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無明庵日記●猫の足跡-その596● 【終戦記念日シリーズ】
by:
鈴木崩残
2013/07/27(Sat)08:11:22
開国しすぎてくれて ありがとう
■アメリカに対する皮肉たっぷりの動画を作ってみました。
↓
英語字幕の流れは、
第一段階・・・開国してしまって、ごめんなさい。
第二段階・・・調印させられて、さらに開国し過ぎてしまって、ごめんなさい。
第三段階・・・アメリカ様の、ご要望どおり、
国境なきまでに、超「開国」しすぎてしまい、
取り返しがつかなくなってしまい、申し訳ありません。
となります。
世界は日本をどう見ていたのか?
●毎年恒例の、終戦記念日前のメモです。
「桜の間」に、少しだけ私の母について書いたあと、
私の母が大正11年生まれであり、大正12年の関東大震災のときに
赤子の状態で、あの震災を経験していたことを思い出した。
そこで、昨夜、関東大震災の記録映像を探したところ、それがあった。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=s46RFPNBG1s
まだ生後約9ヶ月だった私の母に、母方の祖母は、
瓦に入れたミルクを、ガレキを燃やして暖めたという話を、
(祖母→母への話として)聞いた。
●大正11年生まれの母は、いわば、戦前、戦中、戦後の日本の全てを
見てきた、生き証人であった。
その点が、いわゆる団塊の世代とは全く違う。
この点については、この投稿に後述することとする。
まずは、動画です。
こうした見解について、右翼的と見るか、それとも正論と見るか、
あるいは、一部を認め、一部を否定するか、それは、
各自が判断すればいいことである。
●今回私が書きたいことは、戦前の日本の良さを知っていた私の母は、
戦争体験については、ごく庶民的な目線で見ており、
よって、当時の日本の良さも、戦中の日本も、そして戦後も、一環して、
「どう教えられたか」については語り、
当事者として、どう感じたかについては私に語ってきたが、
どう考えるかについては、情報不足の為、保留としていたようである。
*********
私の母が生きた戦前・戦中・戦後
●大正11年(1922年)に生まれ、
その翌年の大正12年に関東大震災を赤ん坊として経験した母が、
何を無意識的に感じ取ったのかまでは、私には推測は出来ない。
母は東京の神田に生まれた。
母は5人の子供、長男、次男、長女、次女、三女の長女であった。
母には年下の妹がいたが、おそらくは母が10歳頃に病死した。
●長女だからということで、何かの責務を負うこともなかった。
なにしろ、上には男兄弟が2人いるのであるから。
5人も兄弟姉妹がいると、
誰かだけが特別に可愛がられる、または排除される、
ということもなかったようである。
また、それは母方の祖父の温和な性格によるものでもあり、
私の(母方の)祖父は、子供に手を上げたことは一度もなかったという。
●母は、親に言われてではなく、自らの好奇心から、
茶道、花道、琴、三味線、日本舞踊、書道、水墨画、盆景(盆庭)など、
習い事をした。
当時にそれだけの習い事をしたところを見ると、
母の生家は、ある程度は裕福だったようである。
母の父(私の祖父)は、風呂屋を経営していた。
その風呂屋の屋号だけは、いまでも東京に残っているようだが、
誰が祖父、そして母方から受け継いだのかは、確認していない。
●母は、大妻女子大の家政科に進んだ。
のどかな時代だったという。
当時の日本は、イギリスを中心とした文化を取り入れていたので、
欧米文化といっても、アメリカのそれではなく、歴史ある文化である。
●第二次世界大戦が始まった時には女子高生で、
中野飛行場で、挺身隊として借り出されたという。
作っていたのは、武器や弾丸ではなく、飛行機部品の測量用のゲージだったという。
●戦中、海軍兵の「通信(モールス信号)担当」の男性から、
熱烈に告白されて、少しお付き合いしたものの、その男性は戦死した。
戦時中に、怖かったのは、えばり腐った憲兵だったという。
