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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
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■手裏剣術講座■『私が、武士道を、明確に定義した場合』
by:
鈴木崩残
2012/06/06(Wed)20:21:25
【武士道とは何か?】
●このテーマは、たまにこの松の間で書くことがありました。
私自身は、武術の経験はあっても、私の本業の分野ほどには、
武術を哲学的に洗練しようとは思っていません。
ただ、ひとつ言えることは、他の多くの思想がそうであるように、
時間経過と時代の変化によって、原型がそうであったものからは歪曲され、
思想は、それが考案されたり生かされていた時代のものからは、
本質が必ず逸脱するということです。
そのことは、精神世界や特に仏教や禅の世界で、
私は嫌というほど見てきましたので、
同じようなことは、武術の世界でも当然起きてきたことは明白です。
●私の信念といいますか、指針のひとつは、
「後付の理屈は、つけてはならない」です。
あとから、何かの理屈をつけて良いのは、科学の分野のみです。
なぜならば、科学の分野で理屈をつけるというのは、
その後の何十年、何百年の実証に耐えなければならないからです。
それは「実証義務」を持ちますから、たとえあと付けで理屈をつけても、
追試されたり、反証されて、使えないものと分かれば、
たちまちのうちに、科学の世界から、消え去ります。
●ところが、検証不可能なものや、定義が曖昧なもの、
たとえば精神論や宗教、それに芸術もそうですが、
それらは、現象や作品が、まず先にあり、
そこに後から理屈がついた場合には、
その理屈は、全く検証もされないままになり、
時には、さらに根も葉もない枝葉がついて、勝手な暴走をします。
●武術においては、「技の性質や有効性」は検証が可能ですが、
それを「道」と銘打って、変な理屈をつけようとすると、
それは検証も全くされない、ひとつのカルトに成り下がる危険性を
持ったものになります。
●さて、そこで今回は、以前のように、あれこれの考察を交えずに、
武士道を、私なりに「極端に単純化」して説明をしておきます。
武士とは用心棒屋である
●かつて日本の階級は、「士農工商」に分けられていましたが、
ここでひとつ考えて欲しいことがあります。
農民は「農民道」なんて作り出しません。
むろん、個人的に農業に哲学的な意味を持たせる人はいるでしょうが。
同じように、「職人」は「職人道」などことさらに説きません。
そして「商人」も同じです。ビジネス成功術の指南書はあっても、
そもそも、「商人道」などありません。
●ところが、どうして「武士」だけに、ことさら「武士道」などが
必要だと思い込むのでしょうか?
「士農工商」のどれもが、原則として「専門職」であるというのが、
私の基本的な見解です。
___________________________________
●たとえば、小さな村があったとします。
そこでは作物を作る人がいて、
道具を作ったり家を建てる人がいて、
そして、場合によっては、その村では作れないもの売り買いするために、
他の村との間を往復する「行商人」がいます。
●そして、その村がヤクザ者や、野武士に襲われた場合に、
村を守るための「専門職」としての用心棒、
これが、そもそもの「武士の始まり」です。
私は村という小さな舞台をわざと比喩に使いましたが、
これが単に規模が大きくなれば、藩となり、国家となるだけの話です。
つまり、「武士」とは、「用心棒」に他なりません。
●そして、この士農工商のうち、武士以外の人たちは「自由意志」があります。
つまり、農民は自分で相違工夫して、農業効率を考えたり、
新しい農作物にチャレンジしたりして自分の意志で農業が出来ます。
工業も同じで、自分の意志で、道具を作れます。
商人も同じです。
この3者は「作るも、壊すも自由」なのです。
●ところが「用心棒屋」である「武士」だけは、
村人の意志を無視して、勝手に他所の村に戦をしかけたり、
あるいは、その武術的な技術を行使すれば、
そもそも、村の平和を守る「用心棒」の役目をなしません。
それでは、ただの「ヤクザ集団」と化すのみです。
あるいは、ただの殺人者です。
●「ヤクザ集団」と「武士」を隔てる唯一のものは何であるか?
それを考えると、「武士道とは何か」が、
皆さんにも、見えてくるかもしれません。
「武術や殺人術」を「専業」とし、
個人に、刺客として雇われたり、または、村の用心棒になる、
この意味では、既に言ったように、
武士とは、士農工商のうちの「専門職のひとつ」にすぎません。
●ところが、他の3つと違うのは、
1- 村にとっての「公共性」と「公益」を念頭においた組織ならば、
それは武士となり得るが、
2- 村にとっての公益性を無視したらば、
それは、ただのヤクザになるということです。
武士とヤクザの違い
●「用心棒屋」という職種に身をおいたときに、
武士かヤクザのどっちに転ぶかを、何が分けているのか?を、
よく考えてみるといいです。
それは、たったひとつ。
>その武士、つまり「用心棒」を使い、統率する、
>「君主」や「村長」の「人間性」次第です。
つまり武士とは、誰かに命じられて、または誰かと契約して、
「用心棒をするという職業」である事には変わりないのですが、
誰が依頼者であるか、そして依頼者の采配ひとつによっては、
武士にもなり、ヤクザにもなってしまうものです。
すなわち、武士とは、「武器」とほとんど同じです。
使い手なくしては、存在できないのです。
●そういう意味では、私は、「武士」や「自称・武士 本人」が、
「武士道」を語ることなど、「まったく認めない」のです。
「道具」には、道を語る資格はありませんし、
それは、絶対に、やってはならないことです。
道具は「道具に徹するべき」であり、
自分の主人または、契約の依頼者の命令に従って、
「用心棒」をするのが、武士としての勤めです。
そこにおいて、モラルや理想を語ったり模索しなければならないのは、
武士ではなくて、武士を「使っている側の者たち」です。
●既に説明したように、武士の発生の起源は、
あきらかに、人々や村人を外的から守ったり、
時には、生存権を広げるために「戦う仕事を請け負う者」のことです。
村人の「公共性と、公益性」のもとに、
自衛力を持たないその人たちに代わって「殺したり・戦う」という「専門職」です。
●他のすべての分野と同じく、「殺戮や、戦い」を専門とする「職業」である、
という点では、「特別に尊敬される必要はない」ものであり、
特別に、道を説く必要もないものです。
それは「農工商」と全く同じ、「村の必需品である」というだけのことです。
つまり現代で言えば、それは、「軍隊」の存在意義と全く同じです。
村の用心棒という「専門職」が規模が大きくなれば国家の軍隊になるだけのことです。
●この軍隊または、兵士、または武士が、他の職種と違うのは、
命令なしに動けば、ただの「ヤクザ」、ただの「人殺し」であり、
公益性に基く命令や、個人の依頼で動けば、「仕事」になるというだけです。
ただし何度も言うように、
武士がいかにあるべきかを、倫理面から考える義務を持つのは、
「武士に命令を出す側」であって、武士本人ではありません。
武士は、ただ命令に従えばいいのであって、
私情や、個人の人生論を、必要以上に差し挟むのであれば、
その人は、武士ではなく「浪人」を名乗るべきです。
●つまり、武士は、ひとたび誰か個人や、組織と契約したならば
戦いそのものに「理があるか」「道を踏み外していないか」、
については、絶対に考えてはならず、
ロボットのように、忠実に戦えということです。
もしも、自由人でありたいならば、武士ではなく「浪人」で充分なのです。
また、もしも「この君主や組織の目的や、そのやり方には加担したくない」、
と思うのであれば、契約をしない、または契約を破棄すればいいだけです。
武士に許された自由意志とは、「誰の命令ならば従う事を選ぶか」です。
●ところが、もしも個人が、
「自分で自分が戦う理由」を作りあげてしまったらば、
それは、武士ではなくて、ただのヤクザです。
よくてせいぜい、武人気取りの「浪人」です。
>武士というからには、「公益性」のある「用心棒」であるべき、
>というのが「私による、武士の定義」です。
馬鹿に武士は務まらない
まとめますと・・・
1●武士とは、個人または組織の公益性の為に契約する「用心棒」である。
2●ただし、一度契約したらば、契約期間中は、
あくまでも依頼者の利益、または組織の公益性の為にのみ働き、
自分では、善悪を判断はしてはならず、決して依頼者に逆らってはならない。
3●もしも、委任契約した相手の命令の内容に不満があるならば、
むろん、契約を切る自由意志を武士は持つ。
つまり、武士は、仕事中だけは、自分の自由思想で動いてはならない。
(それをやった場合には、それは「浪人」となる。)
武士は、自分が委任を受ける「相手を選ぶこと」において、
自らの自由意志と、武士としての「誇り」を行使せよ。
言うまでもなく武士は、用心棒としての「技量」を、
確実に持っていなければならない。
これは、殺さない捕縛術、戦闘力、作戦能力、殺人力、諜報力などを
含む「兵法全般」の熟練が必要である、という点において、
単なる筋肉脳の者では勤まらず、頭が良くないと駄目である。
_________________________________________________________
●以上が、私の「武士道」観である。
>つまり、武士が「自分で自称すべき、武士道」なんてものは、
>本来は、どこにも、存在しないのである。
もしも、戦いという事において、
モラルや哲学や、精神論が語られるべき部分があり、
精神性が語られたり、倫理的な思索が必要なるとしたならば、
>その役目は、「依頼者」つまり、村人たちや、村長自身なのである。
今で言うならば、国民や政治家そのものが、
その用心棒や刺客を、どう使うのが正しいか、どう使ってはならないかを
考えて判断すべきなのである。
●そういう意味では、
「契約期間中」だけは、武士には絶対に自由意志はあってはならない。
>この「公益性なくして、武士なし」の論理が、
>他の「農・工・商」とは全く違うのである。
農、工、商には、主人や依頼人は必要ありません。
自主的にそれぞれの仕事をすればいいだけです。
>しかし、「殺人術」と「戦闘術」つまりは「兵法」、
>これは個人の自由意志で行使すべきではなく、公益性が基準になります。
もしも、公益性と命令を無視してそれをしたらば、
それは「武士職 = 用心棒や刺客」ではなくて、
「ヤクザ」「浪人」または「護身術」に成り下がるのです。
__________________
●もっとも、最近では、その「武士」などよりも、
「原子力ムラ」という「工」が暴走し、
「原子力ムラ」を「商人」が仕切っている有様である。
その影で、「農」は疲弊し、農地を汚され、
被災地では、「士」は、武器を手にすることはなく、
遺体の回収と、庶民の生活支援に、専念した。
●ただし、警察は??となると、
警察というのは、奉行所であって、国家の用心棒ではありません。
治安という意味では、いちおうは、庶民を守るという形にはなっていますが、
実際に、他国からの軍隊に攻撃されたら、
ひとたまりもない脆弱な武器しか所持していない組織です。
そういう意味では、現代で武士と言えるのは「軍隊」のみです。
●ただし、このあたりは、現実には、公益性と言えるのか疑わしい面があります。
なぜならば、軍事政権の国家では、武器は国民にも向けられますし、
独裁的な国家では、警察権力は、外敵から国民を守るためではなくて、
国民の「弾圧」「統制」の為に悪用されます。
●こうなると、そもそも「村人を守る」ために働いているのか、
それとも、支配階級の者が、
ただ、自分の利権にしがみつくための軍隊や警察なのか、わからなくなり、
まさに、「本末転倒」になるということです。
_______________________________________________________
●ですから、「武士道」なんていう、語る必要もないものを
わざわざ持ち出さなくとも、
>武士にあるべき「心得」とは、「人間」として持つべき心得のみです。
たとえば、
「この武士にならば、自分の家族や村を守って欲しい」と思え、
その人が、命を張ってまで、自分を守ってくれる事を、
相手に託すことが出来る、そういう武士を依頼人は信頼するのである。
一方で、武士の側は、
「この人ならば、この人の家族や、この人の村を守りたい」と思え、
その為に、護衛や攻撃の依頼を引き受けるのです。
そこにあるのは、あれこれと、いじくられた武士道論ではなく、
「人としての品格」と、「人としての信頼関係」であり、
武士道が、最低限備えているべきものとは、
>「依頼人と代理人が、互いに信頼をおけるかどうか」という、
>「当たり前の事」のみです。
_________________________________________________________
■ところで、実は、今回、この論を書くきっかけになったのは、
いつもお世話になっている、翠月庵の庵主である市村氏のこの記事でした。
↓
http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-323.html
この記事中にある「新渡戸稲造」氏については、
私は、名前は聞きますが、著書の内容は、詳しくは知りませんでしたので、
先入観を無くすために、あえて、その人の武士道論を一切読まずに、
今回の論を書きました。
書き終えてから、あとでネットで検索してみたら、かなりの部分がありました。
↓
1.
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/spirit/nitobe.html
2.
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/spirit/nitobe2.html
3.
http://yururi.aikotoba.jp/samurai/spirit/nitobe3.html
■読んでみますと、今回の私の持論とは、相容れない部分もありますが、
部分的には通じるものもあり、ざっとですが興味深く読みました。
もしも、私の持論と、共通する部分があるとしたら、
>武士、自ら自身が、人々と共に「平和的な生活」を送るためにこそ、
>「武」の存在意義があることを、決して忘じてはならない、
という点かもしれません。
つまりは、
ただの、「ケンカ待ち状態の、筋肉脳の武術馬鹿」や、
ただの、「武術オタク」や、
ただの、「武器マニア」や「知ったかぶりの口だけマニア」は、
断じて「武士」にはなり得ないということです。
●現代で、大義の元に、命や技術を張っている武人がいるとしたら、
ほぼ、その定義に当てはまるのは「SP(要人警護員)」です。
誰の命を守るべきかを「命令している側」の判断には、
多少の疑問点はありますが、
「契約上の信頼関係や、仕事の内容」としては、かなり武士に近いです。
何よりも「実力」が必須ですし。
武士の嗜み
■最後に、武士道という曖昧な言葉の暴走に、頭を毒された人、
または、単なる日本好きの人に、とっておきのプレゼントが、これです。
日本刀箸 (「マイ箸」に、いかがですか?)
↓
http://main.kotobukiya.co.jp/chopsticks_nihonto_bashi_SG/
日本刀傘 (ここは、もの凄い。こだわりが半端ではありません)
↓
http://katananohito.com/
この店の、こだわりの凄さは絶句です。
「鍔」が、これだけの種類から選べるのです!!
↓
http://katananohito.com/tsuba.html
_____________________
●最後に他流ですが、【武備舎】の演舞です。
多種の暗器・隠し武器を「再現」し、継承し、古流の技を正しく伝えている点において、
武備舎は、本当に貴重な錬成道場だと思いますし、
他には決して存在しない日本で唯一の「武器術の名門」だと思います。
↓
http://www.youtube.com/user/bubisya/videos
手裏剣だけ、鎌だけ、鉄扇だけ、
などの一部の武具を含む古流武術の道場は多くありますが、
ほとんどすべての武器術を網羅しているのは武備舎のみですから。
●思えば、私が最初に手にした「手裏剣に関する記述」のある本は、
岩井虎伯氏の本「秘武器の全てがわかる本」でした。
そして私が最初にコンタクトを取ったのも、武備舎の岩井師範でした。
本格的な和鉄で作られた、貴重な手裏剣を二種類、計5本も戴いたことは、
今でも覚えていますし、あの剣は、今でも大切にしております。
白上一空軒氏や、藤田西湖氏や、その他、現代流派の本を見たのは、
そのずっと後でした。
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