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2007年3月までは
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読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[1828]
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無明庵日記●猫の足跡-その578● 『シンパシー』
by:
鈴木崩残
2013/05/27(Mon)10:22:42
『シンパシー』
●「桜の間」に書くほどでもない、オカルト話、あるいは雑話なので、
この「梅の間」に書いておきます。
また、性の問題も含むので、「梅の間」がいいでしょう。
●のっけから余談ですが、
人間に対して、人間外の知性を持つ存在が、不可視、または可視領域で、
「命じられた仕事」や、「義務」「罪滅ぼし」「自分の昇進」などとは無関係に、
「おせっかい」な、援助をしたくなる場合、
そのほとんどの動機は「シンパシー」を感じるという理由です。
これ以外の理由は、基本的にありません。
たとえば、哀れに思う、というのは、
直接には手を差し出す理由にはなりません。
●私は猫は好きですが、昨日などは、
近所を徘徊していた檻で、凶暴性のあった猫を生け捕りにして、
遠くに捨ててきました(むろん、いじめてはいませんし、触れてもいません)
ただ私の近所の縄張りでは、ブリジットやラインお嬢様を襲うことが
しばしばあり、全治2週間という怪我もさせたので、
数キロ先の土地に「流刑」にしただけです。
ちゃんと、民家群も近くにある山林に放したので、食うものに困ることもありません。
今までは、ブリジットやラインお嬢様のメシを、横取りしていたのです。
横取りするだけなら、まだしも、レディーを襲って縄張りを主張したので、
アニマルキャッチャーなる「罠」で捕縛しました。
まー、これも一種の余計な手出しというやつですが、
人間の住む町と共存している猫は、なかなか純野生とはいかないので、
環境管理が必要になるわけです。(責任ある餌付けや、去勢手術など)
●で、話の本筋は、そういうことではなくて・・・・、
以前に、子猫が近所の車の下に迷い込んできました。
まだ生後1ヶ月ぐらいです。
しかし、そのときには、私はその子猫は、放置しました。
数日すると、死んだのではなくて、どこかへ自分の足で移動しました。
その猫の目を見て「この子は、これから立派に自分でやっていける」
と確信したので、手を差し伸べませんでした。
その動物の本人の意志や、その運命を尊重しないとならないので、
むやみに、拾って育てたりはしません。
私と縁があるかないか、あるいは、拾われて保護する縁であっても、
里親に渡すところまでが私の役目という場合もあり、
以前に、そうした事例もありました。(動画になっています)
*********
●それで、テーマは「シンパシー」なのですが、
シンパシーには、同情という意味もあるようですが、共感という方が、
日本語でも一般的な意味として使われています。
同情というと、なにやら、とても上から目線ですから。
●人間ではない存在が、人間に対して、何かの助力をする、という場合、
単に困っているだけでは、行動に移さないことがほとんどです。
かならず、何らかの共感を感じる場合がほとんどです。
中には、シンパシーは感じないが、運命的といいますか、
「それ以外の道はなかった」という「必然」で縁が出来る場合もあります。
たとえば、博士君と私はそうです。
私は、特に、彼にシンパシーを感じる部分はないのですが、
とにかく、うちでは、甘やかし放題の、王子様扱いです。
それが、今回の生で、彼が選んだ「猫生」だからです。
●「王子様」で思い出した。
「幸福な王子様」という童話があり、小学校のときに、
いわゆる読書して作文を書くという中で読んだものだった。
別に、読みたくて読んだわけではなくて、
適当な童話を選んで、適当な感想を書いただけであった。
ラストは、マッチ売りの少女ほどではないにしても、
