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「分割自我復元」
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[109]
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★分割自我復元★その108 ■全員が、トラウマを掘り起こす■
by:
鈴木崩残
2012/07/28(Sat)05:24:06
トラウマの掘り起こしの実例
●自我復元を行うにあたっては、例外なくすべての人が、
トラウマの有無については、掘っておく必要があります。
結果として少ないないならばいいですが、
掘ってもみないで放置するのは駄目です。
今回、事例として掲載する方も、最初の自我率は、1/2あたりにあり、
途中までは、一見すると、問題はなさそうに見えたのですが、
いよいよ、これからラストスパートに入るという手前で、
御自分で掘ってみたら、それは、出てくる出てくる、という事例でした。
このトラウマの掘り起こしの報告の中には、
今までに桜の間で紹介しました、沢山の方からのトラウマに関する報告の、
非常に「本質的な部分とエッセンス」が詰まっていますので、
現在、御自分のトラウマの掘り起こしをしている人は、参考にしてください。
「毒親」の典型的なパターンの多くが見事に掘り起こされています。
______________________________________________________________
【読者の方からの報告文】
前回の報告文で、現在から高校卒業後まで、過去を掘り返てみて、
大きな岩がごろりと取れたような気がしました。
その大きな岩を細かく砕きながら、
本来の自分の姿を発掘するように、
目を背けたくなるようなものや、再発見するものを見つける。
途中書くのが辛くもなりましたが、
掘り出して以降気分がだいぶ楽になりました。
この20代に出来た、トラウマやコンプレックスは
自分にとってもの凄く重苦しいものでした。
そして報告後、
13歳から3歳までの、特に父母の事を掘り起こすほうが大切との事で、
また新たに報告文を書いて送ろうと思います。
また読みずらい所、分かりずらい所があると思いますが、
宜しくお願い致します。
○13歳から3歳まで(父親の場合)
父親に関しては、昔から家にあまりいない人で
幼年時代から少中高時代と、関わりは少なかったです。
仕事で遠くへ行って、遅くに帰ってくるというのはありました。
家では酒浸りで、一人でご飯を食べ、
父の身の回りの事は母親が全て世話してました。
不満や悩みを抱えて、一人酒する寡黙な人です。
一人で居たり、食べるのが好きだというので、
覚えている5歳ぐらいから、私や姉は母と別部屋で食べていました。
いつも黙り酒を飲み、
怒りや不満を押さえている表情でいるので
よほど仕事がキツいのだなと思っていました。
「俺の体はもうボロボロだ」と言っていた事がありました。
飲み過ぎて変な行動をするとかありました。
トイレを間違い、クローゼットに向かって
しょんべんする、千鳥足でぶつかりまくるなど、
アルコール依存で辞められない人でした。
アルコールを飲まないともう眠れないそうです。
(母親は酔って馬鹿な事する父をかなり嫌悪してました、
母の父親もアルコール飲みで、
飲むとグチばかり言うのが嫌だったみたいなので、
その影響でしょう。)
煙草も父がインフルエンザになった時辞めましたが
それ以前はヘビースモーカーで、
幼少の時に家族で出かけるとなると、
車に染み着いた煙草の臭いと、仕事関係の臭いで、
私は毎回酔って吐いているか、気持ち悪いのを我慢してるか、
ぐったりしてました。
ブレーキの踏み方もグッグッと車体の加重を
何度もかけて止めたり。
古いディーゼルの振動や排煙の臭いといい
これが原因で車も煙草も嫌いになりました。
車は自分で運転するなら大丈夫ですが、
運転席以外に座ってるだけとか
閉じこめられてる感じがする狭い座席に
座るだけというのは今でも嫌です。
