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「分割自我復元」
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[75]
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★分割自我復元★その74★自我復元の報告と、感想のおたより
by:
鈴木崩残
2012/01/26(Thu)10:12:26
自我復元報告とおたより
●今回のおたよりは、少しシリアスな話題を含みます。
まず、私が皆さんに、注意しておきたいのは、
これらの報告や自己分析は、あくまでも、この方が自力でしたものであることです。
ですから、仮に一部が、皆さんの御自分の事と重なっていたとしても、
安易に「あ、私のところも同じだった。」と考えたり、
「私の原因もそれだったんだ」とは、絶対に結論しないでください。
これはあくまでも、この人個人が自分に気づいたことですから、
他人が、そこに便乗して、自分についても何かを理解したような気には
ならないでください。
参考にはなる人もいるかもしれませんが、
他人の結論を決して、自分の中に、不注意に引用してはなりません。
では、そのお便りです。
________________________________________
鈴木崩残様
本日、自我判定と書を受け取りました!
すごく早くてビックリしました。ありがとうございました!
さっそく代金を書留でお送りしましたので、なにとぞお納めください。
詳しい感想を後日改めてお送りしたく思っておりますが、
取り急ぎ、%ということでちゃんと上昇していることがとても嬉しかったです。
自我率の上昇は、ある朝目が覚めると、
「あ、なんか昨日までの自分と違う」と感じる日がたまにあって、
それが・・%とかの大台を超えた時なのかもしれないと思っています。
そういう節目の時って、現実の状況や、他人の態度が大きく変わることも確かですが、
自分の、他人に対する気持ちも大きく変化するように思います。
それまでは弱くて怯えていて、ビビッているから逆に突っ張っていて、
強がっている、という状態だったのが、
びびらなくなったので自然と強気になり、けれども突っ張る必要がないから、
強気だけど優しさも出てくるという変化を感じました。
それから、親との一件について掲示板に掲載してくださるとのこと、
同じような問題を抱えている人の参考になれば幸いです。
自我復元を行っている人たちは、自分の問題と他人の問題を混同することに、
どこか違和感を覚えるのではないかとも思います。
それにしても、自分の親が典型的な悪親だったとは、改めて愕然としました。
そしてこのような親が他にもたくさんいるというのもショックでした。
自我復元を行っていなければ、私はこの先もずっと、
親とのおかしな関係を続けて依存して、歪んだ人生を歩んでいたのかと思うとゾッとしました。
本当に、自我復元というものを作ってくださってありがとうございます。
とりいそぎ、判定と書の到着をお知らせしたくご連絡いたしました。
また改めて、感想をお送りいたします。
このたびは本当にありがとうございました。
そして、以下が報告の段階での内容です。かなりの部分を削除してあります。
↓
◆前回からの復元回数
9月 11回
10月 28回
11月 20回
12月 28回
1月 19回
------------------------
合計 106回
(1)現状・人間関係での変化
◆親との関係が激変し、絶縁することになりました。
◆アルバイトを探していたのですが、すぐに採用が決まった。
生活の軸を現在の仕事から、別のものに変えたくてアルバイトを探していました。
30歳の頃・・の仕事をしていて、もう一度やりたいと思い、
年齢的にはギリギリかアウトかなというところですが
2社応募し、すぐに採用の返事をもらいました。
多少の経験者だからというのもあるのでしょうが、
私は面接に弱いし、なかなか採用されないタイプでした。
おそらく、どこかオドオドしていて、そんな自分を隠し、ごまかすために、
ヘラヘラしていたのだと思います。
気が弱く、自信がなく、どこか信用できないという印象を与えていたのだろうなと思いました。
