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2007年3月までは
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読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
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[1649]
■
●無明庵日記「猫の足跡=その402=」■「価値観収集家」という職業。
by:
鈴木崩残
2011/12/26(Mon)20:13:42
価値観収集家という職業
●私は、私個人の事(特に、宇宙でいままでどう暮らしてきたか)、
については、あまりしゃべりたくない。
同居人である砂手にも、主要な話はほとんどしたことがない。
その最大の理由は、私の生命経験は、私に固有のものであるので、
他者と共有する気は全くないこと。
次に、問題なのは、その他人から聞いただけの情報を元にして、
推論したり、邪推したり、あげくには、自分の経験と重ねたり、
または、時には、経験もしていないのに、論理武装の道具に使う、
そういう人たちがあまりにもこの地球に多すぎたことである。
だから、私は、(その内容にもよるが)私の言葉や概念が、
他人によって否定されることには、大きな安心感を感じるが、
最も警戒するのは、曲解したり、あるいは単に話のネタに使われることである。
それが、私に固有の体験である以上は、
それが誰かによって勝手に、部分的に引用されたり、いじられる事を、私は許したくない。
それが私が、本当の意味では自分の長い過去について話すことをしたくない理由である。
●だから、今回私が話すことについても、これはあくまでも私個人の
見解であって、ここを読んでいる人の、誰の見解でもないということを
前提に、以下を読んでいただきたい。
_____________________________________________________________
■人間が、誰でもない自分自身に対して、
生きている価値があるのか、価値がないのか、そのことを自己決定する際には、
本来は、明確な「決定基準」というものがあります。
言うまでもなくそれは「自己決定」なので、社会や宗教とは全く関係のないものです。
しかしこの話は面倒な話になりますので、今回はしないでおき、
別の話をします。
■私が今回、人間の形として、この時代の地球に生まれて、
ある年齢に達してから、最初に受けた、カルチャーショックは、
ここの人間の「価値観」のあまりの曖昧さです。
よく、それで毎日毎日、自殺もしないで、生きていられるものだと、
呆れたのを覚えています。今でも、毎日、呆れていますが。
そもそも、どのような形状を選択する場合にも、その生命経験には、
前もって「契約書」のようなものがあり、
明確に課題を決め、それを実行するために、具体的な座標の中に、
具体的な形を選択して生まれるものです。
■ところが、ちょうど、社会に出て働き始めたころに、
私がびっくりしたのは、ここの人たちは、価値観を持たずに生きている
ということでした。
私が元いた世界では、それは、まったく信じられないことでした。
厳密に言うと、地球の人たちは、主体的な価値観がないとも言えますし、
どうやら、かなり原始的な価値観しかもっていないというのが
私の感じたことでした。
原始的な価値観とは、すなわち、「生きることは大切だ」という、
「動物よりも劣る価値観」です。
多くの人間たちが、動物を見て、彼らが生き抜こうとしてさまざまな
知恵を得たり、進化した様子を推測して、
生命とは、何としてでも生き延びることに意味がある、
とでも、とんだ大きな勘違いをしています。
しかし実際には、生への過剰や執着というのは、人間よりもずっと小さく、
見た目ほどには、彼らは必死になって生きようとなどしていません。
■それで何が言いたいかと言いますと、
「命が何よりも大切だ」「健康が何よりも大切だ」これが、
今日の、脱原発運動などの基礎にもあるわけですが、
これには、何か非常な違和感を、私は感じるのである。
なぜならば、「命と健康が大切だ」というのは、
その為には、どんな事(論や手段)でも肯定されかねないからです。
実際に、個人や特定集団(たとえば人間たちだけの)の命と健康が大切だ
という発想から、
生存競争や競争社会や、弱肉強食の正当化が開始されるわけですから。
■しかし、そもそも、この一過性の「命よりも重要な事」の為に、
あえて、この一過性の生存形態を選んだのが、もともとの筋であり、
