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◆最近、思ったこと◆
by:
ほ う ざん
2004/03/25(Thu)21:03:14
78.137.244.43.ap.yournet.ne.jp:43.244.137.78:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
●うつ、その他、最近の精神科について思うこと。
まず、病院へはあまりカジュアル(気軽)には行かないことを
お薦めします。
人によってケースが違いますので、
医師のところが、「いよいよのときの駆け込み寺」になるのは
それは、いいのですが、
あまりにも「コンビニ的 精神科」にはなって欲しくないからです。
「それでは病状が悪くなり、手遅れになる」、という意見は
そこらじゅうに蔓延しているでしょうが、
では、私たちが、何かあるたるたびに、蔓延する医薬品を飲んで、
その結果、ここ半世紀または一世紀で、どうなったでしょうか?
結果は、薬の効かない耐性菌のさらなる進化と、
人間の免疫低下、免疫不全の増加などです。
これと同じことが、心の領域でも起きます。
●まるで、ひとつのブームのように、うつその他の
「○○神経症」みたいな「品名」が世の中に溢れ、
それはそれで、ある程度の臨床医の研究の成果なのですが、
まかりまちがうと、それは、医師の都合でつけた
「分類名」にすぎないわけです。
しかもその分類は、薬を処方するときの口実にもなります。
●考えてみれば、ここ半世紀で、
ずいぶんと、うつや、その他の心の病が「市民権」を得て、
医療「商売」にすら、なってしまったものです。
25年ぐらい前の昔だと、
「おら、元気出しな」で終ったものが、
今は、「薬もらいな」になってしまった。
昔なら、自殺したいなんて言うと、
「人生に、真面目に悩んでるんだねー」とかなったものが、
今や、「お前、病院行けよ」になってしまった。
いいんだか、悪いんだかというと、
はっきり言って、「悪い」ね。
●さて、では、実際にそういう症状が、
ここ半世紀ぐらいの、社会的なストレスとか、
家庭環境によって、増えた結果で、
その結果の年間3万を超える自殺者の数となったのか?
それとも、もともと、どこにでも「内在していた悩みや原因」が、
社会的な認知をされて、たまたま、
社会的に、報道などで浮上しやすくなったのか?
これは、どちらも要因として、あるでしょうけど、
私は、こうした病理や症状が、
悪い意味で、広く認知されて、浮上しやくすなり、
何かといえば、「あたしも欝っちゃってさー、このあいだ、
薬のんで、治ったよ〜」とか言って、
病院へ行く事が「気軽になる」のはどうかと思います。
当たり前になって、いい分野
(たとえば、性病予防や避妊法)もありますが、
あまり気軽に、何かあるたびに病院へ行くことによって、
ますます、薬やカウンセラーに依存する、その結果、
自分や家族のの問題を自分たちで解決しない、
という傾向が強くなれば、
たとえ、なんとか社会的に無害になったという、形だけは直っても、
抵抗力や免疫の低下と全く同じように、
「やわな心」になってしまうわけですから。
これは、とても複雑な問題で、一面的には捕らえられませんから、
他者の補助を必要とするケースも確かにあります。
しかし、他者の補助や薬が、数年だけは、よくても、
ゆくゆく、晩年になったころに、それが裏目に出るケースもあります。
●ただ、私のスタンスとしては、
薬を使わない主義や方法を支援しています。
しかし病院にいけば、かならず補助的にでも、
メインの治療法としても使われてしまいます。
カンタンに直るからいい、という問題ではないのですから。
問題は,常に「原因」の方ですから。
その原因を探るにあたって、あまりにも混乱したり、
睡眠がとれないという場合も、
安易に薬は飲まないことをお勧めします。
とにかく、薬というのは医師が正しく法的にも問題なく
処方しているからといって、
それが必ずしも正しい処方である事とイコールではありません。
だからこそ、医療現場で、しょっちゅう問題が起きるのですから。
医師だって、何百と患者をかかえているのですから、
本当の細かい部分までは力になってくれません。
疲れると、何も手につかないことがある、
という程度のことの場合には、疲れたら休むだけでいいと思います。
また、そうなったことのある人も、あわてて医者にかけ込まずに、
少し違う時期に、自分のことをいろいろと観察される機会を持ついいと思います。
何事にも、それをするのがいい時期、
最も良いタイミングというのがありますから。
●あとは、逆に、心の状況が、「うつ的」に見える症状でも、
内科系の原因、たとえば、頚椎の歪曲、内蔵疾患その他、
も考えられるので、もしも、心配でしたら、
まず、「疲れやすい」とか、「疲れると気持ちがこうなります」と、
総合病院で、「体調不良」を説明して、
そこから問診や検査を受けるのもいいと思います。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●からまわりするスローライフという言葉●
はぶりのいいときは、お祭り騒ぎしてたくせに、
不景気になって、ようやく、
スローライフという言葉が、もてはやされ、
なのに、そのくせ、まだ何でもかんでも、人は、「急いでいる」。
何を急いでいるかと言うと、常に、結果を速く出す事に
囚われてばかりいる。
スローライフというなら、どうして、心の病も、
一生かけてでも、自分で向き合うというスローライフを
選択せずに、かくも、薬や医療に頼る人が多いのだろうか?
これでは、「速く直せ」、「速く社会復帰しろ」、
「速くなんとかしなきゃ」、という、今までの
「急げ急げ教育」や「速く営業成績出せ」と全く変わらない緊張を
心の領域にも、やってしまうことになるね。
●だったら、このあたりで、ついでに、
「心も貧しく、不景気になったらいいんじゃない」かとすら
私は思ってしまう。(これ、かなり含みのある言い方ですが
説明は、はぶきます。)
そうすれば、心の問題でも、あたふた、しないで、
ゆっくりした解決の道を選べるから。
せっかく世の中が、「頑張れ主義」から、「肩の力をぬいてね」、
という風潮になったのに、
人々の実際の心の中といったら、いつも、あたふたと、解決しなきゃ、
解決しなきゃ、「なんとかしなきゃ」、のままです。
ホント、「流行り言葉」というのは、
「軽率で有害」で、うっかりすると、
世の中の多くの人が、ついつい踊ってしまう、
「音頭」だと言わざるを得ない。
●うつや精神的病理の問題も、実際には、
あと100年はかけて、紐解いてゆくのが1番いいやり方で、
結果を出すことや、原因の特定を急ぐべきではないのです。
しかし、「それじゃ、明日から仕事にいけなくて、
家族が路頭に迷うのさ」、
といっては、風薬飲むように、薬を飲む。そして医師にかかる。
これじゃ、まるで、とにかく、
まず、生活して、生きなきゃならなんだ、
という口実、言い訳の元に、まさに、「なんでもあり」になってしまう。
しかし、もしも、「まず生活すること」を最優先したら、
そりゃ、ひーひー言いながら、一生、なんとか
「生計」は立てられるでしょうが、
「生計」と、人としての「生活」は違うのですから。
●極端な話、人生の中で最大の壁にぶちあたったときは、
生きることを優先するよりも、
問題解決のためなら、餓えて死んでもいい、
狂ってもいい、と、そのぐらいの覚悟で、
まさに捨て身で、物事に取り組むという事が、あった方が、
老いてのちにも満足があるでしょうし。
または、若くても、いつか、自分が死ぬときには、
「短いけど、充実した人生だったな」、と思えると思いますよ。
ただ、必死に、なんとか生きのびても、しょうがないと私は思う。
そうは言っても、その生活の中に、
誰もが、自分なりのささやかな楽しさを見出しているのですから、
あまり、熱く気合をいれる話題でもないのですがね。
しかし、日頃は、そんな平安な生活にいる人も、いざ、
自分や家族に何か深刻なトラブルとか起きると、
どうしても、周囲の人も、本人も、ついつい、
「とにかく、まず生きてなけりゃ、問題解決も出来ない」
というこのことを、全く疑いもしない。
本当にそうだろうか?
こそくに、なんとかして、とにかく、生きようとして、
かえって、問題がこじれたり、犯罪に発展したケースの方が
遥かに世の中には多くあります。
逆に、もう死ぬ気でやったら、とか、死ぬ気で諦めたら、
解決しようともしないのに、解決してた、
などというケースを、私は比較的多く見てきました。
本当は、もう生きていたくないのに、
生きなければ、という強迫観念でずっと苦しんでいる人とか、
じゃー、死んでやると思って死のうとすると、
実は、まだ死ぬのは怖い、という本音があったりと、
人の心は変わってゆくので、いろいろですが、
結局、人間の中には、
{死にたい/生きたい}
というものが半分ずつ配合されているものですから、
死にたいという気持ちはなんら、異常でもないと思いますよ。
だから、それを封じるようなことをせず、
当たり前の衝動、当たり前のこと、として、
ちゃんと受け入れないと、
あとの半分の「生きたい」というのも、
ちゃんと受け入れることが出来きなくなります。
つまり、その結果として,
「生きているんだか、死んでいるんだかわからない」ような、
半死半生の人生になってしまいますから。
人は、半分ぐらいは、生きたいと思い、
半分は死にたいと思う、
この半々のサジ加減が、ちょうどいいものです。
いつもいつも、生きたいと思っているなんて、嘘ですから。
いつもいつも死にたいと思っているのも、嘘なんですけどね。
人の心の中は、生と死が、
常に半々ぐらいで、ちょうどいいバランスを保つものです。
だから、老いてやがて死ぬ事を意識し始めた
高齢者の人達は、落ちついてくるのです。
しかし、何も高齢にならなくとも、
自分の中にバランスを保つには、
若いころから、いつも半々の「死と生」と仲良くなっていると
いいと思いますよ。
つまり、朝起きたら、
「今日も、半分生きたい。半分は死にたいぞ。
よし、今日も、絶好調のバランスだ」と。
●そして、本当に肩の力を抜くというの事は何かというと、
体は自殺しなくてもいいから、
頭の中のごちゃごちゃした、おしやべり、ぐらい
一度、それこそ自分で殺してしまった方がいいということです。
鉄則として、体には何の罪もないのだから、
常に、体は、大切にしましょう。
しかし、悩みの本当の犯人は、それこそ
人間の頭の中に蔓延している
「こうすれば楽になる。こうすれば幸福になる」、
というやつですね。
まさに、悪質な広告に酷似したものが、
人間の頭にもすり込まれているわけです。
これが、俗に言う、沢山の種類の「強迫観念」で、
下手をすると、「生き続けなくては」ということすらも
強迫観念になります、
一生、その人を「もう生きたくないのに死ねない」
という「苦痛の牢獄」に封じ込め、
その人の人生は、「苦痛だけが続く終身刑」になりかねない。
●自分の頭に中に、
「自分によさそうな広告」「自分に対する禁止命令の広告」が
蔓延してしまって、あちこち、興味が飛び、
混乱して、消耗して、そして無力感となる。
だったら、人生に一度ぐらいは、
自分の頭のスイッチを切った方がいいのではないでしょうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●昔と今の、家庭環境の変化
昔の、でっち奉公とか、貧しくて、身売りとか、
あとは、軍隊や学校の体罰、
あれらは、ある意味では、立派な虐待ですよね。
ところが、
じゃー、そういう人たちが「心が病んだか」というと、
ほとんどそんなことないです。(中にはあるけど)
親の愛情に恵まれないなんて、戦国時代や戦争中には
いっぱいあるわけで、
そんな事いってたら、世の中、不幸になる原因だらけになってしまう。
でも、なんか違うんですよね。最近のは、昔の虐待とは。
回りくどいというか、ストレートでないのかな。
昔のが良い、とは思わないけど、最近のイジメにしても、
虐待にしても、「精神的虐待」という言葉で表されるように、
「捻り」=つまり、屈折してるというところが、病んでいる。
●「分かりやすいこと」で親から怒られたり、
また、誉められるなら、子供は混乱しないが、