派手な着物を着て歩いていたら、
「敵機から目立つから地味な着物にするように」と、
わけのわからん注意をされたらしい。
●戦火が激しくなり、東京が焼夷弾の嵐で、空襲されるようになってからは、
母の上の兄(次男)が、どういうわけか、洋物のオシャレが大好きで、
ジャズ好きでもあったために、空襲のときに、押入れの中で、
ひそかに、2人でジャズのレコードを蓄音機で聞いていたという。
もしも、憲兵に見つかったら、えらいことになりますね。
といっても、むろん、母方の家は「赤」ではありません。
次男のただの趣味です。
●焼け野原となった東京を歩くときに、一番怖かったのは、
道路わきに積み上げられた、生焼けの死体を見ることだったという。
完全に焼けた遺体は、お地蔵さんみたいにしか見えないが、
生焼けの遺体は、顔の表情が残っているので、それを見るのが怖かったという。
どうしても、そうした遺体が積み上げられた道を歩かないと、
家に帰れず、特に、暗くなってきた時間に歩くのは嫌だったという。
しかし、そういうものにも、時間とともに慣れていったと言う。
●戦時中は、配給では足りず、芋のツルすら食べたという。
配給されるのは、ほとんど米はなく、
毎日、水っぽいサツマイモばかりで、うんざりしたという。
自宅の庭で、なんとか自家栽培した野菜なども食べたようである。
米軍のB29は「馬鹿にしたように」まったく同じ時間になると、
空襲をしたという。
最も怖かったのは、不発弾か時限爆弾のようなもので、
落ちたところが分からずに、あとで爆発したらしい。
●非国民だろうが、なんだろうが、
とにかく、「早く戦争が終わって欲しい」と願っていた母だったので、
戦争が終わったと聞いたときには、ほっとしたという。
これで、明日からもう空襲がなくなると思っただけで、
心の底からほっとしたという。
米軍から配給された小麦粉で自作したパンを食べたときには、
「こんな美味いものが食べられるなら、もっと早く戦争に負けていれば良かった」
と、いかにも「庶民的な視線」の発言を家族にしたらしい。
●母の兄たちのうち、長男は戦後は、大工の棟梁として生きたが、
その西洋かぶれの趣味を持った次男は、
南島の戦地で、入院中に、病院が爆撃されて戦死したという。
遺骨は戻ってきておらず、親類が、その病院跡の土のみを持ち帰った。
●戦後、それまで「鬼畜米英」と叫んでいた社会は、
掌を返したように、GHQの政策によって、アメリカナイズされていった。
猫も杓子も「キチガイのように、ジングルベル」だの、アメリカ映画だの、
音楽だの、ヤンキー文化に、トチ狂っていたらしい。
母も、それに漏れず、洋画は、大好きだったようである。
また、私の母方の親戚には、名前は伏せるが、
当時に、かなり知られた有名なジャズバンドのバンドマンがいた。
●とはいえ、母の中に根強く残っていたのは、
昭和の良き時代の精神であり、
それまで、学校で教えられてきた教育内容が、
敗戦から、いきなり一変したことには、大きな疑問を持っていたようだ。
●父とは終戦前に知り合ったらしいが、
父は、運よくか、運悪くか、軍隊で少しだけ訓練を受けたのみで、
戦地に行く前に、終戦となった。
●そんな敵国のアメリカだったが、
父が船舶の会社に勤めていて、英語も得意だったために、
私、母、父、兄は、1962年に、渡米することとなった。
父は、私たちよりも先に、飛行機で行っていたようだが、私たち家族は、
その会社の「輸送船=貨物船」で、何日か、あるいは何週間かかけて、
サンフランシスコに着いた。
経費節約のためか、父親が、私たちの飛行機代を横取りしたのかは不明だが、
私たちは、貨物船に乗せられてしまったのである。
●私の中の記憶では、それは1ヶ月ぐらいはあったように、
ものすごく長く感じている。
なにしろ、毎日、丸い窓から見えるのは、何もない海原だけである。
実際には、アメリカまでは、もっと短い日数だったはずである。
航海中は、家族3人全員とも、船酔いによる嘔吐の連続で、
母は、「5キロ痩せた」といっていた。
私は、船内に独特の、あの重油のようなオイルの臭いが、