そして、2社のうち、自分に合う方を冷静に選ぶことができました。
以前でしたら、担当者の感じがよかった方に無自覚に惹かれていたり、
先に返事をもらった方に決めないとなんだか悪い、とか
関係のないところに囚われていました。
また、じっくりと考えて選ぶ、ということができないため、
先に返事をもらった方に飛びついていたと感じました。
・・・
ウツっぽいとか、とにかくだるくて起きられない、眠り続けてしまうことがある、
いろいろなことを先延ばしにしてしまうといった面も、
自我復元を行えば解決することなのだと思い、
全自我に戻った時に、そういった性格や行動が治っていなくても、
それを解決する方法、あるいは折り合いをつけていく方法は自分で見つけられると信じています。
ですから今は、それについて悩むのではなく、
自我復元を行い続けることが一番大切だと思っています。
それを気にして悩むことが時間の無駄だと思えるようになりました。
そんなことよりも、とにかくひとつずつ、やるべきことを考えて、
ゆっくりでもいいから片付けていくことにエネルギーを注ごうと思います。
他人から私がどう見えていようと、とにかく私は、
自分の問題に取り組むだけなのだから、と、意識を集中させるべきものが
どこなのかがわかるようになりました。
・・・
自分が注意散漫になったときには、少なくとも、それに気づけるようになった。
以前ならば、全く無自覚に、フラフラとあっちへこっちへと、
まるでネットサーフィンのように、行動していたのだと思います。
・・・
◆冬の寒さが好きになった。
他の方の報告にもありましたが、寒さに強くなり、
むしろ好ましく感じるようになりました。
冬の空の青さが、とても気に入っています。
気温や居住空間への不満を感じることが減りました。
・・・
◆人ごみを上手に歩けるようになった
これも似たような報告があったかと思いますが、
以前は人ごみを右往左往しながら歩いていて、とても疲れていました。
今は自分の行きたい方へ上手に動くことができるようになりましたし、
すぐ前の人の様子がよくわかるようになり、
ぶつかったり、うっかり靴のかかとを踏んでしまうことがなくなってきました。
週末の混雑した駅でも、比較的楽に歩けるようになりました。
・・・
9月の判定の後、実家に戻るつもりでいたのですが、
1ヶ月ほどの間に両親との関係が大きく変わりました。
結果から言いますと、親と絶縁をしました。
それは、始まりはとても些細なことで、口論の末に、
まったく気持ちが通じない気持ち悪さの中で終わりました。
親に対して子どもの頃から、とにかく嫌いで、身勝手で偽善者で、
私のことはこれっぽちも考えていないじゃないか、という恨みがずっとありました。
そのことについて、親が私をどう思っていたか、いかに疎ましく扱っていたかということ、
それを自分がちゃんと感じてわかっていたということを、突然のように思い出したのです。
親に確かめてもみましたが、
「お前を邪魔だなんて思ったことなど一度もない!」と言い切っていました。
けれども、その言葉は誤魔化しだと感じられ、親の一言一言がこんなにも嘘くさく、
薄ら寒いものに感じられたことはありませんでした。
そして、その嘘くささ、薄ら寒さを、
私はずっと、親に対して感じてきたのだということを強く実感しました。
以下はその顛末の具体的な内容です。とても長くなるのですが、ご報告させてください。
実家では犬を飼っていたのですが、
13歳と高齢でだいぶお婆さんになってきたなあといった状態でした。
けれども特に健康に問題はなく、ゆるやかに老衰が進んでいくだろう、
あと2年くらいかなと思っていました。
ところが10月に帰省した折、姿が見えないので不思議に思い母に尋ねると、
「死んだんだよ」とだけ言いました。
私はびっくりして「なんで?!」と叫ぶと、
母は「知らん、寿命でしょ、先週死んでた」とだけ言いました。
私は母のそっけない態度に違和感を覚えましたが、
「可愛がっていた犬が死んで、その話題に触れたくないのだろう」と解釈し、
それ以上は触れないようにしました。
けれどもその後、母と父の様子を見ていると、
悲しんでいる様子もなく、死んでからまだたったの1週間だというのに、
話題にのぼることもなく、まるで最初からいなかったように、
野球の首位争いがどうだとかを楽しそうに話していました。
