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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
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■手裏剣術講座 【手裏剣術道場における「体系」とは何か?】
by:
鈴木崩残
2012/04/28(Sat)05:29:49
武術「体系」とは何か?
翠月庵での講習が転機となる
●私が自分なりに体系化した手裏剣術、あるいは「総合投剣術」
とも言えるものを、他人様に教える、といった事を真面目に考えたのは、
実は、昨年2011年秋の「翠月庵」さんでの講習をきっかけとしてであった。
●秋の講習会の、約4ヶ月前から、コンテンツの最終的な詰めの作業をした。
折りしも、原発事故の情報収集の日々で、落ち着かない環境ではあったが、
幸いにして、初の講習会は無事に終えることが出来た。
時間の都合で、7間から8間の打剣法までは説明ができなかったが、
基礎部分は、伝えることが出来たと思う。
●振り返れば、投剣術、特に本格的に直打法に勤しんでから、
もうかれこれ、10年になる。
その10年間は、とにかく試行錯誤に次ぐ試行錯誤の連続であった。
外部にほとんど何も参考になるものがなく、国内外の直打法技術を
実際に目で見たり、ビデオで見たものの、
どれも、私が目指そうとしている哲学的な理念や、会得したい技に
照らし合わた場合には、役に立たないものがほとんどであった。
その体系の「ごく一部」が参考になるものは、それぞれの他の体系の中にはあったが、
それぞれが、「異なる剣、打法、距離、目的」という手裏剣の
定義の「4大原則」を、各流派で異なる想定しているために、
別の体系同士を、無理に複合的に組み合わせることは困難であった。
●何よりも、私にとっての、手裏剣術の最終的な到達点は、2つしかなかった。
1-ひとつは、徹底的に体系化して、
かつそれが、どのような他人に教授する形で適応しても、
ほぼ万人が習得できるものとして通用するものであること。
(特別な基礎体力や武術経験を必要としなくとも可能である事)
2-ふたつめは、「動禅」として「無心剣」の完成である。
(これについては今回は記述しない)
ひとつめは、過去から連面と、もったいぶって、小難しく、
かつまた、大したこともないものを秘密主義的に隠し、
手裏剣術を面倒にしてきた要素を、完全に排除する作業だった。
つまり、直打法を、どこまで「簡単に出来るか」である。
●結果として、無冥流の規格の「長剣」は、おそらくは、
世界で「最も直打法が簡単な棒手裏剣」となったであろう。
この点について言えば、申しわけないが、明府新影流の宗家の染谷氏が
氏の「中心的な理念のひとつ」とした、
>>難しかった手裏剣術を「簡単にする」という点では、
無冥流において、ようやく本当の意味で、それが達成できたと私は自負している。
■ただし、言うまでもなく、剣が決まれば「打法」もそれにつれて変わる。
あるいは、「もともとあった打法の為に」、
それに固有の簡単な剣を作ろうとするとこれはまた「別の話」になってくる。
私の推測では、染谷氏は、
氏が学んだ「香取神道流」に即した「古流の打法で打つ際」に、
「より難しくない剣」を作り出そうとしたのではないかと考えている。
つまり、打法は昔のままにして、「剣」を改良しようとしたようである。
■一方で私は打法それ自体を、全面的に変え、それにつれて剣も変えた。
この試行錯誤を、あまりにも長期的に繰り返したせいで、
通常は、決まった剣ならば、打てても、
どんな剣でも、初めて手にして数回で4間から刺せる武術家というのはいないが、
私の場合には、重心が変に前後どちらかに傾いている剣や、
さらには、重心が左右非対称の「断ちハサミ」であっても、5間から刺すことが可能となった。
つまり、剣や道具が違っても、それに対応できる打法を10種以上持つ事となった。
これは無冥流では「直打法による異物投擲」という分野に入る科目である。
_____________________________
●さて、その流派にとっての「手裏剣術とは何か」という根幹の定義そのものが違えば、
それによって、易しいか、難しいかの「定義」も変わるのであるが、
少なくとも、直打法で刺す、という「行為それ自体」について言えば、
おそらく、現存するどのような棒剣も、無冥流の長剣ほどには簡単ではない。
●また「長剣」は、近距離から10間以上(12間までしか投げたことはないですが)
まで、同一の剣で対応が可能なので、これも、甲野氏や半田師範が、
こだわった「同一の剣で全距離を通す」という条件を満たした。
一方で、甲野氏が、かなり長年の間こだわりつづけた、
同一の打法と手の内で、全距離を打てないか、という課題については、
「手の内」と「構え」は、無冥流でも、2間から10間まで同じだが、
私個人は、「動き」を含むと、それは厳密には不可能であると結論した。
おそらく、全く同一の姿勢や「動き」で打てるのは、
「6間」か、ぎりぎりでも「7間」までで、
それ以上は、一般の投擲術、つまり「投げ」の動きの要素が、
必要になってくると思われる。
●「剣の威力」について言えば、400グラム、500グラムといった、
ほとんど短刀のような物体や、脇差クラスの重量のものから、
下は、30グラム以下の軽量の剣まで、約200種類にも及ぶ剣を投げたが、
打法、打剣距離との兼ね合いから、約150グラムから200グラム前後までを、
「全距離対応」が出来て、かつ武術的に必要とされる速度を維持できる
範囲と断定した。
(ただし、翠月剣や、ナイフのように、
切っ先が、刃物のように切れるタイプの剣の場合には100g前後でも良い)
●剣も、違う種類のものを、この10年の間に、約700本以上も試作したが、
何よりも試行錯誤の時間を費やしたのは、「投法」「打法」であった。
おそらくこの7年間の試行錯誤の、ほとんどすべてが「打法研究」に
費やされた。
●そして、ほとんど参考になるものがないゼロから始まった研究が、
ようやく体系として、固定されたのは、2011年の初頭であった。
そのきっかけとなったのが、翠月庵での講習を予定したことであった。
●それまでは、すべては、自分のための研究であり、
また、手裏剣術という世界それ自体のある程度の改革をするのが、
私の、基本的な理念や目標であったし、
そのためには、他人が理解を出来ようが出来まいが、
やりたい実験はすべてやる、
複雑な打法も、自分一人が方法を分かっていればいい、
という方針を貫いてきた。
●しかし、講習会の為に「普遍化する」という課題を与えられた瞬間から、
それまでは、とても口では説明できないぐらいに複雑化していた
無冥流の、特に「20種類もあった打法」を、
たった一つだけに絞り込む、という作業に、私はとりかかった。
そこから始まったのは、徹底的に「無駄」を、そぎ落とすという作業だった。
●無意味な構えも、無意味な剣の持ち方も、無意味な姿勢も、
無意味な動作は、「これはいらない」「これは打剣に誤差を生ずる」
というものは、とことん、排除し続けた。
足の向き一つ、手の位置一つ、その他いくつかの要素に、
これだけは、絶対に「厳守すべき点」を炙りだし、
無意味なものはどこにもなく、
かつそれを厳守すれば、誰であっても確実に結果が出る、
という最低限の要素に絞り込む作業が始まった。
延べにすれば、おそらく半年ほどの時間はかかったものの、
最低限の動作以外には、いらない動作を排除し続け、
そのことによって、刺中率や、命中率を確実に向上させた。
かつ、距離が変化した時にも、部分的に少しだけ変えるのみで、
あとは、2間から8間までは、手足の構えはすべて「同一」という
ところまで、なんとかこぎつけた。
●一番難しかったのは、7間と8間の距離を、3間の時の構えと同じにする
という作業だった。
むろん、構えの後に、テイクバックを取り始めてからの体の動きは、
長距離用の動きとなるが、少なくとも「最初の構え」それ自体は、
足の位置も、手の構えも、3間から6間の構えと全く変わらないようにしたのである。
距離によって、構えそのものを変えてしまうと、
それだけで命中精度に誤差が生ずるからである。
コロコロ変わる体系は、
道場ではない。
●体系と、個人の趣味は違う。
私は手裏剣術の研究の10年間の、ほぼ9年を、個人的な好奇心を
モチベーションとしてきた。
しかし、教えるという立場になるかどうかとなったら話はまったく別である。
その点で言えば、武術の世界には、
そのあたりが、いいかげんな道場や師範が多い。
「伝統流派」を、ドヤ顔で名乗りながら、
その場のご都合主義で、「伝統も進化」するという言葉を悪用し、
最初になかった技法や、道具や、剣や、へ理屈が、あとからどんどんと
加わってゆく、そういうものは、
「伝統武術」でもなければ、「道場」ですらない。
●道場の師範というのは、自分が修練して学ぶことと、
他者に教えることとを、厳密に分けなければならない。
書道や絵画や音楽、芸術の分野で言うほうが分かりやすいだろう。
生徒に教えるのは、あくまでも生徒のため。
しかし一方で、その教師は自分の作品を個展で発表したり、演奏する。
そこでは、ふだん教える内容とは違う、「個人的な探求」の成果を披露するのである。
●つまり、生徒に対して、教えることが、変わってゆく、
ということは、教室や道場にあってはならないことなのである。
教師や師範が、自分がまだ発展させたい事がある場合には、
それは、あくまでも、個人のものであり、
完璧に、完成されて、以後、何も変更しないという体系になるまでは、
決して、それを他者に教えてはならないのである。
●その点で言えば、奇妙なことに、
現在、日本で、伝統流派を名乗っている手裏剣術流派のほとんどが、
その大原則を踏み外しているように私には思える。
なぜならば、絶対的に、それが「伝統」武芸である場合には、
かならず伝統であることの「品格」が大なり小なり、
そこに現れるからである。
それが伝統ということの意味であり、実証なのである。
●伝統や古流とは、
連綿と何百年もの時代「変わらなかった」からこそ、
「当時の時代背景の香り」をそのまま、動きの中に持っている。
しかし、現在、見る手裏剣術は、
古流を名乗っているところで、伝統が必ず持つ品格を残しているところなど、
ほとんど皆無である。
ごくわずかに、伝統としての気品を持っている打剣があるとすると、
それは、手裏剣術を、今も全く名乗っていないし、
手裏剣術を全く売りにもしていない、ある古流武術の流派の「打剣」のみである。
(あえてここでは、その流派名を言わないが)
ただし、これは本当の「古流とは何か」「伝統武術」とは何かという
その指針として参考になるという意味に限られるので、
「武術とは何か」という意味での話ではない。
●このように、本当の伝統は、その伝統性が本物である場合には、
明らかに、時代の違いを感じさせる動きが、その中にあるのである。
それは、どう見ても、この過去約100年で作られた動きではない。
しかし、いまだ、発展中、いまだ改良の余地のあるものであったり、
他の流派の動画を見ては、、
受け継がれていると「自負していたはずの伝統」の動きの一部を、
勝手に変更してしまう、
他人が知らないのをいいことに、あるいは伝書がないのをいいことに、
勝手に変更してしまう、
そんなものは、決して、
「伝統や、古流」として他者に教えてはならないのである。
●もっとさらに言えば、「現代流派」であっても、
技や理念に、変更が、どんどん加わるようなものであったらば、
そういうものは、手裏剣術「道場」ではなく、
>手裏剣術「研究会」と看板を変えるべきである。
●私見で恐縮であるが、
こうした、一旦出来上がった体系を「変えずの原則」を守っていると見られるのは、
「現代流派」では、「翠月庵」のみ。
古流では、成瀬氏以来、手裏剣術の「型」を継承し続けている
「根岸流」ぐらいしか、見たことはない。
●私がこの、教室と、研究の区分に、厳しい壁と敷居を設ける理由は、
道場で、曲がりなりにも「師範」を名乗っている者が、
いちいち世間の、別の流派を参考にしては、体系に改良など加えていたら、
生徒は、そのたびに、混乱するからである。
一年後に、教師が「昨年のよりも、今年のやりかたがいい」とか、
違うことを教えたらば、その生徒の一年の時間を無駄にしてしまうからだ。
●であるから、現代流派であれ、古流であれ、
ひとたび、他人様に、教えるとなったらば、
それは、徹底して、一環して、「同じこと」を反復して教え続けて、
その生徒の基礎能力を、確実なものにしなければならない。
もしも、師範によって、それまで伝術されていた事とは違う技法や、
ポリシーや、道具が開発されたのであれば、
それは、決して生徒に、面白半分で教えてはならず、
師範自身が、それを確実に確信を持てる体系にするまでは、
歳月をかけて、試行錯誤と、練り直しをしなければならない。
●そして、それが完成した場合には、
>決して「源流」の流派名を名乗ってはならない。
この大原則すらも守れない、阿呆の、自称・武術家気取りが多すぎる。
原型を、わずかに少しでも、あるいは大きく変えたらば、