それ以来大嫌いになった。
渡米するときに、私が親類のおばさんから持たされたバンビの縫いぐるみも、
私のゲロまみれになるハメとなった。
●船のシェフが、私たちのために、なんとか食べ物が食べられるようにと、
てんぷらを作ってくれたが、吐き気で、とても食べられなかった、
と母は、のちに私に語った。
船内の風呂も、揺れるので、落ち着いていられず、気持ち悪かったのを
私も覚えている。
その船のシェフから、母が教わったサラダドレッシングのレシピは、
半世紀の時を経て、砂手によって再現されて、我が家の食卓にある。
●約2年間、父が、会社のアメリカの第一期駐在員となり、
私は、かつて、母が住んでいた町を焦土に変えた、日本の敵国の国歌を、
毎朝、胸に手を当てて、歌わされるハメになった。
むろん、4歳の私には、アメリカには、何の恨みもないが。
●帰国してすぐに、私たち家族は、神戸の社宅に移住したが、
このころから、父は浮気に忙しく、家に全く帰ってこなくなった。
父が家にいた記憶は、たったの数日しかない。
そういえば、私が生まれた時も、
父は、出張のオーストラリア行きの飛行機が離陸する時だったらしい。
つくづく、私は父親とは、そもそもの縁がないようである。
●アメリカにいた約2年間には、家族4人で、本場のネズミーランドや
観光地を車で回ったのは、少し記憶にある。
グランドキャニオンや、イエローストーンや、ナイヤガラの滝や、
まー、ベタな観光地は、ひととおり回ったようだった。
が、しかし、ラスベガスのときは、ガキは、カジノには入れないので、
兄とともに、車の中に置いてゆかれたはずである。
そのときに、仰向けになって、
後部座席から、夜空の星を見ていた記憶が私にはある。
そういえば、駐車場に止めた車の中から映画を見る、
パーキングシアターというのを、何度か利用したようだが、
何を見たのかは、全く記憶がない。
●話が、少し前後しますが、
日本に帰国したとき、まっさきに、びっくりしたのが、タクシーの運転だった。
アメリカとは比較にならないほど狭い道を、
とんでもないスピードで走る夜の「神風タクシー」は、
今でも体感的に、覚えている。
そして次の我が家についたときに、
その住宅街の「道幅」の狭さに、愕然とした。
アメリカの西海岸にいたときには、住宅地は、二車線で、
しかも、家の前には必ず芝生の庭があったので、
ざっと見て、道幅は、1/5以下に見えた。
ただ、東京にいたのはわずかで、これまた父の仕事の都合で、
すぐに、神戸に向った。神戸市東灘区本山町というところである。
●裏山が六甲山で、私の子供時代の最ものどかな記憶の多いところであり、
東京の下町生まれではあったが、神戸に2年ほどいたので、
地方の自然の中で遊んだ良き記憶や、
ヘビの出る道を、夏休みになると、早朝から、無理やり近所の教員に、
山登りをさせられた、ムカつく記憶も、私に残された。
その神戸で、生まれて、はじめて雪を見た。
私がアメリカに言ったのは4歳だから、おそらくは、
その前に、東京でも雪を見ていたはずなのだが、その記憶は全くない。
たぶん、小さかったので、外に出なかったのだろう。
この4歳以下の雪の記憶は、さぐれば、必ず出てくるはず。
母が、私をだっこして、雪の風景を見せないわけがないからである。
●脱線しすぎました。
話が、私の話になってはいけないですね。
そういう、良き戦前、大変だった戦中、おかしな事になった戦後、
この時代を生きてきた母とは、やや違う時代に生きてきたご両親を
読者の皆さんは親としていると思います。
私は、50歳も超えていますし、読者の方で50歳以上の人は、
「非常に少ない」です。
しかも、私は、母が30代の中ごろに生まれたので、
皆さんのご両親は、たぶん、多くは、戦後の生まれだと思います。
そして、いわゆる、団塊の世代だったりすると、
ちょっと、その人たちは、私の母とは違う、妙な癖を持っているらしいのです。
●ちょうど、復元ブログの「Aby」さんのご両親が、
どういう世代だったのかについて、昨日、砂手が、
ちょっとした考察をしていました。
砂手の両親も、団塊の世代独特の、悪癖を持っていたからです。
