▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
■桜の間へようこそ■
掲示板
Title
「分割自我復元」
のサポート情報や最新報告を記載しています。
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[117]
■
★分割自我復元★その116 ■トラウマと感情の問題■そして、【私の個人的な話】
by:
鈴木崩残
2012/09/03(Mon)17:34:07
トラウマと感情の問題
●自我復元ブログの何人かの方、または通常の判定時の報告の中でも、
目立つのが、それまでよりも、ある局面では「感情的」になるようになった、
という点です。
これはむやみに感情的になるのではなく、自我を守る必要のあるときにのみ、
正しく機能する感情と言ってもいいものです。
そうした感情のうち、
特に、怒り、拒否、嫌悪感が、それまでのような、希釈自我に起因する、
ダラダラとした状態で出てくるのではなく、自然に出てくるようになる人が、
自我復元をやっている人の中では、圧倒的に増えています。
●さて、元々が全自我として生まれた人の場合は、
そもそも、生まれてからずっと、何の感情も押し込めませんでしたので、
子供のときから、はっきりと拒否し、はっきりとしたい事を言い、
子供のときから、遠慮なく大人と戦って来た人ばかりです。
それ故に、彼らはそもそも、感情の抑圧ということを知りません。
それをした場合には、即座に本人が違和感と気持ち悪さを感じるために、
抑圧をしません。
むろん大きくなれば、社会的な礼儀ぐらいはわきまえますが、
基本的には、彼らは自分の感情という事だけに関していえば、
我慢ということを、子供のときから、してきませんでした。
●ただし、その代わりに、それによって起きる対立や、トラブルは、
子供のころから、すべて自分で後始末をしてきています。
また、もともと全自我の人は、自分の中にどういう感情がおきたとしても、
それを自分で処理することを、子供時代から、すでにやってきています。
つまり、感情を抑圧しないことと、それに対する責任の取り方を、
ずっと当たり前に続けてきているのです。
●ですから、希釈自我の人たちが、やってきたような感情の抑圧、
しかも、無自覚のうちに、抑圧して、家族や他者に迎合したり、
知らないうちに洗脳されるということは、起こり得ません。
その点で、希釈自我だった人たちが、自我を復元してゆく過程では、
そうした自分の感情との、まっとうな付き合いを、長くやってきたわけではなく、
復元とともに、つい最近、回復したわけですから、
最近になって、感情がどんどん出てくるのは当たり前です。
ただし、圧倒されそうになりながらも、
自我復元さえきちんと行われて、復元されて行っているのであれば、
処理できないことはなく、等身大の自我に応じて、整理できるようになります。
●これは、何度か桜の間で解説した「関心地図」でも同じで、
自我率が変化するほど、関心地図に対する敏感さと、
その重要性への自覚認識が出てきます。
***************************
●ところで、別に自分の感情を出さなくても平気だと、
無知なままで、たかをくくっている人は、
全自我の人たちの感情の処理の仕方が、「排便」それも、
常に「快便」の状態にある、ということをまったく知らないだけです。
●全自我の人たちが感情を排泄するときには、
毎回、完璧な「快便」のような状態であるので、あとに残りません。
ところが、希釈自我だったらどうか、よく想像してください。
もしも、あなたが1/2自我だったらば、
感情の処理、消化、排泄も、1/2しか出ないのです、
出るはずの便が、その全体の、1/2しか出なかったときの、
「残便」感を、よく思い出してください。
●それがさらに、1/3自我や、1/4自我であったら、
出るはずの便の、たったの1/4しか出ないのです。
便が出るときの、その本来あるべき量と、
それが出きらなかったときの、その残便感の気持ち悪さにたとえれば、