理不尽に怒られたり、大人の思惑で「誉められたりする」と
子供は混乱してしまう。
ここが、とても、大切なところです。
理不尽な誉め方で、軽率に子供を誉めると、
子供はかえって不信感を育てますから。
「こんなこと誉められるようなことじゃないのに=親は馬鹿だ」と。
●で、子供にとって、大人や親の思惑が、
「分かりにくい」というところがよくなくて、
これなら、「てめぇー、帰りが遅いんだよ!」と、
ちゃぶ台をひっくり返す、星一徹の方が遥かにマシですね。
子供が1番混乱するのは、この親の「理不尽さ」です。
だから、酒飲みで暴れる、または家族に「からむ者」のいる家庭が
病んでしまうのですよ。それは子供には理解不能です。
問題は、アルコール依存だけでなくて、
子供が、「なんで、とーちゃん暴れているのか、わかんな〜い」
これです。
同じく、
「なんで、かーちゃん、ヒス起こしてんのか、わかんなーいよ〜」。
この{わかんない}のが、もしも、分かりやすければ、
かなり荒れた家庭でも、子供は、すくすくと育ちます。
大人の屈折した表現、屈折した視線、屈折した誉め方、怒り方、
この屈折したというところが1番マズい。
屈折してたら、分からない部分を、
子供は「自分で悩まなくてはならない」。
大きくなって、15もすぎて、物事に悩むのはいいことだが、
まだ、2歳や3歳、10歳以下の子供が、
どうして、自分を擁護してくれるはずの親について
悩まなくてはならないんだろうね?
10歳までは、学校ではともかくとしても、
「家庭では悩み知らず」。
これが私の定義する健全な家族です。
だから、親の事について、
または親の「自分に対する態度」で、
子供が、それを理解しようとして悩む、
この家庭環境は最悪です。
ということで、もしも子供をお持ちの方がいましたら、
夫婦でどんな問題が起きていても、
子供には、「わかりやすく」、二人で説明してあげてください。
でも、片方だけの言い分だと、駄目です。
つまりは、夫婦円満というのは、
夫婦が自分たちがたとえケンカしてても、
少なくとも、自分の子供には、
それを、分かりやすく説明できるという事、これが
子育てする者の最低の義務です。
人間の子供なら、10歳までは、
親のいるところが、自分が安心出来る「巣」でなくてはならない。
これは、すべての自然界の動物と同じです。
そのあと、どう世間や他人に、メチャクチャにされようが、
そんなものは、なんとかなります。
しかし、子供のころに、保護された感覚のない子供、
子供が理解できない、分かりにくい行動を親がやった家庭、
これが、私が定義するところの「機能不全家族」です。
●ちなみに、
うちは、私が小学生のときに、離婚したけど、
父親の不倫という「どえらい、分かりやすい」理由だったのと、
母親が、子供の私に、
不倫とその原因の細かい状況を説明してくれて、
しかも、私自身が中立を保つために、
私は単独で、父親のところに言って、父親だけの言い分を聞いて、
そうやって、すべての状況を子供ながらに把握してたので、
おかげさまで、少々、変わり者にはなりましたが、
子供にとって、「わかりにくい家庭」、ではなかったのでした。
●
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●別件/兄弟間の差別が生む事例●
最近では一人っ子の弊害が多く見られますが、
兄弟がいたらいたで、問題が起きているケースも多いです。
つまり、兄弟感での、
家庭内での「存在意義」のコントラスト=価格差です。
子供の方の錯覚ということもあるのですが、
その場合にも、やはり、「わかりにくい親の態度」が原因ですね。
ちなみに、兄弟で、上に生まれた場合、下が生まれますと、
それまでひとりじめしていた親の愛情を
下に「奪われる」という「錯覚」が子供に起きますから。
まー、実際、バランスの悪い家族もいるのですが。
特に、今でも、日本は、地方社会だと、
家庭内でも、男女差別があって、
女の子はしょせん嫁に出してしまう、
男は、後継ぎになるから、大切に、みたいな風潮も
まだまだ生きています。