まー、どう「解釈」をするかにもよるが、アンラッキーな終焉である。
●自分の身をはいで、誰かに何かを施すという行為は、
いろいろな意味で「プレゼント」と呼ばれたり「支援」と呼ばれたり、
するのであるが、
人間社会の場合、どうも、純粋な娯楽性とか、シンパシーからのものではなく、
「見返り」を要求する心が潜んでいたり、「恩着せ」だったり、
あるいは、前述したような、自分の善行の積立の道具に、他人を悪用したり、
罪滅ぼしの代償行為だったり、義務的だったり、売名行為だったり、
あるいは、相手の恋心を引いたり、
相手と寝るための手段にしようとする人間たちが多く存在する。
●それで「幸せな王子」の話は、まー、見返りは何もないわけだから、
一種の、余計なお世話であり、本人が、したいからしているだけで、
果たして、王子が、何のシンパシーを人間に感じていたのかは知らないが、
まー、ああいうことは、不可視の次元では、よく起きることです。
「幸せな王子」は、1人の女性に自分の身を剥いで貢いだとかではないので、
あの王子の童話の場合には、「複数」への援助という形となる。
まー、実際には、あの童話のヒーローは、
一番よく働いた、「ツバメ」なんですけどね。
●それで、そんな話ではなくて、・・・・
えーと、何を話したかったかというと、
かつて、非人間で、不可視の領域で私が生存をしていた時代にも、
私も、似たようなことをしたことがあったのです。
たとえば、困っていそうで(しかも、シンパシーを感じる人間)が
草むらで「宝石」や「金目のもの」を拾うようにしたり、
大金が転がり込むように操作したり、病気を治したりなどである。
まー、それをしたところで、
自分が昇進、昇格するわけでもなく、ギャラが入るわけでもないので、
よくある、「大きなお世話」にすぎないのだが、
いくつか、そういった援助をしていたのを、
私が突然にやめた、きっかけがあった。
●それは、人間が、困っていたときに、
道端で、金目のものを拾うようにしたり、
その他、道に迷っていたときに、脱出方向を教えたり、
病気を治療したり、不満を解消したり、
あるいは、時には、キューピットのようなことをしたり、
逆に、別れさせ屋をしたりと、
いろいろと、いくつかを経験してみたのであるが、
私が、金輪際、あれは、もうやめようと、思ったことがある。
それは、それこそ、「幸福な王子」のように、
「名乗らないで、密かに、誰かを助ける」ことである。
あれだけは、二度とすまいと決心し、今日に至っています。
●なぜ、私がそう決心したかというと、
困っていたところに、どこからともなく、救いの手がやってきたり、
助かる現象が起きると、あの人間どもは、決まってこう言ったからだ。
「あー、神様に、感謝いたします。」
それを見た瞬間に、
「おいおい、そこの人間。やったの、この私なんだけど・・・」、
と、はっきりと言うべき理由が発生したのです。
●もしも、「私がしました」と言わないと、
人間たちというのは、どこの誰かも分からない神や神々に祈りはじめてしまうのだった。
私たち個人にとっては、もとより、「勝手にやっていること」なので、
別に、祈られなくても、感謝されなくても、全くどうでもいいのですが、
人間が、そのことで、「不正確な信仰」を積み上げてゆくのが、
見ていて、耐えられなかったのです。
●人間に対して、いろいろな助力を施す生命体は、
可視領域でも、不可視領域でも、少なく無いので、
そういう存在たちが、おせっかいとして、そういうことをしているのであって、
何も、絶対的な神が、それをしているのではないと、
はっきりと人間たちに知らせないことは、
人間社会にとっても良くない結果になると、私は判断しました。
「この世界には、いろいろな存在たちがいるのだから、
なんでもかんでも、一つの呼び名で崇拝するな」ということ。
●それからは、私は、自らの名前をはっきりと名乗ってから、
たまに、人間を陰から支えることにした。
そうすると、人間は、
そんな、ただの「おせっかい心」からしている私たちに対して、
感謝してしまったり、人間から必要以上に頼られたり(依存されたり)、
慕われたり、崇拝の偶像にされたりもする結末となるのだが、
それでも、匿名で、黙ってやってしまって、
あげくに、それを「全能の神とやらの業績にされる」のは、
まっぴらご免だったのである。
それは、「教育上よくない」。これに尽きる。
●そんな中で、私は、その外見が、
いわゆる絶対的な神々であるなどとは、決して誤解をされることがないような、
ひとつの精霊の姿を選び、
人間の夢の中でも自分を名乗り、人間たちと関わった時代があった。
「バナナを創った宇宙人」のギリシャ時代に、
私が不可視の領域で活動したその姿は、これだった。
これは、生まれて初の、私の告白ネタです。
↓
本物の「原型」は、これとは、だいぶ違いますし、
本当の名前も、後世に作られたものと違います。
まー、その後世には、こんな形の偶像にも、されてしまいました。
『男性の方が性的価値がある』
●それで、大切なことを、ひとつ思い出しました。
今の世の中では、まるで、女性は、女性でありさえすれば、
男性社会の中で、性的に男性を誘惑できたり、
性的な手段で、男性から財産を巻き上げたり、
あるいは性的な、手段ならば、簡単に仕事になると思い込んでいます。
つまり、女性の方が、性を「売り物の商品」に出来ると、
男性も女性も、すっかり思い込んでいます。
これは、とても、馬鹿げた妄想だと、私は思います。
●なぜならば、肝心の性行為となった場合、
女性側が、自分で磨いた技術は何もありませんし、何も発揮されません。
多少の積極性はあったとしても、それは技術ではない衝動的な動きであり、
女性は、最終的には、受身ぎみとなります。
サービスどうのこうのといっても、
せいぜいが、フェラやペッティング程度で、多少の手淫や、
よくてせいぜい花時計や、大した変化のない腰の動かし方だけです。
●つまり、女性は、身体的な、なまめかしさや、セクシーさで、
男性が行為に「臨もうと欲情するところまで」の「誘引剤」とはなり得るでしょうが、
>肝心の性行為の中で、「女性が、発揮できる技術」とは何でしょう?
いわゆる性風俗の技と、言われているものは、素人と比べても、
特別な技術があるわけではなく、
あっても、それは男性に早く射精をさせてしまうにすぎません。
つまり、ただの「一方通行のサービス」としての技術だけが、
現代の性風俗にあるのみです。
●しかし、ギリシャ時代に私が学んだり、教えられたのは、
セックスそれ自体が、
「豊作を願ったり、豊作を祝う、儀式の一部」として存在した事もあり、
それは、男女がともに、「オーガズムを満喫し尽くすこと」の「場の力」が、
神々への「奉納」の「献上品」とされてきました。
そのような性の位置づけの中では、
性的な魅力(能力)というのは、本来であれば、男性が発揮せねばならず、
男性の協力と、技術なしには、女性はオーガズムには達しません。
●その点では、ただの性欲の、はけ口としてではなく、
本当の意味での、男女の性の同時の満足こそを「性」と定義するならば、
(私の生きた時代と世界は、それが当たり前のことでした)
「性的価値」とは、本来は、女性のオーガズムのための技術を持った
男性にこそ与えられるものです。
●今日のように、女性が、ただ衣服を脱げば、それで性的だの、
女性が、ただ体を許せば、それが、性だの、
外見やスタイルがセクシーであれば、それが性的であるだの、
そんな稚拙な概念は、私の生きた、その当時はありませんでした。
性の儀式にまつわる資格、技術、心得は、すべて男性の側が負担し、
またそれによって、「神聖な性行為」の価値が生まれたのです。
●すなわち、「性の領域での価値」は、男性が持っており、
女性の側には、特別な技術は必要とされなかったことから、
女性に求められたのは、「美の管理」のみです。
しかし、それが今日では、「美の管理」は、まー、良しとしても、
まるで、女性の方が、性的な商品として価値があるような扱いをされているのは、
しごく、見当違いで、「事実に反する」と私は思っています。
●いくら、外見やスタイルを維持しても、
ベッドで女性がすることは、さほど複雑なことではありません。
相手の男性に、いつかは「飽きられて」しまい、
気の多い男性には、簡単に、浮気されるかもしれません。
また、加齢とともに、女性としての魅力は失われて、
男性から、性的な対象としては、誘われなくなります。
