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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[837]
■
武術は「自慰的な演歌」ではありません。少なくとも私にとっては。
by:
崩残
2006/12/14(Thu)06:06:09
■どうも、私は、武術愛好家と称する者の口にする、
武術論だとか、武術談義とか、実戦想定脳内妄想、にはついてゆけません。
昨今、剣術と手裏剣術の対戦シミュレーションといったものが
あちこちで流行っているようですが、これについては、釘を刺しておきます。
■まず、「どうしてそれをやるのか?」の理由を明確にすることです。
試してみたいといった理由が、「漠然とある」という人しか
私は見たことがありませんし、聞いたことがありません。
しかし、その必要性はあるのですか?
手裏剣にどこまで何が出来て、出来ないか、
剣術にどこまで何が出来て、出来ないか、という実験としてはかまいませんが、
実用性は、決して、軽はずみに口にしないことです。
また、実験の設定条件を厳密にしなければ、その結果が
何を物語るのか、限定的な意味では、どういう意味を持つのかすらも
全く検証のしようがありません。
そうした実験は、ただただ、言葉が独り歩きをして、後世に嘘を残すだけの
弊害しかありません。
■どうも、いろいろな人の話をいくつか聞くと、
まるで、戦場というものを、道場破りでの一対一の決闘と勘違いをしている
人が多いようです。
道場でなくても、荒野のガンマンといったところでしょうか?
それはそれで一向に構いませんが、そうなると、
周囲に障害物もなく、刀を自由に振り回せたり、自由に打剣できたりと、
そういう環境では通じたという技にすぎません。
道場内(または荒野の)対戦スポーツ競技か、または殺し合い、
この設定条件であれば、その中での優劣は確かにある程度計れます。
しかし、そこで出された結論は、「実戦」では何の意味もないのです。
>「実戦」と、「対戦」は違う、ここをまず、覚えておくことです。
ほとんどの人達が語っている、槍と刀、刀と手裏剣、その他の武器同士の
対戦は、「対戦ゲーム、または決闘」であって、実戦ではあり得ません。
ですから、今後は、
>「実戦ではこうなる」といわずに、
>「決闘型の対戦ではこうなる」と必ず前置きをすることです。
■実戦というのは、言うまでもなく、
弓矢が霰のように振ってくる、槍が八方から攻められる、
多人数から同時に攻撃される、逆に、多人数で同時に1人を攻撃する。
戦友を助けるために、援護射撃をする、
地形も変化し、天候も変化し、何よりも兵士は、指揮官の命令する形に、
フォーメーションを形成しなければなりません。
■もしも、決闘の積み重ねによる実力が、戦の勝敗を決めるのであれば、
「優秀な腕前の武士を多く持っていた軍勢」が勝つことになるのですが、
結果の現実は全く違った事が多々あります。
無能な指揮官によって、せっかくの優秀な武士が大勢死んでしまったことなど
日常茶飯事でした。
「精神的に優秀な部下」が多くいれば、戦は勝てますが、
単に、修業年数があるだけ、腕前がいいだけの「体育会系武士」の軍勢では、
戦では負けます。
いくら、武士個人が、武士道を口にしても、そこで負けたら、
あるいは任務を果たせなかったら、「負け」なのです。
負けたら、そもそも、何のために戦っているのかが無意味になります。
天下を統一するにしても、その背景に殿様にはそれぞれの哲学があり
野望があり、戦術があり、部下はそれに賛同したら、
その目的に従って戦うわけです。
一個人の野武士や落ち武者が、「自分の腕前を試したいがための欲望」だけで
「決闘の勲章」を求めて、さ迷うのとは、わけが違います。
いくら武士道なる「演歌美学」をもってして死んでも、
戦場では、ただの犬死です。無駄死に。
それでは、歴史や政治を変えるという大義名分には何の足しにもなりません。
敵兵に敬意を表されて一礼されたところで、
それで歴史が変わるわけではありません。
それは、武士道を気取った「自己満足の死」にすぎません。
■つまり、「対戦」という場合には、
対戦する双方の「個人的な理由に基づくもの」であることを、
まず念頭に置くことです。
個人的な理由とは、刺客商売とか、または「剣術修業旅行」ということです。
■次に「実戦」。
これは殺し合いです。または「殺さずにでも」「勝つこと」です。
そこで指揮官がしなければならないことは、
犠牲を不必要に出すことなく、いかにして、制圧するか、または
敵を全滅させるかです。
残党がいようものなら、部下に命じるか、または自分で、
地の果てまで追っていって、その家族の女子供も含めて、
一族全てを暗殺する、それが前世での「私」の仕事でした。
残党の血族が生き残れば、かならず厄介なことになるからです。
■また戦場では言うまでもなく、重要だったのは、
各兵士の得意な技を、フォーメーションの中でどう活かすかです。
「私の記憶している」実戦戦術とは、ほとんど全てが、
チームプレイだったのです。
数人同士の戦いであるにしても、あるいは多勢で野原で雨のように降る
弓矢の中をかいくぐるのであれ、そこで最も重要だったのは、
兵士の配置と動かしかたです。
その判断を誤ったら、せっかく自分たちが、何年もかけて育てた兵士、
優秀な技を持つ武士たちが、無駄に犬死してしまうのですから。
■「絶対に兵士を死なせないこと。」
これが私の任務でした。
捨て駒という考えは、私の属する流派にはありませんでした。
人が自爆して命を捨てることが、絶対的に必要な状況など、
そうそうあるものではありません。
同じ結果を出したいのであれば、無駄な犠牲など必要ないのですから。
■そういうわけですから、たとえば、剣術、手裏剣術、槍術、薙刀、
弓の射手、これらは、複数をどう配置するかということが、
最も重要なことでした。
言うまでもなく暗殺戦となれば、私達のほとんどは「隠忍」です。
私は、鎧を着た記憶がほとんどありません。
ごく数回、着ただけで、記憶に残っていないので、鎧に対しては、
何の愛着も哀愁も感じないのです。
私の任務のほとんどは、情報収集と、情報分析、それに、
暗殺、相手陣営に対する情報操作、
そして主な役目は、部下の教育でしたから。
■そうした立場から言えることは、
一武士の武士道など、どうでもいいことで、私達に要求されたのは、
死に様をどうさらすかではなくて、「結果」を出すことでした。
何人仲間が死んでも、自分の身分を明かすこともなく、
つまり、自分の技を出すことも許されずに、
届け先まで、運ばねばならない「情報」がありました。
そこでもしも戦ったら、平民に偽装していた事がすべて無駄になり、
自分がどういう勢力の側にいるかが相手にバレるからです。
それは決して、私達には許されないことでした。
■さて一方で、殺し合いの場となれば、それはもう、
決闘などと言えるシロモノではなく、
切断されて落ちている相手の腕や足を敵に投げてでも、戦ったものでした。
相手の武器を奪うなど当たり前。毒物を使うのも当たり前。
油や火や、煮え湯を使うのも、当たり前。
特に、冷めるのが遅い「煮え油」は、高温にした油を注いで、
それを武器として使うための専用の「筒」にいれて、使われました。
早い話が、水鉄砲ならぬ「煮えたぎった油鉄砲」です。
これは、鎧を着ていても、顔にかけられたら、たまったものではありませんでした。
●相手は多勢でかかってくるし、こちらも多勢でかかってゆく。
だから、勝敗を決めるのは、一個人の力量だけではなく、その配置でした。
ようは現代も、昔も、古今東西、どこの国であって、
戦争つまり実戦というのは、街中のケンカから国家のケンカまで、
「決闘や対戦」ではないということです。
■その戦が何をどうするために行われているのかを上官が見失わないようにしなければ、
いっときの感情や、相手への憎悪や、くだらないプライドや見栄で、
自分の部下を全滅させてしまうかもしれないのですから。
おそらくは、私の部下ではなくて、前世で、他の藩にいたりして、
またそこで、一兵士として戦った記憶のある人たちというのが、
たぶん、妙ちくりんな「武士道」とか「対戦」に固執するのだろうと思います。
■一方で、中間管理職にある現場の指揮官は、そういう事では
済まされないのです。
竹の間に以前に書きましたように、前世で、私は、
部下の判断ミスから、村人に偽装していた敵陣に助っ人を送り込んで、
自分の部下を多く殺されました。
だれが敵だか味方だかの判断を迫られる状態が、ずっと何年も続いたのです。
■だから、戦いの裏には、政治的な目的があります。
その目的が、正しいのかどうか、この殿様は頭がいいのか悪いのか、
その人間性はどうなのか、仲間も含めて、
そこで命を張る意味がある人物や任務なのか、
そういう事を、私は常に考えていました。
目的は何であるのか、それが明確でなければ、戦略は立てられません。
その目的の背景には、どういう個人の野望があるのか、
そして、結果が出たら、どういう政治的な「効果」があるのか、
それらを常に見失わないように、
現場の兵士も、共にそれを共有して知り、判断すること、
それが、私が当時生きていた、一部族の方針でした。
「お前は、何も知らないでもよい」とか突き放して、
兵士を使い捨ての駒にするような、そういう所ではなかったのです。
■さて、論点を戻しますが、
そうした時代が去り、同じような戦いは、舞台を変えて、
「経済戦争」や国家や民族紛争として「現代の戦争」となっているわけです。
そこでは、この今の現代で、
武術、特に武器術や、過去には殺人術であった古武術が持ち得る価値
というのは、いくつかに分類されます。
1/心身の鍛錬の手段。
2/研究対象として。
3/対戦スポーツ化された競技として。
4/歴史や文化の正確な「継承」として。
5/警察や軍隊で、応用の出来る技を取り入れる。
6/介護への応用、これは決してやってはなりません(爆笑)
●しかし、今ここには、本当の意味での、
戦国時代や幕末の「当時の実戦」というのは決してあり得ません。
全く状況が違うからです。
当時の状況でも、「対戦」などというものがありえるのは、
唯一、「仇討ちでの決闘」か、
もしくは、戦場で一時だけ、
たまたま一対一になった数分間のケースだけです。
その、「現実問題としては、当時でさえも、ほとんどないケース」に、
ロマンと好奇心を求めるのは、個人の自由ですが、
それは、「決闘型の対戦」と命名し、そこを話の前提とすることです。
決して、「実戦」などと口にしてはいけません。
■手裏剣術に関して言えば、私は、そんなものは部下に持たせません。
持たせるとしたら、せめて、毒付きの車剣です。
確かに、その技の名手は何名かいました。
私は、彼らのことは、援護射撃としての配置につかせました。
多勢の槍と手裏剣術などという、そんな不利な組み合わせで、
部下を死なせるわけにはいかないからです。
■もう少し、電波話をしましょうかね。
私にとっては、自分の(時には他人の)、
ここへ生まれる以前の記憶の断片を手繰り寄せることは、
不思議でもなんでもない事なのですが、
戦国時代の当時の私は、部下の教育係であったとともに、
武器の注文製造をしていました。
鍛冶屋は私とは別にいるのですが、
私の役目は、隠し武器を考案すること、または組み立てる事でした。
だから、私のところには、「ここをこうしてくれ」だの、
「ここに何何をつけてくれ」だの、そんな依頼ばかりがやってきました。
とんでもなく、妙な刀を作った覚えもあります。
刀の鞘に、分銅のようなものがついているものとかです。
または、武器そのものも、今ではおそらく失伝しているであろうようなものもです。
たぶん、当時私が「現品限りで作った、たった一個しかない武器」などは、
どっかの草原か住宅地の地下で、錆び朽ちていると思います。
そのせいなんですよね。今でも、妙な武器を創ったり、
武器に一工夫する「癖」があるのは。これはもう生前からの気質なのです。
■またもうひとつあった私の役目は、
部下に短期間で、技を教えることでした。
1人1人の兵士は、長い間、各自が得意とする分野の武術を訓練してきた
わけですが、
臨時に、違う分野の技を、わずか2週間とかで使いものになるように
叩き込まなければならないのです。
その場の状況で、配置が足りなくなる部署というのがあるのです。
たとえば、「弓の使い手が予定よりも死んでしまって、人数がいない」、
といったときには、別の部署から選出して、その者たちに
数日で、弓を実戦で使えるようにしなければならないのです。
このときの私の性質や、役目というのが、
今、この時代に、ここ松の間で、私がやっていることに
通じる部分なのです。
私の役目は、依頼された短い期限内に、その兵士を使い物になるようにすること、
だから、今この時代でも、
とにかく、「速い時間で実用的に使える方法論」を編み出そうとするわけです。
そういう点では、自分がいた「立場」が違うものですから、
私は、生徒に何年もかけて、辛抱強く、ひとつの武芸を教えるという、
いわゆる、老舗道場の「師範体質」ではなくて、
異分野の人達の、交流の接点にいた人物であったことも、
この現代での私の立場と、非常によく似ています。
このように、人というのは、どこかで、たまにですが、
前世の「再現」をしているものなのです。
本人が自覚していようが、いまいが。
だから、「実戦」と聞くと、私の中にある遠い記憶は、
目的のためには、どんな有効な手段でも使う、殺人術なのです。
私の過去生の記憶に焼きついている実戦とは、
決闘や、道場破りではないのです。
皆さんは、「全く信じなくてもいい」、私の「よた話」はここまでです。
■しかし、時代がすっかり変わった現代では、
私の興味の大半は、
手裏剣の実戦性でもなく、決闘シミュレーションでもなく、
今、現代に、「最も欠けているもの」について、
つまりは、手裏剣の「原理」の解明と、
それを後世に残すための記録という仕事です。
しかし、それは、解明などと、何も大げさに言うほどのことではなく、
ほとんどの事は「中級手裏剣術」とこの松の間を合わせると、書いてあります。
あとは、遠投に関する、大きな「謎」が、私の中にはいくつか残っています。
また、来年には、たぶんNHKのスーパーカメラの撮影に、
企画を持ち込むと思います。
NHKの音楽制作の仕事をやっている人のつてで、交渉をしてみますが。
今まで、まことしやかに言われてきたことが、本当なのか嘘なのか、
それは、超高速度撮影のカメラでしか解明できないことがあるからです。
家庭用のカメラでは、いかに性能がよくても、限界がありますから。
その時には、半田師範に、ぜひとも協力を依頼する
つもりです。また、某剣術の師範の方にも。
ギャラもちゃんと出ますから。
●それと、まだ未定ですが、
来年には、「ラルフ氏」は、ナイフマガジンかコンバットマガジンの
取材を受けることになると思います(未定ですが、たぶん)。
そのあたりの交渉も、現在私の方で、進めていますので。
●
________________________________________________________________
●追稿●
仮に、剣術同士でも手裏剣術同士でも、あるいは何の武道でも、
技は「達人レベル」まで完成したとします。
では、もしも2人の同格の技量の者がいたら、
最後に勝敗を決するのは、一体何だと皆さんは思いますか?
俗世間では「時の運」といいます。
しかし、その時の運の風向きを決定する気圧配置、
つまりその「運」にも、その原因となる「裏」があります。
私の経験則からの考えでは、それは、その戦いの「理由」です。
理由に正当性があるとかないとかとは別にしても、
人が、戦うには、「理由」があるのです。
個人的な理由、たとえば、妻や子供の命を奪われた事への復讐、
国家のため、幕府のため、上官のため、あるいは金の為、家族のため、
何かのためでなければ、戦うことはしません。
武道家の理想としては、人や君主のためではなく、
「剣の神様や、戦いの神様に捧げる」のもいいのですが、
その戦いの神様すらも、「戦いの理由」を常に見ています。
その戦いの動機、理由として、何が正しいかはないとしても、
動機の、純粋さ、不純さはあります。
迷いながらの戦いか、迷いがないかなどです。
後悔は本当にないのかどうか?。
私が見てきた戦いには、前世の流血線だけではなく、
今日の裁判の戦いから、
指一つ相手に触れずに殺す、呪術戦までありましたが、
そのときに、「勝敗を分ける順番」を書くと、次のとおりです。
1/理由が本当に全くない。天地一体の無心の境地。
これが天下無敵の「最強」です。
2/理由に曇りが本当にない。躊躇もない。罪悪感もない。
3/戦う理由が、本人の中ですらも、不明確。これは間違いなく敗北します。
______________________________________________________________
●私は、その人の目的の動機が明確で、かつ、必要なのであれば、
出来る限りの力は尽くしてきました。
たとえば、剣術の人が手裏剣術に勝ちたいと言って来て、
それが明日あさってにも、本当に必要になることであるならば、
どれだけの努力しても、それを実現しようと努力をしたでしょう。
逆に手裏剣術の人が、剣術に勝ちたいと言ってきたら、
同じようにしたことでしょう。
ただし、それは、そうすることが「現実」であった場合のみです。
●かつて内乱があった時代には、戦うということは、
日常生活に完全に根ざしたものでした。
だから、その生活の中で起きる感覚や、必要性といったものから、
戦うことは(殺すこと)、良しとされていましたし、
そのために思案することは、
「日常の生活感覚と矛盾のない」、全く自然なことでした。
だから、戦いのある時代で人を殺しても大した業(ごう)にはならないのです。
皆さんの、誰もが今までに、人を沢山殺してきたのですから。
●しかし、時代と場所が変われば、同じ殺人も、
その人の、今後の人生を決定する「業」になります。
この現代で、旧時代の武器(日本刀や手裏剣やその他)で、
何かをどうこうしてみたい、などという発想は、
明日、自分の仇を殺しに行って、その足で自首するという覚悟の書でも
持ってくる人以外は、お断りですし、
まー、現代でそれをやると、「殺人幇助」になってしまいますね。
これが本当に昔の時代なら、私は相手の事を徹底的に調べて、
対策を練ってから、依頼人を、送り込んだでしょうけど。
●しかし、現代では、
本物の戦いに近づけることは不可能に近いわけですから、
もしもどうしても、自己神話を作りたいとか、何かの優劣を決めたいとか、
自流の強さを証明したいとか、そういう「低劣な思考」ではなくて、
本当に「実験」という目的を持ってやる人がいるのであれば、
「厳密なデータの取れる、模擬的な実験環境」を用意するしかありません。
その「実験環境」というのが、今まで人づてに聞いたどれもが、
まるっきり、検証になどなっていません。
だから、いつまで経っても、脳内妄想の世界なのです。
そういう人たちは、「本当の結論」が欲しいのであれば、
遺言を書き記してから、離島にでも言って、
やりたい人同士で、実際に、殺しあうことです。
しかし、それすら、ちゃんと撮影をしておかねばなりませんし、
>だからといって、命をかけて、そうまでして出した結論が、
>必ずそうなるという「普遍性」を持っていることにもならないのです。
■ですから、よく私は言うのですよ。
>それが本当に、「今、ここで」「必要なこと」なのであれば、
>どんな直観も得られ、発想も、創造も、打破することも可能です。
しかし、妄想的なもので、今ここで本当に必要でもないことに
頭を使い、対戦したら、どうなるか?、どうするか?、
そんなことを、いつまでも考えていたら、
破産するか、家族が殺されるか、病気になるか、大怪我するか、
いずれにしても、あなたのご要望どおり「敵が現れてくれますよ」
ということです。
ただし、ご要望どおりの剣術師や敵としてではなく、
「災難」という名の「敵」が。
しかし、それは、
自分で引き寄せているのですから、しかたないですが。
●現代で、必要もない人殺しの方法を妄想の中で考えるということは、
結果として、人殺しを、招き入れるということです。
これが人殺しが日常的に必要な時代であったならば、
それは現実に果たされるのですから、
その思考は成就されます。つまり、無意識下のストレスとなりません。
●竹の間で、何度も「国民感情管理省」の話で書いたように、
人間の思考の中で、
現実化させたいが抑圧されてしまったもの、抑制されてしまったもの、
そうしたものは、「形を変えた別の出口から現れる」と書いたはずです。
性欲も同じです。妄想しても、それが「現実のセックス」になるなら良いですが、
性に関する妄想が、そのまま放置されれば、
それは、いずれ犯罪的な行為になって「出る」ということです。
これと「武術談話」特に「武器武術談話」は、「酷似」しています。
たとえば、防具をつけての竹刀とか木刀での試合、
これは現実に行われるものですから、
ちゃんと思考は「発散」され、排泄されます。
つまり「現実問題」であれば、思考を使うのは良いということです。
ただし、そこで出た結果は、あくまでも木刀や竹刀では、こうなった
という結論だということです。真剣同士の結果ではありません。
それを、わきまえるのであれば、現実に、結果を見れば、
限定的な意味においては、満足が出来ますよ、と言っているのです。
>しかし、現実には出来ないことを、やれない事を、いつまでも、
>あーだこうだと、妄想をするならば、
>それは、性妄想と全く同じで、「本人の希望とは全く違う敵」となって、
>本人の周辺に現れてくるということです。
>思考や感情は、ストレートに出られないときには、
>かならず「屈折した表現となる」、これが人間のこの世の「法則」です。
現在、起きている、子供と大人の、社会的な問題のほとんどが、
これに原因を持っているということも、竹の間で、
何度も、警笛を鳴らしておいた通りです。
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