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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
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●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1616]
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●無明庵日記「猫の足跡=その369=」●形而上学的な話●
by:
鈴木崩残
2011/10/08(Sat)07:09:16
【形而上学的な話】
●「あなたの死より重要な問題は何ひとつない」
これが無明庵の基本方針です。
たとえば、
・現在、原発問題に多くの関心と時間を費やしている人がいることだろう。
・また、別のところで、現在、借金の事で頭がいっぱいの人もいるだろう。
・また、いつ、どうやって自殺しようかで、頭がいっぱいの人もいるだろう。
・そして、昨日の不愉快な出来事で頭がいっぱいの人もいるだろう。
・あるいは今日の初デートのことで頭がいっぱいの人もいるだろう。
・また、今日もハローワークへいくことで頭がいっぱいの人もいるだろう。
・そして、今日も、大した目的もなく、親の金で食わしてもらっている
ニート生活をどう一日を過ごすかを、考えている者もいるだろう。
・そしてまた、今日の自分の病気や体調を心配している人、
・今日、戦争に行く人、
・今日、出産する人、
・今日、逮捕される人、
・今日も、刑務所の中で朝を迎えた人、
・今日も、自分の体を売らねば生きてゆけないと思っている人、
・今日も、原発で瓦礫を片付ける人、
・今日も、朝から旦那と子供のご飯をつくる人、
・今日も、いやな会社に出かける人、
・今日も、朝っぱらから、くだらない性妄想をしている者、
・今日も、暇な人。
・・・・・・・・・・
しかし、地球上の、全人類の、誰にとっても、
日ごろは、「それらの個々人の関心事」が、
その人のほとんど全てを支配していたとしても、
それらの問題が、ことごとく、二次的なものになってしまう、
そういう状況がある。
それが、
>あなたのその肉体の命が、本日かぎりであると、
>「死」を宣告された場合である。
>●では、その時に、唯一、重要な問題になることは何であるか?
そうなったら、
あなたの中から、原発のニュースなど吹っ飛んでしまう。
自分がこれから死ぬというときに、
自分の死に向き合う以上に重要な事など、何もないからである。
また、あなたは、自分の家族のことを心配するかもしれないが、
そんなことは、実際には、二次的なことなのである。
●今までの人生でどのような大きなことがあったにせよ、
あなたが、死の宣告を前にして考えるべきことは、
社会のことでもなければ、他人のことでもなければ、宗教のことでもない。
そこで思うであろうこと、
また、思うべきことはたった二つしかない。
>1−生きてきた、この自分とは何であったのか?
>2−これから死んだらどうなるのか?
その二つのみ。
無神論者または無宗教、というより唯物主義者は、「2」については
考慮する必要はないので、「1」が、万人にとっての、共通の問題となるだろう。
●ここで、自分が「宇宙の塵のひとつですらもない」と本気で思うことが
出来る人がいるならば、それは結構な話なのだが、
それにしては、その人たちは、自分が宇宙の塵にも満たない
などという、そんな謙虚な姿勢で、それまでの人生を生きてきた形跡はどこにもない。
たとえ、自己主張をする場所が、ネット内であれ、
家族内であれ、社会の中であれ、あるいは、その者の脳内妄想の中だけであれ、
・自分は少しでも何かの役に立った、
・自分は少しでも、生きた意味があったのだ、
・自分には価値はないとしても、人間には価値があったと、
そのように、何の根拠も、証拠すらもなしに、自分の願望を投影し、
ちっとも、自分を「宇宙の塵にも満たない」などとは思ってもいない、
それが人類の大半の持つ、習慣的思考である。
●さて、死というものが明日の朝にやってくるとしたら、
「あなたは、何であったのか?」
「あるいは死ぬまでのその間の今日、今、あなたは何であるのか?」、
ということが唯一そこで問題になると、私は言った。
これに異を唱えて、「自分のことよりも他者の事が重要だ」とか
