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無明庵日記●猫の足跡-その541● 【「弓と禅」の世界を現実に実現した、無心の技】
by:
鈴木崩残
2013/02/15(Fri)03:48:05
「無心剣」についての、よもやま話
●この話題は、「松の間」と「桜の間」の両方に関係する事ですので、
この「梅の間」で書いておきます。
また、そもそも、この「梅の間」は、当初「禅書」の為の間でしたし、
その禅書には、無心が応用されてきました。
そもそも、なぜ私が、「分割自我復元」のDVDの中で、
ひとつだけ、「無心剣」の動画を入れたのかは、観た人は分かる筈です。
そこで解説をしているように、
そもそも、「自我判定」をする時に、無心は応用されており、
また、「カウンセリング書」「無無心の書」いずれも、随所で、
「無心」が応用されているからです。
これなしに、今日の無明庵はありませんでしたが、
ただし、今は、それを皆さんに実現させることを、
私は、メインにはしていないという事です。
(「バナナを創った宇宙人」に記したように、そもそも自我の欲望を
生きてもいない人間、5つの条件を満たしていない者は、
無我などには手を出してはならないからです。)
ただし、自分がこれまで培ったこの「無心」にまつわる領域を、
自我判定や、禅書作成での試行錯誤の過程、そして手裏剣術の中で、
「実現」し、応用している、という点が重要です。
●口先だけで「無心」を言ったり、全く無心について体得もしていないのに、
大げさに語ったり、分かったようなことを言う、学者、坊主、武術家は
腐るほどいて、実際に、彼らは腐っています。
そもそも、無心というものは、太古から一部の体験者には、
自明の事実でしたし、普通の人でも一生に一度ぐらいは、
全く意図せずに、物事が良好に運んだ経験ぐらいはあって当然です。
ただし、それを意のままに「再現」しようとすると、
その人は、一生を、そのことに無駄に費やしてしまいます。
しかも、基本的な思考のトリック、基本的な意識の構造に無知であるので、
一生、それは鼻の先のニンジンのように、手には入りません。
そもそも、それを「手に入れる」という概念が間違っていますから。
それは、絶望も希望もない時に「向こう側から訪れるもの」だからです。
●この無心ということは、そもそもが、
それを語って良い分野は、せいぜい、ぎりぎりで「禅の分野」のみ、
または、老荘などの「タオイズム」の分野であって、それ以外では、
安直に口にしてはならないものです。
今のような、腐敗しきった仏教や、そもそも、
「お前、それ、仏教でなくて、ヒンドゥー教だろうに成り下がった仏教」
でも、無心など、口にしてはならないのです。
無心は、断じて、信仰や信心ではありませんから。
無心は、夢中とも、我忘とも、無我、無意識とも違います。
●しかし、とある、有名な本の次の一節に、
多くの人が、夢を見て、それに憧れ、
そして、最後には、
それを、体験も出来ず、形として実現も出来ないままに、
口先だけの人間に、成り下がってゆきました。
以下、人騒がせな、その部分の引用です。
******************
ヘリーゲルが「夢遊病者が無意識に正しい道を歩くように」、
「目隠しをしても中てられる」と語ったときに、
阿波範士が射は無意識な行為でなく、
最も"精神的に覚醒した状態"であることを示した"射"がある。
夜、あづち(的をすえる砂の壁)の電燈を消し、
的の前に点火した針程の線香を立てて範士が二度"礼法を舞う"。
点燈してみると、第一の矢(甲矢)は的の黒点の中央に中たり、
第二の矢(乙矢)は甲矢の筈を砕き軸を少し裂いて甲矢と並んでいたという。
この離れ業は伝聞でも伝説でもない。
ヘリーゲルが昭和の始めに日本の仙台で現実に実見した事実である。
彼は「矢を別々に引き抜くに忍びず、的と一緒に持ち帰った。」
"見ないで見る"の実現である。
●実際、私が今日まで、手裏剣術で、体現を試みてきたのは、
このこと、そのものです。
しかし、俗っぽい武術家の世界では、「弓と禅」に対しては、
バイブルのようにアホウな信奉をしているくせに、
実際に、手裏剣でそれに近いか、それを超える現象を見ても、
「ただの的当て」「曲芸」と酷評されるのみであった。
もっとも、彼らに、そもそも「無心」などわかるわけがあるまい。
●第一、私が気に入らないのは、
人を殺す目的で作られた武器(この場合は弓矢)を使って、
無心がどうのこうの言うな、という事である。
私が、手裏剣を、無心の体現の道具として選んだのは、
ひとつには、手裏剣術と出会った偶然と、子供のころからナイフを
投げていたという必然によるものだが、