高校卒業後、走り屋に憧れもしましたが
車の排煙やらタイヤの溶けた臭い、
横Gやら縦揺れで気持ち悪くなるのは嫌でした。
昔の同級生に峠に連れられて
ドリフトされまくって吐いたことありますし。
こう書いてみると、
元々は車が好きではなかったのだと思いました。
でもラリーカーなどは憧れの存在でした。
たぶん小さい時TVで見たのだと思いますが、
道無き道を走る、過酷な道を走る、
そういうタフな車をみてカッコいいと思ったのです。
煙草の話に戻りますが、
家でも煙草の煙で真っ白で
壁はまっ黄色、臭いで気持ち悪くなるので
父がいるところには近づきませんでした。
家族で車に乗って出かけるとかは、拒否していました。
中学一年(13歳)の時に父親に連れられて
父の仕事の関係者達と神社祈願へ行った事があります。
その時私は関係者に挨拶などが出来ませんでした。
いきなり大勢の人を前に、
なにしたらいいか分からなかったのです。
すると終わってから父親に、
「挨拶も出来ないんだな、がっかりしたと」
そんな事を言われました。
ショックでした。
それまで、社交の場での挨拶や、
ちゃんとした礼儀など教わってはいませんし、
たしかに人見知りではありましたが、
見て覚えてるだろという意味だったなら、
自分が悪い事になるのでしょうが。
そもそも、
世間知らずの中一の子供に、なにを求めてるんだと言いたいです。
地元では、そこそこ有名な私立中学に受かった息子を
自慢でもするために、
お披露目したかったのだろうなという推測は出来ます。
制服着て参加しましたし。
だが、がっかりするなら、事前に教えろよと思いました。
父は子供の教育をすべて母親に任せるという方針で、
子供の事は放任していました。
子供の素行がよくなければ、母親の育て方が悪いんだ。
父親は外で稼いでればいい。
そんな考えをもっている人でした。
20歳以降は、父親が子供事を見ると
母に言っていたようです。
中学受験の時は、私自らこの学校に行きたいと言い
行くために家庭教師を付けたりと、賛成してくれており
受かったときも喜んでいました。
小学5年生の時いじめを受けていた時は、
関与してなかったような気がします。
いや、思い出しました。
空手のまねごとを少し教わりました。
受け身の方法とか、胸ぐら捕まれたときの対処とか教わりました。
一つも役に立ちませんでしたが。
父はスポーツや武道をしていたので、
家での無言の威圧感もありました。
力の強さや筋肉を見せられた事もあります。
父とキャッチボールなどで、
仲良く遊んだという思い出はありませんが、
どこそこへ連れられて山や川に行く事はありました。
父との事で一番、酷かった思い出は
5才の時に暴力を受けた時のことです。
原因は私がハサミが上手く使えず、
新聞の広告が上手く切れないという事に
グズって泣いていたからです。
グズっていると父は突然キレ、
読んでた新聞を机に叩きつけ、
無言で往復ビンタ、何度も何度も、
そして尻を出され尻叩き、これも何度も何度も、
手加減などなく。
恐らく人生で初めて受けた暴力でした。
普通子供がハサミが上手く使えないと泣いてたら、
教えるなり慰めるなりするはず。
完全なキチガイ野郎です。
これ以降絶対に、簡単に近寄ること、
父を信じること、信頼する事を辞めました。
大人になってもこの行為の事は恨みました。
そうだ、これだ。
大人の男を信じない、上司を信じない、
父と同じ団塊の世代を信じない。
常に疑い、喧嘩になる、上手くいかない原因です。
暴力を受けている間、周りに誰もいなく、
誰にも助けを求める事が出来ない状態でした。
尻を出される時必死に逃げようとしましたが、
逃げられませんでした。
あの時、母は何をしていたんだろう。
家には誰もいなかったのだろうか。
私は暴力を受けてたとき、
突然の事で驚いていて、
なんでこんな事されるんだと思いました。
とても長い時間に感じました。
まだ終わらないのかなと思いました。
父か殴り疲れるまで続いたと思います。
よほど憎しみが沸いたか
グズる事が嫌だったのでしょう。
痛かったし辛かった、悲しかったです。