分割された自我の人の感情が、いかに不健康で、
しまいには、年中、臭いオナラをしているような状態にあるか、
想像が出来るはずです。
それは、分かる人には臭気に似たものして、分かります。
つまり悪化したときの体臭の悪臭のように、匂うのです。
●自我が原型の自我でないということは、
仮に9/10(90%)自我まで復元しても、1/9の感情の便が、
確実に残っているということです。
これを気持ち悪く思わないとしたら、異常です。
もしも排便のときに、そういう形で出きらないものが残ったら
どう感じるかを想像してください。
●「感情」を抑圧しないで、毎回、出来るだけ早い時間に、消化して、
出力することの重要性を分かっていない人があまりにも多すぎます。
とくに、精神世界では、まるで「感情が悪いこと」のように、
蔑まれてきましたし、カルト仏教や、カルト禅も同じような稚拙な状態にあります。
●そもそも、「感情」というものは、地球で人間として生まれたときに、
その生存の交換条件として、発生することを「義務付けられています」。
それは契約の決まりです。
ただし、その感情とは、「楽しい感情」ということではありません。
支払う感情は、怒りでも、憎しみでも、悲しみでも、かまわないのです。
唯一の誤解は、それは、支払いなので、「払うべき」であり、
払うというのは、その感情を、他者に向けるかどうかは別問題であり、
本人が、その感情を「自分の中から、外へ出す」かどうかだけです。
●感情の出力は、主に一人のときに起きるものの方が、高度に洗練されます。
したがって、感情が出たときには、誰にも見られないところで、
ひとりで出力し、排泄するのが最も良い方法です。
他人にぶつけるのは、邪道です。
(ただし、社会的にそれが必要なときはありますが、どういう局面で
必要になるかは、全自我の人でないと、ただのKYの感情爆発になります。)
***************************
●次に、まず人間というものが、どれほどに、「感情」で生きているか、
ということを自覚しなければなりません。
みなさんは、毎日、どうでもいいことから、生活に直結することまで、
ほとんど休みなく、頭の中では何かを思考しています。
買い物に行っても思考してしますし、あげくには、何もしていなくても、
妄想的に思考しています。
●ところが、それだけ休みなく思考していても、
生活、心理、精神において、最もその言動のモチベーションとなりやすいのは、
考えた結果ではなく、「感情」です。
●試みに、あなたが、実は、まる一日中、まったく無自覚のうちに、
「これは好き」「これは嫌い」「これは関心ない」
というたった3つのコマンドでしか、生きていないということを
自覚してみるといいです。
ためしに、外出して、コンビニや、どこかに行くときに、
思考を見守るのではなく、「感情」を観察してみてください。
うしろの車からクラクションが鳴っただけで、それは動きます。
レジの人の人相や態度によっては、そこでも感情が少し動きます。
買いたいものが見つからなかっただけでも感情が生じます。
●どんなに自分が感情的ではないと思い込んでいる人でも、
実際には、その人の思考内容が人間を支配しているのでありません。
人間を支配しているのは、非常に単純な、「好き嫌い」
つまりは、「快・不快・無関心」の三つです。
「快」の感情は、積極的にそれを得ようとし、
「不快」の感情は、積極的にそこから逃げようとし、
「無関心」は、消極的に無視します。
●ところが、この三つの感情は、その発端は、
「やりたい」と「やりたくない」、「どっちでもいい」
という感情に集約されます。
さて、この言葉、皆さんはどこかで何度も聞いたはずです。
私が、何度も、人間が「心的外傷」を背負うのは、
「やりたくないことを、我慢して、やった場合」
「やりたいことを、我慢して、やらなかった場合」
と指摘したあの、トラウマの最大の二大原因です。
●子供が幼少のときに発生する「したいこと」と「したくないこと」は、
ある程度、本能的に正しく機能しています。
