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闇のタオイズム(三章の2)




            EOによる人間観



*********
1/我々は価値観や知性や論理や情報によって活動しているのではない。
2/我々はすでに組み込まれた、心地よさと不快の信号につき動かされる。
3/我々は極度に感熱や5感覚が敏感に作られた
(ちょっと限度を超えるとすぐに苦痛に変わるように)。
4/我々は脳も肉体も心理的にも、無意識でも活動をやめられない。
完全な無活動は我々の死と無を意味するからだ。

*********
実は人には死ぬより恐れることがある。
それは狂ったまま、周りに迷惑をかけながら、醜態をさらして生きてゆくことだ。

*********
物質の無抵抗性があって、科学は発達できた。
すなわち、これが意味するところは以下の通りである。
人類は、科学が取り扱う相手が物質または下等生物ならば再現性を有効に駆使出来るが、
相手が高等生物あるいは未知なる微生物(=ウィルスなど)であるならば、
さらには人間の心理であるならば、そこには全く『科学性』を適応できなかった。
すなわち我々は『おとなしい単調な生物や物質』ならば利用でき、
その利用方法を発展できたが少しばかり『でたらめさ』を含む生物や
自然現象に対しては全く無力である。

*********
仮に原子と同じ寿命をもったとしても、人間にはこの死(分解)は避けられない。
また災害の全面回避は不可能である。あるいは医術はガンを直せても、
未だに風邪が予防できないという事実を見るべきである。
そもそも我々の肉体は『病気をするように出来ている』のである。

*********
本質的な苦を論じる時には、社会との比較の上に成立して定義されるような病名は
本書の哲学的考察においては、この際無視したほうがいい。
すなわち極論すれば、あなたがこの惑星にたったひとりで存在していたと仮定し、
その上にさらに発生する苦痛、不便さこそ唯一の病気である。
そうすると、身体障害、精神病、これらは病気にはならない。
たった一人になったときに、あなたに問題になるのは、苦痛を伴う現象のみである。

*********
我々の肉体は常に、たえず『エラーメッセージ』を出す。
毎日我々は『異常事態』になり続ける。
機械では絶対にありえないほど、我々の肉体は不安定である。
実のところ、いまだに我々の衣食住は一生安泰しているわけではないので
常に生存競争そのものの監獄の枠からは抜け出せないわけである。

*********
この社会では個性すらも生命の芸術としてではなく、
生存競争の一手段となってしまった。個性的でなければ生き残れないと。
あなたは、社会的に、どんな満足した生活を、すなわち特にこれは金銭的な問題だが、
それを達成して安定させても、絶対的に幸福になどなりはしない。

*********
罪もない子供を殺害することはこの世界では悪とされる。
それは一見すると100パーセント悪に見える。だが、それは実際には違う。
60億分の1それは善なのだ。すなわち殺害者本人にとっては善なのである。
本人の苦悩、苦痛、不安、恐怖からの解放や、快楽、
そういったものを成就しようとして殺害したわけであるから、すくなくとも、
犯罪の発覚の恐怖から殺したにせよ、殺人狂という趣味として殺したにせよ、
本人にとっては、そこに何らかの不安からの解放がある。
前後の結末や社会性を無視した一時的な逃避、無謀な殺人であったにしても、
つかの間でも、殺害者本人は『なんらかの安堵』を得ている。
その意味で、あなたたちのどんな犯罪も100パーセントの悪ではない。
本人ただひとりの、それもたった10秒だけはそこは「善」なのだ。

「そんな馬鹿な論理はあるまい」と言う、そのあなたたちも、
毎日殺人者と全く本質は変わらない事をやっているという事にも気がついていない。
たとえば、あなたは自分の失態や秘密、知られたくない本音、本心、
あるいは知られたくない事実が発覚しそうになったときに、とりつくろう『嘘』を言う。
これはもう日常の事だ。
あなたは嘘をつくことで、ごまかす。あなたは嘘をつき、体裁をつくろうことで
自分が軽蔑されたり立場が悪化することの不安から『逃げよう』とする。
あなたは嘘によって状況を『切り抜けた』のだ。
一方、殺人の犯罪者は殺人によって「切り抜けた」のである。

このように、物事の是非が仮にあるとしたら、
それは手段としての「行為の種類」ではない。
行為の種類は無数に取り替えがきく。道具は、すりかえがきくのだ。
人に当たらず、物や動物にあたったりする。
目につく相手を権力で敗北させるなどという行為は、
核戦争と全く基本的に変わりない「動機」からのものだ。
あなたが体裁上、嘘をつく。これは立派な詐欺罪だ。
体裁上、気まずいところから逃げる。これは脱獄罪だ。
相手を権力で脅迫して屈服させる。これは内面的な殺人罪だ。
なんであれ、問題はその『動機』にある。
行為の手段となると、幼女殺害から「いえいえ、そんな事は思ってもいませんよ」という
ささいな嘘まで用意されている。
しかしこれらは全部同じ動機だ。それは『あなたが苦しまないためのもの』だ。

*********
本質的な意味で、全くの無能である人間など、
よほどの身体障害でもないかぎり、あり得ない。
ところが、たとえ天才的な科学者や芸術家であっても、
『本人』が生きることに、うんざりしていたら、
彼は、全く生きられなくなる。
生きるとは、ようするに、それを奮起する気力の問題だが、
私から経験的に言わせてもらえば、なぜそんなものを奮起してまで
生きる意味があるのだ、という重大な哲学課題に襲われると、
その気力は、さらに減衰する。

*********
絶望が道だとは言え、自殺はあまりお薦めできない。
私が薦められるのは、むしろ、その生きることへの嫌悪、
あるいは疑問を「極限大にまで拡大する」ことである。
気力が満ちている人間の探求なんぞは、その探求対象がなんであれ、
それは生きる気力と、その動機づけの『燃料』『こやし』にすぎないからだ。
その燃料が切れたとき、それが探求の始まりである。
なぜならば、それは本当の死にゆっくりと直面することだからだ。
希望や生きがいなどという、いっときの、その場しのぎのオモチヤを与えたところで
人は必ずその燃料が尽きて、『どうして、なんのために生きているのだ』という疑問を
決して無視できないからだ。

これらの思索を、ただの時間の無駄だと言って無視する「ふり」は誰にでも出来る。
だが、そのような、いわゆる生きるのにポジティブな人間たち、平均的社会人、
アーティストの、その誰もが、この問題に答えを持っていないのだとしたら、
彼らは、一生『機械的生物であり、そもそも人権すらもない家畜』と断定されても、
しかたあるまい。

*********
社会適応とは、すなわち、場所によって一定しないような生存のための
『雑多なルールの学習』と言える。

*********
最低限生きることに心理的に僅かでも『余計なもの』を付け足すと、
付け足されたその心理的財産そのものが、生存を維持しようとする性向がある。

*********
そしていかなる美化や人間性や愛を主張しても、
それらの行為をつき動かしていた本当の動機はたったひとつである。
それは、『ただ生存の為』である。

*********
ノイローゼと言うと、なにやら異常な事態のように思うために
これを読む一般的な人々、すなわち、
自分はノイローゼではないと思い込んでいる人々には、
他人事のように思えるかもしれないが、あなたが、明日の仕事の処理で
悩んで寝付けないとしたら、それはもう、とっくにノイローゼである。
また、恋人との別れ話が頭から離れないならば、それはとっくにノイローゼである。
幼い子供の育児に疲れていたら、とっくにノイローゼである。
そればかりか、あなたが、誰かに対して、怒ったりしたら、
それ自体、すでにノイローゼである。
夜、寝床から起きてしまい、することもなくぼんやりと独りでいる時に、
漠然とあなたを襲う、あなたが存在している事の謎、
すなわち「自分は、一体ここで何をしているのだ?」というのもノイローゼである。
誰かと旅行に行っても何も景色の美しさも楽しめず、
何か自分と世界の間にモヤのようなものがあるという
漠然とした、無感覚も、これまたノイローゼである。

