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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1087]
■
■手裏剣術講座■古武術の今後■「兵頭二十八氏」の著書の感想。
by:
鈴木崩残
2010/03/30(Tue)15:09:41
回転する蝋燭の炎だけを消したかった
http://www.youtube.com/watch?v=YV_9xMD2wY8
●失敗です。
ほとんど成功に近かったのですが、炎が消えた直後に、
糸の弾力によって、蝋燭台が、バウンドしてしまいました。
完全に「芯だけ」をかすめる事が出来ずに、
蝋燭を下に押す力が、作用してしまったようです。
ただ、8メートルからの直打法で、
たったの8投目でこの結果を残せたのは、
「偶然の確率」から言えば、相当に不可能だと思います。
しかし、前回の6間からのDVDの穴の貫通の失敗といい、
最近、ちょいミスが多すぎますね。
まだ7割ぐらいしか無心の状態に入っていないのに、
ついつい投げてしまう、悪い癖が少しあるようです。
>4/4、文末に「あたらしい武士道」兵頭二十八 著
>について、簡単ですが感想を書きました。
>★「梅の間掲示板」で、久々に、下ネタを展開しましたので、
>武術やっていても、下半身はからっきし弱くて女性に逃げられた、
>という人は、ご参考にどうぞ。
【これが、性術道というものなり】
↓
http://www.mumyouan.com/k/?U1370
_____________________________
第四の試練の時期
■翠月庵の連絡掲示板にて、前々回の投稿につきまして、
市村氏からも意見を伺いまして、
その上で、古武術が今、どこにいるのかを私なりに述べてみようと思います。
■武術のうち、日本刀をはじめとするいくつかが、
「使われなくなった後」の変化の第一の時期を、
江戸時代であるとすると、
第二の変化の時期は、明治維新であったことでしょう。
江戸時代には、それまでのような、
戦場での首切りには刀が使われなくなったかわりに
腹切りや、首打ちの刑には使われたようですが、
いずれにしても、刀が使われなくなってから、それにまつわる
「理念、哲学、技法」といったものが体系化されたのは、
ひとえに、天下泰平という「時間的な余裕」によるものでしょう。
そして、江戸時代に「武術はどうあるべきか?」で、
その第一の苦悶から生まれた先人の「理念としての」手本を、
現在、多くの古武術の人たちは、指針としているのかもしれません。
■しかし実際には、古武術、とくに日本刀を中心にして、
それにまつわる分野は、次に、
明治維新で第二の洗礼を受けることになります。
ここでもまた、押し寄せる西洋文化と西洋文明の波の中で、
日本の武術がどうあるべきかを問うた人たちが多くいるはずです。
その時期に書かれた武術論などもあると思います。
■ところが、「災難続き」の不運といいますか、
刀や日本武術は、またも第三の洗礼を受けることになります。
それが敗戦時です。
そして敗戦の時にも、また、日本の古武術がどうあるべきかを問うた
先人たちがいるはずです。
■このように、江戸時代に第一の洗礼と苦悶を経験し、
次に明治維新、次に敗戦時、この三つの時期における先人たちの
「三度の」苦悶と、悩みの結果と成果と変化してきた理念の支えの中で、
現在の武術が存在するわけです。
■では、この現代は、どういう洗礼の時期だと皆さんは思っているでしょうか?
既に三回の苦悶を通り越したのだから、
「先人たちの言ったことを黙って信じればいいのだ」で、
果たして済む時代なのでしょうか?
