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[3309]
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「インターネット四方山話」◆第@章◆
by:
方山
2005/01/01(Sat)07:29:51
「インターネット四方山話」◆第@章◆
【リアルタイムという事について】
◆かつて私達は、ある人物が他界して数十年後に
その人の事を知ったということもある。
また、数世紀も前の人のことを今世紀に知るという事もある。
図書館の資料や書籍を通じた情報の受け取り方、
または探し出し方である。
私もある人物を探して郊外の寺を訪れた折に、
そこの師匠はすでに他界していて縁がなかった、
という事もあった。
しかし、そうした障壁を、
いくつか自主的に超えてゆくことで、
探している当のものが見つからなくとも、
その代用または、関係する人脈や体系のネットワークに
たどり着くということもよくあったものである。
◆さて、現在ではリアルタイムで人や物の価格や動き、
などについての情報は、有り余るほど溢れている。
しかし、だからといって、それらの情報が、
リアルタイムであるが故のメリットを最大限に
生かされているかというと、かなり怪しい。
そして、そのリアルタイムの情報はテレビやネットで
一方的、または双方的に配信されるわけだが、
そのリアルタイムの現場、または瞬間にそこにいないかぎりは、
その情報は消化したり、生かすことは出来ないというのが、
私のひとつの結論である。
つまり、ネットにはいろいろなものが記録されるが、
特に、製品情報とかではなく、人が発する概念のような
ものは、それらが生きているのは、それが発せられている
瞬間のみであるということ。
ところが、紙という媒体は、なぜか、
その「瞬間を記録すること」が出来るようである。
ネットでは、それが表示されている瞬間ではなく、
発せられた瞬間(その後数分か、数日かはわからないが)に
しか、その言葉は定着力を持たない。
その大きな原因のひとつは、
その言葉をディスプレイした機械、すなわちパソコンが、
他の作業をしながらであったためでもある。
つまり濃厚な情報であっても、それを受け取る機械が、
「ながら主義」で、貧乏ゆすりをして、テレビを見ていて、
他に考え事を溜めていて、余所見をしてと、音楽を聴いて、
と、そういう機械で受け取った情報というのは、
しょせん、その程度に「薄まったもの」でしかありえないのである。
また、操作している人間自体が、クリックひとつで
別の番組、サイト、内容、作業に
移動できてしまうということ。この意識の集中力の散漫さ。
これがもしも他人と相対して会話をしている状態に
置き換えたら、これほど相手に失礼なことはなく、
また、そのパイプに乗った情報も、受けての人の散漫な意識によって
劣化してまうわけである。
これゆえに、多くの集中力を必要とするアーティストや、
創作的な人間は、ネットの特に掲示板をサーフするという事を
しない。
私の場合には、原稿に還元できる素材探し、という目的が
一環してあったために長年行ってきたわけだが、
何の目的もなくネットサーフをするとしたら、それは
ただの時間の浪費でしかない。
また、知り合いの創作をする人たちも、ほとんどネットの
掲示板は書き込んでおらず、見てもおらず、また
仮に見ていたとしても、創作期間は完全にネットを離れる
というメンテナンスをしている人が多い。
私も、何かの創作に入った場合には、ネットから切断する
ばかりでなく、必要な日常会話も極端に減らし、
食事をする時間も削り、テレビも見ない、情報を頭に入れない、
ということを何度もしてきた。
◆さて、前述の「散漫で方向性のない意識」を、
うまく回避していたひとつの例が、大昔のパソコン通信である。
当時は、パソコンというものを
会話をする通信以外の目的では使っていないという人もいた。
ワープロに通信機能のついていたものもあった。
こうしたものであると、ものすごく意識のターゲットというものは
限られており、その集中された濃度の中で情報や会話が
かわされるので、「ながら主義」というものではなかった。
◆さて、「リアルタイム」のことに話が戻りますが、
私は掲示板で生まれた本というのが、
とても影響力のないものであることを感じた。
たとえば、「虹のオーガズム」は、ほぼ完全に
ネットに参加していない時期に書かれたもので、
質疑応答部分は、転送されたfaxを介してのものであった。
「性のレシピ」の後半部分は、掲示板での対話から
生まれたものであるが、その大半は、すでに
私の中に蓄積されたものの表現でしかない。
実際、前半部のテクニックはネットで生まれたものではなく
セックスの現場で生まれたものである。
一方、後半部の恋愛相談、恋愛論のような部分は、
ネットの対話からインスパイアされたものが多い。
そして、この部分は、残念ながら、あまり重要性がない。
ところが、あの本の骨組みを作っている重要な部分というのは、
すべて、対話からではなく、リアルな世界での独自の空間や時間
の中で精製されたものである。
こうしたものは、紙に印刷されたときには、
さらに、読み手の意識に対して、その定着力を増すものである。
◆しかしそんなインターネットでのメールや掲示板という
比較的リアルタイムでやりかわされる情報の鮮度や
影響力にも、限定つきであるが、それが生きていられる
瞬間というものがある。
それは、まさにそれが書かれてゆくその瞬間から
そう時間が経過していない間のみである。
この点から考えると、おもしろいもので、
「ゾンビ化する人々」の本、またはネットに残っている
情報というものは、それを後から読んだ人に対しては、
ほとんど何の影響力や学習要素を含んでおらず、
あれが役に立った人たちというのは、ほぼリアルタイムで
それが書かれてゆく瞬間に、そこに立ち会った人のみなのである。
そして、何人かのあの現場にいたり、見ていた人に
たずねると、「もう印象に残っていない」という。
つまり、現場にいた者だけが、情報を消化し、排便できた
という事。完全に消化されると、深くかかわったにも
かかわらず、印象が残らないのである。
ところが、人間は徹底して深くはかかわらなかった物事には
いつでも、あとから、足を引っ張られ、頭の中を
不本意に占領されることになるのである。
そのために、情報が発信され、対話が進行する
現場を見ていたり、発信していた者は、
仮に自らがゾンビ的であった場合にも、
そこになんらかの変更が加わっており、また、
周囲にゾンビ的な者がいた者でも、その関係性に変化が
おきているという事の報告が多かった。
ところが、時差があって、あとから記録や本によって、
「ゾンビ論」または「3種分類のプロセス」を目にした者、
というのは、鮮度のいい状態の情報を何も食ってもおらず、
消化もしておらずで、結局は実生活でそれを解除したり出来て
いない、ということがほとんどである。
つまり、紙とインクに変換して現実の世界に
定着させても、その大本がネットの特に掲示板で生まれたものは、
あとでそれを読む者の意識には定着しない、ということである。
◆さて、これらの事例でおきていることは何か?というと、
問題は、それが印刷される媒体がどうであるかという事も
周辺事項に含めるとしても、
最大の問題は、それが「発信された時間と場所」である。
もしもネットの掲示板のような
ごく、リアルタイムで発信されたものである場合には、
それを見る者がそこから何かを自分にインストールできるとしたら、
それは、極端に言うと、わずか数時間以内ということなのです。
その最大の原因は、使っている機械の多様性による散漫さ、
それを操作する人間の意識の関心の散漫さによるものです。
そして、ここにさらに、その散漫さの集大成である
インターネットというネットワークのパイプラインを
くぐっているうちに、情報にゴミがついたり、劣化したり、
鮮度が落ちたりする点です。
だから、仮に私が、毎日夜12:00から書込みますので、
見ていてください、といったイベントをここの掲示板で
やったとしても、それで発信の鮮度は維持できますが、
見る側の意識がネットサーフしているような散漫なものであれば、
発信した情報の「本質部分=栄養素」は劣化し、
また、見る機械が散漫であれば、ビタミンは劣化し、
また、ネットワークに乗っている時間が経過すると
何かがそこで酸化するように劣化する。
そうしたことを、私はインターネットという場で
感じてきました。
◆一方で、
対話ではなく、その者だけの完全に閉じた空間で作られ、
さらに印刷されて定着した情報には、
なぜか、永久保存的に、栄養素までもが生きており、
それは、何世紀も後になって、手に取って読んでも、
読み手の意識に養分を与えるものとなるようだ。
◆こうしたことから、
私は、このサイトの私の「自薦中」にある原稿や、
禅問答の記録といったものを、何度か本に編集しようとしてみた
のであるが、どうしても、気が向かなかった。
それは、つまり、情報があまりにも劣悪な環境で生まれた
ものであるからなのである。
自薦集の原稿のほとんども、当掲示板か、または余所の
掲示板で草稿が生まれたもので、
それは、私の「沈黙の書斎」で生まれたものではない。
◆同じく、「ゾンビ化する人々」も掲示板で生まれたものだが、
そもそも、あれは現場でそれを見ていた人たちだけに
記録としてプレゼントするつもりで、印刷部数も設定しました。
つまり、後世の人たちのために製本したものではなく、
リアルタイムで見守っていた人たち=食って消化した者が
2度、同じものに足を取られないための「踏ん切りをつける」
ための「墓石として機能する」ようにするために、
物質にまで落としたといった方がいい。
もしも現場を見ていなかった人のことを考慮し、また、
後世まで栄養素が残るという「発生のしかた」をしたもの、
つまりは、書斎で作られたものであったら、
もっと多くの部数を印刷したことでしょう。
◆ただし、これらのリアルタイムのものが、
元の養分を保持して、生きている時間の短さというものは、
たとえば、ライブコンサートの記録や、
人と人との現場での対話の記録は違いますよ。
問題は、「多機能なパソコン=ながら主義」や、
法的にも構造的にも、ほとんど整備されていないネットいう
媒体を通じて、「生み出されたり」「他者に伝達されたりしている」
という状態、つまり、
情報を生んだり、載せたりする「環境問題」によるものです。
>次章に続く
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