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[2689]
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■釈迦の解脱の、おおまかな説明。
by:
ほ う ざん
2003/04/13(Sun)07:11:32
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◆余所の掲示板でのやりとりの一部をここに転載しておきますが、
これはこの掲示板のロムラーの人で、和尚の「秘教の神秘学」を
「ちゃんと読んだ」人向けのものです。
◆結論から言うと、以下に書いてあることは、
釈迦の悟りというのは、あの本の中で言うところの、
第6身体の中に留まって、第7の領域を覗いたということ。
第5身体までは、アートマンを感じる。
しかし、第6身体では、主体は感じない。
ただし、とりあえず、「在る」「存在している」という存在感はある。
菩提樹の下で、彼は第5身体の悟りから第6身体さらに、
第7の「手前寸前まで」移行した。
もしも第7の領域に踏み込んでいたら、
彼はそこで「即死」していたはず。
それは肉体を維持できる振動ではないから。
そこで、彼は第6身体から、ちらりと7番目を見て、
戻ってきた。
そんな彼に、「真我」があると言えるわけがない。
なにしろ、真我も超え、
次の全体意識すらも超える地点に立ったのだから。
彼は本当に消え去る寸前に戻ってきた。
それ故に、生涯の説法の中で、
彼が語ったことの中には、
第7にまつわることは、「無」「虚無」「そのようなものはない」
という論調として語られることが多くなる。
しかし、一方で、第6の領域について語ることもあっただろう。
この第6身体の悟りについて、あーだこーだ言う人達の最大の
特徴は、世界を肯定することである。
彼らにとっては、全体から眺めたら、
この世界には、調和以外のものは見えない。
しかし、それも所詮は、第6身体から観測される宇宙にすぎない。
その世界の調和すら、
「全く価値のないもの」「単なる幻想」として見える地点がある。
それは、第6身体から7番目の領域に片足を突っ込んだときである。
しかし間違っても、彼は、
第5身体の悟りなど、相手にしていなかった。
第5身体の悟りの最大の特徴は、
自分の個性的な自我にはこだわらないが、
「あらゆる人には、無垢な魂がある」と主張することである。
これは、そのレベルの限定された範囲においては、正しいが、
第6身体では、通用しない言い分になってしまう。
第6身体では、
「人には魂などない。ただ、これのみがある」と言う言い分になり、
それは、遍在性を言い表そうとする。
人に魂があるのではなく、
魂以外のものは、この世界に存在しない、
これが第6身体の言い分である。
ほとんどの者は、それを光に喩える。
◆しかし、次の最後の段階では、
その者は、光を否定する。
光すら、宇宙の母体ではないと知るからである。
彼等は、その悟りを言葉に現すとき、
必ず、「無」「虚無」「闇」「死」を使うようになる。
ただし、それは、美化された死のことでもなく、
単なる比喩でもなく、
無我といったようなレベルのものではない。、
本当の「無」の領域のことである。
*********
以下、単なる他の掲示板での「雑談」。
↓
> 「魂」という言葉をどう定義するのかという問題もありますが、
> 平たく言って、輪廻する主体は「魂」と考えることが出来ると
> 思うのですがどうでしょうか?
