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自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3579]
■
■書道ではない「初道」
by:
崩残
2006/09/04(Mon)06:21:09
今回は、沢山の画像を掲載しました。
何も書きぞめ用の「半紙を縦に使う」という、
そんな、堅苦しいルールもないはずだと思って、
紙を横にして、長ーく伸ばした字を描いてみました。
↑
「道」という字です。
↑
「虚」という字です。
逆に、「無」の一文字を、「縦」に伸ばして、戯れてみました。
次に、半紙をくちゃくちゃに、しわだらけにして、
描いてみました。もっと、紙の起伏で、かすれるかと思ったのですが、
意外に、面白くなかったですね。
それならばと、半紙の下に、すだれとか、よしずを敷いて、
でこぼこになったら、面白い字になるかと思って、
準備をしたら、その途端に、博士君が、すかさず、私の机を占領。
それだけなら、いいんですが、なんと、わざと、
紙の上を歩いてしまうんです。(彼は、こういうことは、わざとやるのです)
「ボク、にゃんか、まずい事しましたかにゃ・・?」(とぼける博士君)
「こりゃ~~~、博士君。今何しましたか?」
「こいつぅー。おしおきに、はがい締め、攻撃だぁぁ"""""""」
↓すかさず、涼しい顔して、後ろ足のキックで反撃する博士君。
私「まー、今日は、このへんに、しといたろ。」
ということで、博士君に、再び机を占領されました。
しょうがいなので、近日中に、とりあえず、ジャリ道の上に
半紙を敷いて、どんな、でこぼこの字になるのか、描いてみます。
________________________________________________________________
●ところで、
前から言いますように、私は、自分の描くものを書だと思っていません。
そもそも、書の定義が私には分かりませんが、
たとえば、私は故人の書を書き写す、臨書も、一度もしませんし、
この先、生涯、死ぬまで、するつもりはありません。
その最大の理由は、これを書だと、誰にも思ってほしくないからです。
もしも、臨書をすれば、必ずその癖が字に出てしまいます。
玄人の人、そればかりか、素人の人が見ても、
あきらかに、全く書を勉強したことがない、という明確な痕跡を、
すべての線に、はっきりと残すために、書道なるものを私は一切学びません。
私が、全くの無学の素人であるということを、
最後まで明確にしておくためです。
●では、全く書らしからぬ、こういう字の羅列で、
とめ、はね、はらいも、メチャクチャで、
書き順すら、部分的には「逆走」しているところもある
これが何であるかと言われれば、
これは、ただの線であると同時に、「崩し」です。
字というものは、もともとは、意味を伝えるのが発生の目的でした。
そして、それは崩すにしても、ルール内でのものでした。
書画や、自由な書アートも世の中にはありますし、
前衛書部という部門もあるようですが、
私は、アート性も、全く目指していません。
自分でも、よく分かりませんが、
意味のある漢字を、その意味を全く無視して、
どうやって、「線」として躍らせるか、崩して最後に何が残るか?
