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「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
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より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
●梅の間へようこそ●
掲示板
Title
助っ人リンク
2007年3月までは
「虹のオーガズム」と「性のレシピ」
の
読者専用の質疑応答用の掲示板でしたが、
2009年7月より禅書道日記に変更。
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[980]
■
【性と死の夜】 〓第1回〓
by:
ほ う ざん
2003/07/13(Sun)08:51:39
f252.ac102.FreeBit.NE.JP:43.244.102.252:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
新シリーズ【性と死の夜】のはじまりです。
サブタイトル「SEXとは、男女の火葬である」
「この、お話は、夜、一人っきりで、
お読みください。」
「性と死の夜」とタイトルをつけたのは、
別に、セックスは夜行うからだ、というのではありませんし、
死神が夜にやってくるという意味でもありません。
そうではなく、セックスというのは、相手がいて成立するテーマですが、
本当の本質では、それは相手ではなく、
自分そのものに向き合うことです。
だから、真夜中になったら、
普段よりも、ちょっと深いところまで物事を一人っきりで
じっくりと考えられる時間をとって、
セックスとは何か?を、
自分一人だけになって、
考えてゆきましょうということです。
〓第1回〓
今回から、少しずつですが、
沢山の、四方山話(よもやまばなし)をするかもしれません。
■「もう、そこで、死んでもいいと思えるセックス」■
まず始めに、最高のSEXとは、
相手の異性と、その一晩に、共に燃え尽きること。
自分というものが、灰になるまで、「お互い」に昇り詰める事。
二人、同時に昇りつめること。
二人とも、その一切が灰になるまで、
自分を火葬にする儀式だと思ってよい。
それは、必ず、二人とも同じ高みに昇らねばならないし、
同時的でなければならない。
そうでなければ、セックスとはサービスする、される
の世界に落ちてしまう。
セックスとは、そこでその男と死んでもいい、
その女と死んでもいい、と思うまでの燃焼性を持って
いなければならなず、
また、その行為も、単なるテクニックや性的刺激、
あるいは、単なる男女の心の交流に留まってはならない。
性とは死に限りなくその様相が「死」に似てくるときにのみ、
人が、本当はセックスの中に、何を求めていたかが明かになる。
ただし、それは個人の自我の死などという低いレベルではないし、
その個人の人格破壊や、羞恥心の破壊でもない。
また、それは性感への刺激による快楽の高まりによって
得られるものではないし、
単に優しくする、されたで、得られるものでもない。
唐突ながら、「悟り」という事を引き合いに出せば、
悟りは、大いなる「苦」を通過する事によって引き起こされるが、
「性」に関しては、それは大いなる「快」を通過する事によって
根本的な充足感が、引き起こされる。
この点が、あまりにも対照的であることが、
私が性の分野に興味を持った理由の一つでもある。
■ 「ある小説」のお話■
表題は忘れたが、昔、人から借りて少しだけ読んだ小説があった。
それは、主人公の男が、まずその書き始めに、
「自分はインポなのである」、という所から話が始まる。
グラビアを見ても、アダルトビデオを見ても勃起せず、
実際の女性の裸体に触れても勃起しないどころか、
性欲すらない。
そんな主人公が、自分は変なのではないか、
と思いながらも、心のどこかでは、
それを自然な自分の今の在り方であると認めて、
放浪を続けるうちに、その主人公は、
一人の女性と出会う。
出会った瞬間から、何かがその男に異変を起こした。
その女性と激しい一晩を過ごし、完全なるSEXの満足を得た。
むろん、何年も勃起しなかったペニスは嘘のように硬くそそり立ち、
また、相手の女性とも、同時に果てた。
単なる性感、単なる性の快楽を超えたものが、そこにあった。
というような話だったように記憶している。
自分の会うべきパートナーに出会っただけで、
すべてが正常に起動してしまい、
テクニックもへったくれもあったものではない。
全く、「無為自然」なる「何か」に導かれたセックスは、
ある意味で人知を超えた領域に人間を連れてゆく。
ここで問題なのは、
一体、何がその男の性欲のスイッチを突然に押したか?
である。
単に外見の美しい女性や、単に性格の良い女性など
いくら見ても勃起もせず、性欲もなかったその男の
内面に火をつけたものは何か?
これはSF小説の中での話だが、
同じことは、現実の男女の間でも、
起きるのである。
全く性に関心のなかった女性が
突然に、そのスイッチが入る。
しかも、それは単なる欲求不満の暴発ではなく、
そもそも、性欲すらも希薄だった女性の
そのスイッチが入るのである。
どんなテクニシャンにかかろうが、
イクこともなく、感じることもなかった女性が、
突然に、その一晩の性の儀式に、己を燃焼し尽くすのである。
男であれ、女であれ、性別を超えた、
「人間の根本に関わるような何か」がそこで起きているのだ。
では、一体、何が、そのスイッチを押すのか?