犬がいなくなった実家は、
急に殺伐とした冷たさでいっぱいになったように感じられました。
そして私は、子どもの頃に飼っていた犬のことを思い出しました。
私が幼稚園の頃に飼っていた柴犬が子どもを生み、
オスを一頭、うちに残しました。
オスの柴犬というのは、当時は知りませんでしたが、
躾がとても難しく育てにくい犬種だそうです。
うちの犬も、親たちは扱いきれなかったらしく、
四六時中、無駄吠えをする、特に夜に吠え続けるといった状態になり、
父が保健所に連れていって殺処分しました。
私は子どもで、犬とはただ遊ぶだけの無責任な関わり方でした。
無駄吠えをしてご近所迷惑になっていることも知らず、
ただある日、小学校から帰ってくると、犬がいなくなっていました。
不思議に思い、母に尋ねると
「うるさく吠えてばかりいて、みんなが困っていたから、
やむなく保健所に捨ててきたんだよ」と言いました。
私は大泣きし、自分の気が向いた時だけ遊んでいたことを後悔し、
もっと可愛がってあげればよかった、
吠えなくてもいいように、一緒にそばにいてあげればよかったと思いました。
自分を慰めるために、犬の似顔絵を描き、机に飾っていると
母が「お父さんが嫌がっているから、やめなさい」、
といって絵を捨てさせました。
私はその時は「お父さんが一番辛いんだ」と思い、我慢をしましたが
後になって、「自分が辛いからといって、
幼い子どもに悲しむことも許さなかったとは、なんて身勝手なのか」
と腹が立ちました。
■私の親は、身勝手で冷酷さを感じさせる発言をしていました。
飼い犬が、一度病気で手術が必要になった時、それが30万かかるからと
「とても払えない、安楽死させてやってください!」と母は獣医に頼んだそうです。
結局、分割にできるからといわれて手術をしたのですが、
その話を後から聞いてびっくりしました。
「だって30万なんて大金、一気に出せないよ!」と、
さも当然のように母は言っていましたが、
実のところ母の貯蓄は二千万近くあったのです。
あとで貯蓄のことを知って、もう一度びっくりしました。
命を軽んじているというか、命よりもお金なのか、と信じられませんでした。
私は親のことが嫌いで、表面的にはいい子でいながら、
金銭的援助を受けるたびに、こうやってお金を出させることを、
復讐のように感じていました。
・・歳になった頃、以前から都会で独り暮らしをすることを心配していた両親と、
転職のことで言い争いになり、
これまでの不満を吐き出し、言いたいことを初めて言いました。
犬を捨てた時のこと、
絵を描く事や漫画を読むことを禁じられ、
机を家捜しされ、日記を勝手に読まれ、
常に見張られていて、親への信頼がなく、安心感もなかったこと、
勝手な理想を押し付けて、私という個人を全く見ようとしなかったことなど
いろいろと話しましたが、
ほとんどは途中で腰を折られ、
「言ってくれればよかったのに、私は一生懸命育てたのに」
としか母は言いませんでした。
けれども最後には
「辛い思いをさせて悪かった、これからは何でも言って」と言って、
理解した風に電話を切りましたが、
そのすぐ後に父が電話をかけてきて、
「なぜお母さんをいじめるのか」と責めてきました。
父にもいろいろと話をしましたが、結局何も通じた感覚はなく、
犬を殺処分したことも、
「おまえが犬をそんなに、家族同然に思っているとは知らなかった。
犬なんて家畜だし、俺たちの世代と、あの頃の時代では、いらなくなったら捨てるものだった。
俺が子どもの頃は、川に放り投げて捨てるのも当たり前だった。
そんなことを責められても、文化の違いだ」と言って、まったく話になりませんでした。
「とにかく、お前の言い分もわかったから、母さんには、ちゃんと俺から言っておくから」
と収められました。
その後10年ほどは、言い合いなどまるでなかったかのような態度で、
私も諦め半分と、思いを言うことができた満足から、
再び表面的に平和な家族関係になっていました。
けれども、帰省のたびに、父も母も
「お前のためにと一生懸命やってきたんだよ」とか、
「お前を大学にやるために、ふたりで夜通し内職をして頑張った、
お金は一千万近くかかったが、何も惜しいとは思っていない」と繰り返し言われました。
本当に惜しくないと思っていたら「惜しい」という言葉は出てこないのではないか?
と今ははっきりと思います。
けれども当時は、大学を出してもらって、
学部と関係のない仕事についていることを申し訳なく思っていたので、
二人はそんなに大変だったのだな、と済まなく思っていました。
やがて私が・・歳近くになると、未だ独身であること、
仕事が派遣社員であることなどにすっかり失望したようで
「父さんは、子育ての仕方をどこを間違ったのかなあ」と言うようになりました。
秋葉原事件についての、無明庵の記事を読んでいた私は、
「最低最悪な親が言うという台詞を今、自分の親が言った!」と、
ショックを受けました。
そしてその時から
「もしかして、この人たちはいわゆる毒親なのではないだろうか」と思い始めました。
けれども、私は特に虐待を受けたわけではなく、
甘やかされてダメになってはいるけれど、
親から愛情は受けてきたと思っていました。
常々、「お前のために」「お前を中心に」と言われ続けてきたので、
そうだと信じていました。
けれども、どうしても親のことが嫌いで、親の気持ちがわからない、
親の愛情に感謝ができない自分を不思議に思い、責めたりしていました。
◆
飼い犬が死んだ10月の時、これまでのことが急に思い出され、
私はそもそも、この人たちにずっと違和感を感じてきたのだ、と気がつきました。
飼い犬に対する態度を思い出しても、世話はするし、
可愛らしいそぶりを見れば「可愛いねー」と可愛がるけれど、
「庭が広いからいいだろう」と散歩に連れていったことがなく、
犬が嬉しがって何かを咥えていると、「そんなものを咥えて」と取り上げたり、
犬の習性を何も知らず、知ろうともしない無関心さがありました。
そして、犬が死んだ時のそっけない態度は、
「自分たちも老後になって、あとは老人ホームに入るだけ。
面倒なことがひとつ、思ったより早くに片付いてくれて本当によかった」
という開放感なのだと感じました。
そして、私に対しては、
犬以上の面倒くささ、疎ましさを感じていることもわかってしまいました。
結婚もせず、大学に出してやったのに、エリートにもならず、
自分たちの自慢になるようなことを何一つしていない娘を、
恥じているというよりは、
「あれだけ投資したのに、全部パーになったのか」という怒りを感じているのだと、思いました。
けれども今回は、親に対して申し訳ないという気持ちではなく、
子どもに対して、「投資」「自分たちの自慢=近所や世間へのリベンジのため」
といったことを考え、子どもの個性や心情には何の興味もなく、
ただ自分の満足しか考えていないことに怒りを感じました。
特に、父の私に対する「疎ましくて仕方がない」という雰囲気、
「ろくでもない者に育ちやがって、まったく」と言いながら、
そのように我が子がダメ人間であることに安心している様子、
「やっぱり俺が見込んだとおり、こいつはろくでもない、ハズレくじの種だったんだ」
というような、諦めと、自分が正しかったことへの喜びのような、
浅ましい感情が、なぜか確信を持って、感じられてきました。
>↑
>崩残・注釈・この相手を、小ばかにして自己満足態度を、
>異性からされる人も多いでしょうが、その原因はほとんど過去の家庭問題にあります。
そして、子どもの頃、躾というものはあまりされず、
おとなしくしていればそれでいいと、放置されていたと感じていたことも思い出しました。
父も母も私には興味がなく、いつもただ、
面倒を起こさないかどうかを見張っているだけだと私は感じていました。
親に対しては、敵だという認識しかなく、
特に母が悪者で、父は敵ではないが味方でもないと思っていました。
けれども、本当の敵は父で、母もけっして味方ではありませんでしたが、
父よりは多少の愛情は感じられました。
しかし、父の画策で、私は母を敵視し、
母も私を「手に負えない、扱いにくい腫れ物」と思っていたと思いました。
さきほど書いた電話の時のように、
私には「母さんがああいっている、こういっている、
だから父さんとしてはお前に味方してやりたいけど、
母さんに怒られるんだよな、でも父さんに任せておけ、
なんとかしてやる」と言い、
母にはおそらく
「あいつは仕方のないワガママだ、いまさら性根も治らないだろうが、
俺がきちんと言ってやる」と言って騎士を気取り、
「どうして母さんをいじめるのか」などと言ってくるのだと思いました。
◆
父は、私が生まれる時、出産のために入院する母に付き添いもせず、
ずっとパチンコに行っていたそうです。
義母も実母もいなかった母は、不安な中ひとりぼっちで初産に臨み、
「母親がいる人たちがうらやましくて、自分が惨めだった」と恨み言を言っていました。
当時は、お母さんは本当に愚痴ばかりで、いつも親を恨んでいるな、と
無視していたのですが、母が本当に恨むべきは父だったのだと今は思います。
私はパチンコはやらないのですが、やる人はかなり病的にはまるもののようで、
父も約束も忘れて何時間も耽るなど、度を越えたところがあったようでした。