というあたりに、どうやら興味があるようです。
それは、崩残という、私の名前と関係することでもありますね。
そして、不思議なことに、
なぜか、私は、ひらがなが書きたくないのです。
大和仮名とかは、一番、「書」らしいはずだから、
多少、それらしい字を、遊んで描いていいはずなのに、
今のところ、全くひらがなを書く気がしないのです。
たぶん、ひらがなは、あくまでも日本の文化のものなので、
どうも、それを私はそれを題材には、したくないようです。
漢字のふるさとの中国にあったものだけが題材になっています。
前にも言いましたが、私は、行書や草書も書きたくありません。
あくまでも楷書を、勝手に自由に崩したいようです。
何をしようとしているのか、自分では全く分かりませんが、
ただ、言えることは、、
私は、前に「悟りなき悟り」に挟んだ絵葉書を、
一枚ずつ、すべて手書きしたときには、
あきらかに、それは、全くの「ただのサイン」だったのですが、
今年に入ってから、急速に、禅的なものになってきていて、
それを書いている意識状態には、
明確に何かの「統一性」が現れてきました。
ちなみに、私は、描くときに、ただの一度も迷いを感じたことが
ありません。
どう描こうか、たいして考えたこともありません。
少し、思慮するところがあるとしたら、
最初の線が入る「方向(角度)」ぐらいでしょうか。
ただ、失敗というものはあります。
それは、墨がぼとりと落ちてしまったとか、
筆の動きの物理的な操作ミスによるものです。
そういうものは、10枚描いたら、ひどいときには5枚ぐらいはあります。
ないときには、30枚書いても、一枚も失敗はありません。
失敗するときには、それは、迷ったり、躊躇した結果の失敗ではありません。
ある「スイッチ」が入りそこねたか、さもなければ、単なる操作ミスです。
心境だけを取り出したら、筆が動いたときに、
迷ったことや、描いている途中で考えたことは一度もありません。
それどころか、毎回、毎回一体どんな線になるのか、
私自身が、「この出来事に対する完全な傍観」をしている
ひとりの「観客」なのです。
何か他者に伝えたいことがあるのでもなく、
自分のイメージや価値観や、その字に対するヴィジョンを伝えたいのでも
ありません。
私は、人を感動させたくもありません。
そういう、ごくごく人間的な部分に共鳴するものは、
私の関心の対象ではありません。
ただ、今日、このときは、
線が、こういう動きになりましたよ、という報告にすぎないのです。
何月、何日、何時に、誰に対して描いたら、こうなりました、
というだけのことです。
むろん、基本技術がないために、バリエーションは非常に限られていて、
見て分かるように、私の字に固有の「癖」のようなものはあります。
「書道・ド素人」の私にとっての、私の唯一の「師」は、
紙と筆と墨、この3つだけでした。
他人のことは、全く分かりませんが、
紙と筆と墨が、とりあえず、
自分は、その時に、どう描けばいいのかを教えてくれるようなものです。
私は描くときに、ほとんど呼吸をしていません。
いわゆる気合いなど、余計なものを、こめた事が一度もありません。
息を止めて描くのでもなく、吐きながら描くのでもありません
呼吸は、ごくごく浅くて、ほとんどしていないような状態です。
自分の意志で描いたり、自分をぶつけたり、ということは全くなくて、
「おいおい、そんなところから、一体どこへ動くんだよ?」という、
その動きを見ているのが、「強いて」面白いと言えば、面白いのかもしれません。
普通の人には、この「自分の意志で」描くことと、
「そうでなく描くこと」の違いは分からないと思います。
たとえ、何かが自分に降りたような、自分を通過したように、
無心に、なされたように感じたとしても、
多くの場合には、それは、その人の中に潜在的に蓄積されたものが、
その時に、思考があまり邪魔をしなかったために、
非常に「効率よく、表現された」というものでありますから、
何かにつき動かされて描いたようだと感じても、それは、あくまでも、
その人の無意識や潜在意識のなせる技です。
これはスポーツ選手が、無心なときに120%の技を発揮するのと
同じ仕組みです。あくまでも、その背景にあるものは学習と確かな努力です。
それとは全く違う、私の、この「落書き遊び」が、
これから、どこへ向かおうとしているのか、自分にも分かりませんが、
少なくとも、現時点では、
他の何よりも、「それ(=意識)」を具現化するのに適しているようです。
私がどれだけ「習字」が下手であるかは、今度いつか、
「お習字」を書いてみますから、それを見れば、誰の目にも歴然としています。
もしも、習字のように、字を手本どおりに描こうとしたら、
私の字は、目もあてられないぐらいに、下手糞です。確実に小学生以下です。
自信満々で、そう言い切れます(笑)。
また、作品として見たら形のバリエーションも、ほとんどありませんが、
一度、あるスイッチが入ると、
毎回が、毎瞬間が、無心の「初道」・・・・
つまり、毎回が、ネオ・タオイズムといったところです。
私の描く線は、どう間違っても、断じて「書」などではありません。
ただし、確実に「 道 」ではあります。
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