それは生存するのに当たり前の感情であり、
主に、泣くか笑うかで表現されます。
●ところが、これまで、皆さんが「桜の間」で見てきた、
いろいろな人のトラウマ掘りを読めば分かるように、
本来の「したいこと」「したくないこと」は、
「毒親」の都合の良いように、「書き換え」られています。
●人間というのは、無意味なことでも、そうでなくても、
狂人か、狂った機械のように、休みなく、思考をし続けていますが、
思考を刺激する最大の引き金は、思考そのものではなくて、「感情」です。
実際、あなたが、一日の間に、最も多く思考するものや、
あるいは、「関心地図」をメモしたときに出てくるものを見れば、
上位に位置してくるものは、すべて、
「あなたの感情と、利害関係を持っているもの」ばかりのはずです。
●たとえば、気に入った異性を、現実または画像で見れば、
あなたは、何時間でも、その異性についての妄想を暴走し続けてしまいます。
この場合には、それを「快」と判断してスイッチが押されたわけです。
それとは、まったく逆に、会社や家庭で、嫌な人がいれば、
あるいは嫌なことが起きれば、あなたは、何時間でも、それについて
思考し続けることになります。
この場合には、それを「不快」と判断してスイッチが入ったわけです。
●これは、こうした普通の生活の中だけで起きるものではなく、
たとえば、出家して、どれだけ長年、寺にいても、
この単純な構造のスイッチを押されまくっていることには、
何も変わりがありません。
本人がこれでいいという「好きなもの」、
たとえば、納得することが好きならば、納得すれば「快」のスイッチが入り、
納得できない、わからないことを不快と感じれば、そのスイッチが入り、
結果として、思考が暴走します。
そして、思考暴走からの現実逃避方法を、
無関心だとか、不動心だとか、その無知から、とんだ勘違いした者は、
もっと最悪の事態に陥ります。
●人間に起きる、どんな現象も、そのモチベーションとなるのは、
思考や論理の結果ではなく、単純な、
「好き嫌い」「快・不快」、そして「無関心という麻痺」。
この三つです。
ちなみに、この場合の無関心は、
ニュートラルということではなく、ただの「麻痺」です。
●全自我の人たちにとっては、
感情は敵ではなく、抑圧すべきものではないと、
そのように、誰かから言われたり、教え込まれてそうなったわけではなく、
彼らにとっては感情を便のように、快便の状態で排泄しないことは、
単に、徹底的に「不快」なのです。
しかし、多くの病気がそうであるように、
その不快感の自覚すら持てないほどに、麻痺している場合に、
その人間の心身の病状は最も悪化します。
●それ故に、感情というのは、
単独で、それが目的とする判断を常にしています。
とにかく、これから、何日か、あなたが、「何を考えているか」を
自己観察するのではなく、
あなたの「感情がどういう振幅をしているのか」を、
数日間、絶え間なく見守り続けてみてください。
そうすれば、あなたは、あらゆる瞬間に、
「快か、不快か、無関心」、この三つのいずれかを常に感じており、
何をしても、何を見て、何を聞いて、何に触れても、
自分がそれを「好きか、嫌いか」それとも「関心がないか」、
たったのこの3つの感情だけを、
絶え間なく想起していたのだと理解できます。
●精神世界全般で、何もわかっていな愚か者たちが、
勝手に教えを誤解して、良くないものとして敵視してきた「感情」を、
私が、きわめて重要だというのは、
それは、誰か、特に親や社会によって、捻じ曲げられないかぎりは、
たとえ希釈自我として生まれた人でさえも、本来の子供の時の感情には、
「正当性」と「正しい機能」が備わっているからです。
●故に、感情を抑えたり、抑えることを強要されたり、
自分勝手に、感情が良くないものだと思い込んでしまった人たちは、
そもそも「感情に何か都合のよくないことでもあるのか?」を自問すべきです。
●痛いとき、不愉快なとき、嫌悪感のあるとき、違和感のあるときに、
どうして感情を出してはならないのですか?