*********
極度の多忙さに振り回されるのであれ、あるいは極度の虚無感に襲われるのであれ、
他人から批判されて嫌悪するのであれ、他人を個人的に溺愛するのであれ、
これらに共通するもの、それは人間がその時は
『落ち着かなくなっている」ということである。

*********
一般的ノイローゼの唯一の4原因は以下の通りである。
1/過剰に肉体の感覚ばかりを意識せねばならない状態が続いた場合。
2/過剰に、あまりにも思考ばかりを意識せねばならず、
  感覚が関与する暇もなく次々に思考が襲うとき。
3/極度に肉体感覚が低下した場合。
4/逆に極度に思考が低下した場合。

1から4のこのタイプの混合が『通常の人間活動』のアウトラインである。
それらは単純な次の原則による。
1/まず人は肉体感覚(感覚の事実)と思考(思考の事実)の2つを知覚する。
2/それらのうちどちらかが過剰になると、その苦痛からもう一方へ避難する。
3/それらのうちどちらかが希薄になるときもまたもう一方で補おうとする。
4/すなわち、我々人間には、感覚と思考のそれぞれの『健康的な平均値』とも
  呼ばれるものがある。
5/それを超えても苦痛となり、減っても苦痛となる。
6/従って、精神活動や生命活動と呼ばれるものは、複雑なものではなく、
  単に、我々の食の本能や『食の構造が感覚や思考において起きる』のみである。
7/そこから導き出される単純な結論としては、我々がもしも、
  ささいな悩みやノイローゼを発生したくないならば、次の4原則を守ればよい。
1/肉体感覚が「本人の平均値」より過剰にならないようにする。
2/思考が「本人の平均値」より過剰にならないようにする。
3/肉体感覚が「本人の平均値」より希薄にならないようにする。
4/思考が「本人の平均値」より希薄にならないようにする。

だが、生命とは、『そうは問屋が降ろさない』ものなのである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
この平均値をウロウロすることが、平均的な平凡な人間の位置であるが、
この4つの過不足状態は、常に『休みなく我々を襲う』ようにできている。

あなたの最も基本的で現実的な、あなたの一生を支配するその胃袋は、
まさに『風船』ではないかね??。
それは多すぎても、文句を言い、少なくても、文句を言い続ける。
そしてこれが単に感覚情報と思考に投影されたのが悩みの正体である。

*********
苦悩の最末期では、思考も感覚も衰弱してしまう。
そうなると、それはもはや、生命のギリギリの生存状態である。
動物でさえも、これよりははるかに健康な状態にいるというのに、
大悟の直前ときたら、それは世界の全生物と比較しても最低の状態である。
精神科では、これは「情意喪失」あるいは『空漠』と呼ばれているようだ。

ところが、これが長期に渡ると、思考でもなく、感覚でもない、『何か』が、
おのずとその底流に現れて来る。それこそが『本性の存在性』である。

*********
3才の子供ですら、もうすでに特別な者への衝動や教育が始まっている。
子供の言葉をよく聞いていてごらん。
それも3歳や4歳と言った、一般には無邪気と言われる年令だ。
あなたに洞察力があれば、それは50を過ぎた大人と
何ひとつ変わりないことが分かるだろう。
子供の会話をよく聞くがいい。
内容を入れ換えたらそれはサラリーマンやOLのつまらぬ会話と寸分の狂いもない。
すなわち言い換えれば、大人などは、60を越えても、
彼らはまだ基本構造は4才なのだ。

*********
問いをしてみては、いちいち解決しようとするのと、
単に問いがなく、落ち着いているのと、
一体あなたはどっちが美しいと感じるのだろう?。
問いは常にあなたの中に分別や自分で知っている
幾つかの『既知のものを組み合わせて』発生する。
『問いは、いくつかの既知から発生』するのだ。
というのも、完全な無知からは、問いは発生できないからだ。

*********
結局あなたたちの問いは、いつもいつも、同じである。
『分かりません。どうやったら理解できるのでしょうか?』
ところがあなたたちは、あなたたちの中に詰め込んだ知識や経験、体験などが
溜まりに溜まってその整理が着かなくなると導師のところへやってきて、
それを「論理的に整理してください」、と言っているのである。
人々は、ゴミを集めるために本を読み、導師の言葉を聞く。
そしてこれまたそのゴミを分類して整理整頓して安心などをしようとして、
またもや、その自分で集めたゴミを整理してくれることを本に期待し、
セラピストや占い師、心霊屋や、禅の導師に求めているのだ。
これは、なんというナンセンスだろう。
だが、ブッダたちの仕事は、人類の思考のゴミを一掃することだけだ。
そして、ゴミのなくなったところに言うことなど何ひとつない。
だから、導師が、いやいやながら語るすべては、
あなたのゴミについての話ばかりだ。
人々は、頭やハートの中に詰め込んだゴミが、とうとう腐って、
その悪臭に耐えられなくなってから、初めて導師に言う、
「どうか、この元を絶って下さい。苦悩の元を絶つ方法を教えて下さい」と。
そうなるまでは、あなたはゴミをゴミとも思わずに収集し続けている。
人類にぴったりの「あだ名」がある。『ゴミ収集家』だ。ゴミオタク、ゴミ・マニアだ。
そのゴミの種類が、瞑想や神や、禅であれ愛であれ、なんであれ
『その種類に関係無く』我々が手にした瞬間にそれは、もはやゴミになる。重荷になる。

*********
言葉によって思考は組み立てられる。
言葉そのものは、それは迷いそのものではないが、
それは迷いを途方もなくからませてゆく要因になる。
世間の人も、修行者も、言葉には実に弱い。
誉め言葉であれ、けなし言葉であれ、いい事だ、悪い事だ、とか、
いい子だ、悪い子だのと、我々には、その言葉を聞いたときに感情が想起されるように、
徹底的に幼いころに教育された。
最も迷いの発生する場所、それが『会話』である。

*********
実際のところ、発狂者とは、私にいわせれば、さほど異常な者のことではない。
すべての者が、おおかれ少なかれ、すでに発狂しているのであるから。

生存のためなら、なんでも作りなんでも壊すというのも発狂した心の産物であるし
動機と目的と魂胆ある禅修行なども、それ自体すでに発狂した心のやることだ。

*********
あなたの本当の苦は、自由に死ねないこと。自由に生きられないこと。
意志が阻害されること。退屈すること。他者と衝突すること。
そして「なぜそうまでして生存するか??」の疑問である。

*********
統治のための法律や礼儀はあなたの苦に加担している。
したがって、狩猟民族や、放浪するたくさんの民族が、
原始的な兵器でお互いに殺しあっていた時代の方が、
精神衛生的には、はるかに健全で自然に近かったことだろう。
人口も小規模な戦争でバランスが保たれていたことだろう。
あらゆる礼節もあらゆる常識も、あらゆる法律も、それは善悪の問題ではなく、
生存に貢献するか否かというのが、人間の法律基準である。

*********
どういうタイプの罪悪感も、発生原因は単純だ。それは、
1/不快感を相手におよぼしたと思い込んだ場合、
2/または不快感を自分におよぼしたと思い込んだ場合だ。

では、何がその不快感の定義だろう?。不快感の定義は非常に簡単なのだ。
まったく複雑さなどない。
それは、基本的には、あなたや他人が『落ち着かない』ことだ。

*********
昔なら増殖した人間同士の適度な殺戮行為で、なんとかバランスは保たれるが、
近代では、兵器の威力が増し過ぎて、惑星上では、うかつに使えず、
また人道主義という偽善的な政治的規制のせいで、
殺す量と生まれる量のバランスは今や完全に崩れている。
このまま、もしも世界中が平均的先進国と同じ消費生活形態になり、
商業目的で資源を浪費し続ければ、結局、最後はどうなるかといえば、
食うものがなくなる。

*********
実のところ人間と他の動物の違いとは思考力の違いでもなければ脳のせいでもない。
腹が減って空腹を感じる器官を『腹部以外にあちこちつけられた不幸な生物』なのだ。
作り出したものに目を奪われると人類は、変な満足感と自負を持つ。
では、作り出した『動機』は自負できるほどのものだろうか?。
それは、結局は、死への恐怖、空腹の苦痛、欲求不満、退屈が動機である。
そして、おうおうにして、作られた当初は便利で楽をするが
結局は我々は病的なまでに改良をし続けたり、やりすぎて苦しむハメになる。

*********
我々はそもそも生きているその根底に食の苦がある。苦がなければ活動はない。
一方動物たちや植物は、苦痛に関しては逃げようとするが、
人間ほど過剰に心配したり、過剰に予防したりしない。
とにかく人間は心配でもなんでも『過剰』なのだ。
他の生物は、実際に苦痛がやってきてからそれを味わい、なんとかする。
生命的には手遅れになるだろうが、心理的にはこちらの態度のほうが『健全』なのだ。
そして、彼らの苦痛感覚は未発達だ。彼らの苦痛回路は単純だ。
ところが人間をみるがいい。小さな傷で大騒ぎ、暑いとか寒いで大騒ぎ、
女性は日焼けで大騒ぎ、いつも貧弱な肉体の「大事件」で大騒ぎだ。
しかもまだ起きてもいない病気への心配で大騒ぎ。
たくましさ、強さ、という点では、人間が動物たちを銃や殺虫剤で殺せても、
その本質的な意識、生命としての意識のレベルでは、はるかに動物たちは強く機能的だ。
余計な苦痛感覚を引きずっていたら、自然では生きて行けない。
だから、かれらはタフだ。
一方、人間とは何か?。あまりにも弱い。
肉体も弱い。そして心理的にも弱い。

*********
宇宙の生物における一般的進化プロセスは常に「複雑化」する。
ところがブッダにおいては、それは『単純化の極限』へ行く。
『どんどんと無垢になって行くのと、どんどん知識が増えるのと、
どっちが楽になるのか?』。
もちろん、どっちが「楽しいか」と言えば、誰もが学ぶことを「楽しい」と言うだろう。
だが、楽しいことと『楽』であることは全く違う。
楽しいことを1000もやれば、必ず1000の苦悩がやってくる。
片方で生きることは不可能だ。
これらを繰り返せば、最終的に退屈と空虚が絶対的にやってくるのを私は知っている。
というのも、楽しむをモットーにすれば
今度は楽しむということが中毒になってしまうのだ。

*********
言葉だけで「自分は是非や他人の評価になど動じない」と言ったところで、
我々の感情というものは、論理の支配下にはない。
それは、否定されれば途端に不愉快になり、肯定されれば途端に愉快になる。
しかしこれらの問題は、根が深く、間接的ではあるが、
我々の社会的生存の死活問題に連動しており、
実は、『肉体の死滅、餓死への恐怖』がその基盤にあるのである。
なぜならば、否定されることは、ゆくゆくは死へつながり、肯定は生につながる。
これが思考生物としての人間が、是非に対して持つ『本能的感情』なのである。
親子間や学校の教育のプロセスで徹底的に小さいときから
この思考パターンとして習慣化したために
「おだて」と「そしり」に対する、『快/不快』という感情は、
実際には、『恐怖/安心』に匹敵するものである。
たとえば、我々は、0才の幼少のころから、親の笑顔と怒りの顔の判断によって、
自分が肯定されているのか、否定されているのかをインプットされたために、
これは、結局老人になっても続き、笑顔には喜び、怒りの顔には警戒する。
それらは、ほとんど、機械のようになってしまっている。

これは、本当に根強い問題だ。
相手に肯定されるか、否定されるか、
相手から笑顔が帰って来るか、怒りの表情が帰って来るか、
相手が首を縦に振るか横に振るか、
そして親や先生から良い子と言われるか悪い子と言われるか、など。
実はこれらによって我々の思考に引き起こされる自動的な嫌悪/喜びのシステムとは、
つきつめれば、生き物としての『恐怖と安心、死と生』の根本問題であるからだ。

*********
人間の脳裏には、絶え間無く、頭の中の独り言、他人の言葉、
イメージの断片などが浮かび消え、意志のコントロールも受けずに、
それはただ無駄に明滅し続けている。
人間が、実に哀れとしか言いようがないのは、「自主的な思考」などは、
人間には、ほとんどない、という点である。
あなたは絶えず、何かを口で、喋り続け、あるいは頭で喋り、考え続けているが、
一体、どこに「系統立った思考」があるのだろうか。
すべてが「いつのまにか沸いたもの」で、
「なんとなく」に過ぎないものではあるまいか。
毎日、毎日、どれほど馬鹿な連想で、自分の思考エネルギーを無駄にしているかを
一度でも観察した事がなければ、あなたはただの狂った機械のままである。

*********
実のところは、「何を」考えるかが思考にとっては重要なのではない。
思考とは、ただ、「思考をし続ける中毒」の中にいるだけである。
それは、ほとんどが、たんなる『思考の貧乏揺すり』である。
だから、その内容などどうでもよく、揺すっていさえすればいいのだ。

思考に中毒している人間には特徴がある。
@まず、お喋りである(半分は相手に依存して思考を刺激してもらっている)
A次に、読書や情報に食いつく。(外部情報で思考を動かしてもらう)
Bテレビなどをよく見る。(完全に外から思考を動かしてもらう依存状態)
C体の動きが落ち着かない。(思考の、はけ口がなくなって体動に出る)
これらの人間に共通のことは、よほどの『必要性』に迫られないと、
「きちんと系統立てた思考が出来ない」ということである。
彼らは、常に、他人の言葉や、その場の状況に、すぐに影響され続けている。

*********
会話がなされているときは、
@その会話は、まずその時に必要なのか。
A話の筋は、通っているのか。
Bそれは、今、話すに値するのか。
C論点がしっかりしているのか。
D何かの結論を出すための会話なのか。
もしも、これらがしっかり自覚出来ていないなら人間は、
まともな思考の仕方すらも知らないで、
ただ言葉と思考と感情の『奴隷』になっているにすぎないのだ。
だが、そんな事を人間は「コミュニケーション」などと命名して、
『人間同士には、会話が必要なのだ』などと言い張るのである。
これは、全く、馬鹿げている。
どうして、無駄で、無益で、何も伝わらないような会話が必要なのだろうか。

*********
@人類の発生以来、人類には、ただの一日も、殺人のなかった日はない。
 殺人または暴力は、悪ではなく人類の属性である。(ただし善とも言っていない)
A処罰が皆無の無法状態では、間違いなく殺人は急増する結果となる。

 したがって精神性ではなく処罰への恐怖だけが殺人を抑止し得るものである。
Bただしその処罰は、公衆の面前で執行されねば、全く処罰の意味がない。
C同じ殺戮という結果であるにもかかわらず被害者の命には、価格がある。
 同じ人間であるにもかかわらず、雑草のような命から、大事件になる命まで
 『社会な』段階があるのだ。
D同じ行為であるのになぜか加害者の罪にも価格がある。
 したがって裁判などがあるのだが、殺人は本来ならば、
 正当防衛すらも認めず、無条件に加害者を死刑とする方が、場合によっては
 物事の整理がしやすく、抑止効果があるとも思われる。
E殺人の罪や処罰は、あくまでもその国家、または組織の
 政治的状況下における法が基準であり、その基準は、断じて精神性ではない。

*********
もしも、『生存することは正しい』という論理が成立してしまうならば、
@我々が生存するために、殺戮している食物の生きる権利はどうなるのか?。
Aもしも生存は正しいとしたら、別に生きたいとも思っていない植物人間に
つけられた電極や人工呼吸器
にも意味があるのだろうか?。
Bもしも生存が正しいとしても、それは誰の生存のことを言っているのか?。
嫌悪する民族同士がいたら、そのときは、どっちの生存が優先されるのか?。
Cまた、すべての人間が平和共存したとしても、それによってもし人口過剰で
危機がくるとしたら、生存や延命行為や出産制限をどうすべきなのか?。

命は大切ですという『矛盾した論理』があるかぎり世俗も宗教も、
すべては『生存』を目的とし、そして生存を最優先するために、結局は、
その『生存そのものの目的を問うこと』をしない。
「生きるのは正しい」などという妄想は、
誰が聞いてもあたりさわりなく賛同されるために、
自分で物事を全く考えようとしない者が、
たびたび持論の「最後の切札」として持ち出すことが多いものだ。
『でも、とにかく、生きるんだ』と。
『では、その生は、一体何のためなのだ』と哲学者は言うのである。

