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「分割自我復元」
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[61]
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★分割自我復元★その60★「滲み書」への感想。
by:
鈴木崩残
2011/11/23(Wed)09:24:24
>11/23−20:30。「梅の間」も更新してあります。
近況と、おたより
●ここ6日ほど、ネットを完全に離れていました。
特に外出をしたわけではないのですが、古くからの知人の来客などもあり、
それに伴い、意図的に、ネット環境から自分を切りました。
●戴きました報告メールなどは、全部読んでおります。
返信は、しないこともありますが、しない場合には特に問題はないからと
思っていただいて構いません。
●さて、11月に入って、先週あたりから、
どうも、私個人なのか、この地域だけなのか、または日本全体、
あるいは世界全体なのか、その範囲は定かではないのですが、
世界が「エアーポケット」に入ったように、活動を停止する傾向が
あるように感じました。
こういうときには、情報を遮断して、活動を極端に減らして、
くつろぐのが一番です。
この「無風地帯」は、うまく言葉ではいえないのですが、
しいて言えば、極度の「無関心性」に似ています。
誰しもがそうですが、極端なまでに何にも関心を持てない状況の時期に
入ることが、人生の中で何度かあり、また人によっては年に数回、定期的にありますが、
今回は、その時期に入っています。
ただ、これが私個人だけか、狭い地域だけか、日本全部なのかはわかりません。
●書こうと思っている話題は、いくつかあるのですが、
梅の間でも書きましたように、読んで時間の無駄にならないもの、
という尺度で見ると、本当に書くべきことは少ないものです。
今回、実は、雑談で、
ちょっと前には、都市伝説の一つにもなった「ちっちゃなおじさん」について
書こうかと思いました。
別に、私や私の知人が「小さいおっさん」を見たというわけではなくて、
外から分析すると、面白いと思える点がいくつかあったからです。
これについては、「梅の間」に書きました。
●さて、とりあえずは、「滲み書」についていただきました感想を以下に掲載させて戴きます。
↓
崩残 様
本日、無事に自我判定結果と滲み書を受領いたしました。
前回同様、今回も迅速に作業していただきありがとうございました。
滲み書は掲示板で見るのと生の現物で見るのとでは、やはり迫力が違いますね。
文字にコントラストがあることで、その躍動感の印象が変わり、
普通の禅書とはまた違った魅力を感じます。
また、まるで人間一人一人に個性があるように、滲み書の墨の滲みかたにも
4枚それぞれに個性があってとても面白いと思いました。
きっと今の私の自我の状態に合った滲み書だと思いますので、
部屋に飾ってじっくりと味わいたいと思います。
あと、「・・」と「・・」のおまけの書までつけていただきありがとうございました。
「・・」のほうは、まさにそのような感じのイメージですね。
一方で、「・・」のほうは少々物寂しいというか、
落ち着いた静かな雰囲気をもっ たイメージの書だと感じました。
こちらも、前回書いて頂いた禅書とともに大切に飾らせていただきます。
自我率・・%→・・%前後まで復元されていたということで、
自分としてはやってきたことに対して結果が出ていたので、
ほっとしたというのが正直なところです。
勿論、自分が感じた変化については、自我復元によるもの以外に原因は無いはずだと信じてはいましたが、
それでも今回の判定結果を確認するまでは不安な気持ちがありました。
1年前に判定していただいた時の「自我」、「意識」の文字と比較することで
文字が少しづつ整ってきている様子がよく分かり嬉しくなりました。
早く完全に整った文字になるように頑張りたいです。
目つきは確かに、以前はぼやっとした感じであったのが、
今はきりっとした感じに変化しつつあるような気がします。
とにかく顔全体の印象が変わってきている自覚があり、他人からも言われることも多いです。
約1年間かけて今回の復元率が平均的な復元速度ということで、
やはり自我復元作業というのは地道に粘り強く進めていく必要があるのだと強く認識するとともに、
改めて復元作業により一層集中しようと思いました。