私に言わせれば、今回が日本刀にとっても、日本の武術にとっても
おそらくは「最大の洗礼と苦悶の時期」になると思います。
なぜならば、三回目の洗礼が敗戦後のアメリカの統治下におけるもの
であったのに対して、
近未来に起きるであろう第四の苦難は、
日本国という国がなくなるかもしれないという
危機の中で起きるからです。
江戸時代も明治時代も国内変化に過ぎませんでした。
敗戦しても、国までは私たちは失いませんでした。
しかし今回(次回)は違います。
■かつて、戦国の戦場で使われていた武器や技術が、
使われなくなってから、その「在り方」を問い、
その「在り方」を武士道やその他の哲学として確立して、
それが今日まで継続して「使われてきた」としても、
特に、敗戦後からは、
その「在り方」や「精神性」といったものが
今では「使われない」ものになりつつあります。
第二次大戦のときには、武士道という文言だけが、
士気高揚の為に悪用すらされたかもしれませんが、それを最後に、
少なくとも、国家として武士道なるものを国民に薦めたり、強要する
ことはなくなりました。
■そういう時代にあって、先人たちが、苦悶し、
三つの時代の節目で、悩み、変化させていった理念を、
今度は、「この時代の人たちが、悩みぬかねばならない」、と
私は考えています。
前時代に先人や他人が提唱した「武士の道の教え」に、
あぐらをかいたままではなく、
今度は、国家の存亡という危機を私たちが経験するわけですから、
今一度、古武術や、それが残した精神性なるものが、
次の時代には、どうあるべきかを各自で問うのが、
先人たちに対する、最大の恩返しであり、
本当の意味での変化しながらも継承される文化と言えます。
つまり、江戸、明治、戦後は、他人任せでしたが、
今度ばかりは、皆さんが悩まねばならないのです。
■これはちょとした冗談ですが、
刀が使われなくなってからその精神論体系が生まれたのだとしたら、
もしかすると、銃もまた、それが使われなくなる150年後には、
今の時代の銃器は、「古き良き時代の、火薬銃術(道)」とか呼ばれて、
アメリカで「古銃道」でも出来るのでしょうかね?
たぶんそのころには、火薬とは別の力によって弾を発射するか、
もしくは、既に、小型の高出力のパルスレーザーに変わっているかもしれません。
指向性を完全にコントロールできるスピーカーも現在存在しますので、
音波武器というものも、鎮圧手段として使われるかもしれません。
*********
■さて武器や武術と何らかの精神性が結びついた事例としては
中国のそれがありますが、
中国武術は別にインドから東へ渡った達磨を教えを、
受け継いでいるわけでも何でもなくて、
むしろ、それは、仙道や、易学、占術、気功といった
現世利益を求めるものとの関わりの方が強いようです。
中国の「奇門遁甲」などは戦争で勝つためのものだったと聞きます。
また、たとえば、目指すところが太極といった概念や、
天地人の三位一体だったとしても、
何もそんなことは、武術においてする必要はなく、
むしろ、それをしたいのであれば、「舞踊や芸術的創作」の中で
行えばいいことです。
また、中国の武術に「老荘の教え」が反映されている形跡はほとんどありません。
そもそも、戦わずして、「無用の者」として「人々の列の最後で」、
ゆったりと生きるのが、彼らの思想ですから。
●中国武術において、そこにひっ付いている精神性の影響を
どの程度日本の武術が、影響されたかはわかりませんが、
日本は日本で、中国的な、いわば「呪術的な要素」とは違う、
独自の精神性を発達させたのかもしれません。
ただし、このあたりは実に曖昧で、
未だに九字まで使う流派があることから、
どうも、日本における精神性とやらも、中国的な現世利益に根ざすものも
少なからずあるようで、
こうした、「ごちゃまぜ宗教」の影響は、
日本の武術界のそこかしにもありそうです。
そういう意味では、純粋に何が日本の武道における精神的背景であるのか
という定義は、大変に「難しいもの」になりそうです。
修験道なんだか、神道なんだか、それとも明治以後の新興宗教なんだか
区別も出来ないといったものすら、
日本の古武道と呼ばれる流派には混入しているものもありそうですし、
しかし、もしも、
そうまでして、自分が勝ったり、自分を延命させたかったり、
敵を倒したいのだとしたら、
それは実に「中国的発想」ではあり得ても、
「わびさび」とか、または仏教を唯一正統に告いだ形跡のある
「禅」の世界観とは、著しく違う、
外道になりそうだとすら私は思います。
■まー、よくわけのわからん、古武術の形式のひとつに、
道場に見る、神棚ですが、
道場でやっていることそのものは、その武術に、
中国系あるいは、ヒンドゥー系の魔術的システムが混じっていることもあるわけで、
その点では、かなり「いいかげん」だと言えます。
まー、日本の神様たちが、懐が深いから、
異端の神々でもウェルカムだとでも思っているのか、知りませんが、
日本ですと、神棚には日本神話の軍神や、
時には、異宗教の火の神などを祀っていることが多いですが、
果たして、それでいいんでしょうかね?
