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手裏剣術講座 Shuriken throwing instructions
「手裏剣術」講座、その他の雑談の「間」です。
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[845]
■
野球のフォームと打剣を混同してはならない。
by:
崩残
2006/12/22(Fri)05:29:38
●
スポーツ選手は、健康法を目指しているのではない。
それが「現実の事実」である。
■野球選手とは、野球というルールの中で、
数億円プレイヤーになり、あるいは、大リーグで活躍し、
身体にガタが来たら引退し、
悠々自適に、コーチをするなり、隠居して、余生を楽しく暮らす、
それが、彼らの「人生の目的」なのである。
スポーツ選手というのは、限られた燃焼期間の中で、
彼らの達成した「記録」を作り、そのためには、体の一部を壊すリスクなど
100も承知で、それをやり通して、貫くのである。
そういう全く異分野であり、目的の違うものを引き合いに出して、
そもそも健康法でもないものを、「あれは老後は力が衰える」、
自己主張の引き合いに出す武術家が、もしもいたとしたら、
これ自体、思考法としても、オーバーラン(暴走)。
人格的にも完全に「タッチ・アウト」です。
■そんなことを言えば、ボクサーは夜尿症になるとか、
頭が馬鹿になるとか、どういう「後遺症が残るから」、
だから、ボクシングはよくない、という論理と全く同じです。
何かをやる人は、「何かのリスクを覚悟の上で」やっているのですから。
■一方で、本題である、手裏剣術という世界。
広く言えば、これは「投剣」という「世界的な」分野のことです。
これにも、さまざまな分野があり、それを短絡的にひとつの目的で
語ることなど出来ません。
この手裏剣術は健康にいいとか悪いとかそんなことを言っていたら、
そのうち、どっかの人みたいに、
「介護手裏剣術?」にでもなってしまいます(笑)。
いや、これはちょっと喩えが、間違っていますね。
言うまでもなく、どっかの人とは「甲野氏」のことです。
隣の竹の間でも、少し叩きましたが。
むろん、健康維持だけを目的として明確なスタンスにすれば、それはそれで
全く目的そのものとして良いことですが。
■また、軽量剣やスナップを効かせる打法と言えども、
一回の稽古を、数百という本数にきちんと限れば、
どこかを痛める可能性は激減するか皆無なわけです。
そもそも、相手の打者に打たれまい、または打たせて取るために、
肘に負担のかかる「変化球」を、「チームの優勝と生活のため」に投げ、
全力で一球一球を、約19メートル距離を、長年投げ続けた投手と、
手裏剣術とを一緒になどしてはいけません。
●野球の投球フォームは老後の体によくないと言う人がもしもいたら、
そんなことは、「この世の、全野球選手に対する、冒涜」です。
第一、野球の目的は、
老後も末永く剛速球を投げることなどでは、断じてありませんから。
■一方で、私はピッチングフォームすらも肯定的に見ていることは
松の間で既に解説済みのとおりです。
第一、そこには、「変化球もなければ、剛速球もない」ですから。
古武術的な動きと、今の私達が生活の中で親しんでいる現代の投擲フォームとを
妙な「合成」をすると、複数の「対立する支点」が体に出来てしまうために、
特に肘その他を痛めやすいだろう、ということは、
自分で出来る範囲でやってみて、体感的に確認をしました。
ただし、ピッチング的投法、
(といっても別に本当にマウンド上のピッチャーの投げ方と同じではあり得ないが)、
それに固有に発生する「そこに新しく出来る支点」を元にして、
そこを基軸にした身体運動をすれば、
それこそ、老後まで投げられる「通常の投擲スタイル」の打法が可能であるということです。
■私は読者や手裏剣の愛好家に、一日500本の練習など、決して強要しません。
原則として、一本を打っては戻り、打っては歩いて往復するという、
「一本打ち」でいいから、練習本数は少なくていい、
というのが私個人の方針です。
しかし、1000本が昔から決められた古武術の枠なのであれば、それは1000本厳守し、
その中で、体を痛めない打法をすれば宜しいのです。
■ただし、「練習本数や、特定の打法を強要しない流派」では、