●一方で、男性が、もしもきちんと性について学び、努力をするならば、
その男性の性の価値は「社会的、あるいは公共的な価値」すら持ちます。
そういう男性は、女性の方が、手放さなくなります。
つまり、性においては、女性に存在する、唯一の「特別性」は、
単なる外見と、あとは性格の良さのみなので、
男性を、長く惹き付けておくのには、無力なのですが、
男性における「特別性」とは、性の技術と持続力であるので、
長く、女性を惹き付けたままに出来ます。
●女性は、老いたり、体型が崩れれば、おしまいです。
しかし男性は、技術と能力があれば、年齢に関係なく、
その性機能が続くかぎりは、
女性たちにとっての「重要な価値」を持ち続けます。
だからこそ、私が当時、担当したのが、
男性の側の無意識と、その身体に対する教育だったのです。
(もうすこし、詳しい話は「バナナを創った宇宙人」をご参照のこと)
私は、不可視の領域でも、女性たち(いわゆる女神的な精霊たち)から、
沢山のことを学びましたが、
それは全て、「男女の交わりと和合」の「質を高めるため」であって、
男性だけが勝手に満足したり、
あるいは、女性だけが、勝手に満足(これはほとんど出来ない)する
そんな性の学問や、幼稚な性サービス業や、性の文化ではありません。
書籍の「虹のオーガズム」の「男女融合法」や、
書籍「性恋愛教本」の骨子は、
そうした私の過去の記憶から、再現したものを「かなり多く」含んでいます。
(全部ではありませんが。)
●今のような、堕落しきった性ではなく、
当時の、本当の性というのは、
「努力をして、能力を獲得した男性」に対して、
その価値が与えられるべきものでした。
女性の側には、実際には、たいした努力目標はないのですから、
女性は、セックスでは、
本来は、「自分の価値」など、主張できないのです。
せいぜい出来るのは、外見のみで、中身には、自慢するものは、
ほとんど何も持っていません。(出産機能以外には)
●ただし、性が双方向の儀式となった場合に限り、
女性側にも、明確で重要な「性的価値」があります。
それは、男性よりも長く、強いオーガズムを経験できるという点です。
しかし、それはそれを経験できる女性であってこそ、価値が出るのであり、
現代のように、多くの女性が毎回コンスタントにオーガズムを感じられないのであれば、
その時点で、その女性は、神的、あるいは儀式的には、「価値が無い」
ということなのです。
●女性が出すことの出来る、長く深い、「オーガズムの信号」にこそ、
奉納・献上品の儀式としての価値があり、
それを引き起こす能力をもった男性のみが、
当時は「価値」を認められていました。
だから、それを再現し、性の尊厳と価値を復帰するために、
私は「性の三部作」を書きましたが、
現代のこの腐りきった性文化と性風習の中では、
多くのカップルにとっては、豚に真珠となってしまいました。
●よく、別れ話になると、女性の方が男性に、
「私じゃダメなの?、私じゃ足りないの?」
とか言い始めるのが、お約束の定番ですが、
女性というのは、何を、思い上がっているのか?と思います。
なぜならば、
女性は、「私でなければ、相手の男性は満足しない」などという、
そんな武器、そんな知識、そんな技量は、何も持っていないのですから。
せいぜい、主張できるとしたら、美貌だけです。
●あるいは、昔の時代であれば、安産体質や、良い健康な子を産める、
ということが、価値を付加されたでしょうが、
その話は、私の専門でもなく、関心の矛先でもないので、ここでは取り上げません。
むろん、女性がオーガズムに達した方が、妊娠率や子供にとって良い
ということはありますが。
●それで、別れ際の「私ではダメなの?」ですが、
女性が、この言葉を言っても、(性格の問題ではなく)、
性的な問題では、何も利点を主張できないのに対して、
逆はどうでしょう?
「俺では、ダメなのか?」
女「だって、あんたは、早漏で、テクもないじゃない。
別の彼氏の方がマシよ」
これは、米国なら、裁判ですら通ってしまいます。
これだけ男性が、性的無能を責められるのが、まかり通るのに、
どうして、女性は、責められないのでしょうか?