こうしたことも、子供が自分の存在価値を疑う原因になります。
とにかく、いろいろな事の、ささいな事の積み重ねで、
子供が、自分なんかいらないんだろう、と疎外感を感じ、
それが、小さなものなら、まー、ちょっとした不機嫌で
終るのですが、記憶に残る大きなことだと、トラウマになります。
そして最後には、
「自分なんか、いないほうがいい」という事が
慢性的に、その人が何かしようとするたびに、
口出しするようになります。
何かしようとか、何かしなければならない、
というストレスがかかった、
その瞬間に無気力になるという「決まった回路」が出来あがります。
これは、自己否定回路で、最後に行きつくのは、
自分を殺そうとする意志です。
そして、何かしないならない状況、
たとえば、就職活動でも、結婚でも、なんでもそうですが、
そういう何か、腰をあげて、しなければならない状況が来るたびに、
こういう思考がたびたび浮かぶようになります。
「自分なんかいなくてもいいのに、
そのいなくてもいい自分が、どうして、苦労してまで、
何かしなくてはならないんだ、
あー、何もかも、めんどうだ。生きていたくない」
そして、これらが発展すると、長期的な「ひきこもり」となります。
家庭内に問題があった場合と言うのは、
必ず、対人関係や対社会との関係でのイライラが増えます。
なぜならば、原因が、「最初の対人関係」である
家族から発芽したからです。
その初期症状は、イライラすることに自分でイライラする、
ということで、中間では、無気力になり、
やがては、引きこもります。
そして、自殺未遂を何度も繰り返しますが、
なかなか、死ねないという繰り返しになります。
なお、ここには睡眠障害も必ずセットで関係することが多く、
ひきこもりの場合には、たいていは、夜型になります。
そして、テレビ番組やインターネットを何時間も無目的に
徘徊するという事をします。
●こうしたときに、
眠る方法、また落ちつく方法として
音楽はあまりお勧めできません。
音楽というのは、相当に、人の心や感情をかなり「強制的」に
誘導したり、書きまわすところがありますので、
たとえ、どんなに静かな音楽やクラシック、
または、その他の音楽を聞いたとしても、
外見的には、だいぶ落ちつくように思えても、
実際には、神経が疲労することの方が多くなります。
それよりも、とにかく、夜は速めに部屋を暗くして、
朝は早め起きることをお薦めします。
朝、何もすることがなくても早起きです。
うつの場合、最初にあらわれのが、
睡眠障害です。これは最近よく言われているように、
朝、光をあびることで、そのリズムを戻せます。
もしも夜型にずっとなっている場合には、、
まず、そこから改善してみる事です。
かなりこれは、心身に影響していますので。
◆家族内に原因が見当たらないのに、
無気力になる、という場合には、安易に、
うつだとか、なんとか障害だとか素人判断せずに、
これは、精神科ではなく、内科の診察を受けた方が
いい場合もあります。
総合病院へ行って、心し体の両方の症状を言って
よく検査をしたら、疲れやすさや、無気力や肩こりや、
イライラの原因が、内臓に疾患があったとか、
血液に問題があったとか、あるいは脳に原因、
はては、それこそ、部屋の有害物質とか、低周波公害のような、
「物理的な生活環境に原因があった」ということも、
あり得ますので。
ただし、このような外的原因の場合には、
他の家族は何でもなくても、
それに対するアレルギー体質ぎみの人に現れますので、
他の人も同じように体調を崩さないからといって、
原因が、個人的なものとは限りません。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
●3脳3層のダイエット●
最近というか、ここ半世紀になって、
感情の餓えとか、心の問題がクローズアップしたには
「根本的な原因」があります。
全宇宙、どこでも普遍的な原則は、
「生物の基本」は、「新陳代謝」
つまり、「餓える、食い物を探す、そして食う。寝る」です。
それと、「生きる、死ぬ」。
人は4つの層で出来ています。
