▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1605]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その341=」■ 『死』 と 『苦』 の区分
by:
鈴木崩残
2011/09/22(Thu)07:14:55
あなたは何を命よりも大事にしますか?
●といっても、アンケートを取っているのではありません。
自問すべき課題として提示しているのみです。
そもそも、この問いは、皆さんが「自我判定」を依頼されるときの
質問項目の中に、似た形の質問としても入っていますので。
●原発事故の問題のような、じわじわと迫る被害や混乱の中では、
鈍感な人は論外として、普通の神経をしていたら、
人間は自分の身の振り方を考えざるを得なくなります。
福島の原発事故とチェルノブイリの事故を比較すると、
同じである点は、事故後、5年、10年、15年と経過したときに
必ず起きる、高線量下で被曝した人達の大量の発病であり、
違う点は、溶融したすべての核燃料を処理できるまでは、
海洋汚染による海産物汚染が、休みなく続くであろうことです。
●ところで、私は人一人の命が地球よりも重いなどと考えたことは
ただの一度もありませんし、今後もあり得ません。
その理屈を言ったらば、生存競争と弱肉強食が正当化され、
誰にとっても、命を守ることが最優先されてしまい、
それは、今日まで地球人に起きてきた最大の悲劇だからです。
命(これは肉体の生存を意味する)が、地球よりも重いなどというのは、
常に、「本人ただ一人」にとってそうであるのみで、
他人または全体からすれば、人ひとりの命は、
その者と「利害関係を持つ者(家族や知人)や組織や社会」が全くいない場合には、
その命は、あってもなくても良いものですらあることがあるのは、
まぎれもない一つの現実です。
また、逆に言えば、有害な生き物、たとえば、
もしも「東電の役員や、官僚や、政治家や、資本家」が数人死んだらば、
何の罪もない大勢の人達と動物たちが助かる、という状況があったらば、
私は躊躇なく、その者たちは、とっとと死んでもいいと思っています。
なぜならば、反省も謝罪も知らないような彼らに、
時間の無駄となる更生の機会を与えたり、
または、私達の税金で、彼らに「監獄の飯」を食わせたりすることすらも、
ただの無駄だと、私は思っているからです。
________________________________
●よく世間では、この「命」とか「生命」という言葉を軽々しく使い、
「命を守るため」とか「生命を大切に」と、
よく熟考もしないままに、単なる「口先の習慣」として、軽々しく言いますが、
私が、常に言うように、「命」の「定義」をどのように定義しているのか?
によっては論議が成立しません。
人間が、「楽しみ」とか「幸福」とか「学習」と勝手に自画自賛して、
人間の権利と称するそれらを追求しながら、
その一方の手では、無数の微生物や、害虫たちを消毒剤や殺虫剤で殺し、
他の生物を踏みにじって生きているのですが、
そんなことまでして、人類は、地球上に繁殖する資格を持つのでしょうか?
________________________________
●私個人の見解を言えば、
原則として、宇宙に存在する、ほぼ、ほとんどのものには、
私は存在価値がないと思っていますので、
こうした、生命の価値に関する論議は、全くかみ合わないことは
目に見えているのですが、
それでも、強いて、視点を狭めて「限定的に」言えば、私は、
無意味に、あるいは不当に「生命の健康」を害する状況については、
NOと言います。
一方で「命」については、過剰なまでに、生き抜くことを他人にまで強いたり、
生きることが何より大切だ、などという価値観は全く持っていません。
これは、私が生まれたその時から、私は、すでにそうでした。
●もしも、それでも、他の生物を犠牲にしてまで、生き抜くのであれば、
そこには目的が明確になければならず、
「ただ、ダラダラと生き延びて、
他の生物にとって迷惑な人間の娯楽を見つけるだけ」では、
それは、資源と食料の無駄遣いであるというのが私の持論です。
●ただし、この論の中では、
「何のために自分や世界が生存するのかを問うために生きるのだ」
という「言い訳」は、認められていません。
そんなことをしていたら、
「いつ、夏休みの宿題を始めるかで、夏休みの最後の日まで悩んでいる子供」
と同じ程度の、無能さになるからです。
ですから、私は、「人生の目的を問うために生きているんだ」という
いつまでも思考停止していたい人達がよくいう、
「都合のいい言い分」を認めません。
________________________________
●さて話を戻しますと、
私が、自他の「死」は容認するが、
「ある種の病」を容認しない理由は、以下の通りです。
哲学的に「極論」すれば、
私にとっては空腹や大小の痛みすらも、病の一種と定義していますが、
そこまでの極論をしない場合には、
通常、私や皆さんが「健康」と称しているもの、
または病であっても自覚症状や気になるような痛みのない状態というものを
「健康」の定義と、「仮に」しておきます。
●この「最低限の健康」が「大きく損なわれる」というのは、
それ自体が「もう死んだ方がマシだ」と人間に思わせるには充分な要素です。
また実際に、もしも全くの自然界にいたら、たとえ群れがある程度までは
守ってくれても、ひどく病んだり、大怪我をした場合には、
自然の中では、治療もなく、そのまま死ぬのが摂理です。
________________________________
●余談ですが、
外科的な事故と、内科的な病気を分けて考えるのは困難です。
もしも「自然由来」のものであるならば、
たとえば、あなたが川を渡ろうとして溺れてしまい、その結果として
脳障害を起したならば、それは、しかたありません。
生命経験の一部として、その後遺症を容認するか、
それが嫌ならば、自殺すればいいだけです。
また、あなたが自然界のウィルスや毒物に感染して、病んだ場合も、
これは「外科的な事故」とも見なすことが出来ます。
ただ、それが「ミクロの世界での外科的な事故である」という点しか
違いはありません。
人間の「目に見える組織」が傷つくか、
それとも「目に見えない細胞やDNA」が傷つくかの違いです。
_____________________________
●こうした、生命経験に付きものとなってしまってる苦痛や不具合
については、私個人は、いたしかたないと認識していますが、
ただ、何かの「本来の機能」が「自然災害以外のもの」によって損なわれる、
ということは、絶対に許せないという考えが私にはあります。
●これがある故に、私は現在「分割自我復元」というものに関わっています。
それは、自然災害ではなく、(相手が人間ではないだけで)、
明らかに、人災または、悪意によってなされたことの後始末だからである。
そして、それは「本来の性能を発揮できていない機械」を見ているかのようで、
「途方もなく、腹立たしいこと」だからです。
不当な扱いの結果として、その機械の機能が故障しているのならば、
それを直そうとするのは当たり前の事です。
●しかも、人間の場合には、本来の機能を有していたときの記憶が
かすかに残っていますので、本人自体が「このようなはずではない」と、
違和感を感じるようになっています。
この部分も、とりわけ、始末が悪いのです。
もしも、何かの能力が「最初から無い」のであれば、
この「違和感による苦しみ」は人間の心には起きないのであるが、
人間の場合には、
意識・自我・記憶、この三つに対して「本来あった機能の記憶」があります。
しかし、それを何者かが、分割して、希釈してしまい、
現在のような「ぼんやりした人達」を量産してしまったのは、
ある時期以降から、この地球というプラントの管理業務を委託された、
「人間以外の存在たち」の手によるものでした。(というのが私の自説です)
●それと同じように、
不当な暴力や、不当な戦争被害や、薬害、そして核物質による被曝、
食料品の中の添加物、公害、人的ミスによる事故、
こうしたものに対しては、私は容認するつもりはありません。
だから私は、原発事故の責任者たちだけは、許しません。
_____________________________
●一方で、私にとっては、人が「死ぬ」ということ「そのもの」には、
あまり大きな悲観や、悲壮感や、否定的感覚はありません。
なぜならば、肉体が死ぬのは、「当たり前」の事だからです。
しばらく長く、平和に生きていると、
その当たり前の事をしばらく忘れていることが出来るだけてす。
●さて、私が問題とするのは、死んだ人間についてではなくて、
生きている人間が、「不当な苦痛を強いられているか」、
それとも健康で、「本来の機能を発揮しているかどうか」のみです。
「自然災害」や「免疫の低下」や「感染」あるいは「老化」によって、
本来の機能を発揮できなくなったという場合には、
それは、地球という環境での生命経験をあなたが選択した以上は、
許諾をさぜるを得ない「リスクの一部」と見なせますが、
ただし、そうではない「人為的な被害」の結果として、本来の機能を発揮できない
という状況があるならば、それだけは、私は許諾できません。
(それは、人間に生まれる時の契約内容と違いますから、詐欺です。)
____________________________
●そして、実際のところは、人間の「心の中の本音」をよく見れば、
>不治の状態で生きようとするよりも、死を選びたい、
という場合が圧倒的に多いのである。
身体的な病理の場合でも、精神的な病理の場合でも同じです。
しかし、
そこまで病んでも、なおも生きようとする場合には、
たいていの場合には、
>「死ねない理由」というものがそこにあり、
それは「家族を養うため」という単なる経済的な理由であったり、
または中には、単なる自尊心と虚栄心で、無理をしてまで生きている人もいます。
あるいは、よほど何か達成したい目標があり、
「これでは、まだ死ねない」と、本人が勝手に思い込んでいる場合などです。
しかし、そうした「生きなければならない、と本人が思っている理由」を、
仮に、あえて全部どけてしまうと、
>「病気で長期的に苦しむのであれば、まだしも死ぬほうがいい」、
と思っているケースが圧倒数になるのである。
つまり、私が、いつもいうように、
>基本的に人類は、死そのものを恐れているのではなく、
>死に至るプロセスで経験するかもしれない苦痛のほうを、
>出来れば回避したい、と思っているということです。
これゆえに、一定条件の中では、
安楽死の権利は、人権として認められるべきであるというのが私の持論です。
________________________________
人が跡も残さず一瞬で死んだ場合
●では、もしも苦痛が一切ない「死」というものがあるとしたら、
それは、どのように考えればいいかという、「哲学的な問題」が残ります。
苦痛が一切ない、あるいは、ほとんどない「純粋な死」というのは、
自然界に私達がいた場合には、希にしか経験できません。
溺れて死ぬにも時間がかかりますし、
雪崩に巻き込まれても少し時間がかかります。
全く純粋にポックリと苦痛なく死ぬ、または短時間で死ぬというのは、
脳卒中、心臓停止、瞬時に脳が破壊される事故に限られます。
または、死ぬまでには数時間という時間があっても、
死ぬまでの間、本人が「意識不明」になる必要があります。
●これら以外で、苦痛の極めて少ない死というと、
突然の爆死や、銃弾を受けての即死や、
航空機や車両での一瞬での死などに限られてきます。
つまりその原因は「自然死」ではなくなってきます。
●死ぬときに苦痛があるのとないのでは、
人間が死に対して持つ、その概念と価値観がかなり変わるということは、
私は以前から何度も書いてきました。
たとえば、もしも、あなたの大切な誰かが「行方不明」になり、
あなたの目の前から消え去ったらば、
「どこにいるのだろう」とあなたは心配になり、探します。
たとえ、肝心の本人がすでに、どこかで安楽に死んでいたとしてでもです。
しかし、もしも今後、未来の世界で、
>照射されたらば苦痛もなく、一瞬で灰も残さずに、消えてしまう
という、そうした殺人兵器が登場したらば、
皆さんの死生観は、どう変わるでしょうか?
目の前で、自分の家族や知人が、ただ忽然と、消えてしまう。
そして、それは別の場所に移送されたのではなく、「死」を意味する。
あなたは、血も見ず、骨すら残っていない。
まるで、削除されたかのように、単に、消えるだけ。
●この状況下で、あなたが大切に思っている誰かやペットが消えた場合、
むろん、そこには、それを照射した「加害者」がいるわけですから、
あなたは、その者を許すことなく、反撃して相手も消去すればいいだけです。
ただ、ここで問題なのは、それによって、
>私達が今までもっていた「死」のイメージ、死の概念、死の悲劇性は、
>どう変わるか?ということです。
今まで「死」というと、そこに至るまで、
たとえ数秒間でも「苦痛や恐怖がある」ということが、
死のイメージを「悪」として成立させて来た大きな原因の「一つ」ですが、
そこから、一切の苦痛をなくした、と仮定して、
>純度100%の死だけを取り出すと、
「死」とは何か?という定義は、こうなります。
↓
>「喪失」または「喪失感」を生ずるもの。
この場合の、
1−「喪失」とは「客観的事実」であり、
たとえば、分かりやすい例は、
あなたの勤めている会社の社長が消えた、または消去されたので、
業務的にそれは困るから、すぐに代用品の人間が必要になる、
といった「社会的な喪失」「他者との物的利害関係の喪失」を伴うものです。
2−「喪失感」として、分かりやすい例は、
あなたと何の利害関係もない著名人が「消えた」または「消去された」場合に、
あなたが、その(遺体もない)葬儀に参列して涙する、という場合です。
消えた本人の感情とは全く関係なく、あなたは、自分の中から
相手が消えたという「自分の中の喪失感」に悲しんでいるだけのことです。
3−そして「喪失」と「喪失感」が「同時に起きる事例」として分かりやすいのは、
あなたの家族が、消えて(または消されて)
それによってあなたに、その日の夜から生ずる、「喪失感」と、
具体的な生活上で発生する「不具合」・「不自由」です。
________________________________
●このように、死を、死ぬ本人が、血や涙を流す一瞬の時間もない、
純粋な「消去」として抽出した場合にこそ、
あなたにとって「死とは何か?」が見えてくるはずです。
●たとえばの話ですが、もしも、ピンポイントで照射された側が、
0.5秒で気化するような兵器であった場合には、
そこには「爆心地もなく、血も骨も、瓦礫もない」のである。
あなたは報道で次のようなニュースを聞くことになります。
>>「本日、アフリカの紛争地帯と、アフガニスタンでは、
>>あわせて40万人の人々が、一瞬で、あとかたもなく消えました。」
そして、そこで報じられるのは、
>>一瞬で、いなくなってしまった自分の家族や仲間を悲しむ、
>>残された人々の映像のみで、
>>そこには、苦しむ負傷者はゼロで、建物の瓦礫もなく、
>>火災も、血も、骨も、遺体もありません。
>>何かの後遺症に悩む人も、一人たりとも、いないのです。
つまり、今までの「劇的な死」が、
それよりも印象の薄い「あっけない死」に変わるわけです。
同じ「死」でも、その「悲劇の印象」は、
それまでとは大きく違う性質に変わります。
●つまり、このような
「死・または消失」だけという純粋現象の「抽出」をしないままに、
皆さんが普段、周囲で見たり、報道で見ている「死」とは、実際には、
>「苦痛」から→「死」という、一連のプロセスです。
>または死なずに→「後遺症」を持った、という一連のプロセスです。
このように、実際には、その「定義」が異なるはずの、
この「苦痛(病や事故)」と「死」を、かなり混同してしまい、
同じ系列の中で「悲劇」として見ている人達が多くいます。
確かに、病や怪我は、そのまま、ほっておけば死に至るものですから、
そこに「連続性」はあるのですが、
連続性はあっても、その二つは「同一」のものではありえません。
なぜならば、死者(死体)は、もう苦痛を感じないからです。
簡単自殺スイッチの機能追加
●蛇足ながら、もしも、人間が生まれたときに、
「消去ボタン」をもっていて、それを押せば一瞬で死んで、
しかも遺体も消えてしまうという、機能があったらば、
この掲示板を見ている人達のうち、
少なく見積もっても、20%の人たちは、今この掲示板を見てはいないでしょう。
そのような「極端に手軽な自殺」が出来る場合には、
多くの人達が、ずっと過去に、「うっかり」、その消去ボタンを
押してしまってる可能性があるからです。
●しかし、逆に言うと、
死ぬ決意があれば、すぐにでも死ねるのではなく、
「最も苦しむ時間が短い自殺」と言われている首を吊る行為でさえも、
そこに、その行為をしなければならないこと、そして、
「窒息死は苦しいのではないか?」という思い込みが、
自殺の「変な歯止め」になっている面があります。
しかし、もしも、
ボタンひとつで「遺体もなく消えられる機能」が私達についていたら、
この世界の人口と、社会構造は、いくぶんか、違ったものになっていた可能性があります。
●また、逆に言うと、誰も他人の自殺など止めないし、
止めても、ボタンひとつで消えてしまうという、
そうした「手軽な自殺ボタン」があるという状況にらなってこそ、
あなたは、「本当に自分は自殺していいのか?」
「本当に自殺する気は自分にあるのか?」
あるいは「自分は生きている意味など持っているのか?」
という根本問題を、自分に突きつけられることになります。
●よく、樹海とか(樹海でなくとも)自殺をする場所を探していたり、
中には、「どうやって自殺しようか」と、
その方法を考えているうちに、自殺できなかった、
という「お間抜けな話」を聞きますが、
そんな者は、はなから自殺する気もないのに、
自殺したいと自分がそう思い込んでいただけに過ぎない者です。
本当に自殺したい決心が固まっている人は、
どんなことがあっても、必ず「決行」しますから。
●しかし、私はそこであえて、本当は自殺をしたくなかった者までもが、
うっかりボタンを押したり、カッと感情的になってボタンを押すと、
遺体もなく消えてしまう機能というものを、
人間には、つけるべきだったと個人的には考えています。
「カンタン自殺スイッチ」という機能ボタンです。
そうすれば、硫化水素も、睡眠薬も、それどころか、
首を吊るビニール紐すらも、いりませんし、
手順も無用で、ついでに、飛び降り自殺のような、少しの勇気もいりません。
必要なのは、そのボタンを押す、あなたの決断だけです。
____________________________
いささか 電波な お話
●では、死んだ人の「周囲の人たち」が
死んだ人についてどう感じているか、ではなく、
死んだ、当の本人は、「自分の死をどう認識しているのか?」、
これが、無明庵では、最も重要なこととなります。
あくまでも、私の知るかぎりですが、
実は状況は、かなり「あっさり」としています。
皆さんも、目覚めても、現実と区別がつかないほどの、
「かなりリアルな夢」を見た経験は、あると思いますが、
それとても、数分が経過し、あるいは数時間もすれば、
その「印象」は、急激に薄まります。
●それと同じように、実際にあなたが死んでしまうと、
生きていたこちら側からは、死んだものの世界と定義されるその世界が、
逆に、今度は、自分が「目を覚ました場所」になるわけです。
従って、たかが数分前まで、経験してきた、あなたの人生そのものが、
逆に、「ちょっと前まで夢をみていた」と感じる対象に入れ替わります。
この、現実認識の本拠地となる視点の入れ替わりが、
急激に起きるか、少し時間がかかるかは個人差があるようです。
そのせいで、急死などにより、自分が死んだことを、分からないで、
認識が、夢と現実の中間領域に、ひっかかってしまう人達というのが、
けっこう、昔から、向こうの世界では、問題になっています。
その人達の処理・整理をする役場が、
(こちら側の我々から見た場合の)死後の領域にはあるようです。
●言うまでもなく「向こう側」では、
私達が今経験している、こちら側が、むしろ「完全な、幻影の領域」
という常識的な認識になっています。
ただし、それは「人工的な幻影」としてですが。
***************************
■さて、昔、当サイトの「竹の間BBS」か、あるいは、かつて有料購読の時に、
どこかに書いたのですが、
あまりにも昔に書いたので、どこの投稿か忘れましたが、
人間として、ここの惑星に生まれる「前」と、ここで死んだ「後」
つまり、生死の「中間領域」での記憶が、
私の中には、いくつか明確なものがあります。
むろん、このような私の個人的な記憶は、
他人からすれば、「ただの主観」ということで、全くよろしいと思います。
●ただ、その、いくつかの、今でも記憶している明確な記憶は、
ひとつは、人間に、しかもこの惑星に、「生まれる直前」に、
あらかじめ、この世界の状況を、資料として提供される映像で見て、
そこで、「綿密な契約内容」を、役人のような者と、取り交わしていることです。
もうひとつは、人間が(というより自分が)が死んだあとの状況の記憶です。
これには二種類あります。
ひとつは「立場がフリーな状態」で、自分が死んで地球を離れる場合に見える情景。
これは、なかなか、感動的な情景です。
なぜならば、フリーの立場で、惑星に出入りしている場合には、
死の時に自分が見たい情景の「演出」を、
自分の好みで、好きなように、アレンジできるからです。
●もうひとつは、フリーではなくて「仕事(任務)」で地球にいて、
死んでから、自分の持ち場に帰還した時の記憶です。
この時の記憶が、私の中では、今回の話に関係してきます。
私の肉体が死んで、意識が「元の持ち場」に回収されたときには、
そこにいるスタッフは、なんとなく、知っている仕事仲間であることだけは分かるのですが、
しばらくは、彼らが具体的には誰だか、思い出せませんでした。
しかし、彼らの一人が、私に向かって、
「さっさと、自分の持ち場についてくれ。
次に行く時間と空間の座標を決めるから」
というような事を言ったので、さすがに、むっとした私は、その者に、
「勘弁してよ。こっちは、あの地球という惑星に約200年間もいて、
やっと今、帰還したんだから、少しは休ませてくれないか。」
すると、相手は言いました
「君が、ここから離れて、ここに戻ってくるまでに、
2分しか経過していないよ。」
・・・200年という私が地球で人間として経験した時間は、
その持ち場の施設の中では、
地球時間の感覚に喩えると、たったの2分だったわけです。
●それから、その部屋の中を見回して、そこにいる数名の人達のことや、
そこにある見慣れない「奇妙な操作盤」の操作方法を思い出すのには、
地球の時間感覚にして、約15分ほどかかりました。
そして、そのときに経験したのが、「記憶の入れ替わり」です。
●それまで地球で過ごした、ある意味では膨大な時間の生活の記憶と、
そこで作られた、私自身のアイデンティティーが、
急激に他者のもののように自分とは、無関係なものとなり、
逆に、私が帰還して回収された、その施設(ステーション)の中で、
前に私が仕事をやっていたスタッフとしての記憶が、
それと、まるで「クロスフェード」するように、入れ替わるわけです。
つまり、片方の地球での生活の記憶が、フィードアウトしてきて、
もう片方の、元の記憶がフェードインしてくるので、
そこに、自分という主体があるという感覚(または錯覚)が保てるのです。
■ですから、同じ惑星上での転生、あるいは、「異なる天体間での転生」が、
仮に、もしもあるとすると、
そのように、肉体や環境という衣装を、着たり脱いだりしている
その中心的な「主体」は何か?という問題が出てきますが、
二つの異なる領域での生の記憶がクロスフェードすると、
「連続した意識の主体感覚(または錯覚)」を感じることが出来るわけです。
おそらく、全自我(希釈されない原形自我)を維持したままで、死んだり生まれたりする場合には、
これと似たような「連続的な記憶と、連続的な主体感覚」が残ると思います。
___________________________
当サイトについて
■ちなみに、この「無明庵」のサイトを、
1997年当時の古くから知っている人ではなく、
「3.11の震災後」に、最近になって知った方々は、
ここが何をテーマにしている場所か、分からない人も多いと思います。
そこで、参考までに、このサイトには次のような「アンケート」があります。
それを見れば、当庵が、どういうサイトかの一端が分かると思います。
http://www.mumyouan.com/k/takenoma.html
↑
この掲示板の頭の部分の左側に
「竹の間へようこそ」という文があります。
その右の端に、グレー色のボタンで「アンケート」というのがあります。
竹のCGの右下です。
それを押してみてください。(新規投稿の右隣です)
クリックしても、別のサイトに飛ぶわけでもなく、
何かを送信する義務があるわけではなく、
単に、「アンケート内容」が出てくるだけですので、心配いりません。
>そこには「人間が、一人で自問すべき事」の項目があります。
■つまり、このサイトは、
有象無象の精神世界サイトの中で、
最も「哲学的に精神世界」を扱うサイトであり、
「精神世界:哲学性」の比率は、約「1:9」であるということです。
巷に、何百、何千とある精神世界サイトが、
「議論の前提」となる「言葉の定義」すらも明らかにしないで、
有象無象の、精神論を語り、
霊的話題や、不可思議現象を扱い、
占いをしたり、霊感グッズを売ったり、
あげくに、チープなヒーリングビジネスや、
能力開発セミナーやら、
瞑想ビジネスや、宗教ビジネスを展開しているのに対して、
>そもそも、精神世界で語られてきた事そのものに、
>価値があるかどうかの、根底それ自体を疑い、
>そこで使う「用語」を定義することで、論議の範囲を明確に限定し、
>その現象や思想の「根拠」とされるものを精査し、
>本当に使える分野しか、相手にしない、
>本当に行う価値があると認識できたものしか検討材料として残さない、
という姿勢を(多少の「雑談的な、横道」にズレる事はあるものの)、
1997年から今日までの14年間、
一環して、その軸をブラさずに貫いてきたわけです。
★当サイトの傾向が、もっとも理解しやい参考書です。
↓
■「ブッククラブ回」 または、「書泉グランデ」に、
「まんだらけ出版部」からの古いバージョンではなく、
再版されたこの「新装丁」の在庫がまだあります。
価格・2300円
_______________________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(1605 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
梅の間 の最新投稿
オーガズムTop
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -