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宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3556]
■
■悟りの門は、開かれてはいない。
by:
崩残
2006/07/18(Tue)19:15:13
>7/19 9:52に 更新しました。
■たとえば、性教育や性情報というものが、おおよそ8歳以下では
必要ないのと同じように、何かが「まだ必要のない年齢」というものがある。
大学とか大学院であるならば、たとえ天才的な学生といえども、
確実に実力がなければ、飛び級も出来ない。
教育とか資格の分野には、それ相応のハードルがある。
ところが、こと、悟りだなんだという、その分野は、
全くのところ、規制も資格の基準も、野放しだ。
その結果、教える側が、「最後の最後まで」面倒も見切れないのに、
誰かに何かを教えたり、弟子を取ったり、
しかも、何をとんだ誤解をしてか、老若男女万人に、悟りの道は
慈悲深く、開かれていると、思い込んでいる。
■どういう物事にも、準備というものがある。
どういう物事にも、段階というものがある。
どういう物事にも、手順というものがある。
魔法ですら、手順があるのだから。
ところが、何事に対しても、意志や決意の弱い人というのは、
最も楽が出来そうで、何もしない怠け者の、そういう自分でも、
「受け入れてくれる場所や相手」を、慈悲があるとか
宗教の愛だなどと、「エゴのご都合主義」による「勘違い」をしている。
■しかし、実際には、悟りという分野であっても、
それは、決して万人になど、開かれてはいない。
しかし、開かれていると思い込むことで、自分で自分を慰める者が
あまりにも多すぎる。ごく常識的な自己評価さえも、甘すぎる。
こうしたことに、異論を唱えたがる者は、思い出すといい。
たとえば、有名な話に、グルジェフにまつわる話で、
道を求めていると自称する者を
川へ連れて行って、そいつの頭を川の中に、しばらく突っ込んで、
「お前、今、何が一番欲しかった?」と尋ねる話がある。
その者は、「今、息がしたかった。空気が欲しかった」という、
それほどに求めるほど本気になるまで
私のところへ来るな、と師が言うのである。
以前にも言ったように、和尚は、「サニヤシンというものは、
あなたが自殺の代わりとして選んだのではないかぎり、
そんなサニヤスに意味はない」と言った。
ブッダでさえも、入門したいなら、まずまる一年、言葉を発するな、
質問をするなと言った。
どういう分野であれ、そこの体系が目指すものによって、
最低限の資格というものは存在する。
変な例だが、極真空手だったら、腹筋と拳立て、最低100回。
_____________________________________________________________
■そうした、最低限の資格というものが存在しているということは、
何も、選ばれた者しか出来ないとか、エリートでなければ
悟りの道に入るべきではない、という事を直接には意味しないが、しかし、
実は、世間的な意味とは全く違う意味で、
選りすぐられたエリートしか、そもそも、修業そのものに入ることを
許されないのが当然なのである。
ある段階にいなければ、役に立たないものなど、
普通の世間にすら、そこらじゅうにあることは、
学問でも、技術でも、ごく当たり前の仕事でも、それがあるのは、
知っているはずだ。
それなのに、どうして、悟りとなると、まるで無資格でも
受け入れてくれないのは、おかしいなどと、キャンキャンと、
吼え始めるのだろうか?
実際には、確実に、そこには、資格が存在する。
確実に、ある意味では、エリートしかその修業は出来ない。
しかし、それは世間的な意味でのエリートでは全くない。
全く別の次元で、別の基準で、普通レベルではあってはならないのである。
よくよく、悟った者たちを見るといい。
誰1人として、ユニークでない者などいただろうか?
