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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
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より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[1645]
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●無明庵日記「猫の足跡=その398=」●「人類最大の無知」
by:
鈴木崩残
2011/12/21(Wed)09:15:42
自分が何をしに人間に生まれたかを
知らない人が多すぎる。だから、
自分がどうすれば死期がやってくるか
知ることが出来ない人が多すぎる。
●タイトルは大げさですが、あまりにも簡単なことなので、
隣の「桜の間掲示板」ではなく、一般の人でも読めて理解できるレベルの、
この「梅の間」に書いておきます。
●そもそも、どうして、この宇宙では、候補は「無数」にあったのにも関わらず、
この地球という惑星を選択し、かつ、人間という形を乗り物として選んだのか、
その自覚や記憶のない人があまりにも多すぎます。
●では、ごく一般的な質問を、皆さんにしてみます。
「あなたは、何の為に、生まれてきて、死ぬのですか?」と。
あるいは、もう少し正しく言うと、
>「あなた個人は、何を目的として、人間に生まれることを選択したのですか?」と。
●言うまでもなく、その目的とは、個々によって違うものであるので、
当然、ここで宗教や精神世界で、まことしやかに言われている次のような文言は、全部却下されます。
「経験」「学習」「進化」「愛」を知るため。
これらは全部、不正解です。
●私が問いかけているのは、あなた個人の目的である。
すると、次のような答えが、多くの人たちから返ってくる。
しかも、生まれたときから自覚しているわけではないので、
「気がついたら、私は●●をしていたので、たぶん・・・」という前ふり付きである。
最初に言っておきますが、下記に羅列するものは、
>すべて「不正解」です。
・私は医者になるために生まれてきたのだと思う。
・私は僧侶になるために生まれてきたのだと思う。
・私は科学者になるために生まれてきたのだと思う。
・私は教師になるために生まれてきたのだと思う。
・私は人類を抹殺するために生まれてきたのだと思う。
・私は暖かい家庭を築くために生まれてきたのだと思う。
・私は男や女というものを経験するために生まれてきたのだと思う。
・私は悟るために生まれてきたのだと思う。
・私はスポーツ選手になるために生まれてきたのだと思う。
・私は人間社会に貢献するために生まれてきたのだと思う。
・私は地球をもっとよくする為に生まれてきたのだと思う。
・私は他人を瞑想や座禅で導くために生まれてきたのだと思う。
・私は芸術をするために生まれてきたのだと思う。
・私は自分がしたいことを見つけに生まれてきたのだと思う。
・私は自分が何の為に生きているのかを知るために生まれてきたのだと思う。
・私は愛を経験するために生まれてきたのだと思う。
・私は感情を経験するために生まれてきたのだと思う。
・私は進化するために生まれてきたのだと思う。
・私は楽しむために生まれてきたのだと思う。
・私は宇宙にエネルギーを搾取される家畜として生まれたのだと思う。
こういうことを言う人は、
全く、何ひとつも、生命や宇宙について、知っていません。
これらは、ことごとく、不正解です。
●なぜならば、これらは、単に「手段の一つ」にすぎないからです。
私があなたに対して、何を目的として、
この惑星の、しかも人間という種を選択して生まれてきたのですか?
と、問うときには、
私が質問しているのは、
あなたが、たまたま、なった職業や、
あなたが、たまたま、そうなった立場のことではないし、
あなたが、たまたま、成り行きで関心をもった物事について尋ねているのではない。
●私が皆さんに質問しているのは、
>ここでの生命経験を「通じて」、
>あなたは、何を「確認」しに来たのか、
>あるいは、何を学びに来たのか、ということだ。
重要なのは、あなたが何をしているかでもなく、
あなたが、何になったかでもなく、
あなたが、何をなしとげたかでもない。
>それを「通じて」得た、最終的「結論」や、「確認」できた事」は何か?
