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[3036]
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■何やっても直らない「アダルトチルドレン」
by:
ほ う ざん
2004/02/28(Sat)05:44:13
23.94.113.221.ap.yournet.ne.jp:221.113.94.23:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
最近、人形供養とか、リフォーム話で、
やや「まったり」しすぎていたので、
たまには、トゲのあるものを書きます。
さて、今回は、どこまで書くかと考えた結果、
トラウマを抱えた者、とか言うレベルから、
果ては犯罪被害者にまで、話は及びますので、
感情を害する者も多いことだろう。
おそらく、それらの当事者は、喧喧諤諤となるでしょうが、
言論と思想の自由は、わが国では保証されておりますので、
ご了承ください。
さて・・・・、
この世で、1番トラブルを起こし、人を不幸にするものの一つが
「憎しみ」である。
物事の社会的、ないしは裁判的な狭い意味での
良し悪しというものは、確かにあります。
もしも、それがなければ、社会的な秩序を保つための基準が
失われることになり、それは、複数の人間が共同で生活する上では、
たとえ、「究極的に、それが正しいか正しくないか」は、
定義できなくとも、「妥協した基準」が必要だからです。
人の物を盗んではいけないとか。
しかし、この究極的に、普遍的に、正しいか、正しくないか、
という基準「ではない」ところの、
法的基準、人間の感情的基準、習慣的に基準に、
頭が「毒されてしまいすぎる」と、
問題解決が長引くことが大変に多いのを見てきました。
言い方が、分かりにくいでしょうから、
簡単な実例から説明しましょう。
●たとえば、世の中には、アダルトチルドレンなんぞと
呼ばれている(認知されている)子供や、
その子供が大きくなった大人がいるわけですが、
心理学的な治療分野でこの症状が完全に治ったという実例は
私は聞いたことはないし、
また、俗説では、この症状は治らないとも言われている。
直らないが、その病理との付き合い方を
本人が工夫して、苦痛の発生を抑止する以外に方法がない
とも言われる。また、同じような者が他にもいると知ることで、
自分の「位置付け」を得て、多少の苦し紛れになるという程度。
つまり、根本解決には至らないのが現状であるらしい。
実際に、私が見た症例もそうであるし、
他で治療を受けたと称する者も直ったと言うにはほど遠く、
常に、感情が爆発する地雷をそこらじゅうに抱えたままで、
一生を危なっかしく生きており、
そういう人の場合には、歳をとって、ボケることで、
感情的痛みは、軟化するようだが、、
逆に、本人的な思い込みの激しい「偏執狂的」
「被害妄想的」な高齢者になるケースも多い。
●それで、では、何がアダルトチルドレンの問題を解決することの
妨げになっているかを見ると、
それこそが、「自分は悪くない」という思い込みなのである。
で、他の、良し悪しの所在がが曖昧な事なら、いざ知らず、
アダルトチルドレンと称する者たちは、
まだ無力な子供の時に、親から「被害を受けた」という
社会的、あるいは通俗的な意味での「完全なる被害者」であるために
社会も、医師も、本人を責めたり、本人の内省を施すことが出来ない。
というか、親が先にやったのだから、本人には罪はない、
本人は悪くない、ということが、社会的、または法的にも
認知されてしまい、それが原因で、
本人も、どこからどう見ても「自分は悪くない」という
「大前提」が、そこにのさばっているのである。
しかし、この大前提を取り払うのは容易ではない。
なぜならば、5感に感知される範囲に限れば、
この大前提は「動かしようのない事実」に見えるからであり、
それ故に、本人がどこかで、何かを理解したつもりになり、
親のしたことを責めるのを止める時期が来たとしても、
依然として、根底には、「自分は悪くない」という
社会的なバックアップを受けた思考が。はびこっているのである。