命よりも重大な価値観に支えられていない人生など、
全く何の意味もない、というのが、私が元々いた場所での当たり前の感覚であり、
それは今も全く変わりません。
■ただし、言うまでもなく、「命が何よりも大切だ」というこの稚拙とも、
幼児期とも言える考え方に対して、いわゆる精神世界主義は、
なんらの拮抗も対抗も出来てはいない点には、注意すべきです。
「何よりも命が大切だ、だから生き延びろ」という程度のことしか
いえない人たちというのは、「金かすべてだ」「愛が大切なのさ」とか
軽はずみに言ってしまっている人たちと、ほとんど同じで大差ありません。
_____________________________________________________________
■さて、少しずつ問題の本質に接近してゆきますので、
ゆっくりと着いてきたい人は、着いて来てください。
ついてきたくない人は、さっさと他のサイトをクリックしてください。
■自分一人のここでの生存に、どのような価値があるのか、
というのは、重大な問題であるのにも関わらず、
多くの人たちは、それに対して、非常に他力本願で、依存的です。
この事は、前にも話しましたが、多くの地球の人たちは、
「あなたは、これこれの為に生まれたので、生きている価値はあるのですよ」
と言って欲しくてたまらず、その為には、確信が持てようが持てまいが、
そうした「価値観」に、徹底的にしがみつく傾向があるということです。
そして、その価値観は、多くの場合に、
自己存在の意味を肯定するようなものばかりに偏向します。
■しかし、自分が生きているということに、
自分自身が、本当に自主的にその価値の有無を決定できないのであれば、
その人は、死ぬまで、次のような精神状態のままで終わります。
「自分に生きている価値があるかを、確信なんて出来ないさ。
まー、とにかく、生きていれば、何か分かるかもしれない」
これは、つまり、負け続けているギャンブルであるのに、
いつまでも、だらしなく「やっていれば、いつか、元が取れるんだ」と
競馬やパチンコに中毒している人間と、全く変わりません。
「やっていれば、そのうち元が取れるさ」という楽観主義と同じぐらいの軽薄さで、
地球のほとんどの人たちが、人生の約80年を過ごしているのを私は見て、
とても不思議に思いました。
____________________________________________________________
■話はここで、唐突に変わりますが、
価値というのは、常に相対的なものですから、
誰が誰の価値を決めるかという形での、他者の価値というものがあります。
たとえば、この地球では、「偏愛」が大切だと言われています。
普通は、「愛が大切だ」と言いたがる地球の人が多いのですが、
残念ながら、自分の家族や、あるいは全くの他人の為、
または、敵に対して、愛情深く、無抵抗に命を投げ出してすらも、
まだまだそれは全くの「偏愛」か「自己愛」にすぎないので、
私は、それらを、ゆがんだ「魂胆のある偏愛」による、
ゆがんだ犠牲的精神の誇張と呼びます。
■それで、地球の人たちが言っている愛というのは、限られた特定の
対象に対する愛着のことであり、無条件などと言えた代物ではないのですが、
、
この愛着という感情が発せられる場合のエネルギーの総量と、
恐怖感が発せられる時のエネルギーの総量では、
桁違いに、「恐怖感」の方が、高い価格で取引されています。
誰によって、私達の感情が、商品原料として「取引き」されているのかは、
今さら無明庵の読者の人に解説するつもりはありません。
■そういう、地球人を医薬品の作物としてビジネスをしている側の
生命体の視点から見れば、愛(愛着・偏愛)など、全く価格がつきません。
それよりも、恐怖の方が遥かに大きな価格で取引されていますので、
恐怖を発する人間の方が、ある者たちにとっては、価値がある、
ということになります。
たぶん、それは、人間たちが、取れたての野菜や魚を
おいしいと思うように、彼らのテイストにかなう、人間の感情というものがあるからです。
彼らは、もう過去に、愛情などは食いすぎてしまっていて、飽き飽きしているというケースもあります。
あるいは、彼らにとっての薬品として生成するためには、恐怖心の感情の方が
重宝されるという事もあります。
ただし、恐怖心だけが価格がつくのではなく、
人間が発している、以下のような主な感情波には、すべてそれなりの価格がつきます。
・憎悪
・嫉妬
・殺意
・恐怖
・執着
・愛着
・悲しみ
・笑い
・後悔
・自責
・退屈
・自己否定
・焦燥
・葛藤
