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[3677]
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●いくつかの雑話。
by:
崩残
2007/01/31(Wed)03:32:00
また、あほう案(ア法案)が生まれそうです。
裁判制度について
↓
http://www.asahi.com/national/update/0130/TKY200701300389.html?ref=rss
これについては、一言に言えば、
「心情形成」の要因となる要素など、裁判に持ち込むなということである。
被害者が被告に質問をしたいのであれば、弁護士と協議して進めれば
いいことであって、こうしたことは、
被害者側の心情的なパフォーマンス以外の何ものでもない。
心情的なパフォーマンスであれば、それはマスコミでも使えばいいこと
であって、そうしたことを、(状況・物的)証拠でもって論議される
裁判の場になど持ち込むべきではない。
しかも、ここに裁判員制度が加われば、ますます一般人は、
心情といういいかげんな演出に騙されやすくなる。
よって、これは、完全な愚案である。
●そもそも、裁判員制度の導入自体に私は前から言うように
疑問が多くあります。
まずはその動機。日本を訴訟王国にしたいのか知りませんが、
もしもそうであれば、国民になんの承諾もなしに裁判員制度を導入
すべきではないことと、
するのであれば、そのための「基礎教育」として、
実際の裁判を放映することによって、国民が裁判の流れを見る目を
充分に養う期間が必要である。
この期間は、一般的に裁判を見る「感覚」が等しく国民平均化するまでに、
最低でも私は5年は必要であると思っている。
●そうした国民の側に必要な経験的な準備もせずに、
いきなり、はい導入しますでは、筋が通らない。
もっとも、そもそも筋を通した法案や行政など、
ほとんど聞いたことはないのだがね。
________________________________________________________
●こうしたことを見るにつけ、
政治に対する無関心を危惧するようなポーズを取っているだけで、
ようするに、議員とか、支配権を持つ者が国民に対して
本音で、考えていることを、非常に、簡単に言ってしまうと、
「国民には、政治に関心など持って欲しくはない。
国民には、物事の真実など見極める目など、断固、与えたくはない。
ただし、国民は選挙になったら、俺様に票を入れるために、
俺の言う演説をよく聞け」
と、こういうわけである。選挙のとき以外には、
政治に本当に関心などもたれたら、彼らは困るのであるから。
議員という連中が、国民や有権者を、
ずっと「馬鹿のままにしておきたい」のは、見え見えなのである。
_____________________________________
●そうした「国民総愚民計画」に一役かっているのがマスコミである。
私は、これを「悪意に基づく、報道デザイン」と言っているのだが、
一般的に報道される事件の種類、順番といったものを
指示している者がいると見ている。
事件報道が、その事件の発生と時期が大きくずれて報道されることがあるのは
皆さんもご存知のはずである。
また、新聞やワイドショーの一面に並ぶ記事も、
どうして、こうも個性がないのかと思えるほどに、
各局の競争原理も独自性も、娯楽番組は別として、
こと、報道番組においては、全く何も働いておらず、
すべて、誰かに言われたとおりの、横並び。
マスコミが、マスゴミと呼ばれるようになって何年か経つが、
まさに、今のジャーナリズムは、「ゴミ」の排泄と化している。
ただのゴミならともかく、有害で悪意のあるゴミ。
●報道というものは、順番によって、印象が構成されるものである。
ちょうど、皆さんがある文とか、小説を読むときに、
皆さんが、ひきつれて行かれる「流れ」というものがあります。
それによって、皆さんは、知らずのうちに、特定のことに関心を強め、
特定のことには、関心が薄くなるわけです。
いわば、選挙演説や大統領の弁解の演説に、コーディネーターがいるように、
放送における報道にも、国民が何に関心を向け、
何には無関心になるかという、デザインをする人物がいるわけです。
冒頭の話題ではありませんが意図した「心情操作」というやつです。
●たとえば、事件報道とよくからむのが、
新製品の発表です。ゲームの新しい機種、車の新しい機種、
それに芸能ニュース、スキャンダル、
国民が政治的な問題や事件よりも、うっかり関心を向けそうな、
そうした話題は、いくつも常に「ストック」されており、
こと、何かの事件が起きたときには、それを相対的に目立たなく
メッキするために使われることもよくあります。
肝心のニュースをぼかすために、
別の話題という「バナナ」を、国民という猿に与えるという、よくある手法です。
これは、詐欺セールスのマニュアルとほとんど同じでしょうね。
●そうした目で報道を皆さんが見ると、
ニュースの「ヘッドラインの構成」というものの中に、
悪意的に意図した「順番」「削除」「改変」が行われることがあるのが
発見できるはずです。
印象というものによって、何気なくずるずると、悪意のある他者に
いつの間にか、洗脳されるというのは、こういうことで、
洗脳されるのは、何も馬鹿カルト信者ばかりでありません。
国民全員が、他人事ではないのですよ。
_____________________________________
このように覚えておくといいです。
世の中で、最も邪悪な洗脳とは、
オウムその他のカルト教団や自己啓発セミナーが、
閉鎖的で、密室的な環境と雰囲気の中で行う、分かりやすい洗脳ではなく、