それを、他人からの受け売りで「ネガティブな感情だ」と決め付けて、
あげくに、自分をごまかしたり、トラウマばかり背負い込んだりする
という有様です。
●感情が悪いことのように言われるのは、
それによって、特に「社会的に、混乱が起きると思いこんでいる」ためです。
感情のままに行動したら、カオスになると。
しかし、そういうことを言うのは、決まって、
おとなしくしているのがいいと、勘違いをして、遠慮ばかりして、
感情のままに行動したことのない人です。
感情というは、きっちりと出せば、快便と同じように、
新陳代謝として機能しますが、
我慢すれば、慢性的な便秘と残便で、あなたの霊的な体臭も臭くなります。
●前にも、桜の間にリンクした動画で、
トーラス状のチャクラの説明のところでも言いましたが、
人間に備わっている機能は、特に感情は、決して思考で抑圧してはなりません。
それは抑圧しなければ、それが自然に機能して、収束して収まる場所と、
自然に消える時間があります。
●余談ですが、肉体と思考、肉体と感情の関係も同じです。
よく、世の中には、作家とか、何かの創作をする人が、
「創作活動」を続けるために、体を鍛えようとする人がいます。
しかし、これは完全な間違いです。
体というものは、体それ自体の意志や命令によって、
動きたいから動く、というのが最も自然です。
●しかしそれを、思考の結果つくりあげた「目的」のために、
その目的のために、体を鍛えるとなると、
とたんに目つきが、病人のような人になります。
●ただし、たとえば野球選手が、鍛えていないと、プレイが出来ない
だから鍛えるというのは、それは問題ありません。
一方で問題が生ずるのは、
創作とか、発明とか発想とか、芸術とか、
そういう身体の問題とは異なる領域のためにする、という不純な動機で、
身体に命令したり、運動を強いた場合です。
本人は、健康管理のため、あるいはそうすることで、
作品が良くなるとでも思い込んでいるのでしょうが、
そういう身体の要求からではない、「別の目的」に身体を使うと、
身体と思考は、ばらばらになり、
結果として、ちっとも良い作品や結果は出ません。
また、体を鍛える動機が、コンプレックスだったりすると、
三島由紀夫のような結末になるのは、目に見えています。
●どんなコンプレックスも、どう美化しても、
それは、正常な結果を生む原動力にはなり得ません。
だから、
「体それ自体が要求してくること」を聞く。
「感情それ自体が要求してくること」を聞く。
そういうことが、当たり前に出来るようになった人だけが、
「思考それ自体が要求してくる事を聞く」、
すなわち、直感が本当に使えるようになるのです。
●前にも解説したように、
人間がその基盤として有している「中枢」同士は、
絶対に、それぞれの中枢が、「他の中枢に干渉してはならず」、
全ての中枢の「言い分」を、
それぞれに聞いて、その調停の出来る「意識」、
その意識の機能を支えている器が、自我であり、
またその自我を支えているのが意識です。
***************************
●この地球の、精神世界や、宗教や、能力開発と称するセミナーや、
瞑想クラスだの、カルトでまかり通っていることには、
無数の間違いがあり、間違っていないことの方がずっと「少ない」です。
全自我として生まれた人は、絶対に「無我」なんていう言葉に惑わされませんし、
そんなものには、関心すら向けません。
なぜならば、第一に、彼らは、自我の価値を知っており、
それを無意味に手放すことなど、必要と感じないからです。
自我は彼らにとっては、宝であるですから、
どんな馬鹿教祖や、宗教かぶれの糞坊主が、無我など口にしても、
笑い飛ばすだけです。
全自我の人にとっては、自我は宝でもあります。
その宝を、簡単に捨てることを夢見たり、
そんなことに価値があると思い込みたがったり、
自我を捨てれば、悟って万事解決するようだから、そうしたいなどと
馬鹿な憧れを持つのは、、
しょせんは、自我の重要さにまったく無知な、
「ひどい希釈自我の人たちだけ」なのです。
希釈された低自我の人だから、自我を捨てたいなどと、
分不相応のことを考えてしまうのです。
全自我の人の自我とは、
そんな簡単に捨てられるほど、軽い自我でもなく、
「無価値な自我ではない」のです。
その自我の価値を分かっていない希釈自我の人ばかりが、
精神世界や、特に、一発逆転的な、悟りに憧れてしまう無知は、
ひとえに、本来の自我の機能を知らないために起きたことです。
逆に、本来の全自我を知っている人たちは、
自我を放棄するということが、
どれだけのリスクのあることかを分かっています。
●「自我を捨てるために瞑想してます」、
なんていう、阿呆どもの自我とは、
まるで、100円ショップの器のようなものです。
しかし全自我の人の自我は、何十万円もする器と同じです。
ぜんぜん、その価値と質が違います。
●もしも、茶碗なんか「どれも飲めればいいんだから同じだ」などと
思い込んでいる人は、器のたとえではなく、
低自我が、低い機能しか持たない、数千円の機械で、
全自我は、数百万もする高性能の機械だと認識することです。