それこそが、
肉体という障壁を持ってこの世界に生まれた生き物が、
もともと、肉体という衣を着た存在ではなかった時の
融合感覚を「再現しようとする行為」、そして衝動なのである。
多くの伝説、つまり神話によれば、
男と女は、もともと一つに合体した生命、
または、形体であったといわれる。
我々も、そしてまた動物たちさえも、
その、男女として分裂する前の原型に復帰しようとする衝動があり、
それが性衝動を押す重要なスイッチとなっている。
性衝動というものにも、いくつかのレベルというものがある。
1/思春期を迎えた身体の発達と共に、体の変化から来る生理的な性欲。
これは生理的な餓え、または排泄欲と言ってよい。
2/愛情や、スキンシップ欲しさから来る、マインド(思考や感情)の性欲。
これは、心理的な餓え、または排泄欲と言って良い。
3/開発された性感が、より快楽を求める性欲。
これは、食で言うなら、グルメ志向のようなものだと思えばいい。
ところが、これに加えて、もうひとつ、
4/自分の半身、自らに符号する「魂の片割れ」「のような」ものと
漠然と「合体したい」という欲望がある。
これは、根本的なこの世界との分離感や不安、
または精神的な餓えから来るもので、
心や感情のレベルではなく、意識そのものにかかわる問題である。
前述の主人公が、その相手の女性に衝撃を受けた状態は、
もしもそれが現実世界で起きるとしたら、
この「4」の状態に近いものがあるだろう。
重要な点は、そこで生まれる感覚とは、
相手を愛している、という感覚ではないのである。
相手を好きだという感覚ではない。
自分は、その相手と、何がなんでも、「合一して回帰しなければならない」
といった、人間の心というものを超えてしまった、
根本的な欲求なのである。
そして世の中には、そうした感覚から一緒になったり、
結婚したカップルも、少ないが存在するかもしれない。
しかし、それは単に、頭の思考が、
「あっ、この人しかいない」と、感情的な早合点をした場合ではない。
そういうような事ならば、日常茶飯事に起こっており、
その結果が、無数の別れや決別や、
すれ違いや事件が起きているのである。
ただし、私がここで言っているのは、
精神世界馬鹿が言う「ソウルメイト」ではない。
そうした幻想を求めたところで、
そうした相手と出会う可能性は皆無である。
出会って、本人が妄想で、そう思い込むことが出来るという程度のこと。
そうした相手の出現を、妄想して期待している暇があったら、
そもそも、その合一の衝動が起きる、原因は何であるのか?
そして、その衝動をもしも体系化したらどうなるか?
それは、どのような合一のための相手を選択すれば良いのか?
その結果は、満足できる高みのセックスとなるか?
それが、「虹のオーガズム」の中の「神秘学の技法」の
最大のテーマであった。
そして、その結果は、十分に満足できるものだった。
全く予想を超えたことが、短期間に多く起きた。
方法も正しかった。理由も正しかった。結果もパーフェクト。
人が、男女という枠を越えて、
人間として、本当に欲しかったのは、「これだった!」というものが、
そこに、はっきりと、手に握りしめられる形で得られたのであった。
この点が、「悟り」とは大違いなのである。
求めるほどに「逃げ去る」というのが悟りであるならば、
完全な男女の「同一・同時・合一感」は、
ただ、人が、それを「意志して求めさえすれば」、
簡単に作動するシステムなのであった。
そしてのちに、
動物たちのセックスが、人間のそれよりも、
遥かに満たされた純粋なものであると知った。
豚みたいとか、ニワトリだとか、人間は、動物たちの
セックスに、なんくせを付けているくせに、(私も豚を引き合いに出して
しまったことがあるが、豚に大変失礼なことだった。)
・・・人間のセックスなど、彼らの得ている強烈な充実感に比べたら、
ぴちぴちの野菜と、1週間過ぎて、しなびた野菜ぐらいの違いがあった。
セックスの最大の問題は、セックスの「結合の時間の長さ」でもなければ、
問題は、前戯でもなく「テクニック」でもなかった。
人間が行うような、性器への念入りな前戯などする動物は存在しない。
彼らが行っている「前戯」とは、
人間の前戯など、足元にも及ばない、
根本的な前戯である。
馬たちを見てみると良い。彼らが首をぶつけ合うあの素敵さを。
鳥たちのキスを見てみるとよい。まさにディープキスのお手本だ。
彼らの中に起きている衝動は、
全く社会的なものではない。本能的なものだ。
彼らの中に起きているのは、
単なる子孫を作ろうとする本能だけではない。
人間もまた、そうであるように、
セックスとは、単なる子孫を作るための行為ではない。
また、人間がしているような、
あれこれの性感を刺激する遊びでもない。
(セックスの「本質」という意味ではということ。)
■「人は、性欲を、むさぼるのではない」■
本当の根本の部分では、
性欲をむさぼるために、男女は抱き合うのではない。
世の中には、性欲を満たすために、
「性感を」刺激するが、
いかなる性感帯や、ツボを刺激しても満たされないものがある。
何度、オーガズムを繰り返そうが、満たされない空白が残る。
どれだけ刺激の強さで、イって失神しようが、満たされない、
ぽっかりと空いた「空白」が、セックスの中心部にある。