健康問題の主張は全く「無効」なのである。
いわんや、大活躍して引退した野球の名選手のことを、
「ヘロヘロ球」などと言って引き合いに出すというのは、
全くの「論理破綻」ですし、野球界に対して無礼です。
彼らは、自分の属したチームを優勝させ、お金を稼いで家族を幸せにした。
それがその報酬なのですから。
そもそも「古武術どおり」の投法で通用する野球の試合など、草野球ではあり得ても、
プロでは、ただのひとつもないですよ。
ただし、「剣術愛好家」は、確かにやってはいけない「一部の動作がある」
と私は感じたのも、既に解説したとおりである。
それは、私がここのところ解説したように、その動きは、
どうも、欧米化した私達現代人の身体運用とは、
「局部的に、かみ合わない」からです。
しかし、いずれにしても、野球の投手を不当にダシにしてまで、
自流や古武術が優れていると言いたげな、武術家がいたとしたら、
その主張は馬鹿げています。
老いても衰えないからとかを、もしも主張の強調点として口に出すようでは、
だんだん、有名な「誰かさん」に似てしまいます。
むろん、そうした伝統芸能の効能は、否定はしません。
たとえば、伝統芸能の、歌舞伎や能や日本舞踊は、
見てのとおり、老齢になっても可能ですから。
ただし、「全く異なる他の欧米のスポーツ分野を引き合いに出して、ヘロヘロ球」
などと言うのは、いただけません。
>下記のような意見は、「誰が言ったか」ということが問題なのではなく、
>今後も、必ずこうしたことを言う古武術家が出てくる危険性があります。
↓↓↓
>>手裏剣を野球式ピッチング投法のままで投げ続けると、肘が曲がったまま、
>>腕を真っ直ぐに伸ばすことが出来なくなります。それこそ野球人によく見られる障害です。
>>ピッチング投法は、手裏剣術を学ぼうとする剣術家が決してやってはならない投法なのです。
>>肘が曲がってしまったのでは、正中線が作れなくなりますから。
>>プロ野球OB戦で見る往年の名投手のヘロヘロ球、あれは、本当に見る影もないです。
>>足腰が弱った老人のピッチング投法は、本当に無力です。しかし日本伝統の正中線打法ならば、
>>高齢になっても、そこそこの打剣は可能であるということです。
>>何と言っても、スローライフの時代ですから。
●以下は、全くの余談になりますが、
「スローライフ」という言葉の使いどころ、ここでは完全に間違っています。
スローライフというのは、長生きをしたり、体力の衰えを防ぐことではない。
それは、
老後の「時間を、ゆったりと感じることの出来る、心の穏やかさ」というのが、
その本質的な意味です。
年金も破綻しそうで、未来に希望も持てないこの時代の日本である。
軽率な、中身のない薄っぺらな言葉の「スローライフ・ブーム」などというものは、
企業や、行政や、不動産屋の「金儲けの戦略」に「踊らされた馬鹿」の
口にする言葉です。
太く短く生きるも、人生の形のひとつです。
生きて、満足して、潔く、死ぬ。
ようは、時間や体力に限りと「保障期間切れ」は、やってきても、
それが来たときには、
それに逆らわず、まずは「心をゆったりとして」、
この一分という時間、この一日という時間を味わい、
残り少ない生を「どれだけ、深く、ゆったりと味わうか」、
それがスローライフの真意である。
スローであるのは、動きや行動に無理をしないという事では断じてなくて、
スローとは、人の「内面」を指して言っているのである。
せかせかとして、長生きしようとしたり、
また自分の力の衰えの防止に、あさましく努めることではない。
いつでも、心配なく、死ねるような暮らし。
たとえば、遺書はちゃんと書いておく。人間関係は整理する。
自分が死んだときに誰かに迷惑にならないように、
誰かが、どうしたらいいかわからなくて困らない事のないようにしておく。
そうしたことをした上で、
たとえ今日死んでも、
「何も思い残したことはない」「いい人生だった」と死ねる気持ちの生活、
それが、「本当のスローライフ」が、目指すべきものなのである。
●
私は「軽量剣」否定論者などではありません。全ての剣は私の「友」です。
軽量剣「絶対視」の「盲信的信者」なのであれば、時には異論を言うが、
そうでないならば、異論はない。
同じく、
超重量剣「絶対視」の「盲信的信者」なのであれば、時には異論があるということである。
今までに、地上で作られた剣には、それぞれの製作者ごとに、
「異なる想い」が、こもっているからである。
ある剣の場合には、冴えないチビの田舎者が、
自分の身分を昇格させるため、出世の手段として、
秘武器として手裏剣を作った、そういう古い時代の剣かもしれないし、
ある剣の場合には、とにかく速く打てることを目的にしたかもしれない。
だから、そうした異なる背景から、
この世に生まれた無数の剣そのものに、
「不当な差別」をすることは、私の美観にはそぐわない。
●
______________________________________________________________
武術家にもACが多い
>●12/22-10:54 更新
最近、観察をしていて思うことですが、
武術にかかわる人間には、おおざっぱですが、2つのルートがあります。
ひとつは、ケンカ好き。
私の知り合いにも、族上がりとか、学生時代のケンカ上等が、
そのまんま武術をやっていた人がいますが、
彼らは、おおかた、底が抜けていて、話しやすい。
癖はあるものの、なかなか、人間としても、いい奴が多い。
別に実際の暴力のケンカということを意味するのではありませんから、
女性の中にも、この「さばけた感じ」の、
「はっきりと、明確に自分の意見を言える女性」がよくいます。
(この場合の「はっきりと言う」とは、
ヒステリーを起こすと言うことではなく、
明確に意見を言える女性という意味です)
●もう一方にいる人達。
これがどうも「陰気臭く」カビ臭い。そして心の視線がひん曲がっている。
だいたい、傾向を見ると、一見すると武術をやっているのかと思うほど
外見は柔和であったり、または、いちおうの「とってつけたような」礼儀
は装飾しているのだが、
問題は、下手すると、ACが多いことです。
AC家庭(機能不全家族の子供)の出身でない場合には、学校でしこたま、
いじめられたなどです。【AC=アダルトチルドレンのこと】
●そこで、何が「問題」となるかといいますと、
たとえば、身近なところでは、「親、兄弟、祖父母を含めた家族」、
少し離れたところでは、学校の「教師」、
成人してからは、「上司や、会社組織や、社会そのもの」、
こうしたものと、自分が何かおかしいと思ったときに、
自分を「全開にした、まっこう勝負をしていない」ということです。
そうした機会というのは、「まず初期的には家族の中で」の
親子関係、その他の「主従関係」にはじまり、
次は学校でのクラスメートや教師を相手にした、子供なりの戦い。
それを経て、大人社会では、
社会的な不正と徹底して戦うこともあるわけです。
●戦うということの中にあるのは、
理詰めでおかしいと思ったこと以外にも、
もっと単純な、「怒りの感情」も含まれます。
こうしたものが、何らか理由、たとえば、おしつけられた規律や、
家庭での教育によって、あまりにも「ゆがめられた場合」には、
抑圧した感情や、我慢した鬱積、ストレス、劣等感、
これらはすべて、ストレートに出ずに、
何クッションも屈折します。いわゆる、じめじめと陰湿化するというものです。
よく私は、特定の人物を見ると「スリークッションだな」とか
「ツークッション」だなとか言います。
直接にではなく、感情表現が、いくつかの屈折をするわけです。
●そして、前述したタイプ2で、武術などに関わる者のうち、
こうした傾向のある者というのは、「統一感」がありません。
性格やものごしは、外見からはちらりと一見だけすると単純そうに見えて、
実は、おそろしく精神的に「アンバランス」なのです。
●そして、それを生み出したのは、単純に言ってしまえば、
怒るべき時に、正直に怒らなかったこと、
または、怒るべきときに、
怒りを、自分で我慢したり、家庭で「我慢させられたこと」、
泣くべきときに泣かなかったこと、
笑うべきときに、心底笑えないか、笑わなかったことです。
非常に、ごく単純で動物的ですらある「子供の人間感情」が阻害されると、それは、
物凄く屈折した大人になります。
しかし、世間体を作ろうぐらいの知恵はつけますから、
普段は目立ちません。が、「心の軸」は、バラバラで、ぐらぐらです。
●竹の間で、少し前に、私は、イジメをなくすためには、
学校のホームルームで「レフリーつきの、口げんか」の授業をしなさい、
と言いました。
「口ゲンカ道」というものの奨励です。
勝ち負けや、物事の正否にはとりあえず関係なく、
言いたいことは言う、相手からも言いたいように言われる、
そうしたことは、本来は、
家庭の中で、「親との関係で」子供はまず学習します。
>その「親との関係」の在り方が、「友達との関係」にも反映され、
>やがては思春期には「恋愛関係」にも反映され、
>ゆくゆくは、「夫婦関係」にも反映します。
>そして、最後には、「嫁姑の関係」にも反映されます。
●そうしたことから、ACとかも感情抑圧の問題というのは、
本当に根深いものだと、つくづく思います。
親からのしつけが、いくら厳しくても、昔の子供というのは、
その分は、子供同士で発散したり、
または「兄弟姉妹」といった者との関係の中で、かなりが緩和されていました。
外で遊ぶ機会も沢山ありました。
ただし、兄弟がいても、親がその兄弟の誰かを差別的に扱うと、
この「差別を受けた子供」は歪みます。
だから、兄弟がいると必ずしも「毒になる親」からの予防になる、
というわけではありません。
●あまりにも親や家族からの「矯正」を受けたり、
「飴の鞭で調教されてしまった子供」、
または、親の都合よく教育された子供、
こうした子供は、成人してからも知らないうちに、
>いまだ、親に支配されたままになっている、
>ということも、竹の間で以前に詳しく解説した通りです。
●ですから、傷つく事など100も承知で、
家庭や、社会の中で、まっこうから、親、家族、友達、教師、社会と、
ガチンコ勝負(特に口での)を、積み重ねて来た人達というのは、
ケンカのしどころとか、ケンカの引き方とか、
やっていいケンカと、やってはいけないケンカ、
とにかく、一言に言えば、「人間関係」というものの中で、
必要なケンカと、不毛なケンカというものを経験的に知っています。
◆一方で、そうした、感情と知性を全開にして、
家庭や学校や会社などで、自分を全面的に主張したことがない人の場合には、
社会というものの中で、正面から勝ったり負けたりしながら、
関係性を築くことを覚えてゆくのではなくて、
自分に自分、または他者が押し付けた一定の「規律」とか、規範とか、
「古人の言葉」を盲信するとか、
最悪の場合には宗教教義などの中でもがき苦しみ、
自分では矛盾がないつもりでいても、
膨大な感情や、何よりも子供として当たり前にストレートにすべきだった、
「自己主張」「怒り」「反発」を、抑圧してしまっているのである。
こうしたものの結果が、現代では子供たちの陰湿なイジメとなり、
大人社会では、会社や組織の中でも、
遠回りな「疎外」や、「リストラ」の為の屈折した表現になり、
ネットの匿名性を利用した、「こそこそとした」ストレス発散などに、
その「病状が悪化」しているわけです。
●こうした事例を、私は実生活の中でも、ネットでも見かけるが、
これらのことに、一定の決着をつけるのは、年齢的には、
おおむね、30代までのようである。
つまり、子供が本当に、「親の悪影響から自立できるチャンス」は、
30代までにあります。
これを超えると、多くの人は、80才になっても死ぬまで変わりません。
そして、もしも家庭がある場合には、
必ず家庭内での「問題行動」や、
時には「無自覚の虐待」や、夫婦だと「離婚沙汰」を起こします。
どうやら、成長するか、また同じことを繰り返すか、
その正念場とか、人生の「重大な試験」のようなものが、
30代のどこかにあるようです。
それをもしも、「自分に対する回答」を間違えたら、おしまいで、
落第となり、また来世、もう一度最初から
「その人に決められたレッスン」をやり直し、というようなものです。
竹の間で、その人がいちおう前世でやったところまで到達する
「リロード」という話を随分前にしましたが、
その人が、前世まででやったことが、いちおう駒が出揃うのが、30代までです。
そこから、前世までにやった事よりも、「歩が先に進むかどうか」の
正念場が30代にあります。
ですから、皆さんも、自分の30代の時に、何か人生上の、
非常に重要な決定をしなければならなかったかどうか、
そして、そこで、子供時代から引きずっていたものを超えられたか否か、
よーく、思い出してみると良いかもしれません。
この正月休みにでも、ゆっくりと、過去を思い出してみるといいです。
●
・・・・・・・・・
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