私は疑問です。
私個人は、武術道場として発展をしたいのであれば、
それには実は、不向きな、
「香取さん」とか「摩利ちゃん」とか「不動君」でなくて、
もっと別の「御霊(みたま)」を道場には、祀ったほうがいいと思いますよ。
まー、言っても頭の固い人たちは、聞く耳持たないでしょうが。
______________________________
■さて、余談が多くなりましたが、
戦後、欧米や(口に出して言いたくもありませんが韓国)の武術界が、
技術的には、次第に日本に肩を並べてきた今日、
日本に固有で、決して日本人以外には、簡単には真似のできない
武術、あるいは武道、そして、
使われなくなった後に形成された「精神性」とは何であるのか
ということも、
武術に携わる人たちは考えるべきだと思います。
たとえば、外人さんに、武術を教えるときに、
技ではなく、「理念」や「精神性」を、
師範自らすらも、わかっていないような、
わけのわからん説明をして、
外人さんや相手を煙に巻こうとするのではなく、
相手に明確にそれを説明し、
稽古をも通じて相手を納得させられる人は、
一体どれぐらい日本にいるでしょうか?
ん? 何ですって?
「自己鍛錬? 精神修養? 武道は自分との戦い?」、
んなぁーことは、別に日本でなくても、
世界中のどの分野のスポーツや武術だって、
理念として持っていますよ。
おまけに言えば、
「相討ち覚悟の決死の技」なるものを、武士の精神だ、とか言いたいのであれば、
自爆テロをする中東の人たちの方が、日本人よりも、よっぽど
「現役の神風特攻隊」として、存在しています。
(宗教的、または美学的背景が、大きく違うかもしれませんが。)
●さてそんな中で、本当に、日本にのみ「固有だ」と本当にいえる、
日本武術の「精神性」とは、何であるのか?
身をもって説明し、体言している人は、
一体どれぐらいいるのでしょうか?
たとえば、礼に始まるという、試合の前後の「一礼」ですが、
これはご存知のように、中国武術にも昔からあります。
●その技量や「情報」において、拮抗してきた現在、
日本の古武術や武道は、
今、「四度目」の自問を受けつつあると、私は見ています。
もっとも、そんなことには、全く無神経で鈍感な武術家さんのほうが、
世間では、大半を占めているようですが。
■ちなみに、手裏剣術。
これについて、私は事の最初から、
多くの外人さんたちには、こう話をしています。
他の日本の武術、とりわけ古武術に関しては、
確かに、日本人の方が、皆さんよりも技量なども上かもしれない。
しかし、手裏剣術または、直打法によるナイフ投げに関しては、
全員が、同じスタートラインにいると思ってください。
なぜならば、結局のところは、
手裏剣術は、もしも「他の日本武術」に「比較」などしたらば、
確かな歴史は異常に少なく、
剣術で継承されたような複雑な技も術理も、ほとんど何もないのですから。
だから、手裏剣術、または直打ナイフ投げにおいては、
私も含めて、全員が「同じスタートライン」にいますので、
こと、「直打法」に関してだけは、
日本人を特別な目で見る必要はありません、、、と。
*********
ということで、能書きを言っても、
「まずは、刺さらねば、何も始まらない」のが直打法ですから、
私は、まず最初に、日本の古武術の世界の人たちではなく、
その道で既に「孤高のベテラン」であった、
Ralph Thorn氏や、
古典のナイフ投げの分野で、著書も多く出している、
Amante P.Marinas氏や、
ラルフ氏の知人のボビーブラントン氏などの、欧米の人たちと
研究する上で組みました。
また投げ方の種類は違いますが、
ジャック・ダガーさんらとの親交もあります。
ジェフアダムス氏と、オーストラリアのジェイソン氏は、
日本の手裏剣術を基礎にして、単にそれを模倣しているといった形式
でしたので、共同研究をするメンバーの対象からは、
「私個人」は外しましたが、
私の属するナイフスローの会のメンバーのクリス氏とパトリック氏は、
ジェフアダムス氏とは、今でも親交があります。