そんなに面白いものなのだろうか?と思っていましたが、
聞いたところでは、パチンコが面白いからするのではなく、
「面白くないことから逃げるためにやる」という心理なのだそうです。
私はそれを聞いて、出産の時にパチンコに行っていた父が、
子どもなど望んでいなかったのだと感じました。
父は、なかなか結婚しない(相手がいない)私に対してしみじみと
「まあ、あれだ、結婚は、人生の墓場だからなあ」と言ったことがありました。
父は、結婚して妻がいて子どもがいて、庭付きの家で犬が走り回っていて、という理想があり、
一戸建てにこだわり、その件で実兄と確執がありました。
・・で家を買おうとしたがお金が足りず、借金を申し込んだが冷たく断られた。
そのせいで、こんなド田舎にしか住めなくなった。
兄は長男で家も財産も相続しているのだから、
無一文で親の援助なしに生きてきた次男の俺に、何かしてくれてもいいはずだ、
というようなことを思っているようでした。
それなら賃貸にするか、・・でも地域によっては安く家が買えるところがあるのだから、
そうすることもできたのでしょうが、
高級住宅街とよばれる地域で見つけた、気に入ったその家が買えないのなら他はいらない、
という感じで、母の実家の隣町に家を買いました。
父は、・・に住めなかったこと、自分が中卒だということに、
実はコンプレックスを持っていたようでした。
私を大学に進学させてくれたのも、近所の大卒の人への対抗意識でした。
「Aさん(大卒で、教師の方)でさえ、娘を短大しか入れてないのに、
俺は娘を四年制大学に入れた、この近所の中で、一千万出すことができたのは俺だけだ。
Aさんでさえ一千万は出せなかった!」、
と嬉しそうに話していたことを思い出しました。
■ここでは書ききれませんが、こういうちょっとした言動に、
実にリアルに父の身勝手な冷酷さをたくさん感じました。
父は身勝手で劣等感のかたまりで、
そのうっぷん晴らしのために子どもを利用しているだけで、
子どもに対しては、自分の人生を墓場にした疎ましいもの、
出来の悪い俺の子どもが、出来がいいはずがない、成功するはずがない、
ほらやっぱりろくでもないことになった、
そのせいで自分は近所で形見が狭い、その責任を取れ、
育ててやったことには感謝をしろ、
今までかけた金を返せとは言わないし、どうせ返せないだろうから、
一生バカのままでいて、俺に小気味のいい思いをさせろ、
だが面倒くさいから近くには寄るな、
どこでも好きなところへ行け、
しかし、俺が住みたくて住めなかった・・には住むな、
どうせ仕事などないさ、、
などなどの感情が、まるで実際に口にしたかのように、はっきりと感じられ、
「本当にそう思っているのだろうな」と、なぜかそう思えるのです。
実際に記憶を辿っても、育児や躾の面倒なところは母に押し付け、
母だけを悪者にして、自分は嫌なことをしない理解ある父親だということを
アピールしていました。
けれどもこちらが寂しい時、あるいは甘えたい時には無視し、
自分が構いたい時だけ、こちらの気持ちを無視してしつこく絡んでくるのでした。
結局、どんな時も私の気持ちは無視していたのだと確信しました。
私はこのようなことを父に話しました。父は都合が悪いのか開き直り、
「お前の理想の父親でなくてすまないな、お前にしてやれることはもう何もない、
お前にはトータルで二千五百万もかかったから、生前贈与もできない、もう充分してきた」
などと言い、
「お前は大卒だから、中卒の俺とは住む世界が違うんだ」と吐き捨てました。
「お前が望むなら、大学でも外国でも、どこへでも行っていいよ」と言い、
「でも、学歴なんてこだわることじゃないと父さんは思うんだ、
人間は中身だよ、人柄と人格だ」などと言っていたのに、
最後の最後で学歴を持ち出してきたことにびっくりしました。
そして、学歴というものが父にとっては、
どうしても超えられない壁なのだとわかりました。
価値観の違いというだけの話かもしれませんが、
自分が生ませておきながら、最初から子どもを疎み、自分のはけ口にしてきたという
(私にとって、実感のある事実)をどうしても許すことができませんでした。
母は、父よりも少しは話を聞いてくれましたが、
それでも面倒くさい、批判されることから逃れたい、
そのためだったらまとまったお金を出すのはいとわない、
これで終わりになるなら何でもする!
といった投げやりな態度ではありました。
そして私が「いちおう形として絶縁状を書いておこう」と言うと、
嬉々として応じました。
そこには「(私)さんへ、いままで親子でいてくれてありがとう。
期待に添えない馬鹿な親でごめんなさい」と書いてありました。
話をしながら、どんどん論点がずれていく両親に、淡々と論点を戻し、
「お母さんは、どういう教育方針で私にあんなことをしていたの?」ときけば
「幸せになってほしくて」と言うので、
「幸せって具体的にどういうこと?