むろん、中には、大して冴えないような
どよーんとした、「悟ったと称する禅師」や、仏教徒もごろごろいる。
ところが、「ピカいちの人達」というのは、その彼らの言葉から
出てくる強烈な個性というのは、実は悟ったからそうなったのではなく、
悟る前から、既に彼らの中にあった資質そのものだ。
それがより鮮明になったということにすぎない。
悟りというのは、「悟る前」に、「どう生きていたか」の方が
遥かに、重要なのである。
たとえ、犯罪者であっても、どんなカルマを持つ者であっても、
どんな罪人であっても、悟ればすべてのカルマが焼き尽くされる、
この教えは、100%正しい。
ただし、そこには、大きな条件がある。
もしも極悪人であるならば、小物ではなく、完璧な極悪人を生きる
ということ。
つまり、なんであれ、自分の生を完全に生きるということだ。
あなたが、「不完全燃焼」した人生であるならば、
いかに、「悪人をやろうが、逆に、善人をやってこようが」、
どっちも、等しく、門前払いなのである。
余談だが、インドでは、導師は、「ババジ」と呼称されるのを
ご存知のはずだ。彼らの前職が、その名前に付属することが多い。
たとえば、導師になる前に、パイロットをしていた者なら、
彼は、「パイロットババジ」と呼ばれている。
だから、もしも、その導師の前職が、泥棒だったなら、その者は、
「盗っ人ババジ」だ。
しかし、それでも、彼らは、聖であり得る。
■ダイジが「人間らしく、欲望を生きることしかできない」、
といったように、
欲望すらも生きていない者に、欲望など落とすことはできない。
自我を落とすということは、
「自我が通用しない次元で」、生存をしなければならないわけだが、
そのためには、二度と自我など振り返らないほどに、
自我を生きなければならない。
こういうことが、悟りのための「修業以前」の最大の資格なのだ。
その資格を満たしていない者に対して、
「あなたにも仏性があるから、修業しなさい」などということは、
小学生に、セックスをしろとか、
老人でもない人に、老人会でゲートボールしろとか、
足し算も出来ない者に、方程式を解けと言っているようなものだし、
言うだけではなく、実際にそれをやらせようとしているのだ。
そんなことをすれば、出来ないことをやることに、
何年もの時間を無駄にするという結果にしかならない。
どんなこともやったことは無駄にならないというのは、
自分のことが可愛い自慰的な人間が、自分を慰める口実でしかない。
世の中には、確実に、無駄な時間というものがある。
無駄な学習、無駄な労力、無駄な努力というものがある。
それが「事実」なのである。
■悟りという分野は、非常に「特殊」な「分野」であることは否めない。
それが、効率よく、量産された歴史的事実も地球には存在しない。
EO師は、終始、「産道は、狭くて、当たり前だ」、
「私は、誰でも受け入れるなどという偽善的な事は、絶対にしない」
と言ったように、
その段階にいない者を、受け入れるということは、
その者にとって、これ以上ないほど、無慈悲で、無思慮で、無配慮な
ことなのである。
だからこそ、多くの、悟りに関する逸話というものが、
門前払いを受けた者のうち、その中から、何年後かにそれでも
ずっと、その師に言われたとおりの修業を続けた者だけが、
その師の元を再び訪れるという話もよくある。
知恵のある導師というのは、決して、開いてはいない。
もしも、無作為に、無分別に開けば、そのことによって、
無駄な努力と、無駄な時間を使わせてしまう人達が多くいることを
十分に熟知しているからである。
彼らが入門を、徹底的に限定して、拒否するというのは、
彼ら自身のためではなく、
