それを忘れてしまい、全く部外者であることを意識もしないで、
他人の意見や、活動に「賛同」したり、「感動したり」「貢献したり」する
ということが世の中には多すぎるわけです。
とりわけ、自然保護や戦争反対というのは、
一見すると、誰もそれを「間違っている」とは言わない。
◆そして、「誰もが間違っているといわないこと」の中には、
実は、人が道を踏み外す、大きな罠や、あいまいさや、
熱狂や、狂信が巣食うものなのです。
ある小さな集団内や、広く見れば国家内、あるいは地球人全員の中にある
「疑問すらもたないようなモラルや正論」というものが、
実は、この世界を混沌とした幼児的な状態に踏みとどまらせている要因でも
あるのです。
つまり、もしも自分の言動に、少なくとも自分なりの明確な実感のある
生命経験をしたいのであれば、
「なんとなく正しそう」には気をつけろということです。
【我々は、戦争に本当に反対できるのか?】
◆あらかじめ、言っておくと、
私は賛成、反対の、どちらのスタンスにも立てない。
単純に戦争は悪いとは思えないからである。
ただし、戦争がいい、とも思えない。
それぞれは、
どういう視点で見るか、判断するかで違ってくるからである。
◆それでは、まず最初に
物事の「規模による差」について話をしてみます。
◆大昔、せいぜい隣の村と自分の村の間で、
槍だか石器で殺し合っていた時代、
だれも殺人を悪いとも思っていないし、
集団的な村同士の戦争も、悪いものというよりは、
当時は「当然の当たり前の事」だったはず。
◆戦争は悪いことだ、などと口に出して普通の人達が言い出したのは、
ごくごく近代のことにすぎない。
特に日本なら、日本の終戦後の事だろう。
それまでは、お国の為に兵隊さんになるのが立派というのが常識であり、
国内での「善」だったわけだから。
◆で、話は戻りますが、たとえば、昔のように、
原始的な武器で、戦って殺人して、死んでいたころなら
地球全体からすれば、それは微微たるものでして、
ちょうど、動物たちが弱肉強食で死んだりしているのとほとんど同じレベルの
戦争なわけです。
つまり、自然淘汰の原則で見ても、何の問題もないということです。
◆むろん、当事者の、一家の主人を殺された家族や村人は悲しみますから
その人達にとっては、微微たるものではありません。
しかし、世界的な常識としての「反戦」など、当時はなかったわけです。
◆で、問題は、物事の規模が大きくなってくると反戦を言い出すが、
規模が小さいうちは誰も問題にしないという点です。
石器時代の動物的な殺し合いは、
やがて、火の利用に至って、
相手の縄張りに火をつけるという戦争になり、
そのうち、ダイナマイトの火薬が発明され、
そして、電気が発見され、
ついには、核エネルギーが開発された。
◆そうなると、弓矢とかで殺しあっていた「ローカル戦争」が、
いきなりここで「全世界的な問題として扱われる」という
一種の思考上のトリックが起きるわけですよ。
むろん、確かに地球を100回以上破壊できる核弾頭を保存している
ことは問題かもしれませんが、
ただし、戦争の本質というのは、規模の問題ではないわけですよ。
規模がおおげさになって、地球を破壊するからというのが理由になったのは、
あくまでも、「核が登場した後」のお話。
で、なんと、今でも
「地雷は残酷だから撤去しよう」とか口先では言うくせに、
一方では「通常兵器」という言い方で、
あいかわらず「通常の殺戮の道具」は国家的に公認されているわけですから。
◆ですから、規模が地球規模になってから反対するというのは、
実は、根本的に戦争に反対するという事とは違うわけです。
それは突き詰めれば、人間が、自分たちの存続の危機にかかわるから
という「人間のご都合で危機感を持っている」というだけで、
ちっとも自然それ自体に対する敬意なんかないわけですよ。
◆たとえば、自然が破壊されると困るというけど、
もしも、一部の自然が破壊されても、それが人間の衣食住に
何一つも関係なかったら、多くの人は全く騒ぎもしないでしょう。
森林伐採は多くの生態系が狂うと言いますが、
それもあくまでも「人間をとりまく生態系を中心とした考え方」です。
「人間に必要な植物が減る」というのも理由でしょう。
◆というのも、生態系ということで言えば、
地球の生態系はそれほどヤワではなくて、
熱帯化すれば、それに適合する昆虫たちには
すばらしい高温の「パラダイス」になるわけですから。
地獄に感じるのは人間だけです。
ただし化学物質の散布については、生物全体にダメージはありますが。
◆そういう事なので、
「戦争は悪い」と口で言う場合には、
1/「自分は、なぜ?そう思うか?」という自分の経験や知識の根拠、
2/「どういう種類のどういう範囲の戦争の事を言っているのか?」
という事を、少なくとも、
自分に対してだけでも明確にすべきですね。
◆そして、そう思う根拠は、皆さんが影響される報道の種類にも
大きく左右されていることを認識すべきです。
ベトナムの人が銃で頭を撃ちぬかれる場面を見たり、
化学兵器で殺された人たちの死体の山を見たり、
ナチスの迫害を見たり、被爆のフィルムを見たり、
とにかく写真や本やテレビの画像でしか戦争というものを
見ていない人達が私も含めて、大多数です(日本の場合ですが)。
◆手足がもぎ取れて、血肉が飛び散り、遺族たちが泣き、
そういうものを我々は戦争だと思っている。
そして、それは戦争の「結果としての一部」ではあるが、
それが「戦争というものの全体」なのではないのである。
戦争というものは、その殺戮という表面的な行為の、
「それ以前の思考のプロセス」にこそその本質があるのですから。
◆また、地球環境が巻き込まれるから戦争は悪いという事でもない。
実際、破壊される面積が小規模だったり、自然回復するのであれば、
誰もあまり問題にしないからである。
◆人間が、何かをことさら問題にして、
その問題意識に賛同してしまう裏には、
常に、情報の報道の仕方があるわけなのは言うまでもありません。
そして、多くの人は、報道画像を疑がわない。
◆でも、さすがに、最近は、
特に戦争の現場の画像などというものは、
敵対する相手国や相手をいかに悪者に見せるか、という「演出」が
報道の随所になされていることぐらいは
ごく一般の視聴者でも、知識としてぐらいには知る時代となりましたがね。
◆そして、人の命は平等として扱われる事はない。
それが人間の実際の姿です。
たとえば、かわいい子犬や、猫がマンホールに落ちて、
レスキュー隊がそれを救う場面に、あなたは涙しますか?
