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[3464]
■
究極の料理
by:
鈴木方山
2005/12/21(Wed)04:16:28
●【 究極の 味噌汁 】●
「たった一杯の味噌汁」にも、
次のような種類があるということを、
覚えておくといいかもしれません。
家族を持って調理をしている人も、
そしてプロとして活躍している人たちも。
1/日本料理店で出される味噌汁
2/家庭で丁寧に作られた料理店なみの味噌汁
3/家庭で「丁寧に、かつ、すばやく」作られた味噌汁
4/家庭や大衆食堂で手抜きして作られた味噌汁
5/家庭で健康志向で作られた味噌汁。
6/インスタントの味噌汁
______________________________
食というものに私が求めたのは、グルメ志向でもなく
医食同源志向でもありません。
うちのシェフは、5年の歳月をかけて、やっと一杯の、
私が100点満点をつける事の出来た「完全な味噌汁」を、
最近になって、作ることが出来ました。なんと、5年の歳月の果てにです。
では、その味噌汁というのは、料亭の味だと思いますか?
いいえ、料亭では出せない味なのです。
では、一般家庭の家庭料理の味か?というと、それも違います。
家庭料理の本質とは何かという点では、極めて似てはいるのですが、
単なる家庭料理ではありません。
●我が家には、セックスに哲学と方法論が明確にあるように、
料理にも、哲学と方法論があります。
それは、何も贅沢な素材を使うということでもなければ、
たくさんの手間をかける、ということでもありません。
かといって、ただの健康志向なのでもありません。
●そもそも「食」というものには、おおざっぱに次の種類があります。
◆1/リポビタン的食事(「燃料料理」)
↓
これは、ようするに食を、体に「燃料」を入れるように、
かっ食らうというものです。
味は食えればいい。ただのガソリンです。
しかし、これはこれで、ひとつの最も「原始的な食文化の極」です。
現在では、それはファーストフードや立ち食いそばや、牛丼や、
あるいはレトルト食品になっていますが。
◆2/「ディナー料理」
↓
いわゆるレストランなどで出される、プロの味です。
もっともプロといっても、大したことのないプロから、
この味には参りました、というほどのプロまで、「ピンキリ」なのですが、
この食の最大の特徴は、食べると、味覚や体が満足して、
完全に動けなくなるということです。
つまりこの食は、活動するための食ではなく、安らぐための食です。
また、シェフが「どうだ、この味なら」と、味と食文化に挑戦するもので、
それは、食の実験であり、食材の実験でもあります。
従って、どんなに愛情をこめられた料理でも、
そこには、「緊張感」があります。
この料理は、食べる側が、精神的にもあまりにも受身一方になるために、
食べると、気持ちが満足してしまい、
だらけて何もしたくなくなるのが特徴です。
それは本質的な「安堵」「安心感」とはまた違ったもので、
その食の中には必ず料理人の、こだわりや、緊張感が紛れ込みます。
その挑戦的な意欲が、本当の深い安心感を食べる者に与えない原因となります。
◆3/「ランチ料理」
↓
問題なのは、これです。前述の分類では、「強いて言えば」ですが、
3/家庭で「丁寧に、かつ、すばやく」作られた味噌汁、
これに該当します。
■ランチというのは、その後午後の仕事をする「余力」を
食べた人間に残しておかなくてはなりません。
量も、メニューの質も、食材も、すべてが、ディナーとは違って、
食べた人を、だらけさせてはいけません。
かといって、「そら、食って、早くちゃんと、働け」というような、
リボビタン的な「燃料料理」であってもいけません。
●この「ランチ」は、何もプロの作るものだけではなく、また
時間も昼ということではなく、家庭の料理でもよいのですが、
「ランチ食」を志向することで、私が満点をつけられる料理が
出来上がる可能性があるということです。
●現在の食文化というのは、せいぜいが、医食同源どまりです。
素材がよくて、体にもよくて、味もよくて、器への盛り方もいい、
これをすべての料理人は目指すわけです。
せいぜい、その上にさらに積み重ねるもの、またはその土台をなすものが
あるとしたら、作り手の愛情だの、気合いとか、そんな程度のものです。
しかしもっと「繊細で」、当たり前で、自然な、要素が
まだ現在の食文化には欠けているのです。
それは、
食べた者の神経を高ぶらせることなく、だらけさせることもない。
食べた者が、そこから、動くことも出来れば、休むことも出来るという
食べ手が、その後、活動にも非活動にも、どちらにも転換できるもの、
食べ手の精神面に、「選択の自由と、余力を残すもの」です。
しかし、それは朝、旦那や子供を仕事や学校に送り出すための
「朝の燃料料理」でもなければ、
サラリーマンが立ち食いで食う燃料昼食でもなく、
また、家庭で出された、特別な日の豪華な夕食でもなく、
レストランで出てくるプロの味でもありません。
また、病人のために作られる精をつけたり治療のための料理でもなく、
毎日の健康維持のために作られる料理でもありません。
●この仮名「ランチ食」とは、
別名を私が言うところの本当の本質的な「禅料理」と呼びます。
ただのそこらの禅寺で作られている「精進料理」でもなく、
観光客向けの精進料理でもありません。
この料理は、人間が瞑想や座禅あるいは仕事をするための、
最良の状態を、食べた者の中に作り出すものです。
そのために、この料理の最大の特徴は、
「動く事も出来れば、止まる事も出来る」ということです。
この「全く相反する、ふたつの条件」を満たすために必要なことは、
調理人側の「技術面」では、
1/「手早く調理し、手間をかけすぎず」かつ「手をぬかないこと」
2/「おいしすぎず」かつ「美味いこと」
3/「味の実験行為をせず、力を抜いて、無心に作ること」
4/「食べた人が、食べたこと自体を忘れてしまうほどに、
自己主張や、力みがなく、また、がさつさのない料理であること」
そうした結果出来上がった、一杯の味噌汁やご飯や自家製のパンを、
私は最近、ようやく口にしました。
たった一杯の味噌汁や、パンや、ご飯にいたるまでに、
なんと、うちのシェフに、5年もの歳月がかかったわけです。
はっきり言ってしまうと、私の相棒の創る料理は、まるで、
「プロのような味」であったわけです。そして
そこが問題であり、彼女の限界であり、また多くの調理人が落ちる
「迷路」だったのです。
料理の世界にも、「料理はこうでなくてはならない」という
既成観念が、何千年もの食文化の中で出来上がっています。
それを疑うこともなく信じて、料理人たちは、最高の料理を創ろうとします。
私の相棒が、目指したのも「健康によく、味も最高のもの」でした。
だから、それこそが「盲点」になったのです。
その姿勢は、一般的には、決して批判などされないものです。
そればかりか、その心こそ、料理人として、
もっとも「正しいと言われてきて」「正しいはずだと盲信されてきた」
姿勢です。
しかし、実は、その中のいくつかは、
「食の本質」とは違うものもあるのです。
たとえば、煮物はどうあるべきだとか、
生野菜や肉や魚は、どういう鮮度や状態で切ったり、盛り付けるかなど。
しかし、世間にあるレシピ本の通りの「理想の最高を目指しても」、
決して到達できない領域というものがあります。
その領域にある料理というのは、「結果として」、
時には、少し、煮過ぎた青菜であったり、
また、時には、すこしドレッシングで萎えたサラダであるかもしれません。
■つまり、そうした「私の目指した料理」というものは、
20年フランス料理店や、日本料理や中華の店でいくら修業しても
決して容易に会得できるものではありません。
なにしろ、それは食に対する作り手の姿勢そのものが、
いわゆるプロとも、家庭の主婦とも、全く違いますから。
それは普通に言うところの「俗に言う家庭料理」でもありませんし、
「家庭で丁寧に作られたプロ級の味」なのでもありません。
きわめて、その完璧さに「近い味」を、
私は他界した、自分の母の料理で味わってきました。
しかし、それは、単なる「おふくろの味」ではありません。
母も、料理には決して、だらしない手抜きをする人ではありませんでしたから。
その味は、皆さんが記憶の中で知っている「おふくろの味」と、
確かに、いくつかの共通性はありますが、
それを作れる女性、または男性というのは、
本当に限られてくると思います。
その「究極の食」を、たまたま「知らずに作っている人」は、
ごくたまにいますが、
体系化して、「意識して、意図して」創れた人というのは、
私が知る限りでは。唯一、私の相棒だけです。
●うちの相棒を、べた褒めする内容になりますが、それほどまでに
うちの料理哲学は、実験が困難で、
まるで「禅問答のようなもの」だったのです。
料理のことで、相棒と意見を交わしたり、時には口論になったことも
数知れませんが、作られた料理の味に対する私の評価には相棒は、
完全な信頼をおいていました。
つまり、その料理が、よく出来ても、悪く出来ても、
決して私が、的ハズレな評価をせず、
味がそうなった「調理の原因」についての指摘を、
私が正確に出すということに対する、完全な信頼関係です。
その「禅問答に答えを出せ」といわれているような料理は、
食べ物という形の結果として、
きちんと、食べる手に伝わる形で表現されなくなてはならない、
という意味において、ただの「机上の、へ理屈の禅問答」ではないわけです。
■この「家庭的 ランチ料理」「究極の食文化」については、
私が、いつかの日か、他界したあとにでも、
私の相棒の手によって、一冊の料理本、写真つきの、
「レシピ本」にしてくれることを、私は願っています。
その本だけは、
私の手によってではなく、それを創ることの出来た者の手によって。
私と相棒が行って来た、沢山のセックスの実験と哲学の結果が
「性恋愛教本」であり、
その本の中に、「セックスとは何か?の答え」があるように、
私と相棒が、同じほどの時間と手間と労力をかけて行って来た、
「人間にとって、食とは、そもそも何か??」「究極の食事とは何か?」
という、料理人としての本質的な「問い」の答えのひとつが、
そこにあるからです。
■私が、亡き母から受け継いだもの、それは、母の
「料理は、研究と愛情である」という言葉でした。
しかし、私が相棒に伝えた言葉は、
「料理は、研究と【冴え】である」という言葉です。
「体にいい料理」ではなく、「頭にいい料理」でもなく、
ただの味覚満足のための「味のいい料理」でもなく、
言うなれば「神経にいい料理」「食べると、意識が冴える料理」、
そして、なおかつ、
「食べると、心底から、人がほっと安心する料理」、
「食という行為があまりにも自然で、食べたという事すら忘れる料理」
そういう複雑な結果(現象)を、食べる人に与える料理、
それが、私がこの惑星で見つけた「究極の食」なのです。
禅寺が本来、目指すべきだった、本当の修行僧のため料理です。
■世の中には、「フランスの家庭料理の味」を真似たレストランとか、
「家庭的な味」を志向する、風土料理やエスニックの店、
そして、禅風の、精進料理もありましたし、
本当に、まずい、ただの「勘違いこだわり自然食」の店も多くありました。
そして、そのどれもが、全く、ただの「素晴らしいディナー料理」か、
「自然志向の料理」にすぎなかったのを、
今までに多く食べて経験してきました。
■かといって、私は別に、相棒の作る料理に、
しかめつらをして、厳しい評価をしてきたのでもありません。
そのほとんど95%には、「美味しい、よく出来ている」、
という評価を与えてきました。
また、特別に凝った料理ばかりを作ってきたわけではありません。
ごく普通の家庭料理です。
しかしそれでも、そこには「美味しい料理を作ろうとする」その実験意識に
必ずつきものの、「微妙な緊張感」が付きまとっていたのです。
●だから、、5年以上の歳月が経過したある日、
彼女の料理に決定的に「足りないもの」、
あるいはそこにある「余計なもの」について、指摘をしました。
ただし、それは、料理を独学で学び、料理についてしっかりと
勉強と経験を積んできたからこそ理解の出来たことなのです。
技術的なことを言えば、食の味の基本である「6味」、つまり
辛味、酸味、甘味、苦味、うまみ、焦げ味を、
どうやって「味というパレット」の上で、調和させたり、
同系列の味との重ね塗りをしたり、反対にある味と、捕食的に対比させるかという
「味覚の画法」ともいえる基本を、私は相棒に教えました。
と同時に、ある食材が口に入ったときの理想的な感触を作り出す
ための、食材の切り方や、口に入ったときの粒子の大きさによる
味覚の違いまで。絵画で言うなら、これは絵の具の質感です。
つまり、単に口当たりのいい料理ではなく、
食が、歯で破壊されながら口を通過し、喉に移行するまでの
その全プロセスを演出するのが、料理であると考えることという、
うちの料理の基本。
●そして、その料理法の「技巧」の成熟の、その最後に、
彼女が創り出すことの出来たのは、
ひとつの「小さな、クッキー」でした。
そのクッキーは、味は決して濃くはなく、むしろ薄味です。
ところが、直径わずか3センチもないそのクッキーは、
たった一個、口にしただけで、満足してしまい、2枚目に手が伸びない
という不思議なクッキーでした。
普通は美味しいと、2枚目に手が伸びるものです。
とても、小さくて、味も薄めで、軽くて、美味しい。
であるにも関わらず、
なぜか2枚目には手がいかないという不思議なクッキーです。
つまり、それは、最低限の大きさと、地味な味だけで、
それを食べる人間に、たった一口で、
「完結した満足感を与えてしまう」という、我が家の究極の逸品です。
こうしたことをすべて、マスターしてきたのが彼女であるわけです。
●うちの相棒のシェフは、
たとえ、皇室の調理場に入れても、恥ずかしくないですよ。
むろん、「技術や、知識や、手際」などの点では、
全くプロの足元にも及ばないほど、未熟でしょうが、
しかし、最も本質的な「料理の精神」を、私から受け継いだのであり、
「料理の世界」に関しては、私の、直弟子ですから。
■これも無明庵でよく言いますが、
人としての当たり前の、感情や思考や行動、セックスや人との争いも、
まっこうから生き切って、経験し切ることをしなければ、
「その先」には、決して、いけないということ。
職人の技の世界においても、技術をマスターしたあとでしか、
その技術を捨てたり、使ったりするというような、
器用なことは決して出来ないということ。
徹底的に限界まで、エゴを生き抜いた人間にしか、
エゴを捨てたり、拾って使う、などという芸当は出来ないということ。
アニメの世界で言うなら、
海原幽山には、なかなか創ることは出来ないが、
山岡四郎なら、創ることも可能な料理、といったところです(笑)。
■「そんな料理を食べてみたい」と言う人のために、
もしも私が外食で、それに近いものを見つけたら、
いつか、そっと、そのお店を教えることもあるかもしれません。
今は、まだ一軒も見つけていません。
そして、この文章も、どうせネットでいくら読んだところで、
頭になんか入りませんから。
調理に興味があったり、家庭の料理に興味のある人、
自称、グルメだと言う人、そしてまた、
プロとして料理人を志している人は、
きちんとプリントアウトして、読み直すことです。
そして、時には、こうした原稿を元にして、
料理人仲間と共に、「究極の料理とは何なのか?」
「自分はどういう料理が創りたいのか」という事を、
深く、話し合うこともしてみることです。
_______________________________
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