法律的に、もしも、責められるとしたら、
「セックスを拒む」とか「冷凍マグロのように、やる気が無い」
という点ぐらいしかありません。
女性には、外見の容姿やスタイルには価値はあっても、
そもそも、性行為そのものの中では、
女性が発揮できる能力そのものの種類がないのです。
唯一、オーガズムに絶叫し、深い眠りにつく以外には。
*********
「どうでもいい雑談」
●最後に、どうでもいいような、つまらない雑談をします。
皆さんは、ご夫婦や、カップルで、お風呂に一緒に入るのが、
お好きだったり(男性か女性のどちらかが)、
また、風呂に一緒に入ることを変に誘われたり、
半ば、強要されることはありますか?
●もし、男女が、お風呂に一緒に入ることが、
その男女が仲が良いことの「確認のため」にやっているとか、
そういう馬鹿夫婦が、いたとしたら、それは、私に言わせれば、
いちいち、出社の時に玄関で、キスをするヤンキー夫婦と同じレベルです。
●実は、私は、女性とお風呂に入るのが嫌いです。
嫌いというより、原則として「やってはならないこと」だと知っています。
風呂場は、仮にそれが清潔で、十分に広い浴槽だったとしても、
風呂場は、体を清めたり、暖める場所であって、
性行為をするべき場所ではありません。
また、いたずらっぽく、いちゃいちゃするべき場所でもありません。
●私が、たとえ、ホテルのような広く清潔な風呂場であっても、
基本的に、女性と風呂の中で、いちゃつくのが嫌いな理由は明確です。
☆1/
第一に、お湯によって、体が温まるという現象に対して
身体がその加熱に対応した反応をするのに忙しくて、
体は、性行為など欲していないこと。
☆2/
次に、お湯の中では「皮膚感覚」が、とても鈍ります。
お湯の中だけではなく、お湯に濡れただけでも、
皮膚の「繊細な感覚」は、簡単に損なわれます。
仮に、お湯が、かなり、ぬるいお温度でもダメです。
つまり、全身が水で濡れていてもダメです。
皮膚が、さらさらしているほうが、敏感であるのは当たり間です。
唯一の例外は、風呂場の外の「洗い場」での、
オイルやローションプレイによるセックスですが、
これは確かに性的感覚を高めるのには、大変に良いとは思います。
☆3/
ただし、その場所が、
「湿気」が多すぎたり、
湯気によって「室温が上昇」していたらアウトです。
ローションプレイや、オイルプレイは、
普通の室温と気温の環境で行うべきです。
*********
ようは、「風呂場でなど、セックスするな」、
というのが、生理学的にも当たり前のことなのです。
☆4/
また、セックスではなくて、一緒にお風呂に入り、
マッサージをする、これも原則として、ダメです。
マッサージは、「風呂から出て直後」にすべきです。
また、本にも書いたように、風呂から出た直後に性行為をしてはなりません。
体がきちんと、普通に「冷える」まで、数十分必要です。
☆5/
また、もしも、髪の毛が濡れていたら、ほぼ完全に乾燥するまでは、
性行為をしてはならないと、強く戒めたはずです。
胃での消化にエネルギーをとられてしまうので、
食後は、2時間経過しないうちにセックスをしてはならず、
入浴直後も、ダメだと言ったはずです。
これは私が何十回と、何人かの女性と実験した結果、
明確に分かった事実なのですから。
髪の毛は、静電気が生ずるぐらい帯電していた方が、セックスにはいいのです。
●また、冬は「お風呂が冷めやすいから、経済的理由で、一緒に入る」
という屁理屈。これも、理屈になっていません。
経済的理由ならば、一人目が入ってから、すぐに次の人が入ればいいのですから。
私は、若い頃に、ブティックホテルに行ったときには、
女性と一緒に入浴しましたが、
それは、はっきり言って、時間の節約(休憩時間節約)のためでした。
できるならば、別々に入るのが理想的です。
もうひとつは、知り合って、まだ間もなければ、
ひとつの思い出作りを動機として、
一緒にお風呂に入る、ということはしました。
また、一緒に入ったときには、相手の体を洗うことを手伝う、
という三助(さんすけ)をするのは、私は一向に苦になりませんが、