この後、母は父に怒った記憶があります。
私が父から解放された後、左目が重傷のように思い、
呼びに行った時、母は私の姿を見て驚いていたと思います。
別の部屋に母はいました。
父と母はこの頃から仲良くないのですが、
子供の為に盾になるというよりも、
子供を使って(手懐けて)、
一緒に父を嫌うという構図がこの後出来ました。
平手打ちされすぎて、顔が腫れ、
左目付近を痛めて、目医者に行きました。
この目医者の年輩の男は、父の行為をかばい
仕方ないとか、俺もよく殴られただとか
私も悪いのではとか、無責任に笑ってました。
医者本人は慰めてるつもりでしょう。
しかしこっちは、
なぜ父を悪く言わず庇うんだと思いました。
これも大人を信用しなくなった事に
一役買っていると思います。
この時治療した左目が、その後遠視でピントがあわず
常にぼやけていたのはこのせいかは分かりません。
力のない、無力な子供に
一方的に何度も暴力をふるう父親。
まともじゃありません。
まともな神経してたら手なんて出せません。
この父の生い立ちに関しては
終戦の時に生まれ、生まれてすぐ父の母が亡くなり
父の父はすでに離婚して出ていっており、
兄弟5人の末っ子として生きてきたそうです。
父母の愛情を知らない、父親のなり方を知らない、
子供との接しかたを知らないなど、
子供がグズるのをかなり嫌がるのだとか、
いろいろ母とか、
父の姉とか言ってきた覚えがありますが
そんなので許される事ではないです。
末っ子で兄弟からいじめられたり、
理不尽な目にあったとは想像できますけど。
夜中に墓場に連れていかれ、
墓石に縛られてた事があるとは聞いています。
でもこれは父の姉が助けたそうです。
推測でしかないですが、
男の子であった私が誰か(母など)に頼ったり
グズって甘えたりするのが
許せなかったのかもしれません。
父はそういう事をしてこれませんでしたし。
父が子供の時に出来なかった事を私がして逆恨み逆上か。
悩みなどで不安定状態だったか。
また思い出した事があります。
これは姉のエピソードになりますが、
姉の誕生日の時に、
理由は覚えていませんが父が突然切れて、
姉の誕生日ケーキを踏みつぶした事がありました。
私は3歳の時の事でしたので、
音にびっくりしたのと、
何が起きたんだと唖然としていた事で、
うろ覚えながら記憶しています。
普段は静かで寡黙で、
男は仕事で家族を養えばいいんだという考えに捕らわれていて、
よく働く仕事人間でしたが、父親としてはダメです。
父からの暴力以降、父が居るときは静かに、
グズらず、泣かず、父に甘えもせず、
わがままも言わず、常に距離を取っていました。
父親が帰ってきたら、別の部屋に行くなどして。
親子の会話もほとんどしてきませんでした。
姉が父に何かを買ってほしいと頼んでいた時も、
私は父に何かを買ってほしいと頼むのが嫌でした。
なにも要らないと断ったと思います。
父からその後、ラジコンや空気銃など
おもちゃを買い与えられたりもしたのですが
父に対して心を閉ざしていましたので、
素直に喜べず複雑な気分でした。
5歳からは関わらないようにして生きてきたので
13歳までのエピソードは少ないです。
ここまで書いて気づいたのは、
普段は静かだが突然切れるというのは、
今私が引き継いでしまっている性格です。
なにかの拍子で許せなく、突然相手に立ち向かう、
母親に楯突く、友達相手でも牙を剥く事もありました。
父親に楯突いた事は、18歳あたりから、
大学の事で口論になったり、
車で峠を走って傷つけた時に、
口論になったりしただけで、
これまで暴力沙汰というのはなかったです。
関わりたくないのもあるし、
5歳の時の恐怖が染み着いてる。
父は、肉体労働をしていて力強い。
情けない事に逆らう事はしてきませんでした。
ちゃんと逆らう事をしてこなかったから、
その後教師や上司など、目上の人に、父親の代わりとして、
逆らうようになったように思えます。
(力で押さえつけようとしてくる相手、
恐怖や威圧、権力などを使ってくる相手、
理不尽な目にあわせる相手などに)
