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2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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●無明庵日記「猫の足跡=その199=」●地に落ちた、スピリチュアリズム●
by:
鈴木崩残
2011/01/17(Mon)19:14:04
お馬鹿まる出しの
スピリチュアル・ビジネス
●ほのぼのとした、書の感想のあとで何ですが、
昨年末あたりから、今年にかけて、感じていた雑感を書いておきます。
大社では自分の願い事をしないこと
●まずは、軽薄すぎる昨今のパワースポットブームや、それに群がる
商売についてです。
私の知人にトラベルライターをしている人がいて、日本各地の料理の
記事などを書いていますが、昨年でしたか、その人のところに、
「パワースポットをテーマして、旅の記事を書いてください」との
仕事の依頼があったそうである。
知人は、まっとうなトラベルライターであり、パワスポは専門外のことでしたので、
「最近は、そんなのが流行っているのか」と、苦笑していました。
私は、こういう昨今の軽薄ブームにほとほと呆れてしまう。
●どうも、馬鹿な人たちは、パワースポットというものを、
ナンパ旅行の手段か、さもなければ、友達と遊びに行く、
観光ツアーの一種で、しかも、ご利益でもあれば、ラッキーぐらいにしか
考えていないようである。
●しかもその方法はめちゃくちゃ。
パワースポットと「神域」では意味が全く違います。
そもそもパワースポットという言葉自体が、
清田君あたりが、言い出した、和製英語で定義も曖昧なわけですが、
スポットには、そもそも、エネルギーを噴出する場所と、
エネルギーを削ぐのが役目である場所があります。
湧くところがあれば、引き込むところ(吸い取るところ)があるのは
自然の当たり前の法則です。
たとえば、この「吸い取り」の典型的な場所は、富士山です。
それは、人の中の悪い部分なども吸い取るかもしれませんが、
同時に、ポジティブと呼ばれているものも、根こそぎ吸い取ります。
つまり、禊(みそぎ)には良くても、たぶん、
多くの人たちは「禊過ぎ」という症状に陥ると思います。
だから、自分の中から吸い取られてもいいものと、駄目なものを
「フィルター」にかける技術を持たないものが、富士山の近くや
富士山のそのものに登っても、墓穴を掘るだけです。
●逆にいうと、湧いている場所も、また、必ずしも、
あなたに良く影響するように親切に調整されたものではありませんので、
過剰に力を被って、人によっては、体調を崩すこともしばしばです。
ようは、行く場所の問題ではなくて、
それに対して、必要なものだけを戴いたり、落としたりという
フィルターを自分にかける技術があるかどうかです。
それを、アホウみたいに、
ただ、「パワーだ、パワーだ、パワーをもらえる」って、
いつから日本人は、そんなに馬鹿になったのでしょうか?
●次に、そもそも、
どこかへ「移動するという形の力」を応用したいのであれば、
奇門遁甲などを駆使して、目的に応じた方角と、距離、
そして何よりも「日付と出発時間」を割り出すぐらいは最低限必要であり、
それもなしに、ただ休日だからといって、特定の場所に行っても、
何の効果もありません。
目的を明確にして、それに適合する、日付、出発時間、方角、滞在時間を
設定もしないで、パワースポットとかいう軽薄な場所を巡ったところで、
何の意味もありません。
実際、もしも、きちんとやろうとすれば、それを行うのに、
本当に有効な日は、一年の間に、数回しかありませんし、
もしも逆に、間違った日に、間違った方向へと、一定距離を移動すれば、
「逆効果」になります。
●たとえば、東京に住む人たちだけの数人のチームが、南西方向へ行く、
というのでしたら、問題ありませんが、
集合場所を、ある特定の場所やパワースポットとして、
そこに、「違う方角の地方から」数人の人々が集まってしまったら、
それは、「各自にとって、違う方向へ移動したこと」になってしまいます。
●さらには、鬼門遁甲を応用する場合には、
出発時間というのが、とんでもない時間帯になることもしばしばです。
私の知人に、昔から、その分野に詳しい人がいるのですが、
自宅を出発するべき時間が、真夜中とか、夜明け前とか、
そんなこともしはじはあるようです。
ですから、本来は「少人数でのツアー」すら、組めないのです。
もしも、それをやろうとしたら、一定時間、あるいは一定日数、
起点となる、同じ場所に集合して、数日間、滞在して、
その後に、全員で、同じ方角に向かうという手順が必要になってしまいます。
しかし、昨今のブームは、そんなことにおかまいなしで、
ド素人がツアーを組んでいます。
ですから、ほとんどの場合には、出発時間や、方位は無視して、
ただ「スポット」と噂されている場所に行くだけなのですが、
そこで、願うことが、
「良縁を下さい」では、もう、目も当てられませんよ。
そんなことは、わざわざ旅費まで使って出かけないで、
ご自分の地元の「小スポット」でやってください。
*********
●次に、神社、ことに大きな所というのは、
そもそも個人的な願いをすべき場所ではありません。
もしもあなたが、個人的なちっちゃな、とるにたらない、
自分の家族だの、自分の仕事のことだの、自分の人間関係のことなど、
そんなもの願うならば、地元のちっちゃな神社の氏神さんにでも
頼むべきです。
ある程度大きな神社に行ったら、あなたのことなど、
絶対に頼んではいけません。
中規模以上の神社に行ったら、そこでは、
あなたのことではなくて、国のことや、
せめて、町単位や、市区単位や、都市単位のことについて、願うべきです。
大きな大社にパワスポブームだとか言って、行っては、
「恋愛やら仕事」のことなど願っている自分を、少しは恥じて下さい。
そもそも神社というのは、大きくなるほどに、
そこで集めるべき願いは、非個人的なものです。
その為にあるのですから。
それを、馬鹿づらさげて、どうでもいいような願いを持ち込んだとしたら、
次回は、その神社に行って、謝罪してきてください。
「あんな馬鹿なことを頼んでしまい、本当に申し訳ありませんでした」と。
とはいえ、大きな神社自体が、へんてこな、祈願成就の絵馬とか、
売ってしまっていることも、根本的な問題ではあるのですが、
消費者としては、もう少し、利口になってください。
それらは、単に神社を「維持してもらうため」の、「御礼の気持ち」として
買うぶんにはいいですが、
本気で、そんなものに、「個人的な願いをかなえる」といった、
そんなご利益なんかあるとは、決して思わないでください。
●自分個人のことやら、地域的なちょっとした問題についてならば、
あなたの地元に、いくらでも小さな社があるでしょうから、
そうしたところで頼んだ方がはるかに早いです。
というのも、そういうところは、「仕事がなくて」、暇ですから。
そこに巣くっている魑魅魍魎や、場合によっては、氏神様には、
地元のあなたの声の方が、よっぽど通じます。
だから、あなたの個人の願いなど、大きな神社で頼んではなりません。
それでも、お参りして、願いたいのであれば、
国家や、町や、都市全体にかかわる「非個人的なことだけ」にしてください。
●それと、神社巡りの軽薄ツアーについて最後にいえば、
もともと、移動によって何かを変えようとする技術、
(たとえば、その効果には、疑わしい部分も多々ありますが)
「奇門遁甲」というのは、もともと、何の為に使ったか分かっているのでしょうか?
それは戦争に勝つためです。
そうした技術や、神社というものを、
チャラチャラした、開運旅行や、ナンパ旅行や、
地域活性化にしよう、浅ましく、群がる。
一体、いつから、日本人は、そんな下品で、品格のない、
知恵遅れの集団のようになってしまったのでしょうか?
だから、私も、個人を超えた、何らかの大きな力と、
命を張って決戦をするという事態や、
あるいは、国家にかかわること以外のことなど、
大きな大社で彼らに何かを報告したことは一度もありません。
個人の、ちっちゃなことでしたら、地元のちっちゃな神社で済ませていますよ。
「暇なお店」と一緒で、そういうところの方が「サービスもいい」ですから。
一方で、大社は、公的な願いしか、基本的には扱っていません。
そういうところでは、「礼」だけして、それだけにしておいてください。
●ついでに言いますと、私が昔、
地方の、ほとんど見捨てられたような、神社や、山奥の場所に行ったとき、
最も、いろいろなことが出来たのは、真夜中です。
基本的に、そういう場所にいくならば、休日はアウト。
平日にしたほうがいいですが、最近は、平日でも、
中高年者がしょっちゅう、観光地にいますから、
狙う場所は、知られていない場所。
そして、最良の方法は、真夜中の1時から3時の間に、
お参りすることです。
不審者と間違われること覚悟で、それぐらいやらねば、
意味がありませんし、話は「相手」に通じません。
________________________________
欧米人から東洋文化を習っている変な日本人たち
●それと、とても馬鹿らしく思ったのは、
欧米人が作ったり、欧米人が、創作したり、あるいは、
欧米人が誰かから伝授された瞑想法なるものを、
日本人が、学んでいたり、あげくには、そうした人から、
インストラクターの資格を得たりしている、トンデモな人たち。
おいおい、あんた、馬鹿か、と私は言いたくなります。
フレンチ料理を学びたいなら、自分自らが、
フランスのレストランに行けよ。
中国料理を学びたいなら、自分自らが、中国に行けよ。
中国武術を学びたいなら、自分で中国に行けよ。
それと同じで、瞑想というのは、
そもそもがほとんどがインドのものなのですから、
そういうものを学びたいならば、しかもその上、
他人様に教えたがるならば、まず、インドの寺に行くなり、
インドの人から学びなさいと私は言いたいです。
●だってですよ、
どこの日本人に、日本武術を、アメリカ人から学ぶ馬鹿がいますか?
日本の剣術や居合や、その他の「日本の武術」を、
どうして、西洋人から、逆に教えてもらう必要なんかあるのですか?
それはまるで、アメリカ人が勝手に解釈したり、
アメリカ人の好みに合うように創作してしまった日本の武術を
こともあろうに、日本人がお金まで払って教えてもらいたがるのと
同じぐらい馬鹿げています。
ちょうどそれは、トンチンカンな外人から忍術を教わっている日本人
というぐらいに、笑える構造です。
●しかし、もしも西洋魔術を学びたいなら、
ヨーロッパへ行って自分の足で師を探せばいいのですし、
中国の何かを学びたいならば、中国人の師を自分の足で見つけなさい。
瞑想に関しては、(タイやスリランカではなくて)、
本拠地のインドに行って、師を見つけなさい。
つまり遣唐使みたいに、本場へ行って、自分で学んできたものを、
日本で、自分流、あるいは日本流に工夫する努力をするならばともかく、
どうして「欧米人」のバイアスのかかったもの、
しかも、欧米人がめちゃくちゃなチープな解釈をしたり、
でたらめを創作している、そんなチープな瞑想ごっこを、
「東洋人」である私達「日本人」が学ぶ必要があるのでしょうか?