思い込んでいる者がいたとしたら、それは、相当の偽善者か、
もしくは、相当に、軽薄な人生を過ごしてきたか、
あるいは、一度たりとも、生について自分に問いかけたことのない人
(ほとんど、条件反射だけで、生存してきた、生物)ということになるだろう。
●さてここで、少し分かりやすい話にしましょう。
私は、1997年にこのサイトを執筆し初めて以来、
一環して、皆さんが、単なる「習慣」で、
テレビ、ネット、パソコン、携帯電話、ゲーム、
それらに、のめりこむ事を禁じ、無駄に本を読みあさることを禁じ、
さらには、リアルの世界であれ、ネットの世界であれ、
「おしゃべりをやめろ」と言う理由は、
そんなことを、毎日、「朝っぱら」から繰り返していたら、
あなたは、人間として「最も基本的なこと」を忘れてしまうからである。
●しかし、そうならないためには、
>あなたが朝に、目が覚めて、起きたら真っ先にやらねばならなことは、
>「何もしない」ということが必要である。
もしも、ひとたび、あなたが何かを始めれば、
あなたは、まったくコントロールもされていない、
単なる習慣的な、連想の狂気の中に、飛び込んでしまうからである。
これは私に言わせれば、意識の自殺である。
あなたは、あなたにとって、最も重要なことを、忘却するために、
あるいは、忘却したくなくとも、忘却せざるを得ない状況で、
朝っぱらから、あなたの自身の「今日という生活」を開始してしまう。
●しかし、それは、駄目だ。
それは、狂人になることと同じだ。
そこから開始された、あなたの今日、一日が、
政治家としての一日であれ、ジャーナリストとしての一日であれ、
主婦としての一日であれ、サラリーマンとしての一日であれ、
ニートとしての一日であれ、監獄の囚人としての一日であれ、
病棟の病人としての一日であれ、どんな一日になるにしても、
>その一日の始まりを、決して、自動的に開始してはならない。
>絶対に、そこで、立ち止まりなさい。
●さて、あなたという存在、いや正確に言うと、
「あなたが存在しているという感覚」は、一日の始まりにおいて、
どのように開始されるか、
それを見極めるためにも、朝起きたらば、まずは、何もするな。
もっと正確に言えば、
>目を閉じて、何も見るな。
耳までふさぐ必要はないが、それでも、情報を放つようなテレビや
ネットか、音源の電源を入れるな。
だから、出来るならば、これはまだ世の中の外の騒音が始まる前の
早朝が良い。
●あなたはまず、目が覚めたら、そこにじっとしていなさい。
そして「外界からの刺激」で、受動的に、無自覚のうちに、
あなたの妄想の連想が始まるのを避けるために、
目を閉じたままでいること。
●さて、ここでひとつ、あなたに問いがある。
あなたは、
>一体、どうして、あなたがそこにいると、自覚をできるのか?
あなたが、そこにいると思っている事が、実は、
すでに死んでしまったのに、まだ生きていると錯覚しているのではないかとは、
どうして思わないのか?
もしもあなたが、突然に昨日までの記憶を喪失したら、あなたは
その朝、自分を、どう認識できるのか?
もしも、あなたか目が覚め時に、突然に見たこともない場所にいたら、
あなたは、昨日との連続性をどう認識するのか?
●つまり、
>毎朝、一体、何によって、あなたは、
>「あなた」、つまり「自分」がそこにいると、思い込むことが出来ているのか?
●この答えは、簡単である。考えるまでもないことである。
1−
ひとつは、朝目が覚めたときに、あなたは、自分の手足とそして肉体が
昨日見たそれと同じであることを確認し、
それによって「昨日の自分と同じ体にいる」と認識する。
2−
次に、目を開け、耳を澄ませば、昨日と同じ部屋にいることを知覚する。
しかし、ここまでは、記憶喪失になった人たちでも認識することだ。
では、その次だ。
3−次に、あなたは、どういうわけか、
あなたの頭が、「思考の起動」を始めると、何を見ても、何を聞いても、
ほぼ昨日と似たような「連想」をし、
昨日と似たような「同じ思考」を再生し始める。
●つまり、もしも、これらのあなたの「知覚してゆくもの」を、
パソコンの画面にたとえるならば、
起動したら、「いつもと同じ起動画面」があり、
いつもと同じアイコンがあり、
いつもと同じ、お気に入りや、メールソフトを開き、
そういう「同一性」によって、あなたは、「昨日と似た今日をはじめる」
ところが、起動した瞬間に、まったく見たこともない画面だったら、
あなたはどうなるだろうか?
何が自分のパソコンに起きたか分からずに、しばらくパニックになるだろう。
●このように、朝目がさめた直後に、すぐにあなたは、
「自分というものである」のではなく、
わずか、数秒の間に、
・肉体が同一であることを確認し、
・生活している位置(自宅)が同じであることを確認し、
・ついでに、ご自分の頭の中身が、昨日と変わっていないことを確認し、
そうして、あなたは、「とりあえず、今日も生きている」ということを
確認している。
●これは実際には、毎朝、高速で繰り返されていることだ。
しかし、あなたはあまりにも、意識がなくて、無自覚なので、
こうしたプロセスを客観視して観察したこともなければ、
こうしたことについて、深く考えたこともない。
つまり、「自分とは何であるのか?」という、
死ぬ直前になってから、ようやく本気になって、あわてて考えることについてし、
日々の生活の中では、すっかり、忘却してしまっているということである。
●そこで、もしもあなたが本気で、自分が何であるのかを思い出したいのであれば、
仕事を持っている人は、
「翌朝の、休日の朝に起きたら、しばらく何もしない」と休日の前に、
強く決心して、眠りにつくことである。
そして、その休日の朝に起きたらば、目をあけず、じっとしていること。
●しかし、じっとしていろといっても、あなたは自分の身体の感覚や、
布団と接している自分の体重の感覚、そして、外から聞こえてくる音、
そうしたものによって、自分が起きて、意識がそこにあるということを
まず認識するだろう。
●しかし、問題はここから先である。
いつもならば、あなたは、まったく何も注意せず、何も疑問に思わず、
まったく何も考えずに、
トイレに行き、歯を磨き、テレビやネットのスイッチを入れ、
携帯のメールを確認し、お茶やコーヒーを飲んで、
昨日と、まったくかわりのない、自分であることの「確認」を始めてしまう。
そして、その後に起きる、まる一日中の、あなたの妄想、連想、
感情、思考、そして関心の方向性は、
ほとんど「習慣」によって機械的に作動し、
あなたは、自分で自分の生をコントロールしているように思い込んでいるだけで、
その大半は、「無自覚的な反射」によって、思考を続けている。
●しかし、朝起きたときに、自分がそこにいる、という、
ただそれだけの感覚に、しばらく注意し、それを意識し、
次に、目を閉じたままで自分の頭の中に去来する、思考やイメージや
記憶の連想を、じっと観察してみることだ。
それを続ければ、そうした自己の脳内観察は、
何の苦もなく、2時間でもやっていられるはずだ。
(途中でトイレに行くのは構わない)
●あなたは目を閉じたままにしていると、あなたの関心、
つまり意識が向かう方向は、まるで、でたらめで、
記憶を思い出したかと思うと、イメージの断片が浮かんだり、
まったくどうでもいいような妄想や連想をつつけていたことに、
ふと気がついて、
気を取り直して、自分の頭の中に去来する関心の方向と、思考を見守り続けようとする。
すると、あなたはとたんに、また、知らないうち、
あーだこうだと、雑念の妄想の中を漂流の中にいたことに気がつく。
●しかし、連想と思考の中に埋没しているあなたの意識を、
そこで、きちんと取り戻してみると、
次のような事実、現実に出くわすはずである。
「いや、ちょっと待て。
自分に、よく馴染みのある、昨日と似た妄想が、頭をめぐっていて、
なんとなく、昨日と同じ部屋にいることを確認しているから、
私は自分がいると思っているが、
頭の中の思考や記憶が、何もなくなったら、
私は誰であり、私とは何であるのか?
ならば、私というのは、
同じような事を毎日考える、同じようなものを毎日見ることで
かろうじて保たれている、その程度のものにすぎないではないか?」
と。
●ずばり、それは、正解である。
つまり、言い換えれば、例外なく、この地球上にいる、
凶悪犯罪者から、天才的な科学者から、へぼい宗教教祖とその信者らから、
子供から、老人まで、誰一人として例外なく、
その人に固有の環境認識と、
その人の頭の中の思考を除外してしまったらば、
この世界では、誰一人として例外なく、
「誰でもない」のである。
●
だからといって、その程度のものを、
私が、人間に共通の価値あるものであるとか、
悟りだなどとは、間違っても言うことはありませんし、
だからといって、
その意識ゆえに、万人が平等だと言う気も、さらさらないですし、
それをもってして、人間は、生きているだけで価値があるなどととも
口が裂けても言う気はありません。
この単純な「存在の自覚」の中にはさらに、いくつかの次元層と、
その存在自覚(=自我意識)を生ずる原因となる「因子と仕組み」がありますから、
この程度のものを、超自我とか、無我などとは、到底言えません。
この件については、
無明庵・発行の「分割自我復元」のDVDで、
すでに詳しく説明をしたので、ここでは語りません。
______________________________
●さて、そのように、あなたが、
自分の、あらゆる関心のベクトルを不注意に「伸ばさず」、
思考を停止し、
感覚情報からも離れたらば(ないしは、距離を置くことが出来たらば)、
誰であっても、そこにあるのは、
「誰でもない、というただの存在感であること」
これは、あまりにも「明々白々な事実」なのであって、
単なる事実なのですから、そこに何かの価値など何もありません。
●ただし、それでも、その事実を認識するだけでも、
少なくとも、あなたは、
>「自分が、何者かになっているような錯覚をし続けている狂人」
>にだけは、ならないで済む「可能性が出てくる」ということです。
●そして、この問題こそが、
私が、あなたが死ぬときに重要になるというのです。
あなたが「実際に死ぬとき」には、
同じように、感覚は消えてゆき、記憶が去来し、
イメージが去来し、そして、あなたは、自分が誰なのか、
何をしてきたかの記憶を必死になって、再生をしようとしてしまいます。
しかし、一体、どこの「誰が」、慌てふためいて、そんなことをしているのか?
