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[2872]
■
■悟り=「意識の散開状態」=・
by:
ほ う ざん
2003/09/21(Sun)13:19:25
fe098200.fl.FreeBit.NE.JP:219.112.98.200:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
たまには、読者サービスします。
■以下は、当方のホームページコンテンツの一部からの引用です。
*************
「苦」とは「落ち着かないことだ」というEOイズムの定義がある。
ならば、なぜ落ち着かないのかと言えば、
そもそも我々の意識それ自体が、常に何かに焦点を
合わせようとするように作られてしまっているからだ。
「神学的」な表現で言えば、そうすることで存在世界という幻想
つまり「神の娯楽」が成立しているからだ。
通常は、身体感覚であれ、雑念であれ、本能であれ、
無意識的な習慣であれ、とにかく、何かに焦点をあわせて、
我々も生物も生きている。
しかも、だからと言って、個別のものに意識は
「固定したままでもいられず」に、次の対象に焦点を移動しなければ
ならない事も起きる。
つまり、意識の焦点は状況によっては
「本人の意志に反して」その焦点を変える事を余技なくされるケースが
多々発生する。
そしてそのときは焦点の移動に伴う抵抗による不快感が
我々の中に起きる。
焦点機能は、もともと区別がなかった全体的な意識を個別化した。
さらにそれぞれに個別化した意識は、
自分がいったん関心の焦点をあわせたもの、たとえば人格や記憶や
娯楽に飽きるまでは、しばらくは「しがみつく」ために、
これが個別化をさらに進行させることになる。
その結果、あなたとは別の個別化した生命体や対象との間には
常に葛藤状態や戦闘状態が起きてくる。
したがって意識の「焦点機能」とは、『物質化と個別化』の
基本中の基本であり、またそれと全く同時に
意識の『動き=移動』を作り出す要素となる。
つまり、意識は、個別のものに焦点を集中する事で
知覚そのものを安定させるが、
さりとて、一点に固定させたままにも出来ない。
意識は、あちこちと焦点を合わせつつも、
一定の対象に止まることも出来ず、
その焦点自体も移動し続けるという宿命にある。
これが意識の根本原理だ。
そしてそれは既に、我々のこの意識それ自体に組み込まれて
しまっている。
・・・・・・・・・
さて、そうだとすると、そうした中で、稀に起きる光明や悟りとは
一体何だろう。
実は、それは意識の『焦点機能の損壊』『集中機能の喪失』だ。
あるいは軽度な場合でも、それは本人の認識にかなりの変容を
生じてしまう。
実際問題として、光明を得た者の特徴を思い出してみるとよい。
彼らには、あきらかに、意識の集中機能の低下が見られる。
それは、低下というよりも、意識の「拡散」あるいは「拡大」とも言えるだろう。
だが、共通することは、
彼らはどうしても特定のものには集中できないという事だ。
その意識の焦点は平均的な基準から言えば、
「度が過ぎているほど散開している」と言ってもよいだろう。
彼らが特定の価値観や思考内容を維持できないのは、
焦点機能の喪失によるものだ。
彼らの目は、ときおり全く不動でありながらも、
焦点はどこにも合っていない。
彼らは沈黙と静寂の中に落ち着く。
なぜならば、そこには焦点の対象がないからだ。
彼らは、一般的な人間と違い、
完全な静寂や無の闇といった全く焦点の対象のない世界でも
不安になる事はない。
そして、生の動きの中にあっては、彼らもまた動くが、
焦点が一定のものに固定されないために、
個別のものを記憶に留めないし、責任感といったものも全くない。
むろん、その意識の焦点は「自分が在る」という存在感覚にすら
合っていない。
つまり、彼らは『焦点なき意識』または『拡散した焦点の意識』だと言える。
◆この{原文}全体は↓ページの、項目7、8あたりを参照のこと。
http://www.mumyouan.com/e/eouch2.html
*************
●さて、これについての、ごくごく簡単な解説をしておきます。
少し前の過去ログに
「悟りの段階的構造」↓
http://www.mumyouan.com/k/?T2751
について書いたにも
関わらず、あれだけ簡単に、表までつけても、全く理解できない
という人達がいるようです。
そこで、今回は、前述のEO師の文中にある「拡散」もしくは、
意識の「散開」状態を「わかりやすく」説明します。
これだけ解りやすくしても、
理解できなかったら、もう終りです。
●「散開」というのは、意識が、知覚することで世界を分割しない
という状態です。
これはカメラに喩えれば、解ります。