父に関しては、力が衰えて
私の力が盛んになった時復讐しようと
子供時代から思ってきた事を思い出しました。
これも自分の行動パターンとして作られています。
例えば、義兄に対抗する為に力を蓄え復讐する。
これは実行前に出ていってしまいましたが…。
感情を爆発させて
自分の力の全てをぶつけるべきなのは
本来は、父に対してですね…。
13歳までの喧嘩では
相手を殺してやろうという気迫で挑んで、
相手が逃げ出すとか。
(本当に殺ろうとかしませんが)
体格でやられても、絶対に泣かないとか、
謝らないとか、最後まで抵抗していました。
いじめの原因も泣かないから。
最後まで泣かずに耐え忍んでいました。
母親の意向で登校拒否をしてしまいましたが…。
これらの事があり、
非常に恨みやすい復讐気質の性格になっています。
_____________________
○13歳から3歳まで(母親の場合)
もっとも過去を掘り返す上で需要な人物だと思うので
苦労しながら書くことになりそうです。
強く思い出に残っているものから書いていきます。
思い出したらその都度加筆していきます。
小学生の頃は、怒られるとよく外に出されました。
無理矢理部屋から引きずりだされました。
机の足にしがみついて、謝って泣いていても
怒りながら、そして楽しんでる表情で
外に追い出されました。
なんでこんなに泣いて謝っているのに
母は嬉しそうに外に出そうとするんだ?
外に出すんだ? と思いました。
悲しかったです。
家に入ろうとすると入ってくんなと怒鳴られ
また追い出され、
小学校の高学年になる頃は
もう外に出されたら諦めていました。
恐らく泣かなくなってからは出されてないはずです。
母も父同様、泣いたりグズったり、
特にうるさくされるのを嫌がり
うるさい黙れと怒鳴り、ますます泣いては、
おまえなど知らんと放置されたり、外に追い出されたり、
わざと子供を泣かせるような真似ばかりします。
大泣きしている時に、
泣きやめ、うるさい黙れと怒鳴られてれば、
よけい泣きますし、泣きやまないです。
泣くのを本気で嫌がって怒ったり、
泣き叫んで許しをこうのを見て楽しんだり、
子供が母に服従するようにしていたのだと思います。
自己中心のカス親です。
病気などで子供を心配する事もありますが
心配する親のふりかもしれません。
放置された時の事も思い出しました。
あれは5歳未満の時です。
記憶は一部だけですが、
母と姉と私で長い農道を歩いていた時、
(とても暑い日でした)
なにかで私がぐずって、道に置いていかれました。
泣いても呼んでもダメで、
泣きながら一人で家まで帰りました。
小学校時代は
外に出すぞとか、父親へ言いつけるぞとか
おまえは家の子供じゃないから出ていけとか
帰ってくるなとかも言われました。
実際に家出のように遠くに行き
何時間後に戻った時は、何処ほっつき歩いていたんだと
怒られた事もあります。
たしか4年生か5年生の時、
爪切りが出しっぱなしで、しまってないと怒られた時は
膝を何度も爪切りの刃の部分で、ガスガスと叩かれました。
執拗に。
「なんでしまってないんだ、しまえよ」と。
この時もいじわるそうな顔で嬉しそうにです。
私はされるがままでした。
たしかこの時以降
なにがあっても泣かないと心に決めました。
泣くなら一人の時、一人の場所でと。
いじめを受けたのは5年生の時で、
泣かないから生意気だという理由でした。
これは上記でも書いてありますが、
なにがあっても泣かないと心に決めた後の出来事です。
他には、当時は絵の賞を何度も取り、学級委員長とか
委員会などで活躍していて
かなり目立っていたのも原因そうです。
いじめを受けていても堪え忍んでいたと
父の所で書きましたが、これは結局母に伝えました。
そして先生と母で相談しあったりして登校拒否、
しばらく休むことになりました。
この先生はよくしてくれた先生です。
恐らくこの先生が行った、
いじめをする側の個人面談などが効果があり、
いじめは短期で、
6年生のクラス替えと同時に無くなったのだと思います。
5年生以降に成績が一気に延びた時、
