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[2304]
■
■批判屋としてのブッダたちの一面
by:
ほ う ざん
2002/06/05(Wed)06:28
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■ある音楽家がこんなことを言った。
「音楽の歴史というのは、それまで音楽の世界で悪と言われていたことを
誰かがやったことの上に積み重なっている。」
つまりたとえば、ロックの初期には、
それまでは「歪んだ音」などは、常識的にあり得なかったのに、
ギターの音を歪ませるということをした。
で、この話は前にもしましたが、
今でこそ、当たり前に市民権を得ているような、すべてのものは、
当時は、常に「異端的要素」を含んでいたことは、
科学、芸術、宗教などにおいても同じです。
「極論」すればですが、大衆に異端視されないものなどは、
パイオニアではないと言えます。
■前の投稿で「本物のブッダ」という事を書いたので、
どうも、今までの普通の人達の反応パターンの傾向からして、
これをかくと、すぐさま心が乱される人達が多いようで、
時には、自分の属している体系や導師への執着をあらわにしたり、
時には、何がブッダであり、そうでないかを批判することに
懸命になるタイプの人がいたりします。
■しかし、少なくとも、ここまでの投稿を誤読せずに、
よく読んでいる人であれば、
ブッダというのは、平凡さの中にいる場合には、
特に、これといった特徴が発見されないほど当たり前に生きている
というその反面で、
実は、多かれ少なかれ「異端的」であることは避けようがない
ということが理解できるはずです。
■ところで、今後、ブッダとか悟った人という、
このカビや、ウジ虫の生えたような古い表現は、なるべくやめて、
「異変者」という新語を私個人は、使います。
ただし、それは神秘体験をしたとか、ラリったという事ではなく、
大小あるものの、悟りの体験のその日から「何かが変わってしまった人達」、
という意味ですから、単なる何かの瞑想体験者ではありません。
また、異常者とか、変人とは区別するために、
「意識に異変の起きた者」とします。
異端の「異」と、変容の「変」の合成という意味合いも暗示させてみました。
■そして、この「異変者たち」には、ひとつの共通性があります。
それは、彼らは、
その時代において優性になっているような体系や常識のうちの
特に、改めて洞察すべき部分を必ず、徹底批判するということです。
また、そこに彼ら自身の、ある意味で「非個人的な悟り」の部分もあると
言えます。つまり時代の要求に無意識的に彼らが応じる場合があるということです。
ですから「異変者が批判的である」というのは、避けようがありません。
なぜならば、たとえば悟りということを問題にする場合には、
「それを妨げている要素」についての説明の方が、
それ自体への説明よりも中心になりやすいからです。
■悟りに対する美辞麗句をいくら書き並べたところで、
人は、またひとつの別の妄想に憧れることはしても、
自分を見詰めなおすことはしません。
その愚かさは、精神世界の歴史自体が表しています。
人が自分に目を向ける瞬間というのは、
かならず、ある種のショックや、批判によって「疑団」が生じた場合です。
■したがって、「異変者」の言葉というのは、
「その時代の」多くの人達に理解されたり賛同されるわけがないのです。
もともと、その言葉の方便というものは、
余計なものを落とすためにあるのですから、
それは、すぐに納得するというような形では理解されない事が多い。
また、もともとは、エゴの応援をするためではなく、
エゴ自体が自分に疑団(疑問)を生じさせるのがその目的ですから。
■たとえば、一例としてですが、
「異変者たち」の生涯を思い出してみるといいでしょう。
●まずは、和尚。
和尚の膨大な講話の、そのほとんどは、
一体、何で成立しているか?
それは、エゴ、マインドの愚かさについてです。
和尚が、今も、絶大な人気を持つひとつの理由は、
そうした人間のエゴに対する洞察です。
また、実際、ある時期の和尚は、
理由があろうがなかろうが、論戦するためだけに遊説していたこともあった。
●クリシュナムルティー、
彼の主眼は、本のタイトルの通り、「自我の終焉」についてです。
したがって、彼の手法のひとつは、常識的な思考に対して
「どうして、そうなのですか?」と問い返すことが行われた。
また、彼も、いろいろな対談を通して、
悟りそのものの事ではなく、自我についての洞察を説いている。
●ダンテスダイジ
「どうして、君たちは、そんなことにこだわっているんだい?」
「そんなことは、どうでもいいのさ」と彼もまた、
弟子や社会人の「勘違い」について、多くを語る。
●バーナデットロバーツ。
彼女は、本の中では、批判的な発言は少ない。
しかし、実際には、カトリックからは異端としてはじき出され、
本の中では、キリストというものを再定義している意味において、
ある種の徹底批判を、示唆し続けているといえる。
●で、そのキリスト。
言うまでもなく、最後にいたのは、たったの12人の弟子。
今でこそ、世界中に狂信者のゴミの山が出来あがったが、
当時は、たったの12人だ。
これが何を意味するか、わかるだろうか?
それは、彼の本当の教えというのは、
実は、今の形で伝えられるようなものではなかったという可能性である。
仮に、こうしましょう。
彼が十字架にかけられることもなく、
ただの一つも奇跡も行うことなく、
その教えを静かに説いただけだったら、
今日、キリスト教えというものは、おそらくは、
ほんの小さな一宗教に留まっていたであろうということである。
つまり、もしも彼のエピソードや派手なパーフォーマンスを全部排して、
その教えの本当の本質だけが誰かの手で継承、記録されていたら、
それは、もしかしたら、和尚がよく言うように、
まるで「禅」のようなシンプルなものであった可能性が高いのである。
それは、当時ばかりでなく、西洋文化の中では、
今もなお異端派の一部に留まっていたかもしれないのだ。
■ここで、もうひとつ、言っておきたいことがある。
イエスを「理解した」という意味ではなく、彼に「共感した」弟子は、
ある程度の人数はいただろうが、
最後にそばにいた人数では、なんと、たったの12人だ。
これが意味するものは、こういうことです。
当時の人達が理解できなかったものであるならば、
いかに情報社会になったとはいえ、
それを現代の私たちさえも、
簡単には理解できるわけがないということです。
単なる社会的な常識というものであれば、
それは時代によって、ある程度は、道徳的な基準もすぐに変わります。
ちょうど、戦前の日本と現代の日本のように。
■しかし、「道」についての本質は、そうそう変わるものではない。
それが難解であることにおいては、
老子や荘子の生きた時代、イエスのいた時代も、
現代も、何ひとつ変わらないということです。
だからこそ、もしも現代のあなたが、当時、その土地に生まれて、
イエスの説法を街角で耳にしても、
あなたは、何も共感しなかっただろうという事です。
それどころか、イエスに石を投げる民衆の一人だった可能性の方が
遥かに高いでしょう。
察するに、彼は、かなり難解で、今ですら異端的な事を言っていたと
私は推測しています。
もしも、そうでなったから、当時からもう市民権を得てしまいますよ。
というのも、とても「乱暴な言い方」をしてしまえば、
大衆(多数決とも言える)というのは、
つねに「エゴを慰めるもの」を支持したがるのですから。
■EO師。
言うまでもなく、「精神世間」という造語を作り、
それまでのうかれたニューエイジ、瞑想者、座禅者、を痛烈に一喝し、
また、ついでと言ってはなんですが、宇宙や「神」へも、一喝を投じた。
師は本の中で自分でも言っておりましたが、
「私の書く内容のほとんどは、「それ」ではないものについてだ。
悟りについて書いても、憧れるだけで、妄想を増やすだけ。
ならば、私は歴代のブッダたちとは、まったく逆に、
悟りを妨げている要素である、
あなたたちのエゴ、思考、妄想を攻撃することにした」と。
■そうした悟りからの洞察によって、
「人間の、いろいろな屈折した、エゴのやり口を解説する」
これが多くのブッダたち、つまの「異変者」が必ず行ったことであることも
師の本の中では触れられていたように記憶している。
■こうしたことから、
いわゆる本物の悟った人達=「異変者」たちは、
その説法が、
「それまでの道への批判」と、
「悟りそのものの描写や技法面」が、
おおよそ、【4:1】ぐらいで配合されている
と思ったほうがいい。
その力点は、どうしてもそうならざるを得ない。
なぜならば、道については、もうすでに沢山のブッダたち「異変者」たち
が説いている。それに対しては、和尚のように、
時代にあわせた、新しい注釈でもつけるしかない。
また、EO師のように、より誤解の少ないような、
別の一般用語言葉におきかえたり、新しい表現でも作るしかない。
悟りのことを「・」と表記したり、
「停止」と言ったり、
時には、それを「宇宙的な脱獄」と定義したり。
■しかし、一方のエゴというのは、
必ず「巧妙に進化しつづける」のだ。
前の時代には無かったエゴの病理が、
次の10年では、一気に、世界中に、蔓延してしまう。
だから、今後も、もしも「異変者」が現れるとすると、
彼らは必ず、
1/前世代ほどには、癖の強い強烈なものではないのですが、
分かる人にだけ分かるような、ある微妙な味のユニークさを持っている。
2/悟りについては、それまで耳にしたことのない独自の表現方法を使う。
3/それまでの方便や、宗教的常識の落ち度を洞察して、批判する事に、
多くの時間と労力が使われる。
4/それ以外にも、EO師の本にあったブッダの特徴等にも書かれていない、
ある、特徴があるのですが、それは、
その特徴がどうして出てくるのかについてを的確に理解するよりも、
それを誤解して、自分勝手な妄想に埋没する人がほとんどなので
ここでは書きません。
■
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