「やってくる者の事」を何よりも配慮してのことなのである。
悟りという分野は、選挙でもなければ、金儲けでもない。
組織維持でもなければ、商売でもなく、信者を拡大するのが目的でもない。
それは、まるで、選りすぐられた100人の、その中のさらに1人の、
オリンピック候補の選手を育てるようなものだ。
目標は、実際に、そこに到達させることだけだ。
そのためには、「その体系」の判断基準において、
適格ではない、時期ではない、資格がない、準備不足、
そう判断される者が存在するのは、当然のことなのである。
こうした、あまりにも、世間ですらも当然の事実と、理屈、現実に
「不快感」を示すのが、甘ったれ精神世界の人々である。
■本当に、人生を生き切っていなかったり、修業姿勢そのものが未熟な
馬鹿者ばかりが集まってくるような事があると、
たとえば、和尚の弟子だった、タモばーさんですらも、
あまりも馬鹿者が多かったために、うんざりしてしまい、
「うちに入りたければ、20万、もってこいや」とか言いたくもなろう。
実際、インドにもそういう話があったのを、和尚も語っていたのを覚えて
いるはずだ。
彼らは別に、お金が欲しいわけじゃないし、
そういう言葉を言うのは、あまり良いことではない。
「お金なんぞ、何億と積んでも、お前には教えないよ」
「あんたには、その資格がないから」とストレートに
「ものごとの真実」を言うほうがいい。
和尚の話によれば、「教えを受けたければ、砂金を集めてこい」と
命じた聖者の話が出てくる。言われたものは、何年もかけて、
砂金を集めて、導師の前に差し出した。
すると、その導師は、砂金を空中にばら撒いて捨ててしまうと、
こう言う。
「こんなものを、わしが必要とするわけないだろう。
私にとっては、世界そのものが、黄金だ」
_________________________________________________________
■準備や、資質、資格、やっておかねばならないこと、
そういうものは、確実に、悟りというものに、取り掛かる以前に存在する。
そのことを、とにかく強調し続けたのが、EOイズムの特徴であり、
無明庵の特徴でもあったし、これからもそうだろう。
そのことに異を唱えるのであれば、「無慈悲な 慈悲を安売りする」
世の中の、宗教へ行けばいいのである。
無明庵では、今まで竹の間を読んでいる人達ならば分かるように、
悟りというものに、取り掛かったり、関心を持つこと自体が、
本人の、自覚不足によるもの、現状認識の甘さ、希望的観測、
自己過大評価によるものが、多くあると指摘してきた。
■特に、ここ数年、私が実際に見てきて大きな問題を感じたのは、
自覚ACと、無自覚AC、つまり機能不全家族の問題に端を発した
悩みが、その原因が本人に、無自覚に見失われたままのケースである。
そうした人が、社会へ出てゆき、そこでの「対社会関係」、
つまりは、対人関係などに苦痛を感じた場合に、
そこで、カウンセリングに向かうなら、まだしも、そこから
宗教や修業といったものに、解決手段を求めてしまうケースである。
これはEO師の言葉を借りれば、
「肉屋に行って、魚をくれ」と言っているに等しい。
それは店が違う。
しかし、宗教というものが、古くから、
「人の悩みを、食い物にした」ために、
本来であれば、治療対象としては、分野が違うはずの患者までをも
顧客にしてしまったことだ。
多くの場合には、もともと家族で発生した問題というのは、
「震源地である家庭そのもの」で決着をつける以外に手立てはない。
それを別の精神世界や思想に摩り替えたり、乗り換えても駄目である。
機能不全家族というのは、どうも私が見たところ、今思い出しても、
私が青春期を過ごした1970年代から80年代初頭には、明らかに少なかった。
それぞれの個人が、子供らしく幼少期を過ごしていたし、どこの
家族も、それなりの問題を抱えているとはいえ、子供の成育に
悪影響するほどのものでもなく、また、子供自体も、それを跳ね除けて
親離れをして自立するだけの、「精神的な基礎体力」もあった。
現代では、明らかに、AC系の病人は何倍にも、増加している。
目に見える虐待もあれば、竹の間でも書いたように、すっかり
親の道具にされていても、それに全く無自覚な者も多い。
こうした者が、精神世界という、もともとは、根本的な人間の
精神世界の(むしろ科学的な姿勢さえ必要とする)分野に、
首を突っ込んだところで、
そのモチベーションとなっているものは、親への復讐心や反抗心が
「宗教という武器を手にして行われている」に過ぎないケースが多い。
だから、無明庵に、ごく僅かにだが、深入りをした人達でさえも、
そこに不純な動機が含まれていないかを徹底して自己分析させられてきた。
もともと家庭問題であるものを、精神世界の、こざかしい知識で
意味づけたり、解決しようなどとしていないかの、
無自覚的な動機の洗い出しをさせられてきた。
自分の世界観や価値観の背景といったものに無自覚であると、
実は、単なる家族内で発生していた感情や劣等感や憎悪や、
逆に、親に、物品の飴で飼いならされて、洗脳されたような思考停止状態、
そういった問題を抱えていることに無自覚なままで、
本で読みかじった、精神世界を、
あたかも「自分の求めていた思想であるかのように」勘違いをしてしまう。
たとえば、無明庵にも、「人生や世界に絶望して自殺を考えた」という者が
いたが、その者の蓋を、ほんの少しあけただけで、
それは、何も人生や世界に絶望したのではなく、
親への単なる嫌悪感が、「親に対する、あてつけ自殺」という形を
とったものにすぎなかったのである。
■実は、こうした「勘違い人間」というのは、
宗教や、カルト宗教に行ってしまう人達ばかりでなく、
古くは、学生運動や社会運動や、左翼思想や、または右翼思想、
そして、ボランティア活動などに足を突っ込んだ世代や人間にも、
相当数、多くいるのである。
よく知られたことだが、「機能不全家族の人間」ほど、
社会奉仕とか、宗教布教活動とか、そういうものに手を出しやすいのは、
「共依存症」の現象としても、統計的にも、その傾向が知られている。
決して、職種差別をするわけではないが、傾向として、そういう人間は、
教師や、医療関係者、そして「世俗的な意味での」宗教的指導者に
多いことも、「依存症問題」の世界では、よく知られている。
■彼らは、自分の、最も足元の現実にあった、
「自分自身の問題」から逃避するために、
そういった活動や思想に、自分の不満の捌け口を探してしまった、
いわば、人間の「失敗作」である。
しかし、そういう人達は、蓋を開けたら、
ただ親の持っていた「偉ぶり病」の感染の結果にすぎなかったり、
親の持っていた劣等感の感染にすぎなかったりと、
そんなことが、そこら中に転がっているのが、機能不全家族の
問題の本質なのである。
言うまでもなく、そこでは、
人間の最も基礎の土台になるべき、のびのびとした子供時代が、
大人たちの、ずるさに対して、コビたり、誤魔化したり、
あるいは、屈折した形で反抗したりする事の「習慣(癖)」に、
毒されてしまうのである。
■蛇足であるが、ある読者は、メールで、
自分の変化の、「ひとつのきっかけ」となったのが、昔読んだ、
手塚治の「ブッダ」だった、などと書いてきて、
まるで、あたかも、自分がそういう分野に先天的に関心を持つ者かも
しれない、などと妄想していたフシすらある。
ところが、馬鹿でも分かることは、「手塚治のブッダ」というのは、
あくまでも漫画家の創作物だ。
歴史的に多少のつじつまはあっていたとしても、
あれは、言うなれば、結局のところ、
「ジャングル大帝」程度の世界観にすぎないのである。
アニメファンが、手塚氏をどう見るは、それはまた別問題としても、
手塚治の世界観とか、あるいは彼の理想といったもの自体が、
「本家の精神世界」から見れば、それは、あまりにも詰めの甘いものであり、
しょせんは、誰もが漠然と描く、人間臭い、
詰めの甘い理想世界であるにすぎない事は、誰でもがわかるはずだ。
むろん、中には、面白い毒を含んだ作品もあるだろうが。
しかし、そんな手塚氏が、ブッダなどという、
彼の手には、とても負えないような題材などを、どう描いたところで、
それは、ジャングル大帝「的」な、
ありきたりな「共存という理想社会」でしかないのだ。
そんな漫画のブッダに、共感などしてしまうその読者というのは、
それは「漫画の」ブッダ、つまり、ブッダの実像ではなく、
単に、手塚治の「創作した世界」に共感したにすぎないのだ。
それは、まるで、現実の、生々しい医療現場に共感したのではなく、
「ブラックジャック」でも見て、自分は医者になる運命にあるとでも
思い込むのに等しいぐらいの愚かさなのである。
この人の場合には、精神世界やら、瞑想やら、神秘体験やら、
そんなことは、今の時点、あるいは今生では、どうでもいいことで、
まずは、親との問題、AC問題から「やり直し」なのである。
■こういう人達が、宗教やら修業やらに手を出す前に、
まず、やらねばならないのは、
自分が何かに共感したり、関心を持ったり、傾倒するときに、
「その動機をなしているもの」は、
自分のどういう人間としての生活の中の経験によるものであったか
ということなのである。
■だから、では、悟りなどというものを標的にする以前に、
まず何が必要なのかを、何度も竹の間で語ってきた。
そして、それが、きちんと、なされてきた人というのは、
本人が全く悟りのことなど知らなくても、その準備が整っているのである。
実際、私は、数は片手の指の数もないが、
それでも、ごく普通に生きてきた人達の中に、
「この人が、もしも悟ったら、どえらく面白いことになるだろう」と
感じた人達が、いた。
そう、その人たちは、悟っていない、今の時点でさえも、
充分に「面白い」のだ。
今この瞬間でさえ、それは傍から見ていても、
充分に、欲望を生きているのだ。
そういう人なら、いつか、本当に限界にぶち当たったときには、
その限界は「本物の限界」であり得る。
ところが、そういう人にかぎって、悟りなど関心すら持たない人ばかりなのだ。
だから、私は、そういう人達のことは、安心して、見守っていられる。
その人たちは、大丈夫な人達だ。そして、いつか必要があれば、
何の助けもなく、自分1人で悟る人達だ。
_____________________________________________________________
■一方で、発端が、ごくごく世間的な悩みであるのにすぎないのに、
自分は悟る以外にないと、とんだ誤認をしている人達が、
物凄く、多いのである。
そんな人達を、皆さんも、自分の周囲に見て、吐き気がしていることも
あることだろう。
「今は、他にすることあるだろう」といいたくなる人達だ。
その背伸びは、あまりにも滑稽すぎる。
そんな人達に、頼られて粘着されてしまった、「悟りの教え」の方が、
哀れにすら思えてくる。それは「道」を汚しているとすら見える。
■どうして、このような事態が、何千年も、地球で放置されてきて、
悟りという分野だけが、「全くの無法地帯」のように、
「無資格でもよし」が、まかり通ってきてしまっていたのか?