飴と鞭よろしく、ご褒美よろしく、
通知票で4や5になっときは、
母から玩具やゲームソフトを買って貰いました。
13歳から3歳の間は景気も羽振りもよく
父の仕事でお金に困る生活ではありませんでした。
小学生の時の勉強は
母が隣で見て教えられていたのですが、
上手く計算など出来ない時は、
なんで出来ないんだと、こんなの簡単だろうとよく言われ。
小さい時はもう嫌だと、
やりたくないと泣いていた事もありました。
また塾や習い事も多く通っていました。
公文や一般の塾、英会話、水泳など。
進研ゼミや、チャレンジなども。
よく父親のグチを言っていました。
夫婦喧嘩をすればこんな事されたとか、
信じられないでしょみたいな、
父をつねに悪者にしていました。
(怒りの矛先を父に転換させる為だと思います。
悪いのは全て父親のせいだと。)
子供の前では大喧嘩は、見せないようにしてきたそうです。
父がいる時は母は大人しく、父に言われるままに行動していました。
刺激を与えて激情させたくなかったようで、
逆に父が居ないときは、
子供たちを支配するかのように
母の気に入らない事があれば怒りだします。
5歳ぐらいの時、
母に怒られた事を父に言った事があります。
父は母に厳しく怒ったようで、
その後母から涙目で恨みがましく
「何で言うんだ馬鹿」と言われました。
この時、父に告げ口のような事をしてはいけないんだと思いました。
誰にも言ってはいけないんだと。
母の行動やされた事を
これ以降父に話した事はありません。
初めて母の涙を見たのがショックだったのだと思います。
父も、母が普段、
子供たちにどういう風に振る舞ってるか
知らなかったと思います。
父の前では大人しくしており、いい母親を演じていますから。
思い出した事ですが、
小学生時代、母がTVを見ている時
聞きたいことがあっても無視されたり、
しつこく聞くとTVの邪魔するなと怒られた事も
よくありました。
何で話をちゃんと聞いてくれないのと思いました。
5歳頃では、友達と遊んでいた時、
友達の行動が勘にさわったようで、
突然ヒステリックに、怒鳴りつけるという事がありました。
子供がやる事だからと、多目に見るというのはありませんでした。
友達とも気まずくなりましたし、
鬼婆のようで嫌でした。
3歳頃では、記憶はうっすらですが
寝た後、母と父が大声を上げて喧嘩をしていて
怖かった覚えがあります。
こう書いてみると3歳から5歳までの間に
いろいろあったんだなと思いました。
この母は父の前で、良い母親であることを示し、演じていました。
子供の成績が上がったのは私のおかげ、
父と大喧嘩をしないようにしてきたのも私のおかげ、
(これは最近も言ってました)
家を新築できたのも私のおかげ、
(父が母の貯金を嫌だったのに使ったと
恨みがましく言った事があります。)
なんでも私のおかげで、
私はなにも悪い事はしてきてないと責任回避します。
養われて当然。
働かなくて当然。
家の事だけちゃんとしてればいいと。
子供の感情や気持ちの事は二の次だったのでしょう。
子供の思い(泣いてる理由など)を読みとって、
どうにかしようとした事はありませんでした。
子供の気持ちより、自分の気持ち(感情)が優先です。
そういうのが欠落しているんだと思います。
全て自分の都合で生きています。
人からの、特に父からの視線を気にしていて。
その裏では父を嫌い、
飲んだくれになってだらしなくなる父を嫌悪してる。
そんな母親でした。
金銭的に社会的に父に依存しているくせにです。
母の子供時代はどうだったのだろうと思い
少し書いてみます。
聞いて覚えているのは
山奥で農家をしている家で、
子供の頃から農作業を手伝っていた。
父が酒飲みで、
農業を辞めサラリーマンを始めたとき、
飲んではグチを沢山言うようになった。
大勢の大人が集まり
家で飲み会などしてたのが嫌だった。
生まれてすぐ亡くなった兄がいたそうで、
生きていればよかったのにと言った事ありました。
聞いているのはそんな所です。
ここまで書いていて
母は一部が欠落した人間だったと分かりました。
特に子供の気持ちを考えられないという所で。
自分の都合だけ押しつけてきた事からも。
突然切れるなどは、父と母は共通しています。
母の場合、恨みがましかったりネチネチしています。
根に持つのも父と同じです。
私が父母から受け継いでしまっている
性格や考え癖、影響はあります。
過去の掘り起こしにより
この機能不全家族という代々続いた因縁は
私で終わりにしようと思います。
_________________________
・続き・
↓
鈴木崩残 様
前回のメールのとき、次回の報告文と一緒に、
思い出した過去の出来事を送ろうと思いますと、書いたのですが、
今回また、最後まで掘り返せたように思えたので、報告文を送りたいと思います。
○13歳から3歳まで(加筆文)
小学生の時好きだった教科は、
美術(絵や工作)、家庭(料理)、理科(電気や実験)
得意だったのは書道。
母の事で思い出しました。
子供の気持ちの事など考えないという話ですが
小学校高学年あたりに
インコを飼っていた事があります。
とても可愛がっていたのですが、
鳥かごから外に出していたとき、
インコが歩くところにいたらしく、
母に踏まれて死んでしまいました。
私はなんで踏むのだと怒ったのですが、
仕方ないだろうで済まされました。
たしか謝罪の言葉も軽いものでした。
ちゃんと謝まって欲しいと思いました。
罪の意識があるのだろうかと。
ここでも子供の気持ちを配慮していません。
聞いた時は、また母がやらかしたと、
諦めの気持ちも入っていたと思います。
私が家で書いた絵とか工作も、
私に断ることなく、どんどん捨てる事もやっていました。
何で勝手に捨てるんだと言った時は
ゴミが増えるだけだろうと言われました。
せっかく書いても、作ってとって置いても、
いつのまにか無い、捨てられてることがあったので、
捨てられるという事にも諦めていました。
なるほど、諦め癖の原因はここにもありました。
母に私の気持ち(感情)を言っても無駄と…。
父同様、母の影響が大きいです。
・中略・
そういえば、父は母に
私に母を取られたとか、私に物を買い与えすぎだと
言った事があるそうです。
(気持ち悪い父親だ…。)
やはり、父が子供時代に出来なかった事を
私がしている事が許せなかったのでしょう。
私の方がいい思いをしていると、逆恨み逆上です。
夫婦喧嘩の理由もなんとなくわかりました。
これも推測でしかないですが、
父が自分だけ母から愛情をもらえてないとか
自分だけ冷遇されてるとか
そう思っていたかもしれません。
家庭環境を振り返ってみても、
父の過去を振り返ってみても。
母にそんな物求めても、愛情など(父に対する母性的な愛情も)
持ち合わせていませんでしょうし。
しかし子供達には、
愛情を注いでいるように見えたのだと思います。
母の子供達に接する、裏の姿を見ていませんし。
姉の誕生日ケーキを踏みつぶしたのも納得です。
母も母で、母の父への代理復讐として
私の父を選んでいそうですし、
(飲んで馬鹿になる男の世話をするという事で。)
父が馬鹿な事をしたり、
子供に八つ当たりすればするほど、
嫌いに、憎しみが増えていったのでしょう。
この二人が上手くいくはずなどないです。
なんて幼稚なんだと思います。
子供を産み育てていい人達ではありません。
ここまで書いてみて
もう父母に捕らわれる事もなさそうだと思いました。
精神的な意味でサヨナラです。
○13歳から3歳まで(友達・番外編)
いじめを受けていた時、そしていじめを受ける前に
当時同じ地区にいた友達がいました。
この男の子はクラスではそこそこに人気者で
学級委員長をしていた事もありました。
一度その子の推薦で周りが動き、私が学級委員長に選ばれもしました。
(私がやってみたいなと言ったからです)
その子は、私にいじめを指図したと思われる
リーダー格に反旗をひる返し、新たな勢力を作りあげました。
その勢力には私の敵だった者もいたのですが。
その敵と私は、形だけは、その友達が取り持ち和解をしました。
この敵はもっとも体が太くデカい子です。
同じ習い事をしていた時、喧嘩になって、
相手が疲れるまで取っ組み合いになった事が、
いじめ以前に一度ありました。
そして勢力が大きく2分、実際には3分ほどしたと思います。
新たなリーダーになった彼の影響もあり
いじめ収束に一役買っていたのではと思いました。
先生もよくはしてくれましたが、
根本的な解決は恐らく、敵側の内部分裂です。
過去を掘り返して、
陰ながら助けてくれた子がいたのだと、今更ながら気がつきました。
普段の学校生活では、この子との関わりは少なかったのですが
友とは彼のような人の事を言うのだなと思いました。
(ちなみに当時私の周りにいた子、友達と思っていた子達は、
私から離れ敵の方へ行ってしまいました。)
掘り起こした今、
素直にありがとうと、心の中で言えました。
これは掘り起こしの番外として、書き残して置こうとおもいます。
___________________________________________________________
■さて、無明庵のサイトでは、過去10年以上に渡り、
今までも、機能不全家族、トラウマ、ACの問題の記事を多く書いてきました。
しかし、過去のそれは、私の目から見て、
「おかしいだろう?、あんな親子関係は、異常だ」という、
「結論」を論じているものがほとんどです。
むろん事例をあげ、詳しく構造を解説もしていますが、
しかし、過去にもそれを読んでいたはずの人たちが、
まるで他人事のように、無関心だったと思います。
■しかし、自我復元という方法が開発された後になって、
こうして皆さんから送られてくる、トラウマに関する報告は、
私が一方的に、結論を展開するものではなく、
実際に自分の過去を、自分一人で掘り起こし、あぶりだした人たちが、
血の滲むような思いで報告してきたものです。
この桜の間の過去ログにも、沢山あります。
それらはすべて「生きた言葉」であり、そこらへんの
くだらない心理カウンセラーが書いたようなものではありません。
しかも、すべて本人が克服をしてゆく工程がここに記録されています。
●自我復元という方法の効果として、私が皆さんに望み、期待した、
「誰もが、その人自身が、その人の最高のカウンセラーになれる筈」
ということが、着実に、今、こうして実現をしていっています。
●世の中には、そうした「トラウマについて、語り合う自助グループ」や、
自分の傷を語り合うことで、なんとかしようとする掲示板などもあるようですが、
それらはすべて「家族や、両親について、徹底して悪く言う」
という事に対して、ストッパーが、かかってしまっています。
親を悪く言うのはよくないという、何の根拠もないルールに
多くの人々は縛られています。
●しかし、無明庵で行っている自我復元の過程では、
そんな締め付けは一切ありません。
毒親なら、その親が、どれだけの有害物質であるのかを、
皆さんがはっきりと語ったものが、この掲示板のログの中には溢れています。
●しかも、単に親を「有害物質」として語るのではなく、
それが、自分自身に、「どういう影響を与えてしまったか」、
という「自己分析」もされており、
この桜の間に報告を掲載した人たちの場合には、
ある程度、自力で、その自分への影響を、つきとめています。
●そういう点では、
この桜の間というのは、AC系掲示板、トラウマ問題の解決の事例としては、
最高クラスの優秀な「自己カウンセリング」の場と化していることを、
私は、誇らしく思います。
誇らしく思うとともに、、
今までの、過去に、はびこってきた、
本当に、何の進展もなく、何の改善も出来ず、
アホらしい、混沌とした理屈しか言えず、薬を出すしか脳のなかった、
心理カウンセラーや、精神科のヤブ医者どもに、
「ざまー、みろ」
「君たちの過去100年の研究は、
全く無意味だったと、証明されたよ」
と、言いたいところです。
________________________________________________________
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