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宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[3877]
■
■ごちゃまぜも、いいかげんにしなさい教。
by:
猫然
2007/12/24(Mon)00:21:11
【不注意な神の混同】
■復習シリーズの一貫として、
今回は、創造主、または神の概念のあまりのいいかげんさを
皆さんが、自分自身において「放任」しているという事実についてである。
ちなみに、唯物主義者と、スピリチュアル系の否定論者は、とっとと
このページから去ればいい。
■さて、問題なのは、あとに残っている、
「漠然」と神とか創造者がこの世界あるいは別の世界にいると、
今も思いこんでいるその知能のあまりの低さの自覚がないことである。
まず、第一に、尋ねるが、
あなたは、そうした絶対的存在と直面したことがあるのか?
答えはほぼNOである。
にも関わらず、なぜそのようなものの存在を信じるのか?
その理由の多くは、単なる「御伽噺」の教育、
または自主的な読み漁りによるものである。
■次に、人間よりも上位に存在するか、あるいは何かの能力または
観察力において人間よりも進化または、別種の能力を持つような
存在ならば、砂の数ほど存在する。
しかしながら、古代から、これらの「単に、自分よりも上位に
存在するかのように見える何か」を神と誤認したケースが
圧倒的に多い。
世界中のほとんどの宗教は、単なる誤認によって生まれた。
その上位存在は、ある場合には動物である場合もあり、
心霊的な領域の存在である場合もあり、
時には、異なる時間線からやってきた者であったり、
場合によっては、外宇宙からの訪問者または、
事実上は侵略者であった場合もある(今もそうであるが)
■これらの存在を、いとも簡単に、超人的な何かと誤認するのが
人間の常である。
一方で、例えば、悟ったとか言われる者、
それらの人間に対しても、あなたは何ひとつも敬意や尊敬の念など
払う必要はない。
単に自分よりも違う意識にあるというだけで、
あなたがそれを見習う必要は何もない。
正確に言うならば、
いくらあなたが、100万回、彼らに心底敬意と尊敬の念を向けたところで、
あるいは、知ったかぶりをして、彼らについて語ったところで、
あなたは間違い以外の何もすることは出来ない。
彼らが、宇宙の階層の中で、
いかなる位置にいるかを、明確に正しく判断できるのは、
あなたが彼らと同じになった時のみである。
従って、現在あなたが語るどのような賞賛も、判断も、
すべて間違い以外のことは、起こりえないと断定できる。
■さて、では、神をどう定義するか?
この問題については「ひきつりながら読む精神世界」という本の中で、
シリウスの知性体と人間が議論をするシーンが登場するので、
それを読めば、明確であろう。
すなわち、
神というものを想定した方が、
どこかで気休めになるという理由で、それを信じて
「この会社は悪くない」と思うことで、
今にもつぶれそうで、馬鹿な社長が経営している会社に
しがみついている、といった状況に、酷似している。
そして、そもそも、神というものの定義上の誤りを、
人間はいくつも犯しているということ。
■論理的に考えても、それが擬人化されるはずもなく、
また、それが光である必然性も全くない。
人間や生物に対して慈悲を持つ必然性も何ひとつなく、
そもそも、どうして宇宙が人間の為に何かをしなければならないと
人間が思い込めるのか、私には全く理解不可能である。
どう見ても、それは「人間の傲慢さと勝手さが作り出した、
無力な希望的観測」にすぎまい。
■前述したように、時に、援助者というものは存在する。
そういう意味では、八百万の神々が混在していて、
それぞれに知人がいるといった状態は、健全な状態であるといえる。
しかし彼らと接触するということは、必ず何かの仕事を一任される
ということ、つまり契約のようなものが常に存在する。
全くの余談で申し訳ないことですが、
ようやく、いなくなったので、書けますが、
とある、日本でよく知られた神々の1人が、
何週間か、私のところにつきまとったことがあった。
先方が言うには、私はその者の数人いる子供の1人であったらしい。
確かに私の中には、かすかな記憶として、当時の思い出がある。
むろん当時は、私は人間ではないわけであるが。
しかし、何ゆえに今頃、のこのこの当時の自分の親が
私のところにやってきたのかは、最初は不明だったが、
のちに、この世界で、あることを私にさせようとしていると分かり、
とりあえず、打てる手は打っておいたのであるが。
そうすると、我が家にしばらく滞在し続けた、その存在は消えていった。
このように、のこのこと彼らが出てくるというのは、
必ず、そのときにこちらもしなければならない仕事をさせられるハメになる。
■さて、話を戻しますが、
こうした何兆という数の、我々とは異なる世界に住む者たちの、
果たして、その頂点に君臨するような、絶対的にその者の上位は
存在し得ないといった存在を、我々は想像したり、想定すること自体が、
果たして可能なのだろうか?