そして、これがある限りは、全てのアダルトチルドレンには
「救いはない」と思ってよいだろう。
●なぜならば、この「少なくとも自分は悪くない」という感情、思考、
これが、社会的に事実であろうがなかろうが、
法的に正しかろうが、間違っていようがには関係なく、
「自我を徹底的にのさばらせる原因」となり、
自我がのさばれば、おのずと、「他者への憎しみ」が
のさばるからである。
冒頭に言ったように、「暫定的な」物事の良し悪しを見極めることと
それに対して、「憎しみ」を持つこととは全く違う。
言うなれば、裁判官は、別に罪人を憎んでいるわけではないが、
判決を下すのと同じである。
同じように、人が、誰かを「悪いと言う」事と、
その誰かを「憎む」というのは、全くの別問題である。
なぜならば、いちいち正しい事を言うからその人を憎む
というような者もいるからである。
つまり、必ずしも、悪い相手=憎しみ とはならないわけである。
憎しみというのは、良し悪しの客観性とは全く別のところで発生する
自我のあがきである。
●さて、アダルトチルドレンに最も多く見られるのが、
この「憎しみ」である。本人がいかに押さえ、なだめていても、
いわゆるそのような病理を持たない普通の人達から見ていたら、
明らかに自我が「異常な過剰反応」をする事がほとんどである。
そして、この原因を作ってしまうものの最大の原因の一つが、
社会的に認知された=つまりは、本人も認知したところの
「私の方には一点の落ち度もない、被害者である」
という思考なのである。
●ところが、これがあるかぎりは、
自我は、自分が主張する大変に大きな「武器」を手にしてしまうことになり、
それさえあれば、常に「子供の時なんだから、私は悪くない。
私は、完全なる被害者だから」と言うことに対して、
誰一人として、反論を出来ない。
すなわち、反論の出来ない論理を持った人間の最大の精神的欠陥は、
「感情的エゴ」が異常に強くなるということである。
●ここで感情的エゴと言い、論理的エゴとあえて言わないのは、
論理武装と、感情武装は、全く違うからである。
論理武装は、純粋に論理的であるが故に、
最後の最後まで論理の戦いで終る。
しかし、感情武装というのは、論理など関係なく、
所詮、言いたいことは、「私は悪くない」ということ「だけ」
そこに装飾された論理は、すべて、後付けや、
他者からの借り物のものばかりである。
●さて、こうなると、アダルトチルドレンには、
救いは全くない。自殺して死んでも救われない。
誰かを「加害者だ」と言っているかぎり、
そして、それを「憎んでいる限り」、
そして、それを言うことで、自我が常に「自分は悪くなかった」
という武器を振りまわしているかぎりは、
「自我」そのものが、常に、自己生産した酒を飲んだくれている
状態と同じだからである。
●アダルトチルドレンには、決して理解できないことがある。
それは、「どちらも悪い」、とか、「どちらも、正しい」、
つまり、普通の世の中によくある、「中立性」ということである。
もっとも、このような「中立性」などというものが
広く人の中に一般化しているのであれば、
世の中に、これほどの「戦争」などあり得ないわけであるから、
殺戮に至るような戦争の根本的原因というのも、この「中立性を欠く」
ということにあると言える。
実際、何かに狂信的な連中が戦争をするからである。
狂信的とは、すなわち、アダルトチルドレンも同じであり、
「自分には罪はない教」の「立派な狂信者」なのである。
●誤解のないように言っておきますが、
社会的、法的に、それが正しくても、
それが、「絶対的な基準ではない部分で」
正しければ正しいほどに、自我はそれにしがみつく、
という、この「自分でも知らずに、しがみつく」という事が
問題の根なのであり、
この際、客観的、ないしは、社会的、法的に
それが正しいか、間違っているかは、全く問題ではない。
本人が、「自分には罪はない」「自分は被害を受けた側である」
という「思考そのもの」のもたらす「作用」に弊害があると言うのである。
私が常に問題にするのは、
その思考が、その本人自体にもたらす弊害である。
●さて、では、アダルトチルドレンの問題を解決できる方法は
ないものか?
