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2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1374]
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●悟りの全容●無明庵日記「猫の足跡・その-113」【悟りに対する勘違い】
by:
鈴木崩残
2010/04/14(Wed)08:28:13
■隣の松の間に、ひさしぶりに、
あまりにも深みがなく、軽すぎますが、禅問答を二つほど
載せておきました。ただし回答を募集する公開問答ではありません。
●さて、無明庵の著作物に出会えた人のうち、
ある程度の理解の進んだ人たちにおいて最も幸運だったこと、
それは、地球にまかり通っている、
「悟り」というものに対するとんでもない誤謬からは、
少なくとも自由になったという点です。
●そういう意味では、かなり昔、それも2500年とか3500年前から
すでにそれに対しては、誤解と偏見と主観が横行していたわけです。
【悟りという現象の全容】
★ 要 点 ★
>1−
そもそも、出来うるならば、悟りは開かないほうがいい、
これが無明庵の一つの結論である。
少なくとも、「それが生の目的ではない地球」においては。
やりたきゃ、他の星でやれということです。
>2−
そもそもそれは良いこととは定義されない。
余計なものを除去しなければ助からないので切り取るという、
いたしかたない手術に酷似している。
つまり「大苦」という発病が前提としてあり
それがないならば、
他の方法で「何の為に生存し続けるか」という動機を、
食いつなげばよいのである。
>3−
自我が持つメリットというものもある。
それを経験したことがない生物が、それを最初に経験する場合、
相当の閉塞感を味わうものの、それまで経験したことのない、
主体性および、感覚の安定を経験する。
たとえば、
「すげぇー、この石ころ、蹴っ飛ばしても、全く変形しないじゃないか?」
「あの風景、ずっと同じに見えているじゃないか、すげぇーな。」
といった、ここのイリュージョンに慣れてしまっている我々には、
ごく当たり前のことであるが、
「それ以前の生存形態」からすれば、
それはあまり当たり前ではないのです。
よって自我が生育するある時期までは、(おそらく数千年は必要)
それまでのような、集団的な思考(信念体系)の一部としての存在ではなく、
はじめて自主的に自由に思考する能力を手にいれて、
相当期間の娯楽性がそこに成立しただろう。
>4−
しかし同時に、自我が持つ最大の「能力」の一つが、苦の生産である。
ただし他人に対して苦を生産するのではなく、
自己の内部において「苦しむことの出来る才能」といった方が正しい。
もともとこれは、いつどこにいても、
人間に「満たされない飢餓感」と「何かが欠落しているという感覚」と、
「落ち着きのなさ」を植えつける為に行われたという、
「悪意」によるという一面と、
もうひとつは、そのリスクを承知の上であれば、
適切な主体的な主観経験が出来るということを「知っていた者たち」
にとっては、スリリングな娯楽の一つとなった時期があった。
ただし、依存性と中毒性を持つので、
ここの人間に生まれることは、危険視された面もある。
>5−
ここで話は、とても下世話な低俗な話に戻りますが、
この世界で、皆さんが目にしてきたり、または自分で勝手に
想像していた「悟り」というのは、
まるで、鳴かず飛ばずで、ちっとも冴えなかった自分に対する、
一発逆転の為の、万能薬か、特効薬みたいな、とんだ勘違いをして、
悟れば万事解決するのだと、勝手に思い、
また勝手に他人に思わされて、洗脳されてきたわけです。
無明庵で再三言ってきたように、
そればかりか、たとえ無明庵でなくても、少しだけでも利口ならば、
それが「求める」「欲する」という行為によって達せられるものではなく、
むしろ、何を捨てるか、正しくは、苦悶の末に、
何が自然に「落ちてしまったか」、ということの「結果」として、
そこに「残るものである」、ということである。
目標にすえることなど不可能であり、
むしろ、全く正反対の方向へと突進したほうが、道としては正しいと。
>6−
もともと悟りは、いかなる宗教とも関係なく、
また、過去に悟ったらしき人の話に憧れてあり、その生き様に
憧れて、禅とかまたはインドの悟りと称するものに、
羨望のまなざしを持ったりすること自体が、愚の極みであることは
言うまでもない。
簡単に言ってしまえば、
そもそも、それは「目的」に据えるべきものなのではなく、
とんでもない難病の発症に対する、
とんでもない裏技の荒治療という位置づけをされている。
>7−
それは自我が憧れたり、自我が目標に出来るものではなく、
また何かを解決したいという希望によって向かえるものではなく、
死ぬほどの修業をしたり、死ぬほど座ったところで全くの無駄。
過去に本当に悟った人たちの誰一人として、
自分にそのようなことが起きるなどとは、その直前に思った者はおらず、
むしろ、その直前にそこにあったものは、
強烈すぎるほどの
「消えたい」「死にたい」「二度と生きるのは、もうごめんだ」
という「明確な自己否定」である。
あまりにもそれが明確で強烈であったために、
ご要望どおり、彼らは、実際に何かを失ったのである。
しかし、その失ったものが何であったかということによって、
大悟、中悟、小悟という明確な区分がそこに生じてしまった。
>8−
悟った側の意識からすれば、地球の時間に換算すれば、最初の数年は、
「ある種の誤解」をしてしまうだろう。
それは、全ての人間にその「種子」が存在することが、
あまりにも明白であるので、「もう既に悟りはある」との認識に至る。
ところが、その後、悟りの至福の高揚感が冷めるにしたがって、
認識の道は分かれてゆく。
悟ったその当初ですら、この三つのレベルのどこにいるかによって、
周囲に対する振る舞いや言動は異なってくるものとなる。
事情をよく知っている者ほど、「語ることに、躊躇する」。
その理由は、悟るために犠牲にしなければならないものの大きさを
痛感しているからである。
彼らは決して、誰もが悟れるなどというインチキの嘘は言わない。
可能性はある、しかし、それはあまりにもハードすぎるが構わないか?
と、一言、相手に警告するだろう。
何がハードかといえば、そこで崩壊するのは、
くだらない自我だから俺は捨てたい、とか思っていた自我ではなくて、
「死んでも死守しようとした自我」が、死ぬという現象を
目撃するからである。
それがピークに達するときに人間が経験するものは、
救いゼロの不毛感と虚無感である。
もっともその虚無感それ自体の中に、宝石があるのだが、
自我の側からは、それは自分を滅ぼす敵にしか見えまい。
さて、困ったことに、大悟、中悟、小悟では、
どのタイプの者も、変化したことは事実であり、
またどのタイプも、何をすべきかではなく、何がなくなれば良いか
ということまでは知っている。
しかし、説明するときの力点の立脚点がこの三者ではまるで
違ってしまう。
小悟の者の場合、本人が個の自我が落ちてしまった結果としての
悟りであるので、その後その者は、とにかく口うるさく「無我」
ということを言い出す。
くそみそ一緒に、なんでも「無心であれ」「無我」と言い出す始末である。
確かに、真実の一面ではあるが、単に事実の「三分の一」でしかない。
この典型的な半端者は、禅の世界には、昔はごろごろしていた。
中悟者の場合、実は個が自我を捨てたぐらいでは、
決着がついていないことを薄々知っている。
彼ら自身が中悟した時に起きたことは、個人の自我だけではなく、
もう少し集合的な価値観、つまり人間が集合的に持つ、
人間に固有、または惑星に固有の信念体系も彼らの中から落ちたために、
彼らは、人間性そのものを落とせと言い出すだろう。
この典型的な例は、老子や荘子のような口調になる。
人間など、いてもいなくてもよいくだらないものだ言い出す。
これもまた、まだ真実の三分の二である。
また彼らは無我などということは、ほとんど言わず、
むしろ悟りのメンテナンスにこだわる。
古い中国ではむしろ「呆然自失」といった表現が使われたようだ。
最後に大悟者。
悟りそのものが生じる背景と、その方程式と、
それが宇宙で占める位置について知り尽くしているために、
それが起き得る「可能性の低さの現実」を充分に認識しており、
また支払われる「犠牲の大きさ」を認識しており、
またその結果として、
それが全く社会にも人間にも全く「関係ないもの」であり、
それは「個人的な事情による」事故とその治療であり、
根本的には、それが初期の宇宙の状態に関係していると知るので、
悟りそのものが、中心体ではなく、
「あるもの」の単なる「副産物」であるという事実が認識される。
>9−
ただ、問題は、宇宙というものを平均的に見た場合、
多くの種族は、いまだに、
「意識の進化」「意識の合一」「意識の回帰」「創造行為」
などを指針とすれば良いと考えており、
また、とりあえずあと数億年は、
価値観の希望の道具としては「まだ持つ」という「錯覚」に基づいて、
各自の意識の動きを止めまいと必死である。
一方で、それと比較すると、
ある意味で、大悟者は、そのゲームからは足を洗ってしまう。
この狂った、極めて「出来の悪い宇宙」では、ほとんどの場合に、
そのゲームには、全く参加しないというスタンスになるだろう。
いくつかの「個人的な動機」を除いては、
彼は、さっさと悟りのその核をも、最後には崩壊させて
あとに何も残らないようにして、「おさらば」するということになる。
>10−
こうした全体像の把握から、無明庵では、
悟りというものを、
ご立派な人間になるためのものでもなく、
偉そうに人に道を説くという、くだらないことこの上ないゲームの為でもなく、
社会や人間を、どうこう改善などするためのものでは断じてなく、
単に、本人ただ一人、一個人が背負った苦からどうにもならなくなって
死以外の何物をも望まなくなった固体の中では「自然に」起き得る、
ある種の「強制切断」の結果であると位置づけた。
そして、それを経験する初期の時期には、
あまりにも問題が何ひとつもなかったという認識に至るために、
ともすれば、この地獄も極楽に見えてしまい、
何を見てもその美しさに泣き、
どこにも悪人など発見できないではないかという「錯覚」をもするのであるが、
それが「何に起因するか」ということに、すぐに気づくだろう。
そもそも、まだ何も問題の発生していない時間軸の
宇宙の初期に意識がリセットされたのだから、
悟った本人の主観だけから見たら、
何を見ても問題があろうはずもない。
しかしその意識の「外部投射」をやめて、冷静に引いて見れば、
そんなものは、一時の錯覚であり、
明らかにこの世界や宇宙の一部は、なおも狂ったままであることの
現実を見ることになる。
自己の中には問題は消失し、面倒な雑用こそあれ、苦は、もうどこにもない。
しかし世界中は、どこもかしこも、狂ったままであるという現実。
>11−
最も賢く、悟りについてよく周知している人たちは、
万人に向けてなど語ることが、
どれほど無駄であるかを知っているために、
「どの人物、どの自我の状態にある者」がその大手術を必要とする
状態にあるのかということにのみ、焦点を絞ってゆく。
「悟りたい皆さんは、どうぞ座禅してください。
あなたでも大丈夫だから、瞑想しましょう」などと
詐欺まがいの愚行をやるのではなく、
多少とも、賢かった昔の導師たちが、
徹底的に、排他的で、やってくる僧を、追い返したのも
そのためである。
したがって、無明庵でよく言ってきたように、
自我が欲している悟りの幻想やら、何かの能力やら、問題解決など、
「そんなものは、他の医者や病院で売っているから、他へ行け」といって
門前払いするわけである。
まだ使える自我にメスを入れて斬る取るほど馬鹿な医者などいないのである。
使い尽くされて、壊死寸前にまでなっていればこそ、
「頭ごと切り取る」ということが必要になるのである。
まだ充分に
「希望という夢」を見ることの出来る使える頭を、
わざわざ切り落とす必要性など、どこにもありはしない。
一切の夢をもう見ることが出来なくなって、壊死しかけている、
そういう脳みそだけが、切り取るべき正当な理由を持つのである。
>12−
悟りの方程式は、
それまで宇宙で経験が少なかった、娯楽としての「自我経験」、
普遍的な苦を個の中にまで包含できるという、
その自我の特性による苦痛の拡大。
苦痛の元となる「境界線意識=自我」との「切断をする」という最終選択。
それが切断される「範囲」によって、悟りの大中小が決まるということ。
と、ここまでは、悟りというものを、
阿呆な「憧れの対象」としたり、
人間として「あるべき正しいものだ」と勘違いをしていた人たちに対して、
それを、数千年前と同じ、「元の正しい位置」に定義し直した無明庵でさえも、
自我を全的に生きて、飽和するまでそれを味わい、
後半では、毎日死にたいほど、その重圧と虚無感を経験すれば、
それ以降は、いくつかの行法さえ併用すれば、
発狂はせずに、なんとか悟りに移行できるものとして、
それ以上の分析をすることはなく、結論をそこで、放置していました。
【その四つの準備】
2−全存在を巻き込むほどに、普遍的な問いを持つこと。
3−死の寸前にまで苦が拡大していること。
4−何らかの適切な行法を行っていること。
5−道楽には未練はないと、心底自我を満喫したこと。
この四つを、
悟りの前段階の「必要条件」として長い間、結論づけていました。
>13−
ところが、悟りの基礎の土台になるべきだった自我そのものが、
分割され、希釈されているという、とんでもない状況を認識するに至り
これでは、無明庵も含めた、ここ数千年の、過去の悟りの方程式は
すべて、無効ということなった。
なにしろ、それが作動するには、エネルギーが希釈されすぎて
全く足りないのだから。
つまり、最も重要な前提条件であったのは「全自我」であることであった。
それがあればこそ可能になる、前述の「4つの準備」という公式は、
無残に崩れてしまったのである。
●そういうわけで、
自我経験が元々の目的であったこの惑星では、
悟りなどというものは、遠い過去には、
皆さんが知っているのとは違う、特殊な目的で意図的に使われていた
ということは「虚無の微笑」にも書かれていますが、
そもそも、そんなことは、この惑星に生まれる目的としては、
全く必要のないことでした。
しかし、それでも、偶発的に苦痛を回避する方法のひとつとして
「起きてしまったこと」は何度もあります。
またそれを規制したり、禁止する法律もここにはありませんので。
ただ、当初の目的であったはずの「自我経験の出来る惑星」
というセールスポイントすら、
今では、「軽薄な自我経験しか出来ない惑星」になってしまいましたので、
前回投稿したように、
悟りなどどうでもいいから、
まずは、自我を原型に戻さなかったら、
何も始まりもしないし、
何も終わらないということです。
和尚やダイジが生きていた、ほんの少し前の時代までは、
それこそ、その段階として、必須条件である、
「欲望が欲望を生き切る」ことが出来るかのように思えていた。
しかし現実には、それも誤認であったわけです。
自我という名の遊園地にあった、
さまざまなアトラクションを全部すべて乗り終えたとき、
そのときに、人は、はじめて、
「どうして自分は、こんな遊園地にて、一体何をしているのだ?」と問い、
そこから、遊園地に絶望して、そこを去るというのが
過去には当たり前のことでした。
しかし今では、せっかくの遊園地の乗り物にさえ乗れないという
自我にまで希釈されてしまいました。
***************************
■以上が、私が肉体を脱いで、帰還した場合に、
「寄り道」をして、上司のデスクの上に、ほっぽり投げてくる
地球に関する「報告書」の一部です。
あとは、死ぬまでの年数の間に、
人間の自我の「復元方法」を発見できるかどうかだけですが、
これについては、私には、報告義務はありません。
ただ「個人的」に、
あまりにも頭の痛い問題であるので関わっているだけです。
なぜならば過去の時代には、
小悟から中悟への移行、中悟から大悟への移行はありえましたが、
現在では、もしもまかり間違って、1/4自我の人が悟ったらば、
そのままで永久に止まってしまうからです。
1/2自我で悟ったら、その先へは決して移行できません。
昔の小悟や中悟をした「全自我」の人たちのように、
「まだ何かが変だ、という違和感」を感じる神経を持てるような
全自我の状態にいないからです。
_____________________________
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