などなど。
たとえば、精神世界でまことしやかに言われてる愛情という名の偏愛、
つまりは、自分以外の何かに執着して、それを生き延びさせようとする
感情などは、たいした価格では取引されていないのです。
つまりは、人間(あるいは一部の、異星人の言う説教人)が騒ぐほどの、
たいした価値はそこにはない、ということなのである。
■むろん、一方では、愛着というものを高く買う連中もいますが、
この根本的な理由は、人間が自己愛であれ、他者愛であれ、
それを必要以上に美化してしまう原因は、それが脳にもたらす、
自己陶酔の感覚に酔っているという面もありますが、
もっと大きな理由は、愛着というのは、別の次元の生命から見ると、
「接着剤」の原料になるからです。
人間の、恋愛感情や、子供への偏愛感情、あるいは博愛精神が出す、
あの独特の、ねばっこい、粘着性を考えれば、皆さんも、少しは想像がつくはずです。
一方で、それは、必要以上に結合した物同士や、
何かを洗浄するときには、役に立ちません。
つまり、分離力と決合力のどちらが価値を持つかという論議は、
あくまでも、その時の「用途」によって変わるものである。
宇宙を分裂させなければ大変なことになるといった事態が生じたときには、
ここで、愛着と呼ばれている感情原料は、何の役にも立たないこともよくある、ということである。
■さて、ここまでの話は、他の生物が地球の人間から、
感情を搾取して、産業に利用する場合の話でしたが、
一方で、それとは関係なく、生命自身が、自分に与える価値観というものがあります。
簡単に言うと、あなたの飼っている犬が、
あなたにとって、どんな価値や意味があるか、ではなく、
その犬自身の自己認識の中で、どんな意味や価値を持っているかです。
■それで話は、また戻るのですが、
私が、とにかく、この世界で、びっくりしたのは、
「自己価値」に関する自己認識を、この惑星ではほとんどしてない
ということです。
たとえば、「この村が存続するために、原発にを建設するのが必要だ」
という村人の価値観は、村の存続が大切であるという集団的な価値観によるものです。
その価値観、それ自体を私は悪くいうつもりはありません。
しかし、問題は、それが絶対的な善、または絶対的な価値観となってしまう場合です。
そうではないという反対の価値観が、そこで拮抗したり対抗することが
自然である社会なのであれば、
結論を出すことを急がなくとも良かったのですが、
ここで登場する価値観が、またまた、
「だってよ、村人さが生きてゆくのに、必要だべさ」という価値観である。
地球の人たちというのは、いつも最後には、これを持ち出すという点では、
この人たちには、「生存より他に目的はないのか?」と、私はいつも疑問に思いました。
■そもそも、生存は「別の事の手段」であるのが、当たり前の文化の中で
育った私には、生存主義そのものが、信じられないのでした。
しかし、どうも、地球の人たちというのは、
「愛する為には、まず生きていなければならない」
と思い込んでいるようです。
しかし、これって、全く間違っていませんか?
私は、逆だと思いますよ。
もしもそれほどまでに、愛着を貫きたいのであれば、
それは、生死には関係なく貫けばいいだけです。
なぜその前に、前提として、生きていなければならないのでしょうか?
もしも、それが、死んで果たせるならば、死ねばいいのです。
こうした、「まず生きていればこそ」、とうっかり、
周囲の空気に流されて、考えてしまうことを、
「物質至上主義」と呼ばずに、何と呼べばいいのでしょうか?
「生き延びることに意味がある」などと口先で言ってしまう人は、
私に言わせれば、ニューワールドオーダーの馬鹿どもと何ら変わりありません。
なぜならば、彼らは、
皆さんよりも、地球で生き延びるのに価値がある存在である、と妄想しているからです。
しかし一方で、皆さんは、「自分の方が彼らよりも愛情深いのだから、
愛情深い者たちこそ、生き延びる価値があるんだ」と、
基本部分では、彼らと全く「同じ論理構造」をしているわけです。
■価値がある方が、物質的次元で生き延びることが、
何か、このゲームの勝敗を決する結果であるかのように勘違いをしています。
■何度でも言いますが、地球では、生存する事自体に意味があるのではなく、
生存というのは、それ以前に自己決定した、
目的、課題、問い、そうしたものに結論を出すための実験空間です。
そこで結果を出したり、理解が住んだらば、
皆さんには、戻る家があります(かつてはありました)。
■それにも関わらず、肉体上の生存ゲームの方が、
自分が決めた価値観に沿って、自分は生活をしてきたか?