私の見解では、理論物理学のような形式であっても、
それは可能であると見ている。
また奇妙なことに、それはある意味で、即時的に現実の形を取る。
■論理的に考えれば、
その絶対的存在は「知性」であり得るわけがない。
なぜならば知性というものは学習、および特定の基準によって、
法則性を創作するなり、物事を動かすという意味での知性であるが、
その点では、知性というものは、既に開始されてしまっている宇宙の
存在がある事を前提にしてしか、その存在意味が成立しない。
従って、「この宇宙」の最初は叡智でも知性でもないということになる。
「意志」がもしもあり得るとしたら、
それは人間的な意味での意志ではなくて、
単なる志向性と呼ばれるべきものだが、
もしもそれがありえるとしたら、それは恐ろしく単純な志向性にずきない
ということになる。
また、その志向性そのものが発生する以前の初源の状態には、
いかなる運動もないと定義される。
運動自体が、因果律の中でのみ成立する以上は、
絶対的存在とは、何かの結果であり得るような、
因果律の中に存在してはならないからである。
■論理的にも結論できることは、
初源は無、
次の初源は存在性のみ。
そして第三に「運動性」または「分割」
となる。
ところが、仮にであるが、
昔、誰が言ったのか忘れたが、
この宇宙が、「失敗の結果生まれてしまった」という話を聴いた
覚えがあった。
のちに、そのことを私は別の宇宙の者に、どういうことなのかと
尋ねたが、その回答は実に「人間的なものであった」。
彼ら曰く
「君たちが、何かをミスするときを思い出してみたまえ。
そのほとんどは、うっかりミスであろう。
そもそも、失敗というものの定義からして、
それは手違いを意味する。
あなたたちが、うっかり、道で、すっ転ぶときに、
それは計画的なものですか?
違うはずです。
それは単なる、うっかりミスです。スリップです。
だから、この宇宙も、そのような、手違い、誤算、不注意の結果の
産物であるということです。」
ということであった。
では、失敗作である宇宙は、どうなるのかを彼らに尋ねたところ、
「責任者は、今は不在のようですから、どうなるかは私達にも
分かりません。
ただ、いえることは、失敗であったものは、
処分される運命にあるということと、
それは、常に、全く何の予告もなしに、突然に起こるということです」
_______________________________________________________________
■ということですから、
皆さんが何をどう妄想して信じたがって、すがりたがったり、
頼りたがったり、または、
やれブッダだの、悟りだの、解脱だのを、口からでまかせと、
借り物の知識で、脳を汚染されているのか知りませんが、
あまりにも、自分勝手、人間勝手な視界でしか、
世界を見ていないことには、私は、つくづくウンザリします。
■もう一度、言いますが、
悟った人、といっても、宇宙には、
基本は似ていても、それこそ地球で言う悟りとは異なる
もっと違った悟りもありますし、
全く地球では「一切、知られてもいない」悟りの形体もある。
こうした人たちのこと、
それどころか、過去に地球に存在した悟ったとか言われる人達についてさえも、
彼らについて、もしもあなたが、いくばくかの「正しい形の敬意」を
本当に「正しい形で持てる」としたら、
それはあなたが彼らの位置に至った時であって、
それ以前では決してない。
■また、一方で、絶対者や、すべての次元の上位の頂点にいるべき
神または創造主を妄想したいのであれば、
まず大前提として、決してそれを擬人化しないことと、
決して、それが人間的な側面を持っているとは思わないように注意すること。
人間や被造物の「心情」など配慮する義務などは、
一切、その者(物)には存在しないからである。
また法則をプログラムした連中は、たとえこの全宇宙を、
一瞬で消したり、あるいは一瞬で創造出来たとしても、
彼らすら、「絶対存在点」または「絶対虚無点」ではない。
■いうなれば、
あなたに必要なのは、
妄想や、他人があなたに教えた宗教ではなく、
真に、あなたにとって現実であると、誤認または認識されているところの
現実だけである。
むろん、この現実というのは、社会や地球だけを意味するのではない。
本人にとっての現実であれば、それがその本人にとっての真実なのである。
だから、私は非常に、当たり前のことを皆さんに言い続けた。
自分の欲望と現状に、正直であれと。
現実感も実際には、ちっとも持っていないような
悟りや神や、それどころか、
本心では、何の現実感も持っていないような、
スピリチュアル系の情報に、
うつつをぬかしたり、恐怖を感じたり、ビビっているような暇があったら、
そもそも「現実とは何か?」
「生とは何か」
「死とは何か」
に、自分1人で直面したほうがよい。
その検証題材に、決して「御伽噺」や「神話」や現実感の持てない
情報を入れてはならない。
もしもあなたが、今、性欲で落ち着かないのであれば、
それが重要な現実であるし、
もしもあなたが今、自殺をしたいのであれば、それが重要な現実であるし、
もしもあなたが、何にも関心を持てず、無気力であるならば、
それこそが、最も重要な現実であるということ。
私の言う現実という言葉は、
世間一般に使われる「現実生活」とは全く意味が「違う」。
その個人の、「現実 感」を私は重視しているということだ。
それが錯覚や幻覚や夢であったとしても、
そもそも、我々に、戻るべき現実などありえるのかそれ自体が、
この宇宙では、日々、「不確定」なのだから。
本音では、現実感すらも、全く持っていないのに、
現実感を持っているような、軽薄なフリをする者、
それを私は、最低人間と呼ぶのであるし、
そういう読者には二度と私はメール相談もしない。
そういう人達は、
まず、そもそも、自分が今、ここで経験している現実とは何か?、
ということを各自の価値観で、常に、日々定義し続けながら、
生きるという初歩的なことから始めるべきである。
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