となると、私が知っている限りでは、方法はたった二つだけ。
一つは、前世療法。
もうひとつは、禅的な療法。
禅的な療法については、既にEO師がその著作の中でも
繰り返し言うように、それは、
心を満たすとか、癒す、という消極的な方法ではなく、
心それ自体を、切り落とすという方法によって構築されている。
したがって、世間一般では、この方法を適応する必要のある人は、
ほとんどいない。
世間のほとんどの病理は、心を切り落とさねばならないまでに
肥大した腫瘍ではなく、心を癒す程度で直ってしまうからである。
そして、もうひとつの方法であるのが「前世療法」。
これは、この領域自体が、未だに不確定であり、
そもそも、そのようなものが存在するのか否かで論議が
分かれてしまうものだ。
しかし、私が知る範囲に限れば、禅的な手法以外では、
前世療法のみが、唯一、アダルトチルドレンの問題を「緩和」できる。
なぜならば、それは、自らがどうして、
そのような親のところを選択して、あるいは選択しなくとも
必然的に、そこに生まれる運命を持つことになったかの原因を
本人に「情報の一つ」として、付きつけるからである。
むろん、その情報には(検証可能だった前世の存在一部を除き)
通常は、何も客観的根拠も証拠もないことがほとんどである。
しかし、本人が幼少の時にどうしてそのような扱いを
親から受けたかについての明確な説明なしには、
その子供は一生「私は悪くない教」のままなのである。
その前世に由来する原因が、たとえ、御伽噺であっても、
嘘であっても、それでも、原因を他者に塗りつけて一生を過ごすよりは、
エゴに酒を飲ませなくて住む「方法論のひとつ」ではある。
●どこからどう見ても、本人は悪くない、というふうに見える物事には、
こうした、その当人が陥りやすい、危ない「罠」がある。
そして、これは非常に批判を受けることを覚悟で言うが、
「犯罪被害者」も同じなのである。
●ちょうど、昨日、オウム事件に関する被告への判決が出たようだが、
この事件に限らず、他のいろいろな犯罪被害、交通犯罪の被害、
その他、世界中のいろいろな犯罪の被害者の幾人かにも、
共通に言えることがある。
私は、何も、本人達の前世に原因がある、
などと断言して言っているのではない。
そうではなく、どちらかが「憎しむことを止めるまで」は、
憎しみ合いと戦争は、いつまでも「終らない」と言っているのであり、
あらゆる犯罪被害者は、
相手を叩きのめしたり、社会的制裁を加えるという事によってではなく、
最終的には、自分の中の憎しみを超えるという事でしか、
決して根本的な心の安らぎは得られないのである。
その際、その当の犯罪を犯した被告が改心しようが、しまいが。
そのような意味では、私は、誤認逮捕された河野さんの
あの一貫した、「憎しみ」とは切り離された状況判断の姿勢には、
頭が下がったものである。
どこからどう見ても、「悪者がはっきりしている事件」というのは、
マスコミが最も好むものであり、その取材過程でも、
いわば、なんでもありの、無礼講が許されてしまう風潮が常にある。
余談ながら、私に言わせれば、
本当のジャーナリスト精神というのは、
社会的に白黒つかないグレーゾーンこそを取材する者の事を言う。
あるいは、取材すること自体がご法度のような分野の取材をする者のことである。
●さて、そのような風潮の中、
社会全体が、「犯罪者それ自体」を憎むことにやっきになっていた
その当初から、河野氏ただ一人だけは、
犯罪者ではなく、犯罪の原因や、警察の取り調べに疑問を感じていて、
犯罪者と、「犯罪という社会現象」とを、
くっきりと分けて見ていた(と、私は勝ってに思っている)。
それを、その犯罪の当事者でない部外者がするならともかく、
自らがその被害者でありながら、犯罪者に対する「憎しみ」とは
分離した「犯罪現象」に目を向けていたというところが、
私の目には、驚くべき奇跡なのであった。
強いて言うなれば、河野氏は、ある意味では、
サリンの被害者であるという事より以上に、
「誤認逮捕の被害者であった」、という事の方が大きかった
というのが、その冷静な視点を維持し続けた原因でもあろう。
実際、その事は何かの記事にも出ていたと記憶している。
「憎しみの感情は起きない」、と。
それよりも、取調べられ、逮捕された事のつらさの方が、
河野氏の中では「遥かに大きかった」のであろう。
●さて、話を戻します。
アダルトチルドレン、犯罪被害者、
ともに、社会的、法的には、判決があり、終りが来る。
しかし、憎しみは本当には終らない。
そして、その究極の結果が、殺戮という戦争である。
そして、麻原もまた「自分を認めない世間を憎んでいた」
という「単なる偏執狂」である。
従って、類は友を呼ぶのごとく、
麻原のところに集まった信者なんぞも、
おおかれ少なかれ、「自分を認めて欲しい病」であったり、
アダルトチルドレン的な者が多かったことだろう。
それを宗教的な虚飾で、隠していただけということ。
●で、では、どうしたらいいかというと、
もしもここで、前世療法なるものを持ち出してしまうと、
私自身は、その「ある程度の効果」は認めているが、
そんな事を適応したら、
まるで、カルト信者の言い分に「似た」ものになってしまい、
被害を受けるのは、被害者に業があるからだ、の論理になってしまう。