ただし、風呂場で、性欲のスイッチを入れたいとは、全く思いません。
●ですから、
「仲良しであることの確認や証明」のために、風呂に一緒に入りたがる男女がいたら、
そんなもの、「風呂の外」の世界で証明しろよ、バーカです。
また、自分が、相手から慕われているかどうか?とか、
嫌われていやしないか?と、自分に自信ない女性とか、または男性が、
わりと、風呂に一緒に入ることに、こだわる傾向があるようです。
●ということで、
私は、まるで男同士が、
「一緒に風呂に入ったら、絆や、仲間意識が、どうのこうの」という
前時代的な、考え方を持つ人たちがアホウに見えるのと同じぐらい、
玄関で、出かけに、毎日のように、ハグしたり、キスしまくったり、
風呂に一緒に入ったら仲良しだ、とか、相手から嫌われていない、
とか「思いたがる」女性や男性が、本当に、アホウに見えます。
●そもそも、風呂というものは、温泉のような公衆浴場は別としても、
出来うるならば、「独り」で入るべきものです。
私は、「風呂に、独りで入るという、とてもプライベートな瞬間」に、
何かのアイディアを思いつくことも多いのです。
だから、そんな大切な、瞑想的な時間に、
誰か他人や、女性と風呂に入るのは、まっぴらご免です。
せっかくの、静かなプライベートタイムが、台無しになります。
これは、散歩に行くなら「独りに限る」という、私の持論と同じです。
散歩に2人で行って、うきうきする、なんざ、
恋愛初期の数ヶ月だけで、経験し終わるには十分であり、
しかもその上、そういうカップルは、
自分たちのアツアツ感情に夢中で、ちっとも周囲の景色すら見ていない。
自然に対する冒涜ですね。
●もしも2人、または多人数で、散歩する必要があるとしたら、
それは、共同で、何かを採取したり、樹海の自殺遺体の発見のためとか、
あるいは、1人だと「危険なところ」に行く、
1人だとできないことがある、
そういう場合に限ると、私は思っています。
ですから、独りの方が、
格段に「感受性」と「周囲への注意力」が高くなっており、
独りで、考え事も出来るので良い、と私が言っているのは、
あくまでも、「気楽な散歩」の話ですよ。
どこかへ必要あって「移動」したり、買い物をしたり、何かをするのに、
2人で歩く、というのであれば、問題ありません。
●ということで、・・・・私は・・・・
どんなに好きな人とも、
2人で「目的のない散歩」をすることと、
2人で「一緒に入浴」することは、
基本的に、私の人生の美観、価値観、技術知識に反するので、「好かない」のです。
どららも、独りっきりで、ゆっくりしたい環境、なのですから。
●あ、もうひとつ、他人とは、共有したくない大切な環境がありました。
それは、睡眠です。
他人、特に、異性と同じ布団やベッドに入るなど、まっぴらご免です。
むろん、事情からの例外はあります。
たとえば、セックスのあと、そのまま寝入ってしまった場合。
この場合には、自宅であれば、目が覚めたら、自分の寝床に戻ります。
もうひとつは、付き合い始めてまだ数ヶ月ならば、
そういうことも、たまには、ありますが、原則として、私は嫌です。
他人のオーラや、寝返りや、寝言や、歯軋りなどの音は、
お互いに、睡眠中に経験する内容の邪魔になります。
唯一の例外は、布団の中で、いろいろな話をゲラゲラ笑いながら
お互いに話すことが出来る異性がいれば、それはOKです。
ただしお互いにネタがない日は、お断りです。
ということで、
入浴、
散歩、
睡眠、
この三つを私が他人の共有したくない理由は、
ゴルゴ13ですら、この三つのケースでは「無防備」になる、
ということもあります。
さらに言えば、一緒に「排泄」をするカップルがいるでしょうか?
「ひとつの生物」として人間を見るならば、
最も敵に狙われやすいのは、
入浴時、
排泄時、
性交時、
睡眠時、
です。
ここで複数でいたら、自分以外にも、被害者を増やすことになります。
__
★
.
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