________________________________
■翠月庵の市村氏のお勧め書物とあって、
昨日、一読しました。
筆者の論点をきちんと私たちが結像する為には、
これは、二度三度と読まないとならない本ですが、
現時点での感想を簡単に書いてみたいと思います。
■まずは、のっけから、「おもしろい」。
タイトルの「新しい武士道」から皆さんが想像するような
日本の武士道についてを論じる前に、
この本では、まず世界の戦争と武器の「発達と変化の経緯」について
かかれている点でも、極めて私好みのスタートでした。
一言に言えば、それは武器と武術と戦争の「歴史」なのですが、
重要なのは「その各国にあった歴史的背景」への筆者の洞察と知識です。
簡単に言ってしまえば、ある国の戦争形式を決めるファクターとは、
「気候風土」「武器の種類」「政治」「宗教」などが主なものであり、
よく言えば、それらの「文化史」の一部として語ることも出来ますが、
悪く言えば、武術は「政治・宗教」とズブズブの癒着関係にあった
ということも出来ます。
純粋に理想主義や「武徳」の理、だけで形成されたものではなく、
各時代の政府の思惑によって、もて遊ばれ続けた一面もあるわけです。
この本にも書かれていますが、
「武士道」なる呼称そのものが、政府によって作られた面が大きく、
「葉隠」「五輪書」といったものも、明治の末に政治的な利用を目的として
意図的に広められたようである。
■人民や敵をどう騙して支配するかという中国式の兵法・政治に
ついても述べられており、
日本人がその風土の中で今日まで育てた特有の世界観との違いも
認識できると思います。
特に面白かったのは、西洋の「騎士道」との比較で、
例えば「恥」の概念が、日本の武士道とは著しく異なるという指摘でした。
西洋の騎士道において重視され、恥としてとがめられるのは、
「契約不履行」であって、約束を守らない事が最も軽蔑され、
「命乞い」などは、別に恥に該当しなかった、という指摘であった。
■また、筆者は「自分で探し当てた正しい生き方」が各人にとっての
武士道である、と述べ、
読者に安易には、結論を与えないというスタンスも好感が持てる。
とかく、この手の武術論、武士論は、どこぞからか借りた知識と
著者の妄想によって「かくあるべき」と押し付ける結末で終わることが
多いのですが、
この筆者の「兵頭」氏は、あくまでも「考えるための素材」を
ふんだんに私たちに与えてくれます。
■その分、逆に言うと、先走ってすぐに「他人の意見の中の結論」を
鵜呑みにしたいタイプの読者にとっては、筆者の言いたいことが
見えないという人もいると思います。
また、本書を書くにあたって著者は過去に書いたものの
再筆ということもあって、かなり内容を「はしょって」いるものですから、
そのスピード感についてゆけない人もいるかもしれません。
私も四分の三ほど読み進んだときに、
「この本は、最後はどう締めくくるのかな」と思いましたが、
若干、ばたばたとした感じで、現代の武士のあり方について、
「考えるための素材」を風呂敷を広げて提示したままで、
ふっと、フェードアウトする感じです。
■多くの主要な部分は、著者が本の中で述べているように、
「著者の他の書籍や論文」に、重要な論点が詳細に既に書かれているものと
私は推測します。
したがって、本書一冊をもってしては、
この著者のスタンスを捉えることは難しく、
出来ましたら、他の著書も読まれることを、強くお勧めします。
私もまだ読んでいませんが、追々、読んでみるつもりです。
『武道通信』
http://www.budotusin.net/
『兵頭氏の動画』いくつかありますが、紹介だけに留めますので、
他は各自で検索してください。
↓
http://www.youtube.com/watch?v=bIexzkZy_JA
この本を紹介してくれました市村氏には、感謝いたしております。
______________________________
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