「選択の自由があるのですから、自由にお選びください、
自由に判断してください」
というこの言われた側が、「自分が自由である」という妄想を持ち、
その中で行われる、洗脳です。
これが最も典型的な「芸」として発揮されるのが、
マジックの原理の一部です。
フォーシングテクニックとは、
すべて、そうした「自分には選ぶ自由がある」という、
誤った前提を観客に植え付けるところから、「仕込み」が始ります。
●ですから、より自由であるという錯覚をさせておいた上での洗脳、
というほうが、より陰湿で、悪意があり、詐欺的なものです。
この詐欺集団の最たるものが、今の日本の「政治」と「権力」と
「悪意のある企業」です。
そして、マスコミには、何の「監視能力」もなくなったということ。
「報道デザイン」という事を念頭に報道を見れば、
何は隠したがっているか、ということは、見えてくることが多いと思いますよ。
これは、何も政治的な活動をするとか、
何かに反対運動をするとか、誰かを弾劾するとか、
そういう行動を必要とするものではなくて、
「視聴者」が、どう、ニュースを楽しむか、という方法を述べているのです。
自分が「洗脳される馬鹿」にならないための、
>日頃の「脳訓練」だとでも思えばいいのですよ。
●ここ無明庵には、こういう言葉が原則としてあります。
それは、報道ばかりではなく、哲学にも宗教にも世間の常識にも、
どれも区別することなく、同じ姿勢、同じスタンスで向き合います。
その原則的なスタンスとは、
1/物事を疑うな。(厳密には、頭ごなしに否定するなという意味)
2/物事を信じるな。
です。
物事を疑うというのは、疑問を持つということとは少し違います。
疑い、というのは、それ自体が、既に自分が希望している結果と
そぐわないというズレを起こしています。
一方の信じる、というのも、真実と心情の間のズレが
あなたの中に生じているから、信じるなどという言葉が出てくるのです。
疑うのも、信じるのも、全く同じ
「知性的でない、心情的な暴走」にすぎません。
なぜならば、
>真実とは信じる必要がないからです。
明々白々な事実を「わざわざ信じる者」など、この世にいません。
疑いがそこにあるからこそ、
100%の事実人認定か出来ないものにたいしてだけ、
人は、信じたり、疑ったりするのです。
たとえば、創造主や神の存在を信じるというのは、
本人がどう弁明しようが、明らかに、「疑惑つきである」ということです。
なぜならば、あまりにも事実であることは、
信じる必要もないからです。
●ですから、無明庵で常に言ってきたように、
物事に接するとき、他者に接するとき、
「相手」や「状況」を、
>信じること、信じたがることは厳禁です。
>と同時に、疑うことや、疑いたがることも厳禁です。
判断を下すまでに充分だと思える材料が組み合わさるまでは、
あらゆる種類の心情というものは、
あってもいいので、それらの感情を抑圧する必要はないが、
ただし、それは、
自分の知性とは「別」の心の部分にに保存しておき、
判断を「保留」としておくことです。
●こうした、
>現実の物事、現実の他者、現実の生活の中で、
>隣人や、家族や、職場で、
>「ありのままの事実」を冷静に見られないで、葛藤している人たちが、
>どうして、その「冷静な観照」を、最も必要とする瞑想など、
>出来るでしょうか?
宗教やら、瞑想なら、座禅の話になると、
「ただ、ありのままに見る」とか他者に教えている馬鹿セラピストや
瞑想指導者と称する連中は、
日々の生活、日々の一日一日の中で、
一体、どれほどの物事を、冷静に判断できていると言うのでしょうかね。
そもそも、「いわゆる宗教」なんか信じる人間は、
最初から、自分が世界の仕組みはこうあって欲しい、という
心情的な望みを投影しているにすぎませんから、
そんな者たちの言う、「観る」だの「ありのままを観る」には、
なんの説得力もありません。
皆さんが、もしもどっかの瞑想だの座禅の指導者と言われている者を
身近に観ている機会があるのだしたら、
そいつが、瞑想とか座禅とか仏教の話題ではなくて、
日々の毎日の生活の中で、その者が、
ご近所で起きていること、会社でおきていること、家庭でおきていること、
こうした、身近で起きていることに、
どこまで、心情を排した観察力を徹底出来ているか、
それによって、そういうセンターや瞑想会で、ふんぞりかえっている連中
ついでに言うと、ゴロゴロいる精神科医とか心理学者にも、
しっかりとした、「評価点数」でも、つけることです。
えらそうに聞える、宗教や宇宙の問題や、世界の大きな問題と、
日頃の小さな問題とに、何ひとつも、区別はないのです。
世間には、自分の主張や宗教やら仏教やらの話になると、
えらぶる傲慢な人間が多くいます。
また、ジャーナリスト、あるいは専門家もそうです。
その分野のことにおいては、自分は知っているんだと、傲慢になる人たちです。
●私に言わせれば、私が人を評価する視点は、
その人が、
何を出来るかでもなく、何を知っているかでもなく、
何を霊視できるかでもなく、
意識が、意識障害を起こしていなく「正気」である結果として、
何を見られる視力と聴力と触感を持っているかだけです。
だから、その者が、自分の専門分野や知っていることについて
知ったかぶりをしたり、
政治問題や宗教について話したり、
人に指導しているときではなくて、
その者が、「日々の生活のひとつひとつの出来事にどう対処するか」、
それを、皆さんは、油断なく彼らを「監視」することです。
まともな人というのは、大小の問題の、
そのどちらにも、一環して、「正気な対応」をするだけですから。
むろん、その正気とは、
世間でいうところの「正気」とは、違いますが。
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