そんなことで、じたばたしているあなたの「主体」は、何であるのか?
そんなことをせずに、誰でもない者として、
どうして死んでゆけないのか?
死ぬ、最後ぐらい、どうして、
「自分が何々をやってきた、
何何をしたかった、
自分は何何なんだ」
などという、くだらない、あなたの脳内の「おしゃべり」をやめて、
静かにそこに、意識だけを置いておけないのか?
これまでの一生の間、あなたは、
「何かでありなさい、
何かをしなさい、
何かになりなさい」と言われ続けて、
また自分でもそのように思い込んでしまい、
何か生きた価値がある感覚を残そうと、
あくせくとすごしてきたのですから
最後ぐらいは、
「誰でもある必要もなく」そこに意識だけがあればいいのです。
●そして、こうして静かに、ただそこに自分のようなも意識があり、
存在しているという、この感覚は、
死ぬ間際の土壇場になってから、いくらあわてて起動しようとしても
それは不可能であるので、
日々、毎朝、あるいは、週に二日は思い出しなさい、ということです。
●私は、口先で、これらのことを、知ったような事を言ったり、
「そうだ、人間の意識は、情報をどけたら、真我だ」とか、
吼えている馬鹿どもではなくて、
実際に、日々、瞬間瞬間、あるいは、時々、そのことを
しっかりと、本当に明確に、思い出している人たち、
そういう人たち以外は、
それが社会でどのようなことをしていたり、
どのような功績を持とうが、誰であろうが、瞑想の指導者ぶっていようが、
老若男女、人種を問わず、
>「眠ったままで、ずるずると、生を引きずっている者たち」
と呼びます。
しかし、多くの人たちは、人の意識が、誰でもなく、何者でもない
という歴然たる単純な現実の中に生きるよりも、
自分が、「何かが出来る人間」
または「何かが出来た人間」として存在したがる
という「貪欲さ」と「無知」ゆえに、
毎日、日々、その自己満足的な、生きた証の「自己証明」のために、
朝っぱらから、ネットにのめりこみ、
仕事にのめりこみ、
子育てにのめりこみ、
生きていくためだと称する、さまざまな活動に、
身を投じてゆくのである。
むろん、幻影のような、
この、「大変によく出来た現実という錯覚の世界」の、
その荒波に、あなたが身を投じるのは、
あなた自身が、かつて自分で、同意して契約したことですから、
それはいいですが、
そこに身を投じる前に、
その雑音のような世界には、もともと染まっていない自分の主体を
日々、毎日、思い出してから、
「これから、そこに身を投じるのだ」という、
それぐらいの「自覚的な作業」ぐらいはしてください。
そのためには、
>あなたの一日は、決して、「自動的に」始まってはならない。
誰でもないはずの、あなたという存在意識が、
どうやって、毎朝、毎朝、
「どこかの誰か」としてあなたが生活をしている、「と、思い込むため」の
思考の「再起動」を繰り返しているか?
その様子を、毎朝、繰り返し、明確に観察して、意識化することです。
■ただし、申し訳ありませんが、
それは、自我が原型に復元されるまでは、
決してあなたには出来ません。
仮に、ちょっとだけ出来た気になったとしても、
それはとても中途半端で、ネットにでも繋いだり、メールでも開けば、
すぐに、あなたに忘れられてしまう程度のもので、
日々の生活に巨大な影響をしてくるようなレベルには、昇華されません。
■また、自我復元によって、全自我の状態で、
今回、私が書き記したような、「主体」を、
毎日の生活の中でも、定期的に維持できるようになれば、
あなたは、実際に、死んだときに、
そこで生ずる、「価値のない美しい幻影」や、
「あなたに心地よい姿に偽装した、詐欺師たちからの誘惑」に、惑わされずに済みます。
★皆さんはよくご存知のように、
チベットには「死者の書」というものがある。
私は単に、それを、
今「生きている者に (特に、自我復元をしている皆さん)」に、
準備させようとしているに過ぎない。
しかも、そうなれば、死んだときに、あなたの耳元で、
チベット人の信念体系の中でしか通用しないような、チンプンカンプンな経文を、
誰かがつぶやくことも、まったく必要ない。
あなたが、誰でもない主体として死の中へ入ってゆけたらば、
あなたは、今回とさして変わらないような、同じことを繰り返す生ではなく、
「別の生のシステム」を、自分の目で選択することが出来るのである。
自我復元を現在していて効果をあげている人たちが死んだ場合には、
その人が、無理に意志してまで、
地球にもう一度、生まれてくることは、まずありません。
ほとんどの場合には、人間とは「別の生存形態」を選択すると思います。
そのために、皆さんは、スケッチブックに絵を描いているのですから。
●
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