と私は質問しているのである。
●というのも、そもそも、何かの生命に生まれるときというのは、
そこに明確な目的が必ずあり、それは統一的なものではありません。
宇宙全体に共通する生の目的というものもなく、
それは種族的に共通しているものでもなく、
厳密には「個人的なもの」だからである。
そして、それは、生命経験をしている間に、あなたがとった生活形態や、
業績が問題なのではなくて、
それを通じて、「何を確認したか」「何を結論したか」「何を学んだか」
ということである。
この質問を前述の不正解の回答をした人たちに突きつけてみよう。
「あなたは、・・の仕事をする事を目的に生まれたらしいと自分では思い、
あなたは、そうやって、その・・になりましたが、
それで、それによって、結局は、何が分かりましたか?」
つまり、人間の生の本当の目的とは、「何を理解したか?」なのである。
これ以外のものは、あなたが、死んだときに、
あなたの宿題になっていたはずの、「お土産(お持ち帰り情報)」として
全く意味をなさないのである。
これは、私でなくても、地球の管理会社の下っ端の「事務員」でも、
あなたが死んだときに、あなたに問うだろう。
>>「はいはい、あなたの武勇伝や、自叙伝の説明は、もう分かりましたから、
>> それ以上、くどくどと、わたくしに、説明されなくて構いません。
>> そうではなくて、結局、あなたは、何を得たのか? を質問しているのです」
これがあなたが生きたという「エッセンス」として質問される最も重要なことです。
言うまでもなく、そこで「愛が大切だと分かりました」とか適当な事を言うと、
即座に「不正解」になり、とっとと、この惑星に「送り返されます」ので、
充分に注意することです。
************************************
●桜の間に、ほんの少しだけ書いたように、
我々の意識の実際のベース、あるいは自宅と言えるものは、
むしろ、死んだ向こう側に「日常」としてあり、
肉体に乗って、ここで経験している環境や経験している内容は、
むしろ、出先の「仕事場」での経験のようなものです。
従って、どちらが本質的なベースかといえば、こっちからは死後の世界と
認識しているところの、あっち側の世界の方が、実は「生」の本拠地であり、
逆に、今、皆さんが経験している物事やこの惑星や人間という乗り物は、
>向こう側で「自分で計画したこと」を「ここで実験し、実行し」、
>「確認をしたり、結論を出す」、その為に生まれてきたのです。
本来は・・・
●ここで「本来は・・・」、と私が言わねばならないのは、
そうした、皆さんの、個々の自覚的で主体的な「生の選択」が
明確になされていたのは、今から「何千年も前の地球」でのことだからです。
現在のように、自我がバラバラに分割されて、意識や記憶までもが希釈されてしまったらば、
そのような自分の目的を、自覚して生まれてくる人は、
ほとんどいなくなってしまったのですから。
私がこの約半世紀の人間生活の中で、見た中で、
生命経験というゲームをやるときに、もっとも肝心な事である、
その自覚と「記憶」を保持できていた人は、なんと、たったの3人です。
(これは、実際に肉体として会った人間という意味であり、
お互いに面識が全くない人であれば、もう少しだけいますが、それでも数人。)
************************************
●ちなみに、人間が自分の死期を知るのは実に簡単なことです。
人間は、自分がいつ死ぬかも分からないで、生命保険などに入っているわけですから、けっこう笑えます。
私に言わせれば、その人が、生まれてきた目的、つまり、
何をしたかではなく、何を結論したか、何を確認したか、
その自分の持ってきた問いさえ知っていれば、その人は、自分がいつ死ぬか分かります。
むろんこの世界には、事故や突然死といったアクシデントも無数にありますが、
正常な形で生まれてきた人であれば、
「これが結論されたらば自分は生を終える」というのが明確に分かるものです。
ですから、今回の投稿で言った「あなたの生が、あなたにもたらす理解」の元となっている、
あなた個人の「問い」の課題が何であるのかぐらいは、
死ぬまでに、正しく見つけて自覚しておいた方がいいです。
そうすれば、その結論が出れば、あなたにもうすぐ死期が来ると分かりますから。
●ただし、言っておきますが、
この個別に違う、問いを、私は誰かから依頼されても、
リーディングなど、絶対にしません。
それを発掘するのは、決して簡単ではないからです。
特に、自我がここまで希釈されてしまっている場合には、
その人が、何万年も前に、まだ原型自我だった時代まで遡り、
その人が、どの天体や次元にいたときに、何を確認したかったのかを
つぶさに調査しなければならないからです。
●そんなことを、一人の人間に対して莫大な時間と労力をかけてする気はありませんし、
何よりも、そうやって得た正解は、「ほんのひとこと、ふたこと」の回答である場合が多く、
しかも、なんと、それを聞いた依頼者は、
その正解を聞いても、意識がボケすぎていて、ピンとこないのですから。
●だから、あなた個人が「確認」したかったことや、学習課題を、
他人が、わざわざ読み取ることは、全くの無駄な作業です。
そんなことは、今、きちんと「自我復元」の作業をしている人であれば、
いずれ、全自我に近づいたり、全自我になったときに、
おのずと、見えてくるものですから。
____________________________________________________________
●この年末年始の、たっぷりと時間のあるときに、