その大きな理由は、
「棒手裏剣」は、歴史上、最も殺生をした事の少ない武器だったからである。
どう考えても、棒手裏剣のみが、人を殺した記録はほとんどない。
(皆無ではなくとも)
弓矢や、刀剣類や、銃が人を殺した人数に比べたら、
手裏剣で殺された人間の数など、
この数百年で、数十人(いや十数人)にも満たないことだろう。
そうした「殺生に血塗られていない」武器であったことが、
私が、手裏剣を、
人間の卑しい心に汚されない「無心」を体現する道具にしようとした
大きな理由でもあった。
だから、私は、スローイングナイフを使う場合にも、
サバイバルナイフや、ダガーナイフではなく、
サーカスなどの曲芸用に特化された刃のほとんどないものを使っている。
ですから、極力、殺生や暴力とは関係の薄い位置にある、
棒手裏剣という武具を使うことになったのであった。
******************
●そんな私の、「無心剣」については、
武術の世界の人でも、あるいは、精神世界という分野の人たちですらも、
その本当の「本質的な奇跡」と「それが持つ意義」を見ることの出来る人は、
全くいなかった中で、
唯一、「無心剣」に大きな興味を持ったのが、
「桜の間」に登場した、「戦車さん」でした。
「戦車さん」が、私の「無心剣」について感想を書いたとき、
それが単なる社交辞令でもなく、単に、感動しているのでもなく、
私に媚びているのでもないことは、すぐに分かりましたし、
それはまぎれもなく、そこで起きていることの重要性を、
直ちに、はっきりと理解していました。
●だから、「松の間」で、紹介した、平成25年の2月11日に、
「7間距離」から「無心剣」を成功させた、
標的となった「ディスク」と、その時に標的の穴を貫いた「剣」を、
私は、「戦車さん」に、謹呈させて戴きました。
この動画です。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=0_81G12j7_c
●このような贈呈は、
武術をしている人にすら、私はしたことはありませんし、
無明庵の精神世界の読者でも、ただの一人もいません。
これまで、無心剣で真ん中の穴を貫いた「ディスク」のいくつかは、
今も、我が家の神棚に奉納されています。
それらは、私自身が、手放すことを躊躇するほど「プライムレス」なのです。
価格のつけようなどありません。
もしも、注文されて、
「6間以上の距離から、無心剣で成功したディスクを作れ」といわれたら、
一体、何日かかるか分かったものではありませんから。
最低でも100万円以下では、絶対に誰にも譲りません。
(プライムレス、とか言いながら、価格をつけてしまう私であった。笑)
●ですから、今まで自分の研究用の記録として保存してあった、
成功したディスクは、誰にも差し上げたことはありませんが、
今回は、挑戦を始めた、そもそもの「最初の目的」が、
「無心剣」について、この約10年の間に、
唯一、誤解でもなく、妄想でもなく、単なる賞賛でもなく、
「正しい理解」をした「戦車さん」に、
「新規に成功させたディスク」を、贈呈させて戴くことでした。
その為に、6日を要しました。
もしも、ただの個人的なテストだったならば、私は一日でやめています。
●この「謹呈する」という目的があったからこそ、最後まで出来たという意味では、
これは、それ以前にやった、
6間からの「反原発と廃炉への願掛け手裏剣」と同じです。
あれも、私個人の為に行ったのではなく、
「廃炉を祈願するための呪詛」として行いました。
それが、6間から回転するディスクの穴を刺す事の「きっかけ」だったのですから、
志を同じくして、脱原発を望み、その為に、
「アンチテーゼ的な、ユニークなコント」で活動をしている、
「尾米タケル之一座」のメンバーに謹呈させて戴きました。
つまり、その「無心剣」をすることに、動機や目的がある場合には、
その目的の「きっかけとなった人」に、それを贈呈させて戴くのは
私にとっては、当然のことなのです。
●ふだんは、私が「無心剣」を行う動機は、
自分の研究の為と、趣味と、無心を楽しむためでしかありません。
それは私個人の「道楽」です。
しかし、その「無心剣」を行ったことに、その、きっかけがあり、
目的がある場合には、それは、遊びではなくなります。
もっとも今回は、
下手に、それが遊びではなくなってしまったからこそ、
少しばかり、雑念が増えてしまい、苦戦をしてしまったわけですが。
たとえば、
「ぜひ成功させたい」とか、「前に出来たのだから出来る筈」だ、
とかいう、「もろに雑念」が介在してしまったのです。
それでも、「投げる事を忘れた無心」に、どうにか入ることが出来て、
確率の5分の1程度で成功したことには違いありません。
●そして、それを、受け取るだけの「器」と、
今後、人生の中で、「それを応用できる可能性」を持つ人にしか、
私は無心剣の成果を届けたくは、ありませんでした。
そして、その器が、「戦車さん」だったのです。
観て「凄い」と思ったり、「いちおうの賞賛」をする人は今までにもいましたが、
そこで起きている事の、本当の「本質」を、
観て、すぐさま直感的に理解したのは、「戦車さん」のみでした。
もっとも、「戦車さん」の頭の中には、前述した、
阿波研造範士のエピソードもあっただろうとは思いますが、
それだけではなく、本質を見ていたことは、次のその言葉に表れています。
>「惹き込まれたのは、投げる前の、背中・・・・」
***************************
実は、うちには「弓と禅」の本はありません。
ああいう、外人や日本人が、
安直に、神聖化してしまうような話には興味がないので、買わないのです。
だから、ネットで断片的に一部を読んだことしかありません。
さて、では、その本には、どう書いてあるのかというと、
私も今回、初めてそれを読んだのですが、実に興味深かったです。
以下は引用。
↓
(一)、
正しい"引き"は、「引かないで 引く」のでなければならない。
腕や全身の力で引くのではなく、身体の力を抜いて引くことである。
ヘリーゲルは失敗を重ねた末、
正しい呼吸法の指導を受けてこの難関を突破した。
(二)、
普通は、矢を放つとき、衝撃によって身が動揺する。
正しく放つには、その衝動を吸収して、身を不動に保たなければならないが、
矢を放つことにとらわれ、意識している限り正しい"放ち"とはならない。
放つことを忘れ、無心になる つまり"心の力を抜く"とき、
矢は正しく放たれる。
(三)、
最後の難関は、"中てる(あてる)"ことである。
これの逆説は"見ないかのように見る"である。
ヘリーゲルは阿波範士が模範として射たとき、目を閉じているように見えたという。
●つい、さっき、私は、生まれて初めて、この部分の文を読んだのですが、
これとほとんど「全く同じこと」を、
今まで手裏剣でやってきていたことを痛感させられました。
「無心剣」に限っては、私がやっていることは、これと「全く、同じ」です。
(むろん「普通の稽古」では、自分が構築した「型どおり」にやりますので、
これは「無心剣」をするときのみの事です)
さて、上述の記述と、一箇所だけ違うのは、
私は、「呼吸法」は使わないということです。
呼吸は、まったく自然に任せています。
●私は、標的の「方向」はおおざっぱに見ますが、標的上は見ません。
いつ手裏剣を放つかのタイミングは、
回っているディスクの角度を見て予測しているのではなく、
体が自然に動を開始するに任せようとしています。
その為には、身体の力は、最低限、立っている力を除いては
ほとんど脱力しきっています。
投げる前の数秒は、全く何も考えていません。
鳥の音や車の騒音にも、全く無反応です。
しかし、意識だけはあります。
ただしその意識の大半は、私の「体の中」にはありません。
そうしないと、人為的な作為を、完全には忘却できないからです。
また、少しだけ、私が体の外へ出ることで、
どうしたら回転して揺れるディスクの穴に刺すかを、
脳が自動的に計算をしてくれます。
●この現象は「無心」とは言っても、なんらオカルト的なものではありません。
何度か「松の間」で解説したように、
人間が、余計な思考を排除して、あるプログラムだけをしておくと、
目的とした結果を出すためには、どうしたらいいのかを、
無意識のうちに、頭が計算をしてくれるということです。
ただ、とても難しいのは、何かを理解したり、ひらめいてから体を動かしたら、
既に、もう「遅い」のです。
ひらめきと、体の動きは、全く「同時」に起きねばなりません。
正しく言うと、そのひらめきは、意識化されてはならず、
自分の身体の動きすらも、「他人事のように、傍観」している必要があります。
何よりも、「投げる(打つ)」ことを「しよう」としてはならないのです。
●その結果として、私は自分の体が、どうしてそのタイミングに動くのかを
分からないままに、それに全託し、従います。
そうすると、桁外れに困難な条件の標的に、剣が刺さります。
ほとんどの場合に、私は、標的を見てもいませんし、
投げる直前までは、目を閉じていることも、かなり多いのです。
●この、単なる、「的当て」に見える動作の中で、
意識の内部では、本当は、何が起きているのか、
そうした現象の真価を、私の動画の「背中」から、
正しく直感的に感じ取ったのが、唯一、「戦車さん」だったわけです。
その【戦車さん】のブログの「無心剣」についての記事はこちら。
↓
http://d.hatena.ne.jp/hukugensensya/20130216
******************
●この「無心剣」については、語り始めたらば、
一冊の小冊子になるほどに、いろいろなエピソードがありますが、
今回は、あえて、
「武術」と「無心剣」についての話で、最後を締めくくります。
武士は「正しい死に方」をすべし
●正しい死に方、つまり、いつ、どのように、死ねばいいか、
それを心得ている武人など、一人もいません。
そもそも、武人とは、昔の時代であれば、生き延びるのが目的であり、
また、恥を受けるぐらいならば死ぬ、というのが、その生き様でした。
しかし、そもそも、何かの機会に、誰かと戦う状況となったとき、
自らの「生死」のうち、そのときに、
「死すべき」なのが、その後、社会や周囲の運命にとって正しいのか、
それとも、「生きるべき」なのが、その後の自然の流れなのか、
それを判断できる知性を持つ者など一人もいません。
自分が生き延びる理由も、自分が死ぬ言い訳も、
すべて、その人が、頭で、拵えたものにすぎません。
●しかし、ここに「第三の道」というものがあります。
それは、生き延びようとしないこと。
と、同時に、死のうともしないことです。
生死という考えを離れ、
「死にたくない」、とも思わず、
また、「生きたくない」、とも思わず、
自分の生死それ自体のなりゆきを、無為に、自然に、
すなわち、「無心」に任せる、という在り方です。
厳密には、これは生き方なのではありません。
これは「生きる以前」の「あり方」です。
主義や、思考以前の、「存在の仕方」そのものです。
考えや、思想や、主義よりも以前の、本質的な意識の問題です。
●従って、もしも武人、武士が、
「無心」を体得したらば、その瞬間から、
その武人は、「君主に支えること」は不可能となります。
なぜならば、かつての武士は、自らの生死を、
君主にゆだねていましたから。
君主が勝て、と言えば、勝たねばならず、
君主が死ね、と命じれば、死なねばなりません。
それが「雇われた武士」の義務です。
もしも、君主に雇われたくないならば、
「浪人」になるか「刺客請け負い」でもやればいいのです。
しかし、それでもまだ、小ざかしいことを考える「人」に過ぎません。
●しかし、無心を体得した瞬間から、
その武人は、命そのもののやり取りを「敵との間」ではなく、
自然、あるいは、無為の世界、あるいは複雑な運命の折り目との間で、
やりとりすることになります。
そこで、
敵に勝つことが「無為自然の道として正しい」ならば、勝てる。
しかし、
負けて死ぬことが、「無為自然の正しい」ならば、負ける。
むろん、その為の「修練」は積みますので、
勝っても負けてもいい、などという気持ちで、
普段の稽古に臨むのではありません。
しかも、実際の戦いの場では、
自分が生きるべきか、死ぬべきか、
どちらが正しいと「知って行う」のではなくて、
敵に、「勝とう」とはしておらず、また「負けよう」としてもいない。
ただ、無心に敵を含む「その場」に、対し、
倒すことを思わず、
自滅することも思わず、
体が動かなければ、一点迷いもなく、殺されてよし。
体が動けば、一点の躊躇もなく、相手を殺す。
しかも、主体たる者は、そうしようとは、全くしていない。
●この、荘子や、禅の見性の境地に至るまでは、
どんな武人が、
どんな道徳や、礼法や、人徳や、人格を説こうが、
どんな理念や、理想を重んじようが、
ただの人殺しモドキか、あるいは「俗僧」にすぎません。
あるいは、自分は人殺しを出来る、
または、自分は、人助けが出来るという、
ちっぽけな自負を夢に見て、
この宇宙の、永劫の時間と空間の中で、
ほんの、つかの間のあいだ、
「自分は何者かである」ということを、
自分ではない者たちに「夢見させられた」だけの「猿」で終わります。
いや、実際には、
自然界で、無為自然に生きている猿たちよりも、「ずっと以下」です。
●むろん、地球で、人間という種として生きることを、
あなたは、自分で「選択」したのですから、
人とは何かを、他人の言葉によってではなく、自分の頭で考えて定義して、
生を楽しみ、苦しみ、経験をしなければなりません。
ただし、努力だけでは、どうやっても、足りないものがあります。
いや、正しく言えば、足りないのではない。
「余計なもの」を持ち過ぎているのだ。
努力をしようとし、
欲したり、望んだり、
避けたいと思ったりするが故に、それに故に、
人間には、どうにも出来ないことがある、ということです。
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