その源流の「宗家に対する礼儀」を重んじて、
>●●流の●●派の●● と名乗るべきである。
●もしも、私が実際に、直接に教えた生徒であれ、
または、私の死後50年して、私が教えもしなかった者が、
>私が言ってもいない事や、教えてもいない事までをも、
>「無冥流」として、口走っていたり、書いていたり、やっていたら、
>私は絶対に、それを許さないだろう。
「源流」や宗家の教えは、
確実に、「分流」とは、区別して、史実に記録されねばならない。
それが、武人が持つべき、古人たちへの「礼節」であり、
また自分の師への、絶対に欠いてはならない「礼儀」でもある。
●ただし、その流派の宗家が、ウソ偽りなく、
>師が直接に、「証拠となる文書」によって、免許皆伝を認めた場合、
この場合だけは、正式な「技の継承者」として、その流派名を名乗っても良かろう。
ただし、師が、弟子に免許皆伝もしないままに、他界してしまったとか、
その後、単に、その時の「物事の流れ」で、
なんとなく、継承された気になっているだけでは、継承などは、
決してしてはならない。
>師が、弟子に(単に「道場を引き継ぐ」ではなく)、「免許皆伝の事実」を
>弟子たちの前で宣言し、その証人が多数いるか、あるいは、
>公正証書や、遺言書で「免許皆伝」の事実を明記していないならば、
それは、どうあがいても、
>「自称・何何流」という「虚偽」にすぎないからである。
>その場合には、その「流派」を引き継ぐ者ではなく、
>単に「道場管理者の引継ぎ」である事を名乗るか、
>または「・・・流・・・派の・・・流」などと名乗るべきである。
___________________________________________________________
●こうした、いろいろな事由で、私は、手裏剣術ではなく、
いわば「無冥流 手裏剣 研究術」という看板の元に、本やDVDを配布し、
あくまでも、「私個人の研究の足跡」としての、記録を残すのみとし、
絶対に、師範や宗家を名乗らなかった。
●その段階では、私は他人に教えるという事を絶対にしなかった。
私自身が、日々、違う技法を試行錯誤していたのであるから、
いくら見た目に面白い技法があったとしても、
教える側の責任として、
まだ混沌とした研究段階のものを、他人様に教えるわけにはいかないからだ。
投剣術の「技量そのものだけ」で言えば、
私は2007年ごろには、すでに看板をかかげて師範を
名乗ってもいい段階だっただろうが、
細部にいたるまで、
今後、決して変更することのない、確たる体系が出来るまでは、
「絶対に他人には教えない」とずっと自分に決めてきたのであった。
●だから、私は、2011年までは、ただの一度も、
「先生」とも「師範」とも名乗ることを決してしなかった。
しかし、ようやく10年目にして、無冥流「宗家」を自称することに
なんら違和感を感じなくなった。
そして、ようやく、他人様に教える資格がなんとか出来て、自分を許したのが、
昨年の、翠月庵での講習会であった。
________________________________________________________
●翠月庵さんの講習会の「翌週」には、
アメリカから来日したスカイさんにも、泊り込みで2日の稽古をしました。
言葉の壁や、彼の体調不良もあったものの、なんとか基本は伝えられました。
何よりも助けになったのは、私がしゃべって解説しているのを
英訳してくれていた人の音声を、CDに焼いて、渡しておいたことです。
●皆さんも、もしも道場で、稽古の説明を受けるときには、
ポケットレコーダーで、録音するべきです。
現場で、さらりと聞いていても、肝心なところを聞き逃したりしてしまい、
あとで何度も聞かないと、分からないことや、覚え忘れがあるからです。
●そんなわけで、ここで、もう一度、
昨年、講習会でやったことを思い出していただく「復習」の意味で、
基本打剣だけを編集してみましたので、思い出してみてください。
【無冥流の基礎打剣】
↓
【打剣フォームの自己チェック】
翠月庵の会員の皆さんには、解説付きのビデオを紹介していますが、
これは公開用なので、解説は抜きです。
↓
___________________________________________
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