ここで一服・・・・
【外国人カメラマンが見た戦前の日本】
↓
http://www.youtube.com/watch?v=RgOjdfeCXA4&list=PLE2CA6D68EEF90841
☆以下、「砂手」の原稿です。
↓
私の両親は、いわゆる団塊の世代です。
そして、私は団塊ジュニアです。
今日は、団塊ジュニア世代として、
両親を通して見た団塊世代について、
私見を書いてみます。
私の両親の性格というか、口癖というか、表面的なポリシーというか、
そういうのは世相の抱えた負の遺産を、ダイレクトに反映していたと思います。
家族間での健康的な交流が損なわれている家庭で育ってしまうと、
そういう社会的な負の影響をモロに受けてしまうのだと思います。
(なので、団塊世代でも、健康的な家庭で育てば、
時代の負の潮流をものともしない人になっていることでしょう。
ですからここでは、そういう健康な団塊人は話題にはしていません。)
まず、団塊の世代は、自分の親への不満を、社会への義憤に摩り替えることが容易でした。
学生運動しかり、
また、「戦争は悪で、戦前由来のものは全て悪い」
と言えば、自分達の両親の精神性を
こき下ろすことも朝飯前だったでしょう。
そんな中で、
戦前由来とは違うニューなスタイルとして、
戦前世代の両親に反抗する為にちょうど都合の良い、
新しい思想信条のスタイルが提案されました。
団塊世代が飛びつかないはずもありません。
これからは『個性』の時代なんだ!
これからは『自由』の時代なんだ!
前時代はこれが無かったから間違ったんだ!
その目新しいげに見えるパッケージを追っていれば、
自分の両親の鼻を開かすことができると、
あるいは、「自分の中の忌まわしい両親の抑圧の悪夢から自立できる!」と、
反射的に思ってしまうのも、無理からぬことだと思います。
・ 「個性礼賛」…本音では、個性って何だっけ?の状態に過ぎない。
戦前世代と違ってさえいればそれでいいようにも見える。
・「自由」という響きへの憧れ…自由がどういうものかイメージもつかない。
けど、自由が善なら、親から自由になるのも善なんだ!と思い込んで
怖気づく自分の背中を後押しされた気分になったのかも。
・「自由と責任」…自分達は、無責任な自由ではなく、
戦争世代が背負えなかった『責任』の二文字を華麗に背負ってやってるぞ!と自負している。
などなど、病んでいた団塊世代の若者がどんな希望を、
『個性』とか『自由』とかに乗せていたのか、
私の両親を透かして見えたものを書いてみています。
戦中戦前が、保守的な時代なら、
自分達は、とにかく!何がなんでも革新的なんだと、言ってはばからない雰囲気がありました。
団塊世代が根っから理解していない
『個性』や『自由』や、そういった、キャッチフレーズを集めて武装するほどに、
本人達が、ますます『軽薄』になってゆく様が、
その子供=団塊ジュニア世代に伝わってしまう。
例を挙げるなら、わたしの母親の言っていた、
「自由には責任が伴う」なんて言葉は実際
「避妊しないでセックスすれば妊娠するわよ!」くらいの用法でしか使われていなかった。
これはお粗末だけれど、
他もどんぐりの背比べなんじゃないかと思う。
その程度の中身で、スタイルばかりに踊らされた団塊の世代は、
精神的のみならず、ライフスタイルも形ばかりを追って自己矛盾たっぷりで不幸だっただろうと思います。
団塊ジュニア世代にも、その不幸が伝わってしまっていた実例として、
私が、子供の頃、両親にこう言ったことがあります。
「個性だの自由だの言うわりに、中身が空っぽだね。
どうしたって、戦前の保守的な価値観で育てられたんだし、
理想が付いてゆかずにギャップを感じるよ。
自由だの個性だのが、いったいどんなものか知らないんだからさ、無理があるよね。」
と。
日ごろ、私が指摘したことで、内省的になるような両親じゃなかったですが、
この時だけは、2人して
「・・・あなたの言うとおりかも知れない・・」と、顔色を曇らせたことは印象深い出来事でした。
今になってこのことを改めて思い返すと思うのは、
団塊世代は、(個人批判よりも)世代批判に弱いのかな?
ということです。
「これからは個性の時代だ」と謳っていたのにも関わらずです。
つまり『世代としての群れ意識』が強いような気がします。
うがった見方をすると、
世代の抱える業というか、妙な連帯意識を持っているような、
両親に愛されなかった類の団塊人が集って、群れになっているような、そんなイメージです。
さて、「団塊の世代の性格」、で検索をすると、
『団塊世代ガイドブック』というサイトに
1自分へのこだわりがある。
2付和雷同しやすい。
3ケチな人が多い。
4リスクを嫌う。
5特に同世代間での競争が激しい。
と紹介されていました。
私から見ると団塊世代にとっての
「1自分へのこだわりがある」は、「2付和雷同しやすい。」の
付属物のように見えます。
戦後に提案された「自分へのこだわり」というスタイルに、結局、
付和雷同的に乗せられただけのように見えるからです。
団塊世代の「自分へのこだわり」は一人で楽しむというより、
人に見せるもののようだし、それに、
「自分はかっこいい奴」「自分はできる奴」という
あくまでも、『既存の尺度』の中で、より、抜きん出ることが、
「自分へのこだわり≒個性?」のアピールの方法になっているようでした。
それは自分へのこだわりや個性重視が、いずれ運んで来ることになる
「自分は、人とは違う。」という孤独感の足音に耐えられる世代には見えないのです。
団塊の世代が「個性」とか「自由」とか、あれほど言わなかったのなら、
ツッこむこともないですが、あそこまで、中身の伴わない自己矛盾でつっぱしられては、
その歪みを子供世代が被ることは必至です。
ウィキペディアには
『団塊の世代は家父長的な価値観を持つ世代とは違う、自由な価値観を持っているとされた。 』
とありますが、前時代の家父長的な中にはあった、
人としての責任の取り方というのを否定するだけ否定して、
新たな責任の取り方は、模索できなかった世代なのでは?と思えてなりません。
団塊の世代が言っていた、個性や自由も、
結局の所、鼻息ばかりが聞こえてきて、
内容が聞き取れずじまいです。
時代の奔流に押し流されて、
「個性とは?」
「自由とは?」
「自分はなにが欲しかったんだっけ?」
などなど、自分達が熱に浮かされた、そういう言葉に対して、
腰を据えて思い巡らせることのなかった世代に見えます。
あえて、『個性』だの『自由』だの言わなくても、
邪魔さえしなければ、花は自由に咲きます。
花は自分が個性的かどうかなんて、どこ吹く風で、幸せです。
「花は、勝手にそう咲くもんよ」と、大きな猫のお母さんの話が伝えてきます。
それは、『自然な自由』を、そっと見守るような物腰です。
人工的な押し付けがましい虚飾の『自由』や『個性』で
感覚が麻痺している人には、カルチャーショックですよね。
私も大猫のお母さんのお話を聞いて、はじめて、
その物腰を、なんとか、イメージできるようになりました。
おしまい。
___
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