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[3871]
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■復習シリーズ■無明庵の宇宙観 PART3
by:
猫然
2007/12/08(Sat)05:27:47
■禅など必要ない■
悟るために禅は必要ない。
禅以外の方法はいくつもある。
人間が心を静かにしてが座ることが
禅ではない。
それはただのポーズに過ぎない。
また概念を捉えようとすることが禅ではない。
また愛という言葉は禅では不要である。
「それ」を名づけることを禅では禁じている。
その理由は、それを名づけることで
人間は自分の好むイメージを捏造するからである。
"これ・それ"以外には、通常言葉にはしない。
馬鹿な禅師は「悟り」「見性」「仏性」などと言う。
禅は常に言う。
頭の中の神も仏も捨てろ。言葉を捨てろ。
なぜならば、禅は信仰でもなく、宗教でもないから。
それはその人の体験しか重視しない。
しかしその体験の中には幾つかのレベルがある。
瞑想は、本来はただ唯一のことしか目的にしていなかった。
英語の瞑想の語源が、「薬」であると聞いたことがある。
しかし瞑想は病んだ心の為の薬ではない。
むしろ、本当の瞑想とは自我を殺す毒薬であるかもしれない。
私の個人的見解では、
地球に禅も悟りも必要ない。
その理由は、誰もそれを必要としていない。
それを求めている、探していると、
自己申告をする人の中に、
私はそれが「必要な窮地にいる人」を、
ただの一度も見たことがない。
そればかりか、
彼らは全く別のものを欲しがっているようだった。
彼らが欲しいのは単に、
光の世界と、神または仏の愛であるにすぎない。
しかし、その点で、全く禅とは道が違う。
いずれにしても、
人間にとっての根源的な体験は、
結果として愛を生み出すかもしれないが、
それは全く評価されない。
それはあくまでも結果だからだ。
つまり「それ」の「副産物」は重要ではない。
何をするかではなく、
何を知るかではなく、
何を出来るかではない。
「この瞬間に」「私はどう在るか」だけが
禅のテーマである。
これを読んだ誰かが、
こう語る人もいるかもしれない。
「こんな言葉は聞いたことがあるさ」
私は言おう。
「あなたは二度も聞いた。
あなたは、なんと不幸な人だ」
なぜならば、あなたは、
未来に再び、同じ言葉を聞くだろう。
■意識の自由性■
意識の自由とは、
自覚をして認識するものではなく、
それは「在る」。
本当に自由な人は、
自分を自由であると思わない、
そして自分を自由でないと思わない。
彼らは「邪魔な思考」から離れている。
禅では「人為的ではない忘却」を大切にする。
人為的な忘却とは
「あなたが忘れようとして忘れること」
人為的でない忘却とは、
エゴに対する不可抗力による忘却である。
では何を忘却しろと「道」は言っているのか?
この部分が最も誤解されるケースが多い。
それがどんなに不条理に思えても、
それがどんなに間違いに見えても、
それがどんなに疑わしく思えても、
道は明確に言う。
「頭の中の全てを捨てろ」
希望も絶望も捨てろ。
天国も地獄も捨てろ。
信じるな。疑うな。
思考なしに、現象に向き合え。
むろん、そのまま一生の間、
あなたが思考をしないという意味ではない。
少なくとも、最初は、思考なく物事を見なさい。
道は天国や地獄や神の概念を全く無視する。
それはむしろ、実存主義に似ている。
しかし、それは唯物主義ではない。
人間から出来るだけ思考と感覚を消去したときに、
そこに何が残るのか?
これが唯一のテーマである。
つまり、
本当の「道」は、
意識のミクロの次元を探索しようとした。
それはこう問いかけた
「我々の意識の素粒子」とは何か?
同じ探求は、何千年も前からインドで行われてきた。
それ以外のものは、
「私の定義によれば」瞑想ではない、禅ではない。
■迷走するチープな瞑想■
幸運か不幸か私には分からないが、
瞑想という用語が、現代では複数の意味を持った。
リラックス法、集中法、健康法、人格形成法、
ストレス解消法、神秘体験の為の玩具、
超能力の為の訓練、より愛を感じた気分になるため。
そういう非本質的なものである。
私は、それらを「愚か」とは言わない。
私はそれらの効能を否定しない。
しかし私にとってはまったくもってして重要ではない。
むろん、これは私の個人的な価値観である。
精神の探求とは個人的なものだ。
それは大勢で探求するような事ではない。
価値観など他者と共有する必要はない。
もし悪く言うとそれは「全くの個人主義」である。
もしも西洋文化の言葉で言うならば、
人は、たった一人で神のところに行かねばならない。
______________________________________
■探求する資格のない人々■
よくよく注意して欲しい。
私は絶対に、この道を他人に薦めない。
ほんの僅かな人以外には薦めない。
もし人が人生に悩んでいても、それでは条件が足りない。
もし人が自殺したくなっていても、それでは足りない。
もし人が自分が生きている理由が分からなくて、
それで苦悩していても、それでは足りない。
もしもあらゆる神から見放されても、
それでも足りない。
もしも非常に強い興味をそれに持っていても、
それでも足りない。
もしあなたが何かの方法によって
自分が楽になれるだろうと期待していたら、
「準備」は全く整っていない。
むろん絶望することはいいことだ。
絶望より「扉として」神聖なものはない。
何かの希望を持っている人は不幸だ。
希望は常に何かを求めている。
しかし希望があったらあなたは必ず失望する。
失望と絶望は違う。
あなたの望みが実現しないとあなたは失望する。
しかし絶望は、あなたの望みの不在だ。
それは精神的な意味での死に等しい。
だから、私はこの道を他人に薦めたくない。
何によっても絶対に満たされない人。
たとえ、その人の目前に神が現れようとも、
宇宙が存在する意味に納得出来なかった者。
この宇宙自体の存在に希望を全く見出せない者。
その者の目前にだけ、
神秘の扉」が現れる。
その扉を通過した者は、
自分を「最低の馬鹿」だと感じるだろう。
自分より馬鹿はいないと感じるだろう。
そうなってこそ、「元の位置」に戻ることが出来る。
なぜならば、宇宙の意識の「最初」はそうだったのだから。
この場合の「なんて自分は馬鹿だ」の本質は
「愚か」という意味ではない。
正しく言うなら
「自分は全く何もわからない」という状態である。
だがそれは決してあなたを悲惨な気持にはしない。
否、逆である。
あなたはまるで自分が爆発して塵になると思うぐらいの
「安心と至福と静寂」で満たされるだろう。
しかしそれはあなたの精神が
全て死んだときにしか「そこにないだろう」。
これは幻覚のことではない。
しかし、その前には、最悪の酷い苦悩がある。
その扉は決して単純ではない。
その扉の前では、
人間は生も選択できなくなり、死も選択できなくなる。
そのような「異質な道」が存在する。
●悟るのが人間の最終目標だ
なとど、わかったような事を言う馬鹿者は、
何一つも、宇宙について知らない愚か者たちである。
悟らねばならない、などということは全く無いのだ。
悟った方がいい、などという事も全く無い。
そうではなく、
悟らざるを得なかった者が、
単に悟るだけの話である。
よって、断じて、悟りなど目標とするな。
また目標にしないで到達しようとする愚かさにも陥るな。
悟りなど、
24時間無休で苦悩している人以外に、
全く関係のないことだ。
へらへらと、
悟りについて知ったかぶりをしていられるうちは、
全く何ひとつも「準備」など整っていない。
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- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -