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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[1206]
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「手裏剣術講座」★「 直 打 法 に 戻 る べ し」
by:
鈴木崩残
2015/05/19(Tue)09:21:59
私が長年感じ続けた違和感
●皆さんは、日本武道大会などを、現地の体育館へ行ったり、
または動画で見ると思いますが、
こういうことを感じたことはないでしょうか?
ごく簡単なナレーションが入り、手裏剣術が登場して、演武が行われる。
すると、ちょっとした違和感・・・・。
よくわからない不明の、何かの違和感・・・・。
●飛び道具が悪いのではありませんので、弓道の演武などは、
自然に違和感なく見ることが出来るかもしれません。
ところが、手裏剣術の場面だけが、何か異質だとは感じたことはないでしょうか?
●比較のために、もしも、日本武道大会に、
史実的根拠を無視して「忍術」が演武に登場したとします。
すると、違和感が少ないか、またはないとは思わないでしょうか?
私個人は、そう思います。
●では、何が違うか?です。
それは、飛び道具が卑怯だからではありません。
身体運動が、日本武術から見れば異質の逆体だからだ、でもありません。
私がそこに感じる違和感は、
>そこだけが「フィクション性」が強いのです。
忍術は基本は、思いっきりフィクションかもしれませんが、
その組成の技の元は、あちこちの古武術を集めてあるはずです。
しかし、それでも、その忍術の人たちが、
もしも「棒手裏剣を投げた」と想像すると、
これまた、「そこだけが、浮いたものになる」のです。
その「浮いたもの」それは「フィクション性」です。
私はいつもそう感じます。
だからといって、私は武術大会の演武に手裏剣術が登場してはならない
などとは言うつもりはありませんし、前回の投稿の中で賞賛しているように、
文化継承としての価値と、地道な技の向上には、心底敬服しています。
●が、しかし、
参加している他の武術と(あくまでも)「比較」をした場合の話なのですが、
何かのリアリティーが、他よりも欠落していると、私は感じるのです。
演武内容は、むろん充実して詰まっています。
しかし、リアリティーに、どこか違和感のある空気になるのです。
●では、それこそ、宮本武蔵(の「自己申告伝説」)よろしく、
刀を鎖に捕らえられた側が、その刀か、あるいは脇差を、
刺すのではなくて、相手に投げつける、
これを「袋竹刀」などを使って演武するとどうでしょう。
なぜか、少し、リアリティーが復活すると感じませんか?
ところが、飛刀術で、畳に剣を刺すと、
これまた、とたんに、リアリティーの空気が失せてゆきます。
>つまり、なぜか、刀投げは、どこか「ショー」的、曲芸的なのです。
>インチキ臭ささが漂います。
ただし、それは私たち日本人が、テレビなどでナイフ投げを見てきた
というその無意識的な記憶に由来するものではありません。
*********
●さて、電話や私信などではなく、
日本に既存する、手裏剣術の人たちとは、ちょうど、2003年ごろから、
ぽちぽちと、実際の交流がありました。
当初から、違和感を感じた人たちがかなり多く、違和感を感じなかったのは、
私個人の中では、岩井氏と、半田氏のみでした。
この人たちに共通するのは「技術者」魂があるということです。
古武術どうのこうのといった、いわゆる「権威」にぶら下がったり
おもねたりするのではなく、
他人から見ていたら、「あんた、それやりすぎやろ」といわれるぐらいに、
半端でないマニアックな、専門分野と、こだわりを持っていたということです。
なので、語る話の比重として、古武術とか、その精神論とか、
権威がどうのこうのなど吹っ飛ぶほど「技術者・技術屋」だったのです。
●一方で、既存する手裏剣術流派、
(といっても、有名も、無名の創作も含めて「極少」なのですが)
それらの人たちと、この約12年間、たまにですが接してみて、
ほぼ全員が(生徒さんたちは別です。代表者が、という意味です)、
「権威におもねる」「おもねようとする」という傾向がありました。
(権威を「尊重」するのと、
そこに、何かと根拠を求めて、ぶら下がろうとする性根とは全く別物です)
また、「かぶれる」のと、染まるのも、まったく別問題です。
■手裏剣術というものは、
少なくとも、確たる基盤、経験則、長い積み重ねによって固体化した
「他の、多種に渡る武術群」に比べると、
あきらかに、手裏剣術は、その基盤の土台(戦争史の中での価値)が、
ぬかるんでおり、ぐらぐらであることは、
これまでの(特に今年2015年)のここ「松の間」の、
いろいろな投稿で、私は主張してきました。
とはいえ、鎌倉・室町時代以前に「必要」とされたのは、
「馬術と弓術」であり、剣術は「あとの話」ということはよく知られているように、
時代、時代によって、主戦力というものは変わるものです。
●そのような中で、手裏剣術というものに、かくも、史実的な根拠が薄く、
しかも、実際に、やってみると、
どうも武術として成立するかも、疑わしい。
それぐらいならば、金属板でも相手に投げたほうがよくて、
あるいは刀剣類なら、刺すことなど目指さなくとも、
「奇襲的に投げつければよい」ではないか、
そう思わせるだけの「違和感」が、いわゆる手裏剣術にはあります。
●ただし、前回の投稿で私が釘を刺したように、
「直打法」というものを、「技法」としてだけ取り出すと、
そこで輝いてくるのは、
>その難しさ故の「曲芸性」と、その楽しさなのです。
だから、人数は少ないですが、
「直打法にハマる人たち」がいるのです。
私や、その他数名が、そうであったように。
●いかめしい顔をして、古武術の権威や、傳系のどこかに、ぶら下がろうとしたり、
ぶら下がるならともかく「傳系」を捏造しようとしたり、
あるいは、歪んだ心の状態で、武術論だのを付け加えようとしたりする者の
剣は常に、邪気を放っていました。
一方、そういうことをしていない人たちの剣には、邪心がなかったです。
●武術という枠の中に「無理やりに押し込められようとした直打法」
というものは、当然の事として「窒息」しそうになったりします。
それは、一種の「虐待」にすら、見えてしまいます。
だから私は、「直打法」に対して、そういうことをせずに、
>「武術というものは対人攻防なのだ」と鼻息を荒げて叫ぶのであれば、
>効率的な何かの「礫」(つぶて)でも投げていればよく、
>どうしても刀を振って、手裏剣を投げてカッコつけたいならば、
>対人攻防になり得る可能性の高い「反転打法」をきちんと使ったりすること。
>そして「レプリカにすらなっていない直刀などは、他人様の前で決して使用せず、
>反りのある脇差を投げつける」
という、実際に「あり得たかもしれない方法」ならば、
「武術」としても成立するかもしれません、
と、ここのところ指摘し続けてきたのです。
>「ただ刺すのは曲芸的だ」と小馬鹿にしながら、
>自らが、その的当てすらも、技量がなく、
>結果として、刀の的刺し「曲芸」をして、他と違うことをしている
>自己満足に浸っているに過ぎない者もいるからです。
>(個人で稽古するのは結構。しかし大衆の前で、
> 間違った余計な前口上を、ベラベラおしゃべりするべきではない)
●とにかく、
手裏剣術というもの「全般」よりも、「直打法」だけが、
戦闘史の中では、「リアリティーの薄さ」が突出してしまっているのです。
*********
といった、現実を、私は、
「手裏剣術 = 古武術の一部なんだい = 権威が正しいなら俺も正しいはずだ」
といった稚拙な精神構造を持つ人たちの中に「心の歪み」を、長年、見てきました。
●なぜならば、
>「手裏剣術というものは、あったらしい。
> しかしながら他の武術とは、うって違って、詳しいことは不明なので、
> 自分勝手に、いろいろと投げていますので、たいしたものではございません」
これが「現実」なのですから。
●私が武術大会での手裏剣術で見る演武は、「たいしたもの」なのです。
その技術がどれぐらいの日々の努力によって安定しているかは
見れば一目瞭然です。
ところが、技術は、それだけ「たいしたもの」なのに、
リアリティーが「薄い」というものが、そこにオーバーラップしてくるわけです。
技としては、ものすごく難しいことであるのに、
「リアリティに薄い」というものは、武芸に限らず、
他の「文化・科学などの分野」でも、よくあることなのです。
*********
つまり、
傳系もあやふや、技の伝承もあやふや、史実もあやふや、
技の安定力も、実戦での実効力も、あやふや、
ここまで、それが立つ地盤が「ふにゃふにゃ」な、手裏剣術というものは、
特にそれが「直打法」であるほどに、
「対人武術」という観点、または「武器史」という観点で見た場合には、
「たいしたものではない」もの、
「厄介物」
「浮いてしまった物」
「落ちこぼれてしまった物」
となっていると私は常に感じます。
だから、
「手裏剣術は、ひっそりと、つつましく、
自分のいるべきところ=(影の世界)にいる方がいい。」
と感じています。
●その「浮いてしまっているもの」を、
いくら、別の権威や歴史や、古武術身体運動などと「くっつけよう」としても、
「直打法」というものに、もしも「モノに魂」があったとしたらば、
そんな、
>「人間たちの身勝手による、政略結婚」のような事を嫌がると思います。
>付き合いたくもない異性と、強引に見合いや、同居をさせられるようなものです。
******************
●余談ですが、一つの流派ではなく、
いくつかの流派の生徒さんを見ていて感じたことがあります。
>最初は、手裏剣が楽しくて輝いていた、その生徒さんたちの顔から、
>目の輝きが失せてゆく、のです。
武術論とか、身体運動論とか、権威とか、精神論とか、
そういうものに、直打法が「強姦」されてゆくうちに、
生徒さんの顔から、次第に、「笑顔」が失せてゆくのです。
それは、長く続いている流派であれ、新流であれ、
常に同じ道をたどります。
私は、「へらへらした笑顔」が必要だと言っているのではありません。
凛とした中にも「目の輝き」があればいいのです。
しかし、その笑顔よりも重要な「目の輝き」が、
暗く、沈んで、消えてゆくのは、なぜなのか?、
考えてみることです。
それは、人間が、
自分の「居場所」を間違えた所の中にいると、つまらなくなり、
気落ちしてゆくのにも、とてもよく似ています。
物事には、音楽の周波数と同じように、調和するものと、
「不協和音になるもの」の組み合わせがあります。
「十八の武芸」の中に、手裏剣をぶっこんでしまったのは、
本当に、「適当な、いきつさ」だったのだろうと私は推測しています。
■だから、日本中の、
手裏剣術の中の「直打法」を、
「元の居場所」へ戻してあげることです。
その元の居場所とは、
「直打法は難しいが、それゆえの面白さ」という、本来の「居場所」です。
>また直打法は、剣術その他の武術とは違い、「投擲術」なのですから、
>原則として「逆体、逆歩」で打つべきものです。
*********
●甲野氏も、ある時期には、さんざんに、著書やテレビで
手裏剣術を、リアルなもの(戦略武器)として、語ってしまっていましたが、
氏自身が、あれほど長く手裏剣という「モノの持つ魂」と付き合っていれば、
手裏剣の最大の醍醐味、または精神的メリットとは、
相手が人間ではなく、対人攻防でないところにこそ、
つまり、
「物言わぬ、無心の標的」、「動かぬ、静かな標的」に向き合う、
そのことの中から浮上してくる「自分の感覚」と向き合うことであった、
という結論になるはずなのです。
それは、少しですが、ビリヤードに似ています。
もっと「いかにも権威的に見える例え」が欲しい「かぶれたがり屋」には、
「曹洞宗の僧侶たちが、仏像や曼荼羅ではなく、
ただの白い壁に向かって座禅をするのと似ている」、
とでも言って、茶化しておきます。
●対人を想定した武器としての使用、または精神論など、関係なく、
「直打法 手裏剣術」の、「真の標的」は、「自分ひとり」です。
*********
●ちなみに、
「遊戯手裏剣と武術手裏剣」のコンテンツに、
「武術手裏剣」を入れたのは、その技法が習得ができると、
「マンネリ化」しやすい手裏剣が、かなり「楽しくなる」からです。
また、
>1/「逆体と順体の両方」を使用し(特に手裏剣術は「逆体が基本」です)、
>2/「足を固定」し、
>3/「起こりをなくする」のは、
>4/可能な限りの渾身の剣を打つ、
これらは、対人攻防の問題などより「遥か以前」の問題として、
「打剣の基本中の基礎」を作ることです。
>基礎を無視したり、「基礎から逃げめたの我流作り」にあれこれやっても、
>基礎が出来てもいないのでは「お話にならない」のです。
>そういう者は、他人様に教授する資格などありません。
●また「身体運動の感覚」としても、近距離打法は「快感」であるという面も重要です。
長距離打剣とは、また違う、シャキっとして、キリっとした「感覚」が、
打剣者の意識に、生じます。
>●また「歩みの途中で打剣をする」ということは、
>「動きながら打剣する時」の、バランス感覚の養成にもつながります。
単に武術的に通用する効率が良い「対剣術の攻撃法」にしたというだけではなく、
>行う人の「感覚がどうなるか」という面を、かなり私は配慮しています。
先だっての、無冥流の改良型の「逆歩」による「横打ち」も、
やれば、楽しくなるはずなのです。
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