ただし、それは、「心の隙間」ではない。
心の隙間というのは、その本人の過去の記憶などにより
形成されている、餓えであるから、
それは、相手に優しくされることによって穴埋めは出来るだろう。
しかし、一個人ではなく、
人間という種、または、肉体を持った「生物として」、
どうしても埋められない空白がある。
それは、もともと、男女が
ひとつの両性具有の形体であった、
太古の記憶、もともと全く男女の性別が分離してなかった時の記憶。
自分の片割れを探さなくてもよい、安心の中にいた時代の記憶、
つまりは、生物の中にある、集合的な記憶である。
こればかりは、いかなる、いわゆるセックステクニックが氾濫しようが、
決して、満たされることはない。
また、いかなるカウンセリングが太刀打ちしても、
これは、そもそも心理学の分野ではない。
■ 「セックスの3つの層」■
セックスには、大別すれば、
◆1/相手の「性感」に刺激を与えて、満足させるもの。
これがいわゆる、俗に言う、イカせるテクニックと呼ばれるものである。
「性感を与える」のが、その目的である。
◆2/次にあるのは、男女の「心」を満たすもの。
つまり、セックスとは別の時に、またはセックスの中で、
女心を満たすテクニックや、男心を満たすテクニックである。
女として弱さを出せたり、女として淫乱なところを相手に見せられたり、
また、男として征服感を味わったり、男としての弱さを相手に見せたりと、
いわゆる、男女の「心の遊び」である。
ソフトからハードまでのSMプレイもここに属するでしょう。
ものすごく、普通の人たちに分かりやすく言えば、
最初の分野のセックスが、相手の「下半身をつかむ」もの、としたら、
この2番目は、相手のハートをゲットする、「ハートつかむ」、というものである。
この技術は、サギ師でも使うものだし、
また、そんな悪意からでなはなく、自然な善意の中で、
相手に対して行われる優しさや、時には厳しさや
たくましさ、人格的なカッコ良さ、であったりする。
つまり、1番目は、性欲を満足させるテクニックに夢中にさせるが、
2番目は、その人のハート「惚れさせる」のである。
セックスレスでも、離れられない関係になる男女というのは、
この2のレベルでの、
良い言い方をすれば、信頼による「結びつき」があり、
悪い言い方や、悪い例では、それが
「依存関係」になっているカップルが多い。
ハートも、めったやたらに、ゲットしたり、
ゲットされたりするもんじゃない、という教訓です。
◆余談ですが、これ以外には、
男性が「相手の女性に子供を作りたい」とか、
女性が、「相手の子供を受胎したい」という思考が作動した時にも、
性欲は、普段と異なる異常な高まりを見せることがあります。
ただし、これは、単純に、本能のレベルが突き動かされたものと
解釈してよいでしょう。
◆3/そして、次が、いよいよ「問題のレベル」です。
1番目は、性欲を満たすもの、そして性感を満たすものであり、
風俗サービスの基本理念もここに属します。
2番目は、とても俗っぽい言い方ですが、
「愛あるセックス」とか普通に呼ばれているものです。
しかし、3番目は、心の問題を、飛び越えた、
「融合」と呼ばれるものです。
これに対するアプローチをしてきたのは、
一部の土着的民族や、古代の修行者たちや、
その階級や身分に関係なく、
一部の者たちだけです。
しかしそれは、何も秘教的なものもなく、非常に単純な原理です。
それは、自分の身体を「肉体としてではない存在」、
または、「肉体ではない形状」として実感することから始まり、
実際に性器を結合する前に、その勝負がつきます。
だから、そうしたものが儀式として
残っている場合には、
見つめ合うことや、その他の方法で、
性器の結合や前戯の「以前に」、
時間をかけた、肉体以外のレベルでの「融合」
に、行為が費やされるのです。
超さんのサイトで、「ラポール」という言葉が
使われていますが、その意味も、この融合条件には含まれます。
ラポールも重要な要素となります。
ラポールとは、一般的に「咀嚼された意味」としては、
「信頼できる関係」という事になるのでしょが、
根本的な単純な意味としては、単に、「繋がる」とか、電極を「接続する」、
というような意味もあります。
テレパシーの事も、「ラポールをつなぐ」という言い方をしていた人も
昔、いましたし。
■ この、初回の最後に説明しておきますが、
セックスというものを、その水準を単なる性欲の満足、
単なるイク、単なる心が愛で満たされるという限界から、
その上へ飛躍する方法は2つあります。
ひとつは、虹のオーガズムで書いたような、
男女の同一的な合一の中に、二人で一緒に消え去ること。
もうひとつは、互いに相手の性器を刺激しつつも、
刺激される側が、自分の意識を高く飛ばすことです。
セックスという最も肉体的な次元の事をしながらに、
意識は、その逆方向へと、ジャンプする方法です。
どちらも、今後、読者からの質問を受け付けながら、
進めてゆきます。
次回は、なぜ、禅的または瞑想的な方法論を軸としていた無明庵が、
「死」という方便に、ある時から、「性」をも、加えたのか、
そのあたりの簡単なエピソードを、手短に書く予定です。
続く
★
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