それは、言うまでもなく、「本当の事をきちんとい言える導師」が
非常に少なかったというだけのことである。
また、悟りという現象の中にある、仕組みやディテールに対して、
あまりにも、無知すぎたということである。
何も、悟ったからといって、知恵が得られるわけではない。
悟ってもなお、経験的に学ばれるべきことは、山ほどあるのである。
そうした中で、悟りに酔っ払っているだけではなく、
物事を着実に判断できる視力を知性を持った、少数の導師たちだけが、
弟子に制限を加え始める。
そうでない導師というものは、おいしい事を言っておいて、
何千、何万という人々を、一杯食わせて、「無駄に」苦しませ、
人生の無駄な遠回りをさせる、傷をつけただけに過ぎないのである。
一方で、本当の意味で、思慮があり、本当の意味での慈悲があった導師は、
確実に、自分が死ぬその最後のときまで、
自分が責任を持てる、たった一人の弟子なり、せいぜい、一桁の
弟子だけに、教えを伝えることをする。
神話であれ、伝承であれ、多くの悟りの逸話のうち、最も美しいものは、
そのほとんとが、師弟での「一対一」の中で生まれてきたものが圧倒的に
多いのだ。
だから、無条件、無資格、誰でもウェルカム、
そんなものを看板に出すところがあるとしたら、
それは、ただの商売か、自己顕示欲の表れか、人集めの商売か、
さもなければ、「無慈悲」で「無知」の結果、
そこに来る人達に、とんでもない無駄な遠回りをさせるという事を
させている無駄な組織や個人にすぎない。
もしも、本当に、地獄に落ちるべき者がいるとしたら、そいつらだ。
________________________________________________________________
■無明庵には、無明庵なりの、「判定基準」というものがある。
それは、決して、世間でいうエリートでもなければ、
博学な者でもなければ、地位や名声や、あるいは修業歴も、肩書きも、
全く、何一つ関係ない。
しかし、確実に、判定基準としなければならないものがある。
そうしなければ、「無明庵の本は読むな」といわざるを得ない
そういう基準がある。
それを選別であるというならば、まさに、選別は行われている。
それを、差別であるというなら、まさに、それは差別だ。
それをエリート、選民というなら、まさに、それはそのとおりだ。
ただし、それは、
「自我を生きたかどうか」「欲望を生きたかどうか」
「自分を制圧しなかったかどうか」「満足をしたかどうか」
つまり、「生きたと言えるかどうか」だ。
和尚は、
「世間では、生のあとに死がくる。しかし、仏法では逆だ。
死が先で、生はあとだ」といった。
これは、仏法というものを、最低限、エゴの死、自我の死であると
定義するならば、まさにそうである。
しかし、それは、自我の死があってこそ、その自我のない生がはじまる
ということを言っているのであって、
「自我の生」がはじまるわけではない。
そもそも、自我が成熟もしていない者に、どうして自我の必要性が
消えようか?
私が、今までに生きてきて、「この人は、もしかすると、将来、
この生ではないかもしれないが、近い、転生の将来で、
悟りに向き合わねばならなくなるだろう」と、
そう本当に感じた人というのは、本当に少なかった。
ひとり、ふたり、三人・・・せいぜいそれぐらいだった。
それも、全く悟りなどというものを目標になどしていない人達だった。
だから、私が見るものは、本人の自己申告による「苦しみの量」でもなければ、
本人の主張する「悟りたい願望」の強さでもない。
私は、その者が、まずは、10センチのハードルを飛び越えられるだけの
基本的な脚力があるのかどうか、それを見る。
10センチのハードルも、飛び越えられない者に、
どうやって、自分の身長より高いハードルを、飛び越えろなどと
言えるだろうか?
ところが、世間の精神世界でやっていることといったら、
まだ、両足ですら歩行できない者・・・、
まだ、立てずに、よつんばいで歩いている幼児に、
「走れ、踊れ」、言っているようなものなのだ。
そんなことをしたら、子供は、骨折してしまう。
■和尚は、かつて、こうした事を解決しようとして、こういう
事を述べた。
「私は、ズボンを裁断する。あなたに足を切れとは言わない」
つまり、その人間に適した寸法の方法論を与えるから、それを
やりなさいということだ。
だから、そういう親切さが好みの人は、そういう体系へ
とっとと、行けばよい。
むろん、無明庵でもまた、あなたの足を切れとも言わない。
ただし、「ズボンを裁断するという妥協」もするつもりはない。
無明庵は、
「あなたの自我が、もっと、ちゃんと成長して、
あなたの足の長さが、ズボンに合うようになったら、
そのとき、はじめて、死人禅の行法をやっても良い」と言うのである。
無明庵という、悟りの「洋品店」では、
そこに置いてある商品に、
「ぴったりのサイズのお客」にしか、用はないのだ。
無明庵では、
死人禅の「寸法」を、一寸すらも変えるつもりはない。
そこにある、ガラスの靴は、
シンデレラの足しか待っていないのだ。
__________________________________________________________
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