1=体、2=感情、3=思考、4=観察意識の4つです。
貧しい時代、ただ、食べることに追われてる時代が過ぎて、
それが食べることに困らなくなると、
今度は、2番目の感情が餓えを訴えます。
もともと感情も餓えを訴えていたのですが、
体の餓えの方が、それまで、叫び声が大きかったわけです。
●そして感情が満たされるようになると、今度は、文字通り「頭がすいた」という叫びが
クローズアップされて、情報や知識を必死にかき集めるという行動に出ます。
情報化社会なんていう「音頭」もその口ですね。
ところが、これ自体は、餓えの層が変わっただけのことです。
だものですから、
食うことに困らなくなると、感情で困った問題がでて来やすくなり、
故に、家庭問題のほとんどは、貧困ではない時代や
貧困ではない家族に起きます。
●で、さらに厄介なのは、親の愛情を充分に受けたり、
恋愛で感情を満腹にしても、
次には、頭の餓えに取りつかれてしまい、
結果として、こういう人は、何かの学者や専門家になりますが、
依然として餓えと強迫観念に、さいなまれます。
そこで、その「思考の監獄」で、もう考えるのは辛いとなり、
思考することが、快楽ではなく、
「どうして生きているのか。自分とか宇宙はどうして存在しているんだ」
とかなってしまい、
ここで、やわな宗教を信じてしまえば、単なる「信者」となり
知性を放棄したまま終りですが、
気合の入った人は、ここから宗教ではなく「哲学者」になります。
哲学者の資質とは、あらゆることを「疑う」ということです。
●ここまで来て、何にも困らないのに、
生きていることが、なんか不安だ、こりゃ,何かおかしい、
と感じて、やっと、最後に登場するのが、
4番目ですね。
自分は体ではない。
自分は感情ではない。
自分は思考や記憶じゃない。
だったら、自分って、何なの?
この、ただ、いろいろなものを意識している
まるで、子供の時のような、何も思わない「純粋な目」なのか??
・・・と、ここから先の事は禅とかの問題になるので、、
それは、また全く別の話になるので、ここでは止めておきます。
ただ、そのように「生きる」とは「餓えて、それを満たすこと」
この生物の活動の基本だけは、全宇宙でも同じですから、
たとえ、何かを満たしても、必ず「餓えそのもの」からは逃げられない、
ということは、覚えておいてもいいと思います。
もしも、生きて行く上で、なるべ「く餓えない方法」があるとしたら、
そりゃ、やはりダイエットですね(笑)。
ちょっと理想やら完璧主義を、ぐっと落としてもいいので。
だいたい、人間の考えつく理想なんて、
いくら、大袈裟に言ったって、たいしたものないでしょう。
1番大きな理想とか、いったって、せいぜいのところが、
「全宇宙の平和を願う」か、さもなければ、
全宇宙の作り変え、ぐらいしか、思い浮かばない、
「そんな程度」のちっぽけで、
まるで3流のSF映画のオチみたいな、「軽薄な理想」なんですよ。
人間が、せいぜい思いつけるのは。
で、苦しくない人生を楽しみたい場合には、
1〜3の層のどれも、食うこと=補充することに、
「中毒的」にならないことです。
体も食べ過ぎず、
感情や愛情も食べ過ぎず、
知識も食べすぎない。
どっちかというと、「なるべく多くを持たない者=お気楽な人生」
というのが秘訣かもしれません。
物も少なく、
愛情も少なめ、
知識も少なめ、
または、持っていても、自分が持っているなんて、
いちいち、意識しないという事ですけどね。
●知識も、感情も、物も、
お金と同じで、「世間の周り物」で、
「たまたま、自分のところ」に来ては、また、
別の人のところに行ってしまうもの、ぐらいでいいと思います。
でも、世の中って、金に執着するみたいにがめつく、
愛情とか、知識に、しがみつく人も多いみたいですね。
自分がやった成果とかに、いつまでもしがみつくとか。
で、そうしいうわけで、
これが、私が、「たまに」ですが、他人様に勧める、
「万歳、 心も貧しい人生」です。
★
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