それぐらいであれば、全く独自に日本で作られたものや、
どこの権威づけもなく、何に属することもなく、
個人の責任において、個人で創意工夫された、体系の方がマシです。
●この意味でいえば、
私は、たとえば、無明庵でも、よく笑いのネタにする、
和尚コミューンについても、
私個人は、最初期のプーナを拠点としていた時代に、
ラジニーシから直接に瞑想法を学び、
かつ、ラジニーシ自身が当時認可した人たち以外を、
インストラクターとは認識しないことをお勧めします。
(第一期の日本の弟子でも、充分に変な人たちは沢山いますが、
オレゴン時代以降にアメリカに渡った人たちや、
最後の第三期のプーナの人たちよりは、マシです。)
●ところが、現在、世界中にいるアホウづらさげたセラピストや、
瞑想指導者と称する「日本人」たちの中には、
なんと、そうしたラジニーシの生徒だった、「欧米人」から瞑想を学ぼうとしたり、
実際に、それで学んだ気になって、
他人様に指導したりビジネスにしている人たちがいます。
●おいおい、いいかげんに、目を覚ましなさいよ。
「欧米人」が取り込んだ「瞑想法」など、
あるいは「欧米人のバイアスのかかった瞑想」やその概念などは、
「東洋の民族」である私達日本人には、全く適合しないばかりか、
有害でさえあることを認識してください。
それは彼ら欧米人にとって都合よく、
また、あくまでも、「彼らの精神構造」にとって、やりやすいように、
変形してしまったものに過ぎません。
確かに、それは同じ欧米人には、浸透しやすい形にされていることでしょう。
しかしそれは東洋人である私たちには、不向きなのです。
●皆さんが、注意しないとならないのは、
たとえ、共通性のあるテーマを扱う精神世界だからといっても、
「普遍性」「普遍的手法」というものは、めったにあるものではなく、
常にそれは、民族性や、個人によって、ゆがめられるという事実です。
故に、日本人には日本人に合う「本場」の方法、
または「日本人用に変形するのに有益な本場の方法」があるということです。
それを見つけるには、最初に学ぶのは、インドや中国の現地のもの
でなければならず、
その事の最初が「欧米化してしまった瞑想」では、お話になりません。
●どうして、本拠地に行って、直接に自分で輸入(学習)せずに、
そこに、ワンクッション入ってしまい、
「アメリカ人」やら「ヨーロッパ人」が、からんでくるのでしょうか?
まったく馬鹿げています。
だから、もしもあなたが瞑想指導を本当にしたいのならば、
まず自分が、本場へ行って、5年、6年、それ以上の歳月をかけて、
どこかのインドの師に従って、しかも、自分で明確な成果を感じてから、
日本でやってください。
●今の日本の、地に落ちた精神世界の状況を見ていると、
まるで、ネイティブアメリカン「かぶれ」している、
「白人のテキサス男」から、
ネイティブアメリカンについて、何か学んだ気になった「日本人」が、
それを日本で、「ネイティブアメリカンだ」と吹聴している状況、
それぐらいに笑える状況です。
別の喩えを言いますと、
チベットの奥儀を学んだ「と自負する、馬鹿なオーストラリア人」から
学んだチベット仏教をネタにして、日本で「本場チベットの瞑想」とか
そんなチープな瞑想ごっこショップを開いているぐらいに笑えます。
●そうそう、もっと分かりやすくいいますと、
「スティーブンセガール」が、勝手に彼が妄想している、
トンデモな「勘違いのオリエンタリズム」
(日本人が見ると、恥ずかしくなる「あれ」です)を、
それを東洋文化として日本で教えようとしている「日本人」、
それと同じぐらいに、滑稽で、頭の悪い瞑想指導者と自称する人たちが、
昨今は、溢れかえっているようです。
●まー、そうは言っても、
「本場の国」が、必ずしも、正しいとか良いとは断言できませんし、
もしも、あなたに見る目がないと「本場の国」ですらも騙されます。
たとえば、詐欺師の中国人に、金だけ取られて、
肝心の武術をほとんど教えてもらえなかった日本人とか、ごまんといますので、
たとえ本場の地に行っても、騙される事もあり、
それは、あくまでもあなたの自己責任ですが、
少なくとも、本場の人ではない「外人」がやっているような方法論に
とびつく暇があったら、
自分で、その体系の発祥国にいって、
現地の人の中で、年数をかけて本物を見つけて、学んでください。
●ただし、カルト教祖みたいに、どっかの聖者やババシと、
ツーショットの写真を撮っただけで、弟子づらしている奴もいますので
ご注意ください。
というか、そもそもインドって、
別に弟子に、律儀に、印可とか、証書などを渡すわけじゃない国だと思います。
ですから、その点では、精神世界では、とかく「インド」がからむと、
「無法地帯」になってしまいます。
「なーに、いいかげんなことやったって、
インド人にも、日本人にも、どうせ、わかりゃせんさ」みたいに。
●一方で、アメリカ社会の悪いところは、ヘボ瞑想指導者でも、
やたらに、証書や資格を発行したがり、
しかも、それを得るために信者や生徒に、お金と時間を払わせるという
「ビジネスモデル」が出来上がっています。
そうすると、馬鹿な日本人は、そういうところで自分が認可されたら、
何かの瞑想指導の資格でも得たかのよう錯覚し、
実際には、医療免許でもなければ、専門学校の資格でもない、
たいしたこともない、ただの西洋人がでっちあげたシステムの証書の紙切れを、
何かの権威づけだと勘違いしてしまうようである。
まったく、信じられないほど、今の、日本人は、恥ずかしい。
●要点を言うと、たとえば、瞑想の場合、
インド人→日本人→日本人の人たち、これはOK。
インド人→「セガール的東洋かぶれ白人」→日本人→日本人たち、これはNG。
●だから、私はたとえば(絶対にあり得ないことですが、)
日本人向けの死人禅のインストラクターには外人を採用しません。
しかし、いずれにしても、こんなひどい精神世界に落ちぶれたのも、
やはり、その全ての元凶は、希釈自我のせいでしょう。
*********
それと、最初のパワースポット巡りの、軽薄なツアーについでですが、
そもそも、全自我の人たちというのは、
そんなことは、何もしないでも、どこのスポットへも行かなくとも、
ちゃんと、常に、願望実現をし続けていますよ。
彼らは、パワースポットなどに行かなくても、
実生活で、自分が行くべき場所を、日々の生活の中で、
ちゃんと分かっていますから。
____________________________
プレゼント書を制限または中止します
●誰かに禅書をプレゼントしたいという人は、2009年の当初から
いまして、最初の数件は、私は違和感は感じませんでしたし、
受け取った人からの感想も、贈り手を通じて知らせていただきました。
彼女にプレゼントしたり、家族の方にプレゼントしたり、
知人の方にプレゼントしたもので、
それらは、どれも、とても良い雰囲気でした。
●そして、それ以降に数件、「プレゼント書」の依頼があったのですが、
いずれも、非常に違和感を感じました。
それまでの人たちは、
純粋に書を誰かにも楽しんで欲しいという気持ちからのプレゼント
だったように、思えたのですが、
それ以降の数件は、とても不純なものを感じました。
一言にいうと、それは、人間関係の「パワーゲーム」に、
私の書を悪用して、書を汚しているような人たちでした。
一例としてですが、
奥さんが、旦那さんにプレゼントするとか、
旦那さんから、奥さんへとか、
(戸籍が別でも、何かの腐れ縁のある者へとか)、
また、子供にプレゼントするとか、
ガールフレンドにプレゼントしたいとか、
そういう関係でのプレゼントなのですが、
何か、それは相手の為に贈るのではなくて、
まるで、相手に対する、あるいは「強要」「押し付けがましさ」、
時には「威嚇」の意図さえも、とても強く、私は感じました。
●もちろん、私の書を誰かに紹介してみたい、という、
そういう純粋な気持ちの人の「心境や心情」は、むろん分かりますが、
それでしたら、何もプレゼントするという形ではなくて、
>この梅の間のサイトや、竹の間の注文フォームを、
>まず、その相手の人に教えて、
>あとは、「その人の判断に任せるべき」です。
そのほうが、相手の人の自由意思を、尊重していることになります。
●それを、半ば、無理やりに相手に、私の禅書を渡したり、
私から、贈るように依頼したりしたケースがあるのですが、
どのケースも、私は心地よくそれを受ける事が出来ませんでした。
その場合、私の書は、まるで、その人の他者に対する「自己主張」の
「身代わり」として、使われている気にすらなりました。
私の書は、受け取る人との「一対一の対話から生まれるもの」であって、
贈り手の自己主張の「身代わり」に使う形で汚して欲しくないのです。
むろん、私の納得が行くように、それぞれの作品は書きましたが、
プレゼント書の場合には、大抵の場合には、
プレゼントを受け取った相手と私との間には、
コミュニケーション手段がありません。
たとえば、途中で、「文字が貴方に合わないからどうしましょうか?」
といった私からの相談も、そのプレゼントを受け取る人と出来ません。
こういった事が起きないためには、
基本的に、プレゼント書というのは、やめた方がいいと、私は思いました。
*********
●また中には、
注文メールに「私の分はこの文字。彼女の分はこの文字」と、
注文が二種類だけ書いてあるものまでありました。
これでは、彼女へのプレゼントなのか、
単なる、「発注代理人として、彼女の分を頼んでいるのかすら」も
分かりません。
しかも、もしもプレゼントでないのでしたら、そのままでしたら、
私はその女性に、現金書留の封筒を同封してしまったと思います。
もしも、それが男性からのプレゼントのつもりだったのでしたら、
とんだ、失礼なことを、その女性にしてしまうことになります。
(彼女が支払うのでは、プレゼントではなくなってしまいますから)
●あまりにも、不明確な注文形式でしたので、私から、
「これは、彼女へのプレゼントなのですか?」と尋ねましたが、
その返事で、ようやく、それがプレゼント書ということは分かりました。
結局は、その男性の彼女という人から、
再度、改めて私が直接に依頼のメールを受け直して、
男性は、ただその料金だけを払うという、極めて「奇妙な形」になりました。
●しかし、本来、心のこもった「プレゼント」なのでしたら、
私からの書を、まず一度、男性が自分で受け取ってから、
ご自分で、洒落た包装紙なとで、美しくラッピングしてから彼女に贈るぐらいの、
最低限の気遣いは、持ってしかるべきだと私は思いました。
●また、逆、もしも受け取る人を驚かせたり、喜ばせたいのでしたら、
梅の間のことなどは、一切知らせずに、そっと相手の人から、
好きな文字を聞き出して、私に依頼するべきですが、
そういう芸当の出来ない人に限って、
梅の間までをも、相手に見せてしまってから、
しかもプレゼント書という形の発注になっているのです。
そもそも、梅の間を見せるぐらいでしたら、
書を注文するかどうかは、あくまでもご本人の好みに任せ、
梅の間を紹介した人ご本人は、
他人に書をプレゼントなどすべきではありません。
●いずれにしても、私が、一番、不快感を持ったのは、
こうした「人間関係の、パワーゲーム」に、書を使ってしまい、
しかも本人も、そのことに、全く無自覚であるケースです。
本人は、相手への親切の「つもり」なんでしょうが、
私には、「その相手への押し付け」と
「その相手に、かまってほしい自己主張」以外のものには感じられませんでした。
しかも私の書は、その贈り手のエゴの「身代わり」に過ぎません。
★その他の「要点」をまとめますと_____
プレゼント書の場合には、受け取られる方が、そもそも梅の間掲示板を
昔から見ている方か、そうでないかによって、
私がDVDに収録する「話の内容」は変わってしまいます。
また梅の間の愛読者の方でしたら、書けない文字についての説明や、
時には、厳しいコメントを入れることもありますが、
この書の企画がそうした性質を持つ事を全く知らない方に対しては、
コメント内容を、極端に制限しなければならなくなります。
このように、いろいろな点で、
他者への「プレゼント」として使うには、問題があります。
●ですから、こういうことが起きないように、
今後は、よほどの「例外的な事情」がある場合に限りますし、
その事情をきちんと、私に説明して戴けないかぎりは、
誰かにプレゼントする為の書というご注文は、受けつけない予定です。
***************************
★書のご注文方法について。
■自我判定を再開した場合の「判定依頼の注意点」
↓
http://www.mumyouan.com/k/?T4030
■通常の「禅書」や「無無心の書」の注文形式
↓
http://www.mumyouan.com/k/?T4033
_____________________________
★
.
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