>
> ただし、この魂というのは、ほうざんさんの言われる「主体感覚の
> ない純粋意識」あるいは「直接体験する意識」
> であると思われます。
>
> そして、その純粋意識とその意識を客体化する「自我(自意識)」とは分けて
> 考えなければならないと、ほうざんさんの書き込みを見て、
> 解りました。
◆このあたりの定義の枠で、ひとまず完結するのがいいと思います。
輪廻はある。
その核となる主体もある。
しかし、その核とは何かというと、
原初の意識の分化したもの。
つまり、全体意識の「破片」「断片である」ということです。
ただし、その破片は、破片になったからといって、
自我を持つわけではありません。
自我というもの自体は、それは
主体=自我ではない。
主体あるところに自我があるのではなく、
自我というのは、その特有のシステムによって経験する
「自我体験」といえます。
◆もしも我々が他の星の民族に生まれたら、
主体はあっても、主体感覚は持たないと思います。
地球で特に自我経験が強いというだけのことです。
ここから考えるならば、
植物が「主体」として輪廻することも十分に考えられます。
それが、花畑という枠になるか、
1輪の花になるかはどうでもいいことですが、
とにかく、経験を旅する主体としての「意識のかけら」が
花になり、魚になりと、
物理的な枠のある「個体」として輪廻経験をすることはあり得ます。
ただし、そこに自我は、必ずしも必要はありません。
◆だから、我々は、人間というソフトウエアをプログラム
されているこの肉体の中にいれば、
それによって、これまでその主体が経験した前世を
思い出すことは出来ますが、
ただし、もっと効率のいい機械=肉体やシステムに転生すれば、
30万年の詳細な全生命(動植物からヒューマノイドまで)の前世
のすべてを思い出すことは出来るはずです。
◆ただし、今のこの肉体や脳というのは、
それを思い出すために作られているというよりは、
「忘れるため」「思い出さないため」に作られている方が
遥かに優先されているので、
そういう意味では、前世を思い出そうとすることなどは、
かなり、馬鹿げたことである。
そんなことは、この地球にいる間は、しないほうが時間の無駄と
ならずに良い。それを全部思い出したいなら、別の星系
または、次元システムに生まれ変わるのがいいでしょう。
◆ここで、仏教の話に戻しますが、
釈迦は自我はないといった。本来無我と。
これは、分化した「意識のかけらとしての眼」としての、
個々の「主体」はあっても、それは「我意識」とは関係ないこと。
また、その我も、独自のものではなく、
情報の集まりにすぎないこと。
ただし、その情報が、自分という肉体感覚の中で起きるので、
外部と自分という分割感覚を持つだけのこと。
分割感覚があるからといっても、それと自我意識が強いのとは別問題。
◆釈迦は輪廻を否定はしていないように思える。
釈迦は、主体も否定していないと思える。
彼が否定したのは、
自我という個体意識は、錯覚であるということのみ。
また、真我といわれるようなものも、
「彼の悟りの中では、経験されなかった」ということ。
まさに、ここが重要な点である。
◆こうした経験においては、客観的なものは何もない。
つまり、真我のようなものを経験するレベルの悟りもあれば、
それを感じない悟りもあるということ。
真我自体があるなしではなく、
真我のような確たる中心として感じる悟りのレベルがあるが、
それを超えたレベルに釈迦はいた。
だから、彼には、中心すら感じることが出来なかった。
それは彼のいた「レベルに固有の」「悟り」であったこと。
したがって、彼が「真我などない」といっても、
それは、彼のレベルにはそのようなものは観測されなかった、
ということであり、
レベルが落ちたら、真我として「感じるようなもの」もあり得る。
◆このあたりは、たとえば、悟りとか、
神秘体験とかしたと称する人達の書いたものを読むと
わりと明確に分かる。
自信が生まれた、途方もない愛を感じた、
一体感を感じた、無限の力が生まれた、
永遠を意識した、生命の素晴らしさに泣けた、などなどのいわゆる、
誰が見ても、ポジティヴに聞えるタイプの悟りの経験は、
「真我」または、まだ中心の主体核(全体意識のかけら)は
保持されたままの悟りの体験といえます。
◆ところが、自我はなくとも、輪廻の主体となっている核が、
本当に全体に溶解しかけるプロセスまでいくと、
釈迦のような、情緒的なものを交えない透明なベールを超える
段階にきて、
その段階では、輪廻の主体そのものが崩壊を始めます。
だから、彼は、「もう戻ってこない」といえたのです。
◆これがもしも、主体を保持したままの悟りなら、
「魂は永遠であると分かった」と言う、よくありがちな神秘体験の
悟りに留まっていたことでしょう。
◆だから、とっくに真我のレベルの悟りなど
経験済みだった彼が、菩提樹の下で超えた境界線は、
個別化した魂(主体)の(半)溶解です。
半溶解というのは、肉体として生きていた間は、
完全には、還元されなかったからです。
そして彼のその肉体という個別体が死んだ日、
それは100%主体を失って、
そして、「ついでに」、第6身体の全体意識をも失って、
輪廻しない空気のようなものとなって
個別性と、全体性そのものが消えたと考えられます。
彼は「どこにもいない」、というものになったと考えられます。
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