*********
もともと僧侶とは、本来は、その後、再び世間に戻るにしても、
少なくとも、道を求めた最初の段階では、
いったんは『世捨て人』になった人達だ。
つまり、ここで言わんとすることは、
それは社会とは関係がないということである。
人間性や自然とは無関係ではないとしても、
社会的位置づけとは関係ない
つまり、最初から、社会や地球という惑星にとっては「無価値」なのである。
たとえば、釈迦の時代がどうであったのかは、知るよしもないが、
彼は『心の安楽』のみを人々に説いたはずだ。
そして、彼と共に僧の集団が寺も持たずに旅をしていたと言う。
彼らは、いわばまったく、社会的には「生産性のない集団」だ。
それを誰かが、プロモーションして、『安心売りの商売』にしないかぎりは、
彼らは、まったくのただの『悟りの酔っ払い集団』なのである。
しかしそれこそが、道の本来の姿であると私は認識しているし、強調している。

現代では、何か、そこに非常に都合のいい、妥協や、価値付けや社会的位置、
つまり「商売」が成立していることに問題がある。
つまり道が、政治や経済に組み込まれてしまったのだ。
まさに宗教は「ビジネス」となったのである。
そこでは、概念や価値観を金で売買するのである。

*********
もともと人間、あるいは哺乳類の性交合は、
一度では決して満足しないように作られている事にある。
もしも男女共に、たった一度きりの性交渉で
お互いに完璧な満足がそこで得られたら、どうなるだろうか?。
それでは、受精確立が減ってしまうのである。
従って哺乳類、特に人間はわざわざ男女のオーガズムが簡単には一致しないように、
肉体構造の違いが作られている
のだ。
その結果として特に女性側が性に不満を残して、
男性に何度も交合を要求する結果となる。
こうして生物として繁殖するための性交が成り立っているのである。
つまり男女が一度きりで完璧なオーガズムを迎えるということ自体が本来は
「自然の摂理には反すること」なのである。
だが、それを行うのが瞑想としてのセックスなのである。

*********
心理的あるいは肉体的な構造上、男性はとにかく、
やたらに腰を動かしたがるように作られている。
それは射精を速めるための動物的本能である。
しかしこの「本能的に行われる腰の体動」は、
女性には全く快感を呼び起こさないようになっている。
これが女性の性的不満を蓄積する原因となり、
その不満を性交渉の回数で補おうとする事になる。
これら人間の性における「自然法則の悪条件」を逆転させて
男女が常に一致したオーガズムや完璧な性の満足を得るためには、
体動や体位の大切な課題がある。

*********
性交合は、お互いのその日の体調や気分によっても毎回毎回違うものであり、
何よりもパートナーが変われば、すべてが変わってしまうものだ。
だから、まず、お互いに相手がどのような体位や体動を欲しているのかを
完璧に知る必要がある。
特に女性が「どうして欲しいか」という自分の要求を
はっきりと男性に話すこと
が最も必要であり、
また男性もそれに耳を傾けて、実際の交合の時に女性が最も望むようにする必要がある。
こうした性交合に関する正当な要求は(特に日本の伝統的風潮として)
女性が男性にはっきりと話すことがなく、
また男性もはっきりと詳細に聞くという事をしない。
だが、お互いが相手の感じ方への「勝手な推測」だけで交合を続ける事は、
最も愚かしい行為だ。
女性の性とはあまりにもデリケートなものである。
だから、セックスのパートナーは、夫婦であれ恋人であれ、
それこそ毎回の交合の事前にはミーティングをし、
そして交合後にも感想や要望を話し合うぐらいの『大真面目さ』で
セックスライフに真剣に取り組むべきである。

*********
性の成熟には「終わり」がある。
それは「ある一線」を越えたら、
そのことにほとんど無関心になってしまうような地点がある。
どんな欲望も、それ以上を目指す意味がなくなってしまうような
成熟点や飽和点があるものだ。
さて、それでは性における飽和点とは一体どこなのだろうか??。
具体的に言えば、まず女性の場合には気を失うようなオーガズムを経験することである。
人によって多少違いはあるが、完全なオーガズムに至った女性は必ず、痙攣の後に数分、
あるいは数十分の熟眠に入ることになる。
オーガズムの直後に頭が真っ白になり、意識が急激に遠のくか、
あるいは突然にプッツリと切れてしまう地点がある。
そして、さらにこの時、男性がごく自然に同時にオーガズムに至ることである。
「自然に」というのは、一致を無理にさせることは出来なくはないが
理想的にはオーガズムを一致させようと意志などしないのに
一致するのが好ましいからである。
「同時に」というのは、まさに、ほとんど一秒もずれることなく
一致する事を言うのである。
したがって、これを行うためには、お互いに
よく相手のセックス時の特徴を熟知している者同士でなくてはならない。
とにかく、まず何よりも相手となる女性を、一回の性交渉において、
容易に4〜6回は必ずオーガズムに至らせることが出来るようにならねばらない。
そして、その4〜6回のうち半分以上を
全く一致したオーガズムを迎えることが出来れば
性の欲望は、ある『飽和点』に至るのである。
一晩の間に、女性が気絶するような快感を味わい、
しかも男女が一致したオーガズムを3回以上も重ねれば、
少なくとも1カ月は肉体も精神も性欲をさほど起こすことはない。
ただし女性が一回のオーガズムを経験するためには、前戯時間が最低20分、
挿入時間は20分〜40の時間をかけて行うので、
4〜6回のオーガズムのためには、どんなに短くても、
全体で4時間以上の時間がかかるだろう。
こうした完璧なセックスを3〜4回も重ねれば、
男女共に急速に性に関心が薄らぐことだろう。
いつまでたっても頭の中でくだらない性妄想などをしたり、
しょっちゅう自慰にふけってしまうのは、ひとえに実際の性交渉において
「不満を残すような不完全燃焼」をするからなのである。





              自我について

*********
もしも、我々が小さな意識だったら、我々は不満など発生しなかったことだろう。
ところが、我々にとっては常に『何かが』「窮屈」なのだ。
霊的身体であれ、あなたが孤立した意識であることに変わりはない。
たとえあなたが銀河系全体の意識体として生きていたとしても
近辺の隣接する銀河系を他者として認識したり、
受け入れられない民族が宇宙に存在したら、その時点で、あなたは孤立している。
すなわちいかなる広大な『枠』も、あなたに孤立や対立を作り出す。
個人も国家も銀河系も小宇宙も関係ない。
あなたの存在の規模にかかわらず、存在する限り、万物は『枠』を持つ。
最終的には宇宙という1個体とそれを取り巻く虚無との枠、境界線が存在する。
あなたは存在形体にかかわらず必ず『何かから』孤立することになる。

*********
まず、肉体という存在をあなたは意識せざるを得ない。
肉体が生存するためには、自分の肉体の管理をしなくてはならない。
その為に、あなたは年中空腹、微細な苦痛、あるいは微細な温度変化、
傷や病気による痛みを感じることになる。
これが原因で、あなたは孤立したあなた一人の肉体を感じる。
だから、自分を孤立していると強く感じる者ほど不幸である。
しかしその孤立感は我々の『鋭敏すぎる肉体感覚』に原因がある。
地球の人類は、ひどく肉体が貧弱で過敏である。
環境変化に過敏であることがもたらすメリットは、実にささいな利点のみだ。
それはすなわち、つまらぬ、ささいな事で快楽を感じとり、
つまらぬささいな刺激ですぐに苦痛と不幸になることだ。

*********
自我というものは、完全に『肉体感覚の鋭敏さ』に比例する。
ここまで人間が刺激に鋭敏に作られてしまえば、
嫌でも我々は個人や自分の肉体存在を年中意識せざるを得ない。
そこでその自分に関する情報蓄積(=自我)に比例して不幸が高まる。