この論理は、私に言わせれば「一理」ある。
しかし、その一理を科学的に証明するすべはない。
●しかし、たとえそれを証明するすべはなくとも、
そして、そんな「電波的な理由で犯罪を容認することもなく」、
しかし、それでも「被害者の抱えた感情」を超えてゆく手段というのは、
たった一つしかない。
犯罪の社会的原因、犯罪の抑止、
これらは、その道のプロに任せておけば良い。
むろん、警察があてにならなくて、
場合によっては、自分で犯人を突き止めたり、
事件の真相を家族が追究したという事例もあるが。
実際、オウムの事件も、被害者が団結して警察を動かした面も
あるからである。
従って、すべての事件に泣き寝入りしろとなどいう事では断じてない。
そうではなく、
今、ここでテーマにしているのは、犯罪被害者の取るべき、
「社会的な存在意味」とか、「社会的な行動の意義」ではない。
ここで述べているのは、
犯罪被害者の人達、またはアダルトチルドレンらが、
憎しみや、悲しみを超えるには、
自分は悪くない、という思考を捨てることが必要になる
というのがここでの「論旨」である。
さりとて、前世療法などという事を「下手に」やってしまうと、
今度は、そこに「自分が悪い教」がすりかわって入り込む。
だが、
「自分は悪くない」、
「自分が悪い」、
この「どちらもが間違い」なのである。
間違いというよりは、
本人の人生に苦痛をもたらす結果を連れてくるのである。
なぜならば、このふたつに共通するものがある。
それは
「自分は」「自分が」である。
すなわち、自分を良く思っても、悪く思っても、
共に、自我は、アルコール依存と同じことになる。
そのアルコールが、
「辛口の酒であるか、甘口の酒であるか」だけの違いしかなく、
自分を悪くない(甘口酒)を飲んでも、
自分を悪い(辛口酒)を飲んでも、
どちらの場合も、
「自分」というエゴが、飲んだくれてしまうのである。
そのような点では、頭が理屈で理解したり、
「ソフト解決」「プチ解決」したいなら、前世療法も悪くはないが、
根本的に、憎しみとか、自我の主張がもたらす、
いろいろな「根本的な弊害を超えてゆこう」とすれば、
どうしても、人間の心の作用の「癖」、それ自体を超える方法を
取るしかないのである。
●その方法のひとつは、禅的なもの=(無心)であるが、
残念ながら、純粋に、「宗教や、倫理問題を離れて」、
この問題を「心の化学反応」として取り組んである寺は、
皆無だと言ってよいだろう。
●
最後に、
全くの余談、全くの蛇足、全くの電波話をしておきます。
「アダルトチルドレン」なるものが、社会的に認知されたり、
あるいは症状として出回ったのは、潜在的にはそれまでも
長い歴史の中で、あったにしても、表だっては、
最初に、アメリカあたり、そして、今でも日本国内にごまんといる。
さて、アダルトチルドレンの最大の問題とは何か?
それは、親の愛情に恵まれないということである。
では、他の原因で、
全く親の愛情に恵まれない子供は他にいるだろうか?
・・・いる。
それは「戦争孤児」だ。
●こう言えば、察しの早い人は、分かるかもしれないが、
現在、世の中に蔓延しているアダルトチルドレンのほとんどが、
「子供から親を奪った」という前世を持っている可能性が高い。
(何度も言いますが、これは「電波話」です。)
すなわち、前世で、子供から親を奪った者、
この者たちが、圧倒的に、アダルトチルドレンとして虐待される
環境に生まれる確率が高くなる。
戦争というのは、何も好き好んで人を殺しているわけではないが、
それでも、業の連鎖というものがあるのだろう。
それ故に、世界で最も多くの人達を殺したアメリカに
まずそれが大量に発生した。
それは、おそらくは、ベトナム戦争、そして中東戦争のせいだろう。
そして、それならば、なぜ戦後一度も戦争をしていない「日本にもか?」
というと、
日本もアダルトチルドレンを{生産しやすい家庭環境}を持つ国の
ひとつだからである。
どこの国がやった戦争だから、そこの国に生まれるということでもないのだ。
ようは、当時、加害者だった者は、
自分がした行為を、違う形で今度は被害者として受けやすい環境に
生まれる可能性がある、ということである。
むろん、これらの言い分には、何の証拠もありません。
また、もしもこのことが、100%正しかったとしても、
そうなると、今度は、
「何が起きても自分の過去の行いが悪かった教」に「改宗する」
という、同じ穴の「愚行」に陥るだけです。
だから、心の問題というのは、
本当に、「厄介」なのです。
ある意味では、人間は、生まれたときから、病気なのかもしれません。
というよりも、人間の生それ自体が、
そもそも、病気そのものなのかもしれない。
だから、その病気を、
1/より根本的なところで断ち切るか、
2/それとも、精神世界的なへ理屈や、
モラルとか、宗教的な心がけというレベルで断ち切るか、
3/それとも、社会的、法的に白黒が明白な、善と悪によって
自分は悪くない、と、心にふんぎりをつけるか、
それは、個々の自由の決めるところとなります。
◆
最後に「我が家の格言」をば。
「個性」と「才能」を育てても、
「自我」は育てるな!
●
★
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