普通、生物、または人間は、意識が生の実感、
いわゆる生きている実感とか呼ばれるものを得ようとして、
何かにフォーカスを合わせます。
これは、ちょうど、フラッシュたいて、短いシャッター速度で、
あれこれ撮影しているような状態です。
その写真のピントが合っていたり、色調によって、
あなたは、生命の実感とやらを得たと思うわけです。
また、逆に、ピントがボケたり、変な映り方をしたら、
あなたの生は、つまらない、どんよりとしたものになるということ。
●これ故に、やれ意識的になれだの、注意しろだの
想起しろだの、ヴィパサナみたいに、いちいち、知覚や動作に
ラベリングを入れたりするわけですが、
これらの方法は、すべて、あくせくして、写真を明確に撮ろうとする
無駄な「あがき」です。
ついには、脳が疲労してしまうか、どんよりした
意識になってしまいます。
●一方で、悟りの状態とは、ちょうど、カメラが「解放」の状態です。
意識がこうなったら、何が起きるか容易に想像できるはずです。
露出しっぱなしです。
すると、どんな暗いところでも、わずかな光があれば、
できがった写真はとても明るくなります。
これ故に、悟った人は、ごく僅かな動きや刺激にも
大小り「至福感(と人間に感じられるもの)」を伴うわけです。
また普通の人が見ていたら
生命の光などないほどに「暗い世界」の中でも、
光を見ることが出来るわけです。
●またシャッターが開きっぱなしですから、
動いているものは、全部ブレてしまうか、
最終的には、動いているものは、何も映りません。
これ故に、悟った人が、もしも大都会の真ん中にいたら、
動くものは、ほとんど意識されず、人も車もいない
無人のビルと自然風景だけを知覚しているようなものです。
あくまでも喩えであって、実際の知覚から排除されるのではない。
心境的に表現すれば、どんな騒がしいところでも、
本人は、無人の静寂の風景しか見ていない「ようなもの」ということです。
●そういうわけで、
悟った意識=シャッター開きっぱなし
と喩えてみれば、とうぜんの事として、起きる現象のひとつが、
露出オーバーである。
画面は、真っ白に飛んでしまう。
個々の対象は消え去ってしまう。
多くの者たちが、それを、ただただ光に包まれる
という「感覚として色付けした解釈」をするのは
このためです。
実際には、それは脳で見えるような光ではなく、
「概念として光」にすぎません。
光でなくてもいいのですが、
どうしても、地球人的な頭では、光に喩えてしまうわけです。
いずれにしても、
知覚の対象が、開きっぱなしのシャッターを通じて
意識の焼きつくために、
最終的には、本人には真っ白(または真っ黒)、
とにかく、分割とか分離とか、特定の焦点がすべて
画面から失われるために、
光または闇(どっちも同じですが、ただし生物は闇を怖がるように
洗脳されている。)以外のものは、なくなってしまう。
●では、どうして意識にシャッター開きっぱなしみたいな
解放状態である「散開」が生ずるかというと、
それは、まず思考停止から始まり、
次に意識が対象化の癖を放棄したときです。
その時、本人には、
「わからない」の「連続」しか起きません。
全く何もわからなくなる、という状態に占領されると言ってもよいだろう。
ここまでくると、能動的に何かに意識の焦点を合わせることは
不可能で、その結果として、
開いたシャッターの中に、対象物が勝手に入り込んでくる
という形になる。
●それゆえに、禅などの初歩的なレベルの悟りが、
さらに、もう一歩、停止状態に占領されたときの特徴としては、
「圧倒的な受動性」「特定の焦点の消失」
「意識というフィルムが、光で焼き尽くされる」
ということが起き、これが正確な意味でも、
俗に言われる「神秘体験」の全容です。
そして、ここからその感度を調整して帰還する人達もいます。
もしもこれを再び感度調整しないで、
シャッターを開放のままにした場合には、数週間で
肉体(特に脳)は破壊されるといわれています。
ただし、ほとんどの場合には、この世界に帰還することになるでしょう。
完全に、生まれ変わった者、
または、
「原初の意識を追体験した者」として。
◆いずれにしても、死人禅の行法で言われている
1/頭頂または頭上での意識の停止状態と、
2/闇を浸透させること、
この2つの要素が、
こうした意識のシャッターの「無焦点的な「開放状態」を、
数秒でも、あるいは数十秒でも引き起こす結果になることは、
間違いないようです。
そのたったの数十秒で、何万年という時の中を生き延びてきて、
人間に苦痛を与えていた根源である、「私」という主体意識や
世界と自分が分割されたような「違和感」は、
あっと言う間に、
しかも、あっけないほど、短時間で、
焼き尽くされてしまう。
■
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