むろん、感激するのは、いいでしょう。
しかし、単に字幕で、
「今朝、新宿のホームレスの一人が、
急性アルコール中毒で路上で死んでいました」
という放送がされたら、あなたは、
マンホール落ちて抜け出せない子犬や子猫よりも、その人を悲しみますか?
人の命には、その人を思う人の身近な人たちの主観や、
その人の報道的な価値によって値段があるのです。
また、嫌われたり、呪われる人の命は、一般の人よりも安いのです。
命の貴さを、うっかり口にしてしまう場合には、
命には、常にその環境や時代やその人を、とりまくものによって、
明確に違う「値段」というものがある、その事を忘れないことです。
たぶん、北朝鮮や、一部の中国の人にとっては、
あきらかに日本人の命の価格は、
彼らの自国民より安っぽいものなのです。
またアメリカにとっては、敵対する中東の軍隊の人の命なんて、
ワイドショーに出てくる犬よりも安いのです。
ヨーロッパで、まだ差別の強い国では、
わたしたち東洋人を含む有色人種は、
彼らよりも、安い存在価格なのでしょう。
そして、わたしたち日本人は、戦前にはアジアの人達を差別していたでしょう。
ただ、戦後生まれた人達の世代では、日本人はその国民性からも、
特定の外国の人たちの命を安いなどとはもう思っていないかもしれませんが、
日本の国内、
県内、
地域内、
学校内、
会社内、
家族内、
さらには、たとえばネットの掲示板、
つまりは、その規模や範囲に関係なく、
誰かの命は、自分よりも安いもの、
誰かの命は、他よりも高い価値がある
などと思っているわけですよ。
そして、これから夏に向けて、大量に殺されるゴキブリたちは、
あきらかに、人間は彼らには「マイナス価格」すらつけているのでしょう。
つまり、「ゴキブリなんか、いないほうがマシだ」、と。
◆これだけ、人間同士や、生物差別をしていて、
よくもまー、反戦とか言うもんですよ。
規模の大きい戦争が駄目なのか?
残酷な戦争が駄目なのか?
それとも、どんなものでも争い自体が悪いのか?
しかし、争いは、精神的な、いろいろな意味でも、
弱肉強食という大切な自然法則でもあるのだ。
◆そして、つまるところ、
人間は、他人の争っているように見えて、
自分の「脳内」の異なるファイル、異なる記憶、価値観、
そして、ときには異なる人格がそもそも生存をかけて争っているのだから
それが外部に投射されて、誰かを嫌悪したり、不安になったり、
その結果として、殺戮、排除、虐待、差別などが起きるわけですよ。
◆テレビの「あるある大辞典」でしたっけね。
おなじみの「脳会議」のキャラクターが出てくるやつ。
しかし、実際には、人の脳の中には、もっと無数の「対立と摩擦」が日々、
この瞬間にも起きている。
だから、この自分たった一人の「脳内戦争」をどうにも出来ないようなら、
外で起きている、人間関係、社会、国家、地球など、
口先や、行動で、どうこうできるわけがないのである。
◆だから、戦争に反対する前に、
まずは、自分の脳内で戦争をしている部署の整理整頓、そして掃除です。
瞑想とは、本来、そういうことです。
自分を支える価値観を得たり、それに、しがみつくのではなく、
不要な価値観を捨てたり、
また必要に応じて、選択した価値観を持てたりする
そうした意識の自由を得るということ。
その唯一の方法は、口の沈黙ではなく、
内的な完全なる静寂です。
静けさに勝る心の掃除はない。
だが、永久にそのまま続くとも思える静けさは、多くの人には、
不安と恐怖と狂気をも生み出す事もあるだろう。
◆
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