私がどういう個性で、どうなることが一番良いと考えていたの?」と詰めると、
「そんな難しいことはわからない、とにかく良かれと思って、
私は一生懸命だっただけで」と、思考停止になってしまうのでした。
思考停止というよりも、もともと思考などないといった感じがしました。
父はとにかく、自分を正当化することに必死で、
「世間は」「常識は」「世の中は」「俺の世代は」、それが普通だ、
みんなそうだ、そういうものなんだ、というばかりでした。
それで「そんなに何も考えずに生きて、子ども生んで、何も教えずに放り出して、
自分達を馬鹿親だと思わないのか」と責めてしまいました。
親の「馬鹿な親でごめんなさい」は、反省から出たのではなく、
馬鹿だと責められたことへの逆ギレでした。
そして、「ああこれで、この厄介事から解放される」という喜びが
ウキウキと感じられました。
私はとても悲しかった。
言い争いをした時、お互い興奮してつかみ合いになったのですが、
その時に触れた父の手は、ぞっとするほど冷たかったのです。
この人は、血が通っていないのだと感じました。
手が冷たかったのは、冷え性のせいかもしれませんが、
私には冷血漢であることの証のように思えました。
とにかくもう関わりたくないと思い、絶縁を提案しました。
こちらは今後、本当に天涯孤独になって生きなければならないという重みで言っているのに、
両親は「またそんなことを言って、しょせん親子だし、
ろくでもないコイツはすぐにひょっこり頼ってくるさ」
と思っているのが感じられる軽いノリでした。
けれども同時に、
「お金の無心にはけっしてこないと、一筆書いておいてくれ」と、
お金に関しては異様に用心深く、その点も浅ましさにゾッとしました。
◆
親との件は以上です。
私は親を嫌っていて、そんな自分を責めてもいました。
親は私のことを愛していると思っていました。
けれどもそうではありませんでした。
親は、子どもを疎ましく厄介な存在だと扱いに困りながら、
「お前が一番大事だ」と愛しているフリをして、
お金を与え、お金をかけることで、自分は立派な親だと、
子どもにも世間にも自分自身にもそう思わせてきた嘘つきでした。
そして私も、そんな親に違和感と嫌悪感を持ちながら、
それらを感じていないと自分を騙し、親に申し訳なく思いながら
復讐心でいっぱいでした。
親に依存していたから、言いたいことが言えなかったのだと思いました。
親は自分を正当化することに必死で、自己保身にばかり走っている人間ですが、
私も同じように、自己保身をしていたのだとわかりました。
そんなに嫌っているのなら、早くに自活して家を出て離れればよかったのです。
嫌いながらも依存して、生活を頼り甘えていたのが悪かったのだと思いました。
自活をせず楽をするために親が必要で、
嫌いながら依存することはバツが悪いため、好きになろうとしたのでしょう。
嫌っている自分に悩んでいるのだから私は本当はそんな人間じゃない、
親子関係も良好だと思っていたのでした。
私が上司の言いなりになってきたのも、上司に依存し、
頼ろうとしていたから、放り出されるのが怖くて何も言えなかったのでした。
今もまだ生活が立て直しきれていないので、言えないことがたくさんあります。
梅の間での「極論の中に答え(またはヒント)がある」を読み、
自分にはとても難しいことだが、
私の問題の原因は、まさにこれなのだと思いました。
・・・
長い報告をお読みいただき、ありがとうございました。
自我復元に出会ってから、困難はたくさんありましたが、
どんな時も効果を実感し、
やり続けることで現状を乗り越え、
自分の力で生きていける人間になっていることを心強く思ってきました。
ただ驚いているのは、・分の1自我から、・分の1になっても、
なお、まともな人間には程遠く、
問題だらけで間違った選択ばかりしてしまうことです。
始めた時よりも自我率が上昇し、回復したとはいえ、
やはり希釈自我は希釈自我なのだということを痛感しています。
そして、自我復元を行っている目的は、
最初はあまりにも問題だらけの自分の状態に、わらにもすがる思いだったのですが、
今の人間社会に適応して生き易くなったところで、
死んだ時に、騙されて利用されていいように扱われてしまうのであれば
今まで苦しんできたことと何ら変わりはないと感じ、
あの世であれ、この世であれ、そんな扱いに甘んじる自分でいたくないと
いうことです。
これからも全自我を目指して、作業を続けていきます。
私は、これほど、よく整理された、それでいて、
斜に構えたのではない、ちゃんと、まっすぐで、感情と理性を持った、
正確な親への分析を、久々に読みました。
ほんとうに、素晴らしい親への観察だったので、
【 ◎ 大変よくできました 】と、家政婦の三田のような返事を
書いてしまいました。
____________________
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