*********
科学も宗教も、どんな探求者も、そして世俗のあらゆる娯楽もそして犯罪も、
実は、たった一点の目的に猛進する。
それは『限定感覚を感じなくてよい解放』状態だ。
だから自我の発達やアイデンティテーの発達などという理想は、まるで嘘であり
本当の我々の衝動の目的は『集中化しすぎた自己感覚の軽減』、
あるいは解放に外ならない。
だが、ここに『決定的な問題』が発生してしまう。
その体験は恒久的でないために、あなたの意識は、いやおうなしに、
外部と内部を『往復』してしまう。
あなたは完全に自己意識だけになることは不可能であり、
また完全に対象意識になりきることも不可能だ。
座禅や瞑想などでそうした事が出来たとしても、それは数分の一時的なものだ。
もともと我々が肉体にいるかぎり、自己の肉体や自分に起きる感覚を
過剰に意識し続けなければならないのは、当然であり、
そこへもってきて自己を忘却などできるわけはなく、
「事実にひとつとなって自己忘却」などとのたまう禅は全部失敗する。
それは一瞥の繰り返しのまま何も起きる事なく終わる。
一方、完全に自己に起きる事だけを自己想起するという修行も失敗する。
我々に出来得る最大限の事は、閉鎖された集中、拘束状態を
意識に感じない状態の実現である。
まず、それには肉体管理である。
健康で、苦痛のない状態にしておくこと。
次に、肉体の存在感覚を希薄にするために、座禅ないしは瞑想をするが、
ただし死人禅が群を抜いて効果的である。

*********
本人とは違う外界の知覚物に出会うとき、そのとき人は自分を感じる。
すなわち、自分の固体性、個別性を感じ取る。
従って、人間の本質的な潜在的な悩みは、生活のものでもなく、
形而上学の問題でもなく、実際には、
『自分はなんであるのか』の不安に集中しているのだ。

*********
不幸の本質は、人が何かを得られないとか失うという問題ではなく、
それらの葛藤を通じて『落ち着かない』ことにある。
とりわけ落ち着かない原因の本質は、実際には人間が単独で生み出すのではなく、
関係性から生まれる。
ただし、この外部との関係の中には、
ほぼ全存在を含有する論法を取るので注意しなさい。
すなわち外界と命名されたものは何もかもが外部だ。
情報も知覚も、無論それらの集合体である記憶や思考もすべてが
『あなた』の外部と定義されるのである。

地球人は個々の問題で悩んでいるのではない。
その本質は実は『関係性』に悩んでいるのだよ。
対人関係、対神関係、対宇宙法則関係、対エーリアン関係、対次元関係、対導師関係、
そして対サマーディ関係。
すべてその関係そのものに折り合いをつけることに悩んでいるのだよ。
だから『関係性』以外に悩みの種子はない。
外部との関係の発生以前に問題など発生しない。
生きることは素晴らしいとか、死ぬことはいけない、と
余計な概念を教えるような者が何もいなかったら、生死も悩みの種などになるまい。

*********
分化した魂は『外部とは何か?』と同時に『自分とは何か?』の疑問を持ち込む。
この疑問はひとつのものの裏符号にすぎないからだ。
さて、そこで、哲学には2種類ある。それは外部とは何かというものがひとつ。
これは最終的に全存在の責任、または栄誉、または汚名を
『創造者に押し付けて』決着する。
ところがその創造者は『誰が何故に創造したのか』という問いの前に、
あっと言う間に無残にも敗北する。
一方瞑想者は外界を誰が作ったかなどではなく、内部あるいは、
「自分とは何か」という哲学をする。
ところが、その瞑想者が『なぜ、そんな疑問を持ったの』かを見落としてはならない。
なぜこうした悩みが発生する?。その原因はすべて、外部と自己の『分化』のせいだ。

*********
苦の根源を看破すると、それは実は「自己意識」
あるいは個体に『限定された全体意識』の苦痛であったということになる。
つまり自分という意識が絶対幸福のためには邪魔なのだ。

*********
自我というのは、いわゆる言動に現れる人間のエゴイズムのことではない。
そうではなく、もっとそれは単純なものだ。
それは実はあなたの『自分という感覚』そのものだ。
したがって、死人禅はその自己感覚を希薄にするためにある。
事実のありのままから、あなたの判断がどいてしまうことが、いわゆる禅である。
そうすれば、ただなんであれ、『それだけ』しかない。
そこには意味もない。そこにはあなたの生まれてきた意味などないし、死ぬ意味もない。
何も意味がないということこそが、本当は幸福の原点である。
というのも、たとえTAOや魂の進化であれ、そういう意味の付加は
過去や未来の目的をあなたの囚われとして作り出すからだ。

*********
私という自覚の意識は、自分の肉体のエリアによって生ずる。
さらには、自分の管理や支配のいきとどくものに人は「私の」をつける。
たとえば会社や組織あるいは家族などに「私の・・」と言う。
私の、という主語がつくのは、すべて、あなた自身の肉体と、
あなたが自由に管理できるものに限られる。
したがって、うまく管理出来ないものや、知覚すらされない遠方の出来事は
「あなたのもの」ではないということになる。
またあなたは自分の経験の記憶に「私のだ」と言う。
さらに経験的に得た技術も「私のだ」と言う。
たまたま偶発的に出来上がったあなたの個性にすら「私の個性だ」と言う。
さらには、私の考え方などとまで言い出す。

*********
最初は小さかった自我意識は、ますます他人や社会からの命令によって拡張し、
また逆に積極性が拡張しないタイプの人達はまわりとの誤差によって自分を意識する。
自我が社会の「ご要望どおり」拡張したばあいには「やり手」と呼ばれ、
周囲との誤差を痛感したまま萎縮した場合には、「自閉」と呼ばれる。
あらわれかたは違えど、この2つに共通するものは
そこにまだある『自己意識』の存在である。

*********
自我は何によって発達するか?。それは意識への『圧力の強さ』である。
1/極端に知覚が敏感な肉体を持つと、外部と自己の「境界」を意識する。
2/外側の敵に対して緊張し続けることが発生する。
3/他人や外界との誤差の認識が発生する。
4/動くことによる肉体の体感的実感が発生する。
5/これらにより自分が外部とは仕切られた一つの『個体存在である』と認識される。

*********
どんなに人間、あるいは宇宙の生物が独りで隔離された環境に生まれ、
そして成長しても、彼の内部には『ある孤独感』が存在する。
他人に対する孤独感でなくとも、存在そのものへの孤独感だ。
それは自分のこの意識の存在感だけが世界の中に
ポツンと取り残されたような違和感ともいえる。
だから、全く独りでやっていけると自負するものさえも
動物との接触や情報などに飢え始める。
多くの場合、独りでいたとしても、いずれは
知覚対象物からの刺激に依存することになるだろう。
しかし、この原因は非常に厄介だ。
なぜならば、それを機能的に発生させたのは、地球人本人ではないからだ。
すでに、一連のこの文書で述べたように、ある知性体が
宇宙の発生の初期段階において「意識の分化」を行った。
だが、この分化作業は、創造者が自分の子供たちを生んだとか
自分の分身をばらまいたとか、個別化して宇宙を経験しようとしたとか、
そんな哲学や神学上の『きれいごと』の動機で行ったのではない。
いかにして全知性体生物を落ち着かなくさせるかを目的としたのだ。

自我を感じることで『落ち着かなくさせる』ということは
それにより活動を生み出すということだ。
全宇宙の存続というたったひとつの、たいして意味もない動機のために、
いかにして活気にあふれた宇宙(言い換えれば狂ったような宇宙)にするかが論議され、
また、実験を繰り返した。そんな中での画期的な考案が意識の『個別化』だった。

もともとひとつであるものを分解すれば
再結合をしようとする原理によって動きが生まれる。
だが、結合したのでは運動は止まる。
したがって、いかに結合させまいとするかが
宇宙の創造の初期にいた数名の知性体の主な業務となった。
これが自我が我々に意識されるように作られた発端である。

*********
生の意識といっても、それは主に、
外部の他者や世界という生の現象に対する意識である。
もう少し、平たく言うと
『世界や自分が存在している』という実感の大きさに比例して
苦は強くなるということ
である。
では世界や自分や他人が、確たる実感として、
それらがそこに存在している、そして自分は、その中に生きているのだ、
という実感を想起させる時とは、どんな時だろうか。
言うまでもなく、それは、常に
何かの「大小の具体的な【事件】がある場合」なのである。
問題が何もないなら、苦は発生しないのだ。

*********
教育や社会というものは、『私』という自我を育てようとした。
ニュースでは、「責任問題」というのが、よく話題になるものだ。
それは、まさに『誰が安楽死させたのか?』の『誰が』にこだわっている。
事件の責任は常に「誰か特定の者」になくてはならないと誰もが考えている。しかし、
一人で責任をとれる問題など、実はこの世には、ただの一つも存在しないのだ。

*********
私たちが『名前』をつけられた日から、
『これはAAちゃんの物なのよ』という事件が始まり、
自分は、「CCちゃん」という個なのだと認識し始める。
『名前』、それは人間が自我なるものを捏造するのに、確かに一役を買った、
とても大きな要素
だろう。









               雑感と格言

*********
自分が『心優しい』と思っている者ほどエゴイステックな人達はいない。

*********
私は異なる次元や宇宙の存在など事のはじめから
その存在を「肯定している立場」にいる。
そして存在は肯定しているが言っている『内容に』徹底的に反論しているわけだ。

*********
ある種の宇宙民族にとっては『不可能がない』ということが彼らの絶望の原因だった。
なぜならば希望とは不可能あってのものだからだ。
そこに到達距離があってこそ希望が存在できるからだ。

*********
チャネリングなどで、この宇宙や地球の変動や可能性を
賛美する宇宙人や知性体どもの大半を馬鹿だと思って間違いない。
その馬鹿さかげんが分からないなら、
うんざりするまであなたは他の惑星や次元に転生して
あきあきするまで進化しているとよいだろう。

*********
どんな高次元知性体でも『えっ?あんたたちには恐怖がないって?。
永遠だからだって?。
よろしい、だったら永遠に消滅して下さい』と言えば
理屈を100もならべて自分の存在理由や意義を
タラタラと宇宙人たちは説明するはずだ。

*********
人間は生命や実在の本質が何ひとつ分かっていなければ、
自分はたいそうな事をやっているというただの思い込みと
暇つぶしの趣味で一生をなんとなく生きて死ぬだけとなる。
しかも、ごく狭い自分の知覚する現実を住み家とする。

*********
私はひとりの探求者ではあっても修業僧ではなかった。
全く悟りなどなんのことか知らなかった。
エーリアンたちの存在からはとりたてて何も学ばなかった。
ただそれぞれが膨大に異なる次元の知性たちに過ぎない。
私が別の星のエーリアンの棲息領域にテレパシーによって入ったとき、
まずもってして現実のなんたるかは粉々になった。
そして『どこが』自分の現実の基準かがわからなくなった。

だから本当の宇宙の基本的な軸や基準が欲しかった。
それは結局、宇宙とはなぜ存在しているかの問いになった。
それが納得できなければ、それだけ多くの種類のエーリアンが
そもそもなぜ棲息して何をしているのか?自分は、どう生きたらいいのかが
まるで謎になってしまった。
だがスケールの大きさは苦痛の大きさに比例して跳ね返って来る。
だから人間が宇宙ではクズのように見えた。
自分がクズに見えないためになんとか究極の答え、宇宙の存在理由が知りたかった。
そうでなければとても地球に意識が戻っても普通の生活などできなくなった。
存在の謎が頭からはなれない。自分が見たあの宇宙の無について思い出せば、
ここにいる存在の意味を自問せざるをえない。それはこびりついて離れない。

しかし結論は、存在するため、『ただ宇宙が存続するため』に
『意味』を知性体に吹き込んだり、生み出したりしなければならなかっただけだった。
この宇宙の完全な管理、操作、完璧な洗脳、完璧なまでの支配に
人は完全な無力無抵抗だった。
その体験は私を完全に殺した。物理的には死んでいない。
だが、人生観、宇宙観、意味、意義、自分を支えていたあらゆるものが
その思考の真空の虚無の領域で、窒息死させられた。
思考が死んでしまったのだ。

*********
私は言わば何カ月も彼らにこう言われ続けた。
『お前はクズだ。なんの意味もない。お前さんの肉体はおろか、
感情も感性も思考も、心霊的能力も、哲学もクズだ。とっとと消えなさい。
君はただの実験生物だ。いやいやただの穀物だ。いやいや『燃料』だね。
??何だって?、でも宇宙には意味があるだろうから、
そんな中で個人にもそれなりの意味があるだろう、だって?。
じゃー、よく見てみな、ぼうや。これが宇宙だよ。
見たら他人に言うなよ。彼らが知ったら自殺しちまうからな。
ぼうや、見たらおとなしくしてな。そして死ぬも生きるも勝手にしなさい。』

*********
もともと無意味なのに意味という回答があるはずがない。
そこで存在に意味があるという私の観念が死んだ。抵抗は無駄だった。私は瞳を閉じた。
次に無意味なこの宇宙で残された『永久の時間を』どうすればいいのか考えた。
すべては犯罪から戦争に至るまで
『何ひとつ間違っていない』宇宙の正確なプログラムなのだから
好き勝手に確かに奮闘してエネルギーを出せばいいのだ。適当に楽しめばいいわけだ。
だが私は何ひとつ決して楽しめなかった。
私は何週間も自分が息をしている事さえも嫌悪した。



*********
私は、個人が『誰も必要としないで済むため』に文書を書き続けた。
むろん、それは私さえも必要としないためだ。

*********
ブッダはあなたや社会を、いわゆる幸福にするために法を説いたわけではない。
彼はただ、それぞれの個人にある苦悩を消滅する道に在り続けただけだ。
だが、どんな戒律もモラルにもそれは出来ない。
人は何かを持てばすでに自由でなくなる。
信じるものなどあったら人は必ずいつかそれを疑うときがくる。
思考が作るいかなる概念も信念も希望も、
決して永久という時間と無限の空間の中ではなんの効力も持たない。

*********
私は自然保護主義ではないし平和主義でもない。ただ、私は静寂主義なだけだ。
だから、その静寂を作り出し、安堵を与えてくれるすべてのものに感謝せざるを得ない。
それは神でもなければ社会でもない。
それは、 食べるものと着るものと住む場所の3つだけだ。
加えて、いちおう痛みを感じないでいられる正常な肉体と、一人だけの静寂な時間。
ここまでが私に言わせれば不幸でなくなるための管理だ。
その後に生まれる不幸や不平や不安など全部人間個人の産物だ。
これら衣食住と健康とは平たく言えば、肉体の苦痛がないということだ。
我々の最低にして最高の幸せはこの底辺の問題に基盤がある。

*********
私は治療師ではない。私は治療など興味ない。
その人が苦痛によって静寂を味わえないというのを最も問題としている。

*********
あなたたちは何でも夢見たり、人間や地球を根拠もなくいつも自分達人間を特別視して、
『ひいき目』に「解釈したがる」ようだ。
たとえばあなたたちはブッダたちからの慈悲を受けることを口にする。
まるでブッダたちから慈悲を受けてもそれが「当たり前」のような態度だ。
これはまるで、親の苦労を知らない子供の甘えそのものだ。
だがブッダたちからの慈悲を受ける最低のレベルですらないというのが、
銀河系での地球の一般的評価だ。

*********
宇宙では苛酷なほどの透明性、無心、シンプルさが要求される。
そのシンプルさを描写できるどんな禅やTAOの書物も存在はしない。
私に言わせれば、それらはあまりにも、人間臭すぎる。

*********
宇宙があなたに与えているたったひとつの自由とは、
『どの不自由と契約するか』という選択の自由だけだ。

*********
解脱への道は集団的なワークになり得ない。それは非常に希な人にしか伝達できない。
その理由のひとつは、当の伝達された者が長生きしないからだ。
瞑想経験があるなしは伝達の基準にならない。
ここにもまた『必要性』だけが基準になる。
問題は真剣であるか否かですらないのだ。
その最終的な基準は
その者が2度と個体として生まれない段階にきているかどうかだけである、
と言っても過言ではない。
それは完全な自我喪失の狂気と『引き分けるための』最後の正気である。

とにかく、人々は何か途方もない勘違いをしている。
私はかつて『悟りとは残る生の時間を自殺せずに安心のうちに迎えるための、
わらじであり、死水であり、一軒のボロボロの小屋のような我家だ』と言った。
人が考えるかぎりの人生などというものは、台なしになると覚悟することだ。
衣食住の安定以外は何もかも失うだろう。あなたは心を失う。
得るものなど何もない。すべてを失い続ける。
そして、それは『すべての不安をも失うまでに至る』のだ。
その不安の全面的な不在が、死への扉になる。
そこで人間としても存在としても終わる。ただ・・・終わるのである。

*********
人間のくだらない問題の大半は口が元だ。ほとんど全部そうだ。
全部いらぬおしゃべりのせいだ。だから、無口でいるといい。
しゃべる必要などないのだ。
ただし、彼らには無害でいなさい。
勤めるのは、あなたの衣食住の確保のためだけだ。
不必要な人間関係などチョロチョロ作るものじゃない。
無為で無学、無口、仕事以外は無能、無趣味のように振る舞い、
余計な関係を作り出さないことだ。

*********
見性した時、私の目はまるで空漠の精神病患者のようになってしまった。
姿勢も崩れて、だらしなく、まばたきが遅くなって、
動きが何もかもスローモーションになった。
自分がどこにいるのか、自分というものがどこにいるのかと言うと、
どうも頭のてっぺんか、てっぺんから少し上空に浮かんでいるようだ。

*********
EOイズムや本書を次に羅列するタイプの人達に薦めたり、
彼らと本書のテーマについて論じてはならない。
そのもたらす結果は、果てのない愚かさと口論であるから。
1/何かにつけて、社会はこうだ、一般社会はこうである、通常ならばこうである、
 常識ではこうである、世間様はこうであると自分について語るはずなのに、
 そこに社会を楯にもってくるタイプの者たち。
 その社会性の中には、むろん寺や宗教組織や瞑想センターも含む。
 社会の矛盾を徹底指摘する本書が、
 どうして一般論にしがみつく人々に無害でありえようか?。
 これは哲学者、探求者、瞑想者への手記であって週刊誌ではない。

2/『廃墟のブッダたち』に書かれたブッダの40の特徴から
 極度に掛け離れすぎている者たち。
 おそらくそうした者たちに本書のような問題を話した場合には、
 あたかもそれらを、「他人事の話題」のようには何でも言うであろうが、
 いざその本人を直接に直撃する形での問題提示をした場合には、
 あきらかに彼らは感情を剥き出しにした状態になるだろう。
 その場合には、いかなる伝達も、有益な論議も不可能である。

*********
死人禅においては、あなたが知的であるほど馬鹿にされる。
あなたが愛情深いほど馬鹿にされる。
あなたが探求心があればあるほど馬鹿にされる。
通常価値があるといわれるあらゆる心や行為、振る舞いはことごとく馬鹿にされる。
あなたが何かを知っていればいるほど我々はあなたを笑う。
あなたが何かを成し遂げているほど『その人生の業績の重荷』を哀れむ。
心霊的能力で遊んでいれば、ただただあなたは笑われる。

*********
私をあの時の苦悩から救えるものは、絶対的に『皆無』だった。
これだけは、たぶん、私は世界の誰にも、そして歴代のブッダたちにも負けまい。
私を満たせるものは、『本当に何もなかった』。
いかなる心理的ごほうびも、天国も、財産も、能力も駄目だった。
なぜならば、私が決着をつけたかったのは、
『万物そのものの存在と発生の謎』だったからだ。
しかも、まいったことに『決着』がついてしまった。
決着が、つかなければまだ絶対真理の探求という「ゲーム」が成立していたのに、
決着がついたことで、私は、生きている意味そのものがなくなってしまった。
『何かこれ、というものがあれば、死なないで生きる』というものが何もなかったのだ。
たとえば、悟り、、そんなものは、まったく私の眼中にはなかった。
そんなものを得ても、私は、満足しなかった。
なぜならば、宇宙の存在そのもの全部を呪い、自分を永久に殺してしまいたかった私が
一体悟ってまで、どうしてダラダラ生きる必要などあろうか?。
死だけを願望する者の前には、生に属するいかなるものも、意味をなさないからだ。
私は、何度も言うが、ひとつの事故として『悟ってしまった』のであり、
そんな気は毛頭なかったのだ。
ただ私はあのとき、永久にもう宇宙から消えたかっただけだった。

その消えたい望みすら、輪廻法則のせいで、かなわぬという絶望的事実の中で、
私は、その死ぬ事すら断念せねばならず途方に暮れ、粉砕され、死すら残らず、
本当のゼロだった。

そしてこれは極限の精神病患者だけに投与するべき
最後の薬品(悟り)だと痛切に思ったものだ。
だから、私は、なんだか、これを人々に語るのに、非常に最初は躊躇した。
まず、一体誰が、これに至る『可能性が全然ないか』、と言えば、
なんと、それを目指している当の僧侶やサニヤシンが最も困難だと理解したからだ。
生きることを諦め、死ぬことを諦めたら他にもう諦めるものなど、何も残りはしない。

*********
肉欲は食欲と同じレベルのものだ。だから肉体のことは肉体の本能に任せなさい。
また、性の相手となる者の意識レベル及び、肉体の霊的な欠陥に注意しなさい。
それは霊的な病気の感染となる。
すなわち、性の接触はエーテル体の損傷に及ぶものとなる。
したがってソープランドはタントラ・ランドにはなり得ない。

さて、肉体的な性交の結果、しかもそれが覚醒した意識の産物として出産したとする。
その子供はどうなるか??。残念ながら、その子供は、ただの凡人だ。
仏性は遺伝などしない。
親が二人ともブッダだったら、子供はブッダか??。そんなことはあり得ない。
もしもそうだったら、私は、そして、歴代のブッダたちは、
一生セックスし続けたことだろう。
何も講話やワークなどなくても、大量生産にこれほど楽な方法はない。
だが、そうではなかったことからも、ブッダはこうした遺伝法則には関係しない。
それにもしもそうだったら、子孫たちの現代ではもっとブッダたちがいる筈だ。

*********
もしも常識社会で通用する平均的な機械人間になるというのが、あなたの目的ならば、
さっさと世間で普通に暮らしなさい。私はあなたには必要ない。
悟りは社会や世間の中で何をするかとか何を生み出すか、
そして他人にどういう影響をするかではなく
あなた自身にそれが何をもたらすかが私の全関心だ。
それが私の全努力、全動機、全目的だ。

*********
これらは結局、『私の意見』などではない。
事実をただ、人間を離れて観察すれば、そのようになったというだけである。
そしてこれらの作業は実のところは、私があなたに代わって
思考、考察をしていることでもある。
あなたが、考えても、おそらく時間をかければ、そうなるであろう結論を、
私はあっさりと提示しているにすぎないのであるから、
これらは誰でも『言われてみれば、そうだった』というあたり前の話の特集に過ぎない。
私は作家ではない。だから、私はオリジナリティーなどには興味もない。
私は、単に何万年も続く、エゴのやり口を、別の形でアレンジして表現したにすぎない。
エゴというものは複雑にすらなりえないほど『同じ事』を繰り返すからだ。
なんとそれは、「新しい愚かさ」すらも創造する知恵すらもないのだ。
私は人類やあなたの自問自答を、ただはっきり明確にしたにすぎない。
だから、「これは、新しい考えだ」、などというものは、私の原稿にあり得ない。
どれもこれも、言われてしまえば、その通りであるという当たり前の話ばかりだ。
だから、私はいわば、顕微鏡に過ぎない。私は発想者ではない。

*********
もともと瞑想、あるいは探求、あるいは覚醒とか、悟りというものは、
平均的社会生活、あるいは、平均的幸福の為にあるわけではない。
社会適応が出来ないならば、カウンセラーのところへ行けばいい。
病気があるならば、生体治療にいけばいい。
体の調子が悪かったとか、あるいは、娯楽に飽きてオカルトに首をつっこんだとか、
心霊現象に見舞われてその解決や解明の為などと、人々はいろいろな個人的な動機で、
精神世界と呼ばれるものに足を踏み込むのであるが、その最初の動機は、時間とともに、
やがてその宗門独特の体系によって歪曲され、いつでも、その先には、大袈裟な、
サマーディだの、光明だの、神の国とやらがニンジンのようにぶらさがっている。

しかし、結局それらは、なんのためなのだろう?。
つまるところは、それはどの理論やどの方法やどの人が正しいという問題ではなく、
本人たったひとりが、幸福であるかどうかに、すべての問題は帰着する。

*********
世間とどうやってゆくかなど、私にはそんなものは論外だ。
事実、いかに世間と折り合いがついても、
独りになれば全然あなたは満たされていないではないか。
私はその者が、男であれ、女であれ、たった独りでいるときに、
その者がその者の本性に満たされるためにあれを書いたのであって、
そこに世間や他人や世界との関係など、疑問として持ち込むべきじゃない。

*********
変に『本ばかりを読み過ぎた連中』の一番いけないところは、
実質的な「現場の感性」で学ぶのではなく、夢想の中、ブッダの神話の中、
言葉の夢想の中で、禅やら、覚者たちの昔話などを夢見たりして、
ひどく、へんてこな個人的な「好み」をそこに作ってゆくことだ。
だから読書家や夢想家たちは、なんであれ、本当の「実際の局面」となると、
ひどく彼らは臆病で弱く、無力で、判断が鈍くなるものなのである。
物語りにあなたが、あこがれるのは自由だが、実際のこの場で、あなた本人が、
その登場人物になるというのは、物語りで読むような
『あなたが無傷で済む次元』ではありえないのである。

*********
人は、EOイズムが説明した宇宙機構が現実にあっても、それをどこか異国か、
遠い宇宙の管理職たちのやらかしている出来事程度にしか思っていない。
だが、我々の、日々の生活、日々の憎悪、日々の経済、日々の呼吸、日々の思考、
日々の疑問、日々の眠り、日々の排便、、その何もかもを、あの『宇宙論』は
説明しているのであって、それは、「おとぎ話」ではないのだ。
だが、そんな事を、あなたが実感するのは無理だ・・・。完全に無理だ。
そんなことを誰も実感もせず、いちいち洞察もしない。
習慣的な思考と感覚だけでも死ぬまでの時間稼ぎを彼らはできるものだからだ。
だとするならば、彼らには情報として何を与えても、
その自発的な洞察からの苦は発生のしようがない。

*********
私が助けなければならなかったのは、『私ただ一人』だった
そして、私はもともと徒党を組むのが大嫌いだった。

*********
禅書の一節に、こんな言葉があった。
『あらゆる経論は、心の不始末の後始末にすぎない』
しばし、私は、その言葉に目が停止したものだった。
まったく、その通りだった。心の不始末を犯す人間がいなければ、経典も、説法も、
まったく必要ではなかったのだ。あらゆる覚者たちの言ってきた、教えも、方便も、
行法も、その心の不始末がなかったら、そんな後始末は必要なかったのだ。
法とは薬である。我々はただの『医者』なのである。
だから何度も和尚が言ったように、メディテーションとは『薬』を意味する。
EOが言うように、難病人があってのEOイズムである。
言い換えれば、もともと、病人や狂人がいなければ、
我々など、まったく『無用の長物』、ただの「おしゃべり猿」なのだ。
我々は、人を惑わし、苦しませ、さんざんにデカイ事を言い続けたわりには、
そのあげくに、たったの数人も『・』=(悟り)に到達した者を後に残せないのだ。

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私は、果たして、見性の直前に、正直言って、
死にたかったのか・・それとも生きたかったのか・・・。

私は、死が怖かったのか??、それとも生が怖かったのか??
実は、まったく、それは『両方』だった。
というのも、そこで、私にやってきていた2つの選択肢は、
『永久の生命』か、さもなくば『永久の死か』の選択であり、
しかも、私は、実は、その生死の『両方を拒否』していた。

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普通、我々の世界は、生きているか、死んでいるかは、どちらかはっきりしており、
あるいは、その入れ替わりや混合物で認識されているものだ。
ところが、私がいた意識の世界は、「完全な凍結」だった。
ただ、宇宙がそこにあるにはあるが、何ひとつも動きがなかった。
進展もなかった。ただ、在るだけだ。しかも、消えることもできない。
私は「窒息」しそうだった。しかも、まるで永久に終わりのない窒息のようだった。
それこそが、私のあの時の「苦」だった。

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宇宙の森羅万象のあらゆる存在はカジノのようなものだ。
そこでは、ほぼ全員がその生命体験のゲームを楽しんでいるのであり、
だが私は、カジノで生命ゲームを楽しんでいる者に向かって語っているのではない
従って、それは人を先導などして集団化する事を最も禁じている。
禅であれ仏教であれ、その本来の姿は、『個人的理由』で生命の輪廻のゲームをやめて、
宇宙というカジノを去るためのものだった。だが、勘違いをしてはならない。
それは『個人的な理由』『個人的な事情』によるものであり、
断じて『集団的な理由』など、そこにはないのだ


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すべての公案は、弟子が『崖っぷちの心境』にいないかぎりは、
全く効力など持たない。
ただでさえ思考や理屈が口出しを出来ない状況下で、
さらに心が完全に窒息してしまう一言・・それこそが公案の本質である。
だから、公案の最大の決め手は、問いの『内容』などではない。
せっぱ詰まり、進退窮まるという、弟子の『状況』こそが決め手なのだ。

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私が語れる期間も限られており、もうだいたいTAOの流れの中で、
私の管轄する作業は終わった。
物体として存在することが他人への方便になってきたのは、過去の時代の話である。
むしろ物体としての私は、言動に脈絡がないために、門下たちは誤解こそできても、
私の実存と共にいることはできない。私の肉体のそばにいたからといって、
何かが伝わるものではない。
決して人に会わなかったというわけではない。
実際、数年は、数は少ないが、実に多くの分野の人達に会ったものだ。
そして、その結果、物体としての私が存在することの弊害がよく理解できた。
クリシュナムルティーは生涯、導師であることを拒否し続けた。
一方、私は、導師はおろかEOという著者であることそのものを拒否し続けている。
幻影を持って私のところへ来る者を受け付けないことが、結局、
最終的な結果としては、彼らへの一番の慈悲とも言えるからである。

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EOイズムの本を読むとき、誰でもそうなのであるが、
「自分の都合のよい、ある部分だけ」に目が行くものである。
ある者は、詩的表現や文学的表現にしか目に入らないし、
ある者は悟りだなんだとEOが騒ぎ立てる部分しか目に入らない。
またある者は、辛辣な軽蔑用語しか目に入らない。
またある者は、禅の部分しか目に入らない。
そして、その自分が期待した「うまそうな部分」だけを食うものだ。

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私は、常に門下に、
『私の活動は、制限時間つきだから、常に質問をしろ、常に、見解を示せ、
自分が納得するまでは、問い続けろ。私は和尚と違う。
あんたの目の前にいて、あんたに手紙も出すし、棒でも打つ。
一体この機会を利用できないでどうするつもりなのだ。』と言い続けた。
だが、こういう状況にあってすらも、彼らは真剣になれないのだった。
信じられないことだろうが、人間とは、そういうものなのだ。
いくら質問をし続けろと言っても、彼らにはまっとうな質問すら出せない。
おしゃべりに明け暮れて、ちゃんと行法すらやらなかったのだ。

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少なくとも正気を保って、いろいろと本を読んでゆくならば、
人にまともな知性があったら、彼には必ず、合点の行かない問題が浮上するはずである。
それは、結局は、『根本疑問』に帰着することだろう。
だからこの宇宙や自分が存在している事自体への根本疑問があるかないかが、
私が最近人を選択する重要で唯一の基準になっている。



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