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[3641]
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そもそもどうして禅問答か
by:
崩残
2006/12/17(Sun)02:00:30
●前にも話したと思いますが、
私はデスクの上(といっても、コタツの上なのですが)で、
いたずらに、禅問答を作っては、ここに投じているわけではありません。
もともと、よほどそうしたものを問う意味がないかぎり、
あまり問答は好きではありませんし。
しかし、以前にも話したように、こうした問いは、
現実の生活の中から生まれます。
本や、言葉をいじって出てくるものではありません。
ですから、私が問いかけるもののほとんどは、
現代の創作問答です。それは既存する古臭い禅書の中にあるものでは
表現しきれないからです。
いつでしたか、曲がった刀をどうやって鞘に戻すか、
という問答も、発端は、旦那を悪く言うくせに離婚できない馬鹿な主婦を見たことが
きっかけでしたし、その他のものも、何かしら私の見聞した
実生活の中にその発端があります。
前回の、刀を抜かずに竹を斬れもそうでした。
気がつくと、なぜか、物騒なことに、
ここのところ、刀にまつわる問答が続きますね。
今回の問答の発端は、外見は「柳生の極意書」と呼ばれるものですが、
当然、私はそんなものには、目も通していません。
ただ、言える事は、なぜ武術が禅など必要とするか、
あるいは、自己正当化に使うかです。
本当の禅というのは、生き方とか生きる指針を示すものでもなく、
いわんや、兵法であるわけもなく、
さらに言えば、それは、死に方に美学を与えるものでもなく、
単純に「死ね」と言っているだけのことです。
それを振り回したり、武道なる「本来殺人術でしかあり得ないもの」の中に、
ごたまぜにするような人間がたまにいます。
たとえば、実名あげれは、武術研究家の甲野氏です。
自分のサイトの中で、ときおり「無門関」だの引用しては、
めったくそな自己満足の解釈をしようとしているあげくに、
本人、いまだ、ただの長期的ノイローゼにすぎないわけです。
いちいち、言い訳も多く、
もしも本物の禅師に遭ったら、
「あんた、死ぬか生きるか、どっちかにせいや」言われてしまうだろう。
●そもそも、禅書というのは、心のよりどころでもなければ、
解釈して遊ぶものでもなく、
それがもしも本物であり、また読む側に一定の準備があれば、
それは、一句一句が「身を斬られるような思い」のものなのである。
もっとも、そういう禅句は、ほんとうに「限られるの」ですが。
読めば読むほど、道が失われ、死に追いやられるのが禅書であって、
禅書の中に、道を見出すなどということを感じるとしたら、
ちゃんちゃら、甘っちょろい。
●今回の問いというのは、甲野氏が生きても死んでもいない
長期ノイローゼの典型だとすると、
威勢はいいが、人を生かすことも殺すことも出来ない中途半端な
ところにどっぷりとつかったままで、
ときに、武術の威力を、誇らしげに口にしたかと思うと、
一方で、軟弱で、情に流され、自己弁護が多く、
結局のところ、相手を生かすのか殺すのかも、はっきりさせられない、
対人不具者を何人か見たからである。
戦うということは、何も刀や手裏剣を振りまわすことではありません。
人との接触のひとつひとつが、ある意味では戦いであるが、
ただし、それは相手に敬意を持っての戦いであるということです。
厳密には戦いというのは、
単に戦いなのではなくて、それもまた「人間関係」なのです。
恋愛というのが、その本質が男女関係や性欲ではなくて、
性別とは関係のない「人間関係」に分類されるということは、
梅の間でよく言いましたが、
戦争や家族間の争いですら、「人間関係」と一緒です。
それが拡大した学校の問題もしかりですし、
政治と私達の関係も、つまるところは、「人間関係」です。
相手は人間なのですから。
その人間関係の中に、「拮抗」というものが失われると、
人は、無気力になって他者や外部と向き合うことをしなくなります。
ですから、戦いと言っても、そこにあるのは、最後まで、
「関係性」なのです。
●ちょうど、ここで皆さんの答えに私が向き合うときもそうです。
それは、単に私が問い、皆さんが解くだけのものではなくて、
皆さんの答えとともに、刻々と、私も変化するわけです。
私は自分が無傷なところに、のほほんと構えて、問いを出しているのではありません。
しかし、どうも、武術にかかわる人達のうちの大半、
少なくとも私が見たかぎり、半分は、
非常に、普通のことが出来ない人が多かった。
普通のことというのは、社会的に普通のことが出来るということではなくて、
普通に対話が出来ないということです。
これらの人には、どうも武術を始めたり、あるいは、
歳を取ってから、武術とかかわったりする、その動機の部分に、
ずいぶんと、屈折した動機が潜んでいるのが見えました。
本来は、他のことでも表現できるものを、
武術に摩り替えたというケースが多いのです。
この点では、私は、よく、同じことになりやすいのが、
「宗教」であるといいます。
●さて、今回は、今まで5回でしたか、6回でしたか忘れましたが、
今までに行ったどん禅問答よりも、難しい面があります。
しかし、私がひとつ良かったと思ったのは、
今までは、ふざけた答えも多く来たのですが、
今回は、ふざけた答えが、極端に少ない、ということです。
前の「抜かずに竹を斬れ」のときには、名のある禅寺からも、
馬鹿丸出しの答えがやってきましたし、