もうすぐ、・・自我という大きなポイントを通過するとのことで、
またどのような変化があるのかとても楽しみです。
崩残さんが勧められるように、ファッションや趣味など、
少し新しいものに関心を向けてみようと思います。
自分の復元作業のやり方については、きっとまだまだ改良工夫の余地があるのかもしれませんが、
何よりも復元作業に集中しとにかく継続していくことが大切だと感じています。
全自我まであと・・%ありますが、今後も自分の変化を注視しつつ、
楽しみながら真剣に取り組んでいきたいです。
自我判定メモの中で、交際している女性についてのアドバイスをいただきましたが、
彼女とのことについて少し詳しく書かせていただきます。
・中略・
今後、復元作業に伴い彼女との関係がどのように絶縁していくかわかりませんが、
とにかく、復元作業を続けつつ、アドバイスいただいた神社参拝も実践してみます。
私の頭頂部の光がブラックライトに類似した色ということですが、
確かに私の好きな系統の色です。
ちなみに、この色を頭頂部に持った人はどのような性質なのでしょうか。
私のイメージとしては、落ち着いたクールな印象なのですが…。
アドバイスいただいた球体のオブジェや照明については、
早速今週末にでも買い物に行って探してみようと思います。
以下、私からのコメントです。
●滲み書は、以前にも言いましたように、一人一人、その人の状態に合うものを、
各文字とも、10枚以上あるストックの中から選んでいます。
ですから、その人にとってのフィット感があるだろうと勝手に私は思っています。
また以前には、普通の禅書のご依頼のときに、人によっては、
私の遊び心から、滲み書をつけたこともありますが、
原則として滲み書は、(これも以前に書きましたが)「自我復元」を
して戴いていることへの御礼と、励ましという意味が大きいのです。
たとえば、ここ数日、古くからの知人が泊まっていったので、
帰りがけに、滲み書を謹呈させていただこうかと思って、
100枚以上あるストックを全部広げてみたのですが、
その知人に合いそうな滲み書が、ひとつもなかったのです。
私と長年の間、ずっと親しい知人ですし、自我率も高いものですから、
どれかひとつぐらいはプレゼントできる書があると気軽に考えて
選ぼうとしたら、これがひとつもないのでした。
●その現象を見たときに、滲み書というのは、
「自我復元」とセットになっているものであるべきだとの思いを強くしました。
そういうわけで、現在、ブッククラブ回には、三種類の滲み書がありますが、
近日中に、返品をお願いして、一般販売をやめようと思っています。
●自我復元が、それなりに時間がかかるのは、改良点は今のところありません。
ただし、急激に自我が復元して、適応不可能になることに比べれば、
ゆっくりと確実に、体験を通して復元を確認できる点では、今の速度でよいと思います。
また、ターゲットからの回収率も、今のような微量であれば、ターゲット側にも全く負担になりませんし。
●神社に関しては、私は常にその人が住んでいる近くで有効に働きそうな場所を指定しています。
他県や他の町の大きな神社に「パワースポットブーム」の延長で行くのとは、これは別問題で、
その人が常に住んで、暮らしている土地と、まず接続する必要があるからです。
それがどの程度の力になるかは私も分かりませんが、
ただ、経験則としては、その人の信仰体系、信念体系に関係なく、
神社の基本構造と、日本人の集合意識に刻まれた昨日が、
「機械」として自動的に機能するようです。
今のところ、自我復元と併用すると、かなり効果を出している
というのが皆さんからの報告から受ける実感です。
報告内容や、自我復元の進み具合から判断して、
「思い込みによるもの」というようなレベルのものでは全くないと思います。
自我復元をしている人たちを助けてくれるように私が神道系のネットワークに
何か頼んだといったことは、全くありません。
推測するに、神社と寺の最も大きな違いは、
寺は、そもそもが、自我の否定によって成り立つ体系である点です。
当然、実際の寺というのは、ほんとうに金銭感覚のズレた坊主の強欲によって経営されているのですが、
根っこを辿れば、そもそもが、自我否定によってその体系は成立しています。
しかし神道の神話の世界は、ギリシャ神話などのように、
むしろ逆に人間と同じような自我を持つ存在たちが作るドラマの世界です。
その点で、そこには「自我否定」などなく、むしろ、自我を満喫し、
おおらかな姿勢があります。
その点で、自我復元に関しては、寺は全くの「役立たず」ですが、
神道系列のシステムは、バッティングしません。
ですから、活用してみてください。
●紫外線ライトのような色のオーラの人については、
ご存知のように、この手の話は、色調だけでは一概にくくることは出来ないのですが、
私の見てるのは、俗に言われているところのオーラではありません。
自我はそもそも(ここでは次元の定義は省略しますが)
5次元体の核を中心に作られますので、いわゆるエーテル体オーラやアストラル照射の色調を
見ているわけではないのです。
意味づけや傾向としては、俗に言うレベルのオーラ解釈と「似た部分」もありますが、
違う部分もかなりあります。(詳細はここでは書きませんが)
●ふたりめ。
鈴木崩残さま
お世話になっております。
判定作業ありがとうございました。
滲み書の感想他、まとまりましたのでメール致します。
まずは滲み書についてですが、滲み模様のコントラストから感じる雰囲気と同じようなものを、
滲み書以外の場所で見つけました。
それは、梅の間の投稿文【1628】などの中にある宇宙の写真です。
詳しくはあとで書いていますが、
以前からどこかで感じた事はあるのだけど、その正体が解らずもんもんとしていましたが、
今回感覚の出所がわかり、すっきりした気分です。
以前の報告文内に、滲み書をとおして宇宙を見ているようだと書いた事がありますが、
そのときは宇宙のどんな風景かまでははっきりとしておらず、
今回はじめて、滲み書の滲みは、宇宙に浮かぶ色とりどりの星雲のガス状の部分、銀河や星々の光、
これらと黒い宇宙空間の滲み具合やコントラストに非常にそっくりだと感じました。
「花界」は最初読み方がわかりませんでした。
「花」はわかるのですがその下にある文字がどうしてもわからない。
不思議なもので文字の意味がわからないといまいち書に奥行き感が加わりません。
そこで、竹の間を見て文字書かれている文字を把握して始めて奥行き感と印象が加わりました。
どうやら、自分の中に納得出来ない要素があったり、不完全なまま物事を進めることに違和感を感じていると、
観察力や分析力、その上表現力までにも影響するようです。
そうして見えたのは一面の花。畑ではなく野に咲く花々でした。
よく見ると葉を食べる虫までいます。
私が干渉しなくとも脈々と続く自然現象を見ていました。
「雲水」の文字は開放感、空に浮かぶ雲、そしてそこから降り注ぐ雨のイメージです。
「花界」と「雲水」の文字から見えるイメージは、
無機質な世界で暮らしていた時間が長いと、非常に魅力的に見えそうです。
この文字が地球体験ツアーのパンフレットに載っていたら、
集客にかなり効果があると感じます。
「気」は正直驚きました。というのは見た瞬間に思わず「うーっ!!」と声を出してしまったからです。
目の前にあるのは、書と滲みによって偶然出来上がった模様ですが、
そこからは力強く何かが、周囲に発散されているように感じました。
滲み書の「奥」に見える空間が面白いと感じた事はありますが、
滲み書の「手前」や「周囲」の空間わ含めて滲み書を観たのは始めてです。
この「気」の文字を見た瞬間はそうなってしまいました。
何かを見て思わず声を出してしまう記憶は少なく、
思い当たるのは数年前に箱根で夜空に浮かぶ天の川を見た時以来です。
「要」はどっしりとした安定感を感じます。
とくに文字を人に例えるとお腹に見える「女」の部分がどっしりとしていて、
腰を据えて何かに取り組む時や、
物事の要点をがっちりと把握し続ける必要があるときに活用させていただきます。
おまけに入っていた「基元」は、今回の滲み書のなかで最も梅の間内の宇宙の写真と雰囲気が近く、
この文字を見てこれまでうすうす感じてはいましたが、
正体が把握できなかった雰囲気の出所が宇宙の写真にあると気がつくきっかけにもなりました。
三枚の薄さの異なる「基元」はそれぞれ違った宇宙を私に見せてくれ、
部屋を暗くして電球越しに滲み書をみると滲みの細かい部分までが見えました。
そこでは、偶然という現象を材料としながら作られた滲み模様やコントラストは、
私にとっては宇宙そのものに見えました。
書は白黒ですが印象はフルカラーで立体的に感じる事が面白いです。
しかし、宇宙旅行をしているのも、つかの間で、滲みの模様から目を離し、書全体に向けなおすと、
「基元」の文字が目に入り、はっと我に返ると共に、
私のルーツは何処にあるのか探す必要を強く感じました。
もうひとつのおまけの「原」は正直、「恐い」と感じました。