皆さんは、何日かけでも、
御自分が、本当は、何をしにここへ生まれてきたのかを
徹底的に「自問」するといいです。
●ただし、その答えは、宗教や、精神世界の本や、他人の言葉の中には絶対にありません。
それは、太古にこの惑星に来た時は、
個別に「違う課題」を、皆さん一人一人が持っていたからです。
そして「確認事項」や「結論事項」または「学習事項」が見つかり、
それが完了したと自分で言えるようになったら、
あなたは、もうすぐ、自然に死ねると思っていいです。
●自分の死期ぐらい、自分で知るべきものです。
むろん、死に方は、あなたが生まれる前に、もしもきちんと希望を
申請していれば、その通りに死にますが、
死に方を、きちんと契約書に約束していない場合には、事故死、病死など、いろいろでしょう。
●
最近つぶやいた事
★以前に「良い国」の定義は、たった「4つの条件」を満たせばいい、
という事をツイートしましたが、
逆に「悪い国の定義」は、こうなります
→★金、武力、食料、資源、土地、情報統制、法律改正を、国民たちの同意なく、
不当に一部の人間たちが「独占支配」した国家のこと。
つまり日本も同じ☆
★日本の戦中と戦後では何が違うか?といえば、
戦中は「恐喝」で戦後は「詐欺」に変わっただけだ。
☆つまり前者は強制だが、
後者は「あなたの同意・承諾を得ましたよ」という形に誘導するだけにタチが悪い。
これは客が自分の「自由意志で決定したかのように思わせる」
マジックの手法(フォーシング)とよく似ている。
★多数決が必ずしも正しくないということを何度も歴史の中に見てきたのに、
どうして選挙だの民主主義だのと言うのか私には分からない。
多数決を取る為にこそ全ての不正と情報統制が起きたではないか?。
私は民主主義の根幹には反対しないが、
選挙や国民投票で選ぶとかいう多数決絶対主義は大嫌いだ。
★多数決、つまりは選挙のようなもので何かを決定するシステムが持つ「最大の欠点」は、
多数の同意を得る為には、国民を可能なかぎり、愚かで無知で、
集団心理で動くような状態にしておいた方が事を運ぶのが簡単だという明白な現実であり、
国民の自由とか主体性を掲げながら国民を洗脳出来る点である。
★多数決についての続き★
たとえば、私は「愛」など大切だとは全く思っていないが、これは少数派になるだろう。
私がそれを尊重しない最大の理由は、愛の正確な定義も出来ず、
その言葉が抱える矛盾についても考察しない人々がそれを叫んでいるからだ。
私に愛があるかどうかなど知った事ではない
私にそれがあるかないかではなく、
ろくに考察もしていない「愛」を声高に叫ぶ者たちが抱える矛盾と醜さに、
私は疑問を持つということである。
★多数決主義とは、正しい判断の為ではなく、
よく物事を考えない多数の人たちにウケる事を狙いとしてしまう傾向がある。
★世間の人々は「愛」が大切だとか、よく考えもせずに、ぶっこいているが、
肝心の日本国憲法の中には「愛」の文字はたったの2箇所しか登場しない。
「平和を愛する諸国民」と「博愛の事業」のたった二つだけだ。
あとは義務、権利、決定、そんな言葉が並ぶだけ。
★権力を愛する人と恋人を愛する人、とでは、
そのどちらかが、良かったり、悪かったりするのだろうか?
どちらも「対象に対する好き嫌い」を意味するに過ぎないのだが、
人間は「愛する対象」の違いで、その愛が「悪いとか良い」とか言うつもりだろうか?。
愛というものの正当性は、愛する「対象」が決定するのか、
それとも、愛する「行為自体」に帰着するのか?
★「愛する家族の為ならば家族を殺そうとする者は殺す」
これが戦争時の正当事由として使われるが、その結末は、
どちらの側に、より量と質の愛があったかではなく勝者がその正義を決める。
それとも家族を先に死なせてしまった貴方は死後に
「でも君はよくやった」とどこかの馬の骨の神々にでも言ってもらいたいのか?
★世の中ではよく「殺し合いの戦争は悪い、言論で解決すべきだ」と言っている。
しかしその言論に対してすら「言葉の暴力」とかいう、白々しい便利な言葉をほざいている。
だが言葉の暴力すら奪われたらば、一体、人々がどれだけ偽善的で、
慇懃無礼な精神状態になるのか、心理学者は何もわかっていない。
★ネット上でもリアルの世界でも相手に対して「殺してやる」と言えば
即座に捜査と逮捕の対象となる。
一方で家庭の中で親が子供に「お前など死ね」と言えば「言葉による虐待」とされる。
ところがネット上で面識のない他者に「死ね」と言ってもお咎めがないという矛盾。
そこで私は次のように思う
★相手に対して無責任に「死ね」と言う者は、
何とも卑怯で無力で他力本願で情けない。
そのくせ相手に「死ね」と命令する傲慢さだけは持ち合わせているときてる。
しかしむしろ「殺してやる」と言う者の方がマシだと私は思う。
何故ならば自分の手を血で汚す事の責任を自主的に取る覚悟を最低限は、示しているからだ
★私もかつては、記者会見を見ていると、
「こいつら、もう死ねよ」と思ったこともありますが、
今後は、そういう、つぶやきは、やめようと思います。
もっとも、私が他人を罵倒するときには、
「死ね」は、全く罵倒擁護になっていませんし、
「殺してやる」も、全く恐喝になっていません。
なぜならば、
「死んで楽になど、させてやるものか」、
「永久に生きて、苦しめ」、
これが、私が他者に対して言う、最大級の「軽蔑的な罵倒擁護」ですから。
★
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