皆さんの一部からも、本当にふざけた答えもありました。
しかし、今回のは、不思議というか当然というべきか、
正解ではなかったり、まるっきりはずれているのですが、
それでも、ごく1人か2人の、「匿名」の回答を除くと、
全員から、真剣さだけは、伝わってきます。
本当に、よく、真面目に考えていると思います。
そして、だんだんと、核心に迫ってきている人達もいる。
おそらくは、その匿名のごく一部の人を除いては
今までで、最も良い回答が集まった禅問答でした。
問題は、正解かどうかという事以上に、
常に、それを通して、自分が何にひっかかっているか、
または、引っかかりそうになった思考に自覚が持てるかです。
そして、こうした禅問答を通して、確実に、
そのことを自覚できる人達が、今回、非常に多かったのには、
少し驚きました。
正解ではなくても、本当によく、自分の心の動きを見ようとしていて、
よく自問されています。
●そういうわけですから、
まだ、正解は書きませんので、関心と気力が続くのであれば、
続けてください。
ただし、無理にする必要はありません。
お1人、もう私から、記念品を贈った人がいます。
100点ではないのですが、よく短期の数日でいいところまで迫ったので
その人は、とりあえず正解としました。
ただし、何が10%足りなかったのか、それはその人に
dvdとともに、私からの回答と手紙を同封しておきました。
ですから、原則として、それを超える答えが出ないかぎり、
dvdは、景品として出ませんので、ご了承ください。
●私としても、私の用意してある答えが、
ひっくり返るほどの名答が来ることもどこか期待しています。
私は自分の回答が、模範解答の「ひとつ」ではあっても、
本質を踏まえた上での別の回答の道は、いくらでもありえることですから、
そうした突然に、全く違う視点から、すばり正解を出す人がいても
全くおかしくありませんし、そうなれば、私も楽しませてもらえます。
●さて、今回の虫食いの問題は、あてずっぽうではなくて、
明確に根拠あって、分かっていた人は、確か一人か、せいぜい2人でした。
一方の、「母子己」の三人斬り。
これは、確かに難問だと思います。
どこが難問かというとですね、・・・・・
言うまでもなく、母子を斬るのは非常に簡単です。
問題は、侍、または「あなた」、、、「自分の斬り方」です。
ともすれば、ほとんどの回答は、自分で斬っていることもなっていなかったり、
斬ったポーズだけだったり、
本質が斬れていないのです。
そして、これは、ヒントになるものとなってしまいますが、
こう書いておきます。
皆さんのほとんど全員が、
侍の中には、斬るべきものがある、という前提でこの問いに取り組んでいます。
つまり母子にも迷いがある、と同時に、侍に迷いがある。
だから、問題は、どうやって、侍の中に「迷いを捏造するか」
ということになります。
斬るものもないのに、自分を斬れないからです。
だから、皆さんが、
>侍を自分と重ねたときには、こういうことになるのです。
もしも今の自分に、迷いがあれば、侍の中にも斬るべき迷いが見える。
今の自分は、迷いがないと、おごっていれば、それが侍の態度に表れる。
今の自分は、悟っているんだと慢心になれば、それが侍の態度に
現れる。
侍が何をするかを描くということは、
そのまま、皆さんの今ここの状況の、限界をありのままに現すものです。
侍は、迷いがあって、苦しんでいるのか、
それとも、侍は悟っていて、「ぼくは、死にそうなあんたら見ても、
なんともないもんねー」という態度でいるのか、
また、侍がもしも悟っているとしたら、
その侍には、斬るべき部分などあるのか、
それがないのにも関わらず、それでも己を斬らねばならないとしたら、
どうやって、斬るものをそこに作り出すか?
あるいは、悟ってもなお、そこには、斬られる何かがあるのか。
侍が自分を斬ろうとすると、斬り方にも、
いろいろな視点があるのです。
__________________________________________________________
これは、もしもあなたが、
現実に、森の中、あるいは、この世界で、
本当に、誰かがあなたに向かって、自分を殺してくれと懇願しているときに、
あなたが、現実に取る行動だ、という「現実感」を持ってこの問いに
向き合っているのですから、
現実に、そうなったときに、出来ないことなど書かないことです。
実際に、「あなたに向かって、死を懇願する人に、
出くわさないとも限らない世の中」なのですから。
●
最初に、言いましたように、
こうした禅問答は、生活の中から、不意に私の中に、生まれます。
そしていつも言うように、最初に、「困る」のは私なのです。
どこから沸いたかもよく分からない問いが産み落とされ、
最初にそれを目にするのは、私です。
だから、数分、私自身が、その問いに追い詰められるのです。
そのとき、自分が自分でしかありえない地点から、
道を突破する以外にありません。
ですから、立場は、皆さんと全く同じなのです。
傲慢な寺の住職どものように、
答えが用意されていたり、答えを把握している側が、
「どうだ解け」といわんばかりに、醜いツラを下げているのとは違います。
私自身が、まず最初に、問いをつきつけられる者なのです。
だから、こうした問いは、皆さんと共に私自身も解く立場にいるのです。
そしてどんなものが正解になるのか、どんな注釈になるのか、
それすら、何も決まっていないのです。
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