冷たく、滲み模様があるのに非活動的です。
以前に禅書で「死」や「滅」を書いて頂きましたが、
そのときでも感じなかったもの、
私の「死」や「滅」さえも消え去る場所があることを知りました。
その存在を本や映画、そのほかどんな現象より強く感じました。
滲み書の効果でしょうか、2件ほど夢の報告があります。
・この方からは、いつも、興味深い夢の報告を戴くのですが、以下省略します・
●自我復元に関しては、皆さんからの報告に共通するのは、
やはり、「主体性」を取り戻してゆく様子です。
この主体性とは何か、ということの定義ですが、
一言にいえば、周囲に振り回されたり、情報に振り回されなくなる
ということです。
人によっては、自分は振り回されてなんかいないと思い込んでいる人たちも
かなり多くいますが、
自我復元をした誰もが、以前のご自分が、いかに振り回されていたと自覚するか分かると思います。
振り回されていたことを自覚していた人も、振り回されていないと思っていた人、どちらもです。
●自我が希釈されている人は、本人がどう、いきがっていたり、
どう自己主張をしていても、環境や情報に対する主導権がなく、
フルボッコにされている状態と、実は、ほとんど変わりません。
それが自我復元がされていっている人達に見られる共通の変化は、
少なくとも、周囲の家族や会社で、やられたら、やりかえしている、
ということです。
これは何もケンカ早くなったということではなくて、
それまでいかに我慢をして、自己抑圧をしたり、無関心を装っていたか
ということを意味します。
●ただし、低い自我率のままでは、いくらネット上だけで、うっぷん晴らしをしたり、
あるいは、自己顕示欲を満たそうとしても、
いったん自分のリアルな生活に戻れば、全く周囲の家族や組織に、
ぼこぼこにされているか、または、甘やかされて、
上手く相手に「飼いならされている」状況です。
乱暴に周囲から扱われているのであれ、丁寧に扱われているのであれ、
どちらも、主体性を削がれているという意味では、
精神的なレベル(主体性の有無という点)では、「支配される側の立場」であり、
極端に言うと「奴隷状態」と、何らかわりありません。
●それに比べて、自我復元が本人に自覚できる形で進んだ場合、
これは、特に最低でも10%以上の復元である場合に限りますが、
その場合には、本人が「本人の現実」を運転できているということです。
●よく知られた話に、グルジェフが、弟子に対して、何かを話すときには、
「私が認識したところによれば」を必ず言うように厳しく命じ、
それがあまりにも徹底していたために、それが理由で、彼の元を離れた弟子が続出したという話があります。
しかし、それは全自我から見れば、毎日、毎瞬において、
まったく当たり前のことであり、主導権を持っているのは各自の主体意識です。
しかし、そのような基本すらも、守れない弟子が沢山いたということは、
言うまでもなく、彼が生きた時代にはすでに、希釈自我が世界中に蔓延していたということです。
グルジェフが言っていた、絶え間ない「自己想起」や、意図的な苦痛による自己想起というものは、
実際には、「意識レベル」での「注意力」のことではなく、
自我の持つ、主体性をまず確立しようとしていたという点で、
それは、いわゆるタオイズムや禅ではなく、
今、無明庵の読者の人たちが取り組んでいる「自我復元」にかなり似ています。
ただしグルジェフが失敗をしたのは、弟子たちがそもそも希釈自我だったことです。
そうなれば、何をするにも、自己が現実を見て、現実を作る主体である
などという自覚が弟子たちに持続するわけがありません。
いくら一瞬だけ、その注意が継続しても、それはわずか数分も持ちません。
しかし、現在、自我復元をしている人たちで、その効果を実感した人たちのほとんどは、
特に何の訓練もなく、自己想起をしている状態にあります。
●ただし、この「自己想起」という用語は、グルジェフの体系の中でのみ定義される言葉であるので、
いちいち、皆さんが調べたり、比較して定義で混乱する必要はありません。
定義や理解できているかに無駄な時間を使う必要などなく、
ようは、それを実現できればいいのですし、
グルジェフワークなどなしに、現実に、自我復元をしている皆さんは、
それを、既に着々と、実現できているわけですから。
●次の方のメールも、そうした変化に伴う事例のひとつです。
この方は、本当にある意味では劇的な変化をしました。
スタートラインの自我率は決して良い状態ではありませんでした。
●三人目の方から。
・前半部 省略・
それ以後イライラや怒ったりすることがなくなり、
いままで 何に対して怒っていたり 怖がっていたんだろうかと不思議に思えるくらいです。
大きな音がしたり 主人の機嫌が悪そうだとおもってしまっても
以前ならビクビクしてこちらからご機嫌取りをしてしまうことがあったのですが、
そんなことをしなくなり、私のほうが、したいのだという意志をはっきり伝えると、
意外に素直に聞いてくれることを発見しました。
********
いままで 自分が素直でなかったことに気が付きました。
ほしいものは欲しいと素直に思えるようになり、
それがて手に入るかどうかはわかりませんが、
自分が欲しいという気持ちを押し殺していたことが、イライラや怒りの原因でした。
それは 洋服とか、ものではなくて(お金で解決できるものではなくて)
人に認められたい ほめられたい 大切に扱われたい、という気持ちや、
今まで嫌っていた 欲・金がほしいかったのだと思います。
素直にかわいいと言われたい。
いままでだったら こんなこと書けなかったです。
でも 欲しいものは欲しい、それが今の私の偽りのない本心だと思います。
精神世界のことも、もう一度やり直してみようと思いました。
本当のところはどうなのか?、にも、自分の中でまだ決着がついていない。
以前に行っていた、学習会をやめてしまったのも、自分の意志ではなくて、
周りの雰囲気に流されてやめてしまった感が拭い去れません。
きっとこのままだと、やり残し感があり、同じことを繰り返してしまうと思いました。
だからといって同じところに戻る気はまったくないですが・・・。
崩残さんが書いていることは頭では理解しているつもりになっていて、
そのまま鵜呑みにしてしまっていないか?
宇宙ってなんだ? 人間をサポートする存在はいるのか、どうか?
進化はあるのか何のか?
自分の中の真実ってなに??
そんなことを考えてます。
ただ 崩残さんがいってるから、書いているからというだけで信じ込んでいたのでは、
以前とまったく変わっていないことになります。
なにをしてするのかはまだわかりません、というのが本心なんですが
自我率が・・になって、生まれたときとの自我率より・・%UPしたので
思い出す記憶も増えるわけですから、
自分の記憶を思い出していけば、何か解ってくるのではないかと思ってます。
自分の中で権威のある人と思えば、ただそれだけで信じ込んでしまう傾向があったので、
無明庵のみならず、世間様がいうことに対して、
「ほんまかいな」と距離が置けるようになりました。
・中略・
今は 毎日 焦ることや他人と比べるということがなくなり、
意外に心穏やかにすごしています。
*************
●こうした変化は、自我復元をする以前のこの人にとっては、
本当に大きな変化であるわけですが、
通常、こうした心の問題をカウンセリングによって自覚させたり修正するには、
膨大な時間と、助けが必要です。
しかし、この方は自分でそれをすべてやっていっています。
たとえば、私が「瞑想ごっこ」と揶揄し、批判するような瞑想をしてきた人たちは、
「気づき」だのなんだのと大げさに、甘い自己評価をしているわけですが、
そうした彼らが10年、20年と瞑想ごっこを続けても、全く何も自覚すら出来なかったものを、
自我復元をしている人たちは、早い人は、わずか1年で自覚し、修正できています。
そういう点では私は、自我復元に関してだけ言えば、
世の中にあるすべての「カウンセリング」や「他からの助け」そして
瞑想ごっこなど、何も必要ないと断言できます。
現在の人間社会の問題のほとんど全てが、
「自我の欠落」「自我の欠損」「自我の分割・希釈」に起因するというのは、
間違いのない結論ですので、
自我復元以外の方法では、一生かかっても、解決しないと私は考えています。
そもそも、本当の意味での、瞑想や魔術は、主体である自我が
原型の自我であることを前提として、組み立てられたものであるというのが私の認識です。
ただし、これはずっと以前から私が言っているように、
近代になって、偽者の導師や、低劣な創始者によって創作されたような、
自己啓発的な手法ではなく、またあれやこれやをミックスした瞑想でもなく、
本当の意味で、古代から連綿と受け継がれている中でも、
ごくわずかな種類の瞑想や魔術技法だけが、
全自我に対して、一定の安定した効力を発揮します。
おそらくは、そうした純血なままの瞑想法は、今では、ほとんど残っていません。
また残っていたとしても、希釈された自我の人には、
ただの自己暗示以上の効力を全く持っていません。
●私の手元にある、いくつかの資料の中から、
どれがその瞑想法の本来の「王道」にあたるものであるかは、
具体的に指摘することは出来ますが、いわゆる精神世界に頭を突っ込んだ人たちは、
余計に混乱する結果となるので、それはしないでおきます。
ただし、そもそも、全自我の人には、それをやる必要もなく、
それで効果など出たら、相当に自我率が低いと自覚しなければならない
そういう類のものならば、いくらでも指摘できます。
たとえば具体的に言えば、
ハタヨーガ、マントラを使うヨーガ、バクティーヨーガ、ラージャヨーガ、
これらは「全滅」です。全自我向きではありません。
何しろ、それらが作られた時代は、
それが「本来の機能」をしていた本当の古代ではないからです。
これらは、かなり俗っぽい世界になった時代に創作されたもので、
いくら2500年以上の歴史があろうが、人類史全体の中で見たらば、
私に言わせれば、瞑想法などと言える代物ではありません。
●逆に、日本で洗練しすぎてしまった結果、
逆に、全く役に立たなくなってしまったものが「只管打坐」と言われるものです。
そもそもが、それは全自我にとってしか意味のないものです。
ダンテスダイジは、
「只管打坐を2年続けても、見性できなかったら、その方法はやめろ」
と言ったことは、ある意味では正しいです。
もっと正しく言えば、「そんなことをしても、ほとんどの人には無駄」であるということです。
2年間続けても、「ただの変化ではなく、見性しなかった場合」つまり、
すばり悟りに至れないのであれば、彼はやめろ、と言っているのである。
これはすなわち、私に言わせれば、
2年間、瞑想ではなく、ただ座るということをして、結果が出ないのであれば、
その者は、確実に「自我が希釈されている」という事なのである。
ただし、釘をさしておきますが、ヨーガであれ、禅であれ、
2年間やって、(ちょっとした変化や心情や心境の変化ではなく)、
明確に、全く以前の自分とは違ってしまったと、断言できるような、
自覚できるほどの巨大な変化がない、ということをこの言葉は意味しています。
もしもこの部分の自己評価基準を甘くしたらば、どんな低劣なメソッドでも、
「あー、1年で私はこんなに変わりました」とか、
またまた、ロクでもない事を、この惑星の人々は言い出しかねないからです。
●また、なぜその試験期間が2年であるかには、太陽を中心とする
地球の公転周期に関連します。
1年というものが、最初の円であるわけですが、
本当に効果のある技法は、スパイラルにその人を違う軌道に持ってゆきます。
それは螺旋状の変化でなければ駄目なのです。
それが螺旋状にその人を、「どれぐらい異なる距離の別の軌道に運んだか」どうかは、
回転が2回した時に判明します。
それは一年目の区切りでは、以前の円との差がまだ自覚できません。
その理由は、一回目の円の軌道を、二回目の回転の時に、見下ろしてみて、
はじめて、自分がいる「高さ」がわかるからです。
したがって、2周目の公転が終わったときに、はじめて、
それが利したのか、利さないのかの比較的正確な判断が出来ます。
●実は、これは、瞑想に限らず、何でもそうです。
まる2年間が終わり「これから3年になるという節目」に来たときに、
仕事であれ、恋愛や結婚であれ、居住であれ、
あなたが関わってきた「対象」があなたに及ぼした効果についての結論が出ます。
よく1000日修行という言葉がありますが、
1000日というのは、数字的に区切りがいいからという、
実にくだらない、いいかげんな根拠で、そう決めただけです。
厳密には、あらゆる「試しごと」の期限は、2年=約750日です。
平たく言えば、2年間続けて駄目だったものは、
それ以上は時間の無駄なので、すぐさま切り捨てて諦めろ、という事です。
●ただし、この話は、太陽系における惑星の公転という意味では、
限定された意味や定義や、判定効果しかありません。
それでも、少なくとも、肉体以外の、ある程度の霊的身体のレベルでの
自己チェックぐらいは出来るはずです。
なお、「自我復元法」の場合には「期間制限」というものはありません。
それは、そもそも全自我かどうかをチェックする為の体系ではありませんし、
「主体的自我」というものの本来のフィールドは、
太陽系のレベルに留まるものではないので、2年という年数とは
何ら関係ないものとなります。
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