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第7回禅問答 【最終章】
by:
崩 残
2006/04/17(Mon)06:47:50
あらかじめ、説明をしておきますと、
この回答は、実は、「現場」で生まれたものです。
皆さんに出題をした日の、翌日の事でした。
つまり、これは、私の脳内だけで、創作されたものではなく、
「竹を斬ってみなさい」という問いを、
実際に私が他者に向けて問うたとき、
その相手の人から、その場で帰ってきた返答。
それが、この問答の「その1」の中の「武士の言葉」です。
「私の刀には、鞘はありません」というのがその人の返答でした。
そして、数十秒か数分という、
その「実際の現実世界での、問答の現場で、飛び散った火花」の結果が、
これです。
つまり、独りヨガりではない、現実の対人問答の結果なのです。
_________________________________
では、私(崩残)の回答です。
___________________________________________________
老師「あそこの竹を、刀を鞘から抜かずに、斬ってみよ」
武士「私の刀に、鞘はありません」
老師「そりゃ、ワシが今、お前に抜かせたからな」
___________________________
■解説。
そもそも、自分を武士に重ねてしまう人は、
「自分が、老師に勝とう」という「欲」を出してしまう。
しかし禅問答では、別に「武士が負けてもいい」のである。
ようは、本当に把握されているのであれば、
問答の「全体のデザイン」が自由自在に出来るかどうかで、
回答者のレベルが簡単に分かってしまうのである。
よって、ここでは、別に老師に勝たせて、武士は負けさせて
その「答えの全体をもってして」、自分の意識を表現できると、
そういう「自由無碍」の余裕があればベストということ。
●つまり、初心者や、
自分のエゴや自己顕示欲に満ちて、
「自分は、わかっているんだ」と、突っ張っている人たちは、
武士を勝たせねば自分が馬鹿になる。だから、老師を負かせよう、
ということに、自分でひっかかって、足を取られてしまい、
既に、その最初から道を踏み外して、
自分の首(思考)を絞めつけているということです。
そこで、武士が負ける形の一手が、
前述の「お前に抜かせたからな」での「王手」である。
●武士が、「鞘はない」と言ったとき、
これは武士にとっても、ぎりぎりの、真剣勝負から出てきた、
せいいっぱいの、反撃であったのである。
「老師、鞘と刀に囚われてるのは、あんたの方だろう」
これが、武士の言葉の真意です。
そこまで、本質を見抜いていたのに、
それでも老師は許さない。見逃さない。
ここにこそ、禅の品格と美しさがある。
そして老師は言う
「そらみなさい。反撃をしようとするあまりに、
刀と鞘に囚われたのは、お前さんだよ。」
これでは、武士も、老師に斬られても「本望」でしょう。
武士が、自分が出したぎりぎりの技に、
老師もまた、手抜きのない、ぎりぎりの技で応える。
これがこの問答の美学です。
「剣客同士」の戦いです。
●「駄目な人の回答」というのは、
老師か武士の、どちらかが、「明らか負けるような言葉を」、
どちらかに言わせておいてから、後でもう1人が斬るというもの。
そんな浅知恵は、すべてがわざとらしくなってしまい、
何ひとつも、真剣さのぶつかり合いがそこにないのである。
だから、そういう事をしていると、
「1人よがり」の「問答ごっこ」に落ちぶれてしまうのである。
___________________________
回答 その2
老師「・・・斬ってみよ」
武士「私の刀には鞘は、ありません」
老師「だったら、腰に下げているそれは、なんじゃ?」
武士「たった今、
老師の手で、竹を斬り終えた刀にございます」
老師「竹の音が、お前さんにも聞えたか」
老師は微笑した。
__________________________
●この、その2では、
水面は、さざなみのように静かで、極めて上品なやり取りであるが、
目に見えない水面下では、切迫して、凝縮しきった時間の中に、
それこそ、真剣で斬り合っているほどの、
一瞬のスキもない攻防がある。
「腰に下げているのは何だ」といわれた武士が、逆に老師に、
しかし、応酬といっても、それは、「そーら、老師がひっかかった」
という慢心なものではなく、
「老師が今、使われた刀です」と、極めて上品に武士は斬り返した。
ここで老師が「しまった!」でも「オチ」としては良いのではあるが、
それでは、私は、「あなたたちの醜いエゴ」を喜ばせてしまうのである。
そして、「問われた方が勝つことが、カッコいいんだ」という、
とんだ「分別の妄想」を、皆さんに植え付けかねない。
そこで、私は、武士のその心境の深さを、老師が認めることで、
「共に、竹の斬れた音を、聞けましたね」と、
静かな微笑をもってして、
「仲良く、終わらせた」のである。
★なお、この「その2」での、最後の武士の2番目の言葉と、
最後の老師の言葉は、私の創作部分です。
____________________________
●こうして、「どの竹」を斬ればいいかは、
私が散々に、もう解説をしてしまいましたが、・・・・
では、最後に、
言葉の応酬などなしに、
武士が「たったの一撃で、決着をつける」には、
どうしたらいいと、皆さんは、思いますか?
その極意は、「勝とうとするな、負けろ」です。
従って、こうなります。
老師「・・・・竹を斬ってみよ」
武士は、その場に、ばったり倒れこんだ。
斬られた竹として・・・・
老師は、涙を流した。
____________________________
これが、生きた、アートです。
そして、武士道です。
武士は、無言で、
「迷いとは、人の中にありき」と、
「自分の身」を、そこに伏して、示したのである。
それは、彼の慈悲そのものの現れであり、菩薩行そのもの。
そしてまた、
「武士道とは死ぬことと見つけたり」の「体現」である。
老師は、彼の境地を認めて、
泣いたのである。
_________________________________
・【補足】・
「武士道とは死ぬことと見つけたり」
↑
元禄時代に佐賀藩で編纂され、『葉隠』という書物に載っている
武士の心得のひとつである。
言うまでもなく、これは、
単に「命を投げ捨てればいい」ということではなく、
また、「死ぬ覚悟」を持ってして、君子に仕えよとか、
世の中の物事に対峙せよ「ということですらもない」。
おのれ自身が「死を、またいだ者のみが、万象を活かす」
ということである。
負けるが勝ちなのではなく、
死んだら勝ちなのである。
●・○・●
________________________________
★ 和尚さんふうの 博士君
「おおっ、あの僧は、
見込みがありそうじゃな」 「小僧、答えてみぃー」
「あいつ、なかなか、やるにゃー」 「人間は、悟り忘れて、悟るのにゃ」
そう・・・
人間は 悟りを 忘れ 悟るのにぁ
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