「機能性における価値」がまったく違うのに、
それも認識できず、知らずに、
「自我はよくない」「自我はエゴだ」「自我を捨てて無我になれ」
などと、よくも、口から、そういう、でまかせを言えたものです。
●一方で、全自我を生きた人たちは、死ぬときには、かならずこう言います。
「実に、私は、よく生きた」
「よく笑った」「よく怒った」「よく学んだ」「よく経験した」
「とにかく、実に、よく生きた。だから、とても満足な生だった。」
●ですから、せっかく、この「桜の間」に縁のあった皆さんだけは、
精神世界や、スピリチュアル系の嘘にひっかかることなく、
「自我」の本来の機能を取り戻してください。
************************************
●最後は、完全なる、蛇足の話ですが、
つい最近のことなのですが、
私は、この時代の、この地球に、
自分が、人間として生まれてきた、
その「個人的な理由」のほとんど全部を、正確に思い出しました。
不正確な断片は、昔から不鮮明には分かったつもりでしたが、
ここまで正確に思い出したのは、今回の生では、生まれて初めてです。
他人とか、地球人という集団としての目的ではなくて、
この私自身が、今回、何を目的にして、生まれてきたのか、
それをはっきりと思い出しました。
私には、ひとつの、明確な目的が与えられていました。
それについては、桜の間の読者の人ですらも、
ごく一部の人しか理解したり信じる事の出来ないような、
「奇異な話」になりますので、ここでは書きませんが、
生きている間に、間に合えば本にするかもしれないと思います。
この私が、元にいた世界から受けた指令(任務)を、
これほどに間違いなく、正確に思い出したということは、
私の寿命は、あと、そう何年も持たないと思っていてください。
これは普通は、肉体を持った生存中には、思い出すことは稀だからです。
そしてそれが非常に重要なコマンドほど、
無意識の奥に埋め込んでからここへ来るので、思い出すのは稀です。
ただ、ひとついえることは、
以前に、私は、無明庵の掲示板で、
「希釈自我の問題と、その解決法」は、
私が、今回の生で「予定していなかった分野だった」と書きましたが、
あれは完全な間違いでした。
最初にスタートした、「悟りの問題」も、「分割自我の問題」も、
すべては、元のユニットに対する「分割」というキーワードで、
完全に、一直線につながっていました。
これは、とても面倒な話で、
この宇宙や、そのシステムを「割る」、
またはそれが「割れる」あるいは「割れた」という事に起因する、
とても複雑で、根幹的な宇宙のトラブルに関係する問題なのですが、
その「原因」を「調査」し、「報告書」を書き、
これ以上のその分割のもたらす「悪化を防止」したり、「取り締まる方法」を提示できるものを、
元の世界に持ち帰ること、それが私の役目でした。
つまりは、私が今日まで生きたことの全ては、そのために用意され、
時には、人間または、人間ではない意識の協力を得て、
こうして無明庵で、やってきたこと、そのままが、
私の生存目的そのものと完全に一致していました。
まったく、どこにもミスもエラーもなく、
私が、持ち帰るべき、レポートも、その骨子は、ほぼ完成しています。
そのレポート内容が、実現すれば、惑星上で「自我を分割」した連中にも、
あるいはそれ以前の、「意識を分割」した奴にも、
彼らが、決して抵抗できない「権力的な実力を持つ次元」から、
処罰が下ります。(あるいはどう規制するかの処置が検討されます)
その「権限」の行使が、宇宙の次元内では、どの程度の範囲で有効となる、
宇宙の法的な「権力行使」になるかは分かりませんが、
少なくとも、地球での自我分割は、完全に「禁止」されるようになると予測されます。
むろん私が他界したあと、地球で、かなりの時間が経過してからですが。
●その原因調査と、改正方法の模索のために、私は、
危険な「紛争地域」あるいは「犯罪の犯行現場」に送り込まれたようなものでした。
むろん志願してここへ来たのですが。
私がこの地球で見つけたもの。それは、
>どの宇宙であっても「絶対に、やってはならないことは何か?」、
という問題の「答え」でした。
ですから、その「してはならない事を禁止する法令の制定と整備」を、
私は、自分のいた元の世界に戻ったら行います。
●そして、1950年代から2070年代という、
地球の人類の状態が、それまでの歴史上で、
最も「最悪のレベルに落ちた時代」を、その調査地域として設定されたのでした。
その時代の「前半の時代」が、
私が今回、受け持った時間の中の「着陸点」となったわけです。
↑
2009年7/12の写真(「禅書」」の開始から約1ヶ月目)
_______________________
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(117 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
桜の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -