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自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3604]
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ここ「竹の間」の目的とは、あなたが自分の頭で考えることである。
by:
崩残
2006/10/07(Sat)04:42:31
太田君の番組を見た人も多いと思いますが、
「戦争」というものを考える時に必要な姿勢は、
戦争がいい、という先入観もひとまず置いておいて、
戦争が悪い、という先入観もひとまず置いておくことです。
それがどれだけ自分の戦争の実体験に根ざしたものであろうが、
「実体験があることと、物事の本質が見えるのとは別問題である」のは、
今までに何度も私が述べたとおりです。
むろん、悟りの体験のように、経験しなければ全く何ひとつも
語ってはならない事もありますが、
経験だけでは、誤認する危険性があるということは、
新刊の「虚無の微笑」を読むと分かるはずです。
経験しつつも、冷静に見なければならないことが沢山あるからです。
知識だけでは論外ですが、「経験だけ」でも論外なのです。
●さて、戦争をテーマにするときにも、
そもそも、戦争の定義すら自分の中でされていない人がほとんどでしょうね。
もしも、戦争ということを、「人を殺すこと」ということよりも
大きな枠で定義すれば「争い」それ自体が戦争に含まれますから。
殺さなくても、
「生殺しに」する方法もあれば、「自殺に追い込む方法」もあれば、
「殺さずに集団的洗脳」という方法もあれば、
「経済戦争」もあればと、いろいろです。
●太平洋戦争についても、「もしもこうだったら、どうだっただろう」
という「事実無根のこと」を考えることは非常に必要です。
事実だけに即してしか物事を考えない人というのは、
少し以前に書いた「駄目なジャーナリスト」と同じです。
それは、記者にはなり得ても、思慮できる人間や、哲学者にはなりえません。
太田君の優れたところは、常に「仮説」を持ってくることです。
もっともあの番組のコンセプトそれ自体が「仮説の提言」であるわけですが。
●そこで、たとえば、第二次世界大戦についても、
いろいろな別の状況下で考えることで、戦争の「是非以前」の問題として
「戦争とは何であるのか」を考えるきっかけになります。
たとえば・・・
1/日本が敗戦した相手がもしもアメリカでなかったら、どうだったか?
2/原爆による敗戦でなかったら、どうだったか?
3/戦後内政干渉されずに、アメリカが、やりっぱなしで、
単に引き上げるだけだったら、どうだったのか?
4/もしも日本が勝っていたら、その後どうなったのか?
5/もしも、まだ今も戦争が続いていたら、どうだったのか?
●今、国民の中に、(人間にとって、いつものことなのですが)、
「なんとなく、ただの雰囲気として蔓延している感覚や考え方」という
ものがあります。
しかし、今私達が持っている、その漠然とした感覚というのは、
あくまでも、アメリカ相手の戦争で、原爆投下があって、
負けた戦争で、しかも、憲法も変えられた、
あるいは国民の望むように変わった、
日米安保というものがある、
アメリカのご都合主義の下にある日本、
そういう状況下で過ごしてきて、その戦後の感覚の中で生じた
「戦争観」であるわけです。しかも、それは世代によって違います。
●国家という戦争と、個人の防犯を混同するなという意見も
番組では言われていましたが、私から見たら、物事の本質は常に同じです。
本質的には、同じですが、ただし、その及ぼす範囲とか、
巻き込むものに違いはあります。しかし、それでも、同じです。
●では、本質においては、戦争の動機は規模が違うだけで「同じ」であるにしても、
個人と国家では何が違うのかとか、同じ国家でも、国が違うとどう
違うのかを考えてみるといいです。
たとえば、個人と個人のケンカがあったとしましょう。
勝ったからといって、勝った側は、相手の家まで押しかけて、
そこの家族を自分の言うようにルールを変えたり、
家族から何かを奪ったり、その家を略奪しますかね?
通俗的な意味での、タイマンのケンカならば、そこでかかっているのは
お互いの「実力確認だけ」か、またはくだらないプライド程度のものですから、
決着がついたら、次回の対戦までは、ひとまず、おしまいです。
ところが、国家間戦争となると、勝った側が、
相手の国の内政まで変えたり、
国境線まで勝手に変えるという失礼な事をおっぱじめるわけです。
しかも、イラクなんかは、勝ったと称するアメリカが、全く統治もできていない。
もっとも、あれを「勝った」と思うほうがどうかしていますが。
個人のケンカは、そこまでしないのに、
国家間戦争とか、戦国時代の内戦でも、領土争いになると、
とたんに、物事は「妙なこと」になってくるわけです。
つまり、ひとことに戦争といっても、
勝った場合に、そこに「何がかかっているのか」、
勝った側は、負けた側に、「どこまで何をしてもいいのかのルールが
時代や場所で、ころころと変わってしまっているわけです。
そうしたことを考えて、「戦争とは、そもそもなぜ起きるのか」
を考える機会にしてみるといいです。
むろん、それは「生存欲」を基盤にしているわけですが。
もしも、そうでなくて逆のことが基盤になったら、
「自殺戦争」というものもおきますから。
つまり「先に死んだ方が勝ち」という戦争となるわけです。(笑)
私は自分の出した結論を皆さんに押し付けるつもりはありませんので、
良いとか悪いと言うまえに、
「戦争とは何であるのか?」、
「個人から惑星間戦争に至るまで、
大小の戦争には、どういう目的や動機のものがあり、
どういう種類の手段があるのか>」
「それは、回避可能なものか、生存欲がある限りは、
回避不可能なものか?」
「どうなれば、生存圏拡張のための戦争はなくなるか?」
など、いろいろと自分の頭で考えてみるといいです。
●ここ竹の間というのは、
政治とかに、口出しとか、行動を起こすための掲示板ではなくて、
「個人が、どこまで、自分の頭で、物事を観て、考えるられるか?」
という、そういうきっかけの場であると考えてください。
今までも常にそうでしたが、これからもそうです。
具体的に、他者や他国に干渉をしたりするためのものではありません。
戦争でも、悟りの問題でも、禅問答でも、
セックスの問題でも、機能不全家族り親子問題や、ACやトラウマの問題でも、
「何の問題」であっても、
特定のテーマを、読んでいる「自分自身に突きつけること」が、
竹の間の果たしている機能です。
あー、そうか、なるほど、などと私の書いたことを読むだけではなくて、
自分が、今まで、ただ、曖昧に、なんとなく漠然と信じてしまっていたり、
妙な、自分の信念なる妄想の熱にうなされて、暴走していたり、
ずっと固定的に物事を考えていたことを、
「一から、もう一度、哲学的に 考え直す」きっかけとしてください。
社会学的にとか、宗教的にとか、倫理的にではなくて。
●
どういう問題を観ようとするときにでも、
>「仮定」とか「極論」というものこそが、
>物事の本質を浮き彫りにするということは、
その最たるものが、
>1/ありえないことを、あったらと仮定してみることと、
>2/歴然として、そこにあるように見えるものを、ないと仮定してみることです。
たとえば、「もしも、この宇宙がなかったら」と仮定することもそのひとつです。
そこまで大げさでなくても、犯罪捜査や、
北芝さんの「筋読み」ひとつにしても、
人間の思考能力の本質とは、「推察力」にあります。
そして、推察というのは、常に、事実以外に、多くの「仮定や仮説」を
ぶつけてみてこそ、浮上してくるものなのですから。
犯罪捜査というのは頭の中で推論と事実を比較して、
何本かの岐路を持つ「フローチャート」を描くわけです。
その中から、これだろうという路線を読む、それが事件の「筋読み」です。
●だいぶ前にも、竹の間に書きましたが、
戦争というものを考えるときには、
「血とか肉片とか、死体の腐敗臭とか、家族を失う悲劇」とか、
「文化や都市の破壊」という、
その「見た目の現象」を、
あなたの頭から、「完全に取り払ってしまうと」どうなるかです。
試みに、あなたに問いますが、
ここに、ひとつの「新兵器」が開発されたとします。
>それは、「人間以外のいかなる、植物も生物も物質も破壊しない」
>それは、「人間だけを破壊するが、その破壊の仕方は気化である」
>それは、「一部気化して、一部気化しないという奇形は生まない」
さて、
>そういうピストルのような武器が「全世界の人に、一丁ずつ」手渡されたとします。
●さて、もしも、そこを「文明の再スタートライン」にしたら、
「何がそのあとに、起きるか?」です。「どういう社会になるか?」です。
戦争に、もはや、血も涙もなく、
あるのはただ、相手の苦痛の歪む顔を見ることもなく、
一瞬で、気化してしまうことだけ。
ただ、消したい相手に銃口を向けて、引き金を引くだけ。
あなたは、隣人は無論のこと、どっかの大統領だって簡単に消せる。
●さて、そこで起きることは何かといえば、
より大量に気化できる「出力の大きい兵器を持とうとする」わけですが、
それは「出来ないことになったいる」と仮定してみましょう。
●すると、残った方法は「数の論理」になるのです。
つまり、そのピストルを持った「歩兵が、多く集まった方が」、
勝ち目があるということになるのである。
そうやって、
何かの「集団的価値観や生活様式」を持つ「部族同士」の闘争がはじまるのです。
また、誰か、権力を持とうと、たくらむもの、
つまりは、自分1人では満足できずに、また、もっと簡単に言うと、
自分1人では、何も出来ないために、「多勢を必要とする臆病者」、
こうした馬鹿な人間によって、結局のところ、
「気化戦争」「気化殺人」が、地球に蔓延することになるわけです。
だから、考えてみるといいのです。
血も涙も骨も残らず、自然も一切破壊しない、「気化兵器」。
それを手にしたあなたは、よく他人に対して、
「消えろ」とか「逝け」とか「死んでしまえ」と無気力に言うが、
もしも、それが一瞬で、「自分も相手も、可能なこと」になったとき、
つまりは、誰も、とがめる事もなく
>「自由に、平等に、殺しあえる世界」がそこにあったら、
>あなたは、どうするか?ということである。
「平等的殺人権」
この「制限なしの、自由な、相手の消し合い」になったら、
という「問い」を、あなたが、自分自身につきつけてみれば、
「戦争の本質」、そして「人間の本質とは何であるか」が、
おのずと見えてくることもあるだろう。
●
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