という自問よりも、生存それ自体の維持の方が、
生活の中で、大半を占める、重大な問題になってしまっています。
__________________________________________________________
■ここで話の主題が、また飛びますが、
私個人が、宇宙の中で、かなりの時間を費やした分野があります。
それは、各民族、各小宇宙、各銀河系から、
「価値観」を収集して、分析するという職業です。
私が収集していたのは、人間の感情でもなく、心でもなく、
あるいは、他の惑星や天体の人々のエネルギーでもありません。
私は、彼らが自分たちが生存したり、認識している宇宙と彼ら自身について、
「どのように、その価値を思考したか」、というそのコンテンツを収集するのが
私に与えられた、ミッションでした。
つまりは、「宇宙観」の収集のような作業です。
なぜそのようなものを収集しなければならなかったのかは、
それが、私の住む世界では、死活問題に直結していたからです。
■私の住んでいた世界では、そこの大多数の生命が、
生存の「価値」を感じなくなった瞬間に、
その世界の構造は滅び去るというのが原則でした。
(完全に無にまではなりませんが、主要な法則が崩壊します)
そこで、宇宙それ自体の「定義づけ」についても、いろいろな論議がされ、
いろいろな推論がされ、いろいろな検証がされましたが、
新しい価値観を導入しなければ、自分たちの作ったシステムは、
消え去るしかないという局面がありました。
こうした、思考と物質が、ほぼ完全に連結した世界に長く住んでいると、
ちょっと希望を失ったり、価値観を喪失したぐらいでは、
「びくともしない世界」というものを作ろうとした生命たちがいて、
その者たちが、現在の地球の、物理法則のデザインもしました。
■その話は、もう何度もしましたので、省略しますが、
強いて、私からの「皮肉」を言うと、こういう話になります。
↓
かつては、多くの生命たちが、地球に来たときに、
>>「おおー、すげえ、本物の痛みだ。」
>>「すげえな、これが病気というものか」
>>「すげぇ、すげぇー、これが飢える感覚と、食べるという感覚か」
>>「一定期間がたてば、違う乗り物を選べるように死ねるんだ。こりゃ楽だ」
そういって、昔は、皆さんの御先祖さまも、大喜びをしていたのに、
今ごろになって、(といっても、何万年も前から始まった不満ですが)、
「死にたくない」だの「病気は嫌だ」とい言い出している始末です。
■しかし、作られたときには、どんなに斬新で興奮した娯楽施設も、
必ず、それに「飽きる」という現象があります。
これは、客観的な宇宙現象というよりは、機能不全の一種がもたらした
「病理」なので、本来は、宇宙にあってはならなかったものなのです。
しかし、同じことを繰り返していると、なぜか「退屈感」を感じる
という機能のプログラムを、どこかの馬鹿が、考え付いて執行したせいで、
現在の宇宙のような、「この上もなく、不幸な状況」が発生しました。
■それで、私は、ある時期まで、いろいろな次元から、
「変わった価値観」「新しい価値観」などを収集しました。
しかし、ほとんどどれも、何億年も前からどこかしらの宇宙で、
使い古されたものばかりで、役に立つものはありませんでした。
ちなみに、今回、私が、この地球で人間の生を選択したのは、
価値観の収集の為はありません。
この惑星で、そんなものが収集できるわけがないからです。
■しかし、それでもなお、私の日々の生活にとっては、
「価値観」の軸の設定や、その変更操作は、ある時期までは重要でした。
私にとっては、価値観とは、それが「正しいかどうか」は論外であり、
まだ使えるか使えないか、だけが問題だったのですが、
ここで私が言う「使える」とは、肉体とは違う意味での、
「生存や延命にとって、使えるかどうか」ということです。
しかし、それもまた、「別の次元での生存をかけた模索と苦悩」であった、
ということを、理解した瞬間から、
多次元宇宙の中にある、異なる価値観を収集する私の仕事は、終焉を迎えました。
■「価値観」とは、多くの人にとっては、しがみつく為のもの、
あるいは、自分という船を固定する「錨」のようなものなのでしょうが、
私にとっては、価値観とは、自分たちの宇宙を、改変しながら、
新規に合成する為の原料に過ぎませんでした。
ここで唐突ですが、この話を続ける気分ではなくなったので、やめますが、
★ ちなみに、価値観の「定義」とは、
>多数の事象の中から、
>その事象全体が、
>そこに存在しても良い、と許諾・容認する事を目的として、
>その多数の事象の中から、
>とりわけ、保存したり発展させようとする対象だけを分離し、
>それ以外のものに対しては、
>無関心になる、敵対し否定するという逆効果をも持つもので、
>宇宙の知性体生物たちの文明の中では、頻繁に活用されている
>「知覚制限法」の一種である。
■最後に、こうした宇宙観を、簡単にまとめたツイートが以下です。
★原発反対派も推進派も、どちらも、
「命と健康が、何よりも一番大切だ」などと言っているうちは、
「金が大切だ」とか「愛が大切だ」と言っているのと変わりない稚拙さと、
言い訳の中にいるだけのことである。
★自分が「どうやっても死ねない生き物になった」
という「前提」をおいて思索しつくした結論以外には、
私は注目すべき価値観を全く感じない。
★特にこの惑星の人間というのは、
日常的に、常識や他人の言葉に踊らされているだけなのだが、
その典型が次の言葉である。「人間は死ぬものだ」。
だが私はこれを全面否定する。
「残念ながら絶対にあなたは宇宙からは死ねない」と。
となれば、貴方は何であれ、物事に価値を与える時に、
「永久に近い時間と、無限に近い空間」という、
「その尺度の中」でも耐えられるような、価値観を考えねばならない、
そういう地獄に、突き落とされる事になるのである。
★
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