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[1721]
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●没個性から全体意識の混入へ
by:
●〓方山〓●
2001/05/26(Sat)13:31
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●近頃考えていたことがある。
よく言われることであるが、数百年前から、
地球人類は、どうも闇というものに接触する機会が極端に減った。
この闇とは、物理的な意味での闇のことです。
●昔は、(今でも地域によってはそうですが・・)闇はもっと身近にあった。
そう、はっきり言えば、電灯のない時代です。
私は真っ暗闇が好きで、前に富士山の近くの風穴で坐禅したこともあります。
家でしたら、押し入れや風呂場を遮光してその中に入ります。
●闇というのは、とても大きな洗浄機だと思います。
それも、目だけではなく肌を闇にさらすということが。
ゆくゆくは、モンロー研究所みたいに、防音・遮光した部屋が
安価なリラックスルームとして流行るかもしれませんね。
●ただし、無音、無光の中に、長い間入っていると、
御存知のように、人によっては、妄想が幻覚を生んだり、
閉所恐怖症の人や、行動中毒を起こしている人は、狂ってしまうかもしれませんね。
●それでも我々はもっと闇を取り戻す機会を持ったほうがいいと私は思っている。
達磨も洞窟で瞑想をしていたと伝えられているし、
多くのインドの行者や日本の行者もまた、かつては洞窟を愛用していたようだ。
●ところが、電灯が世界的に普及することで、
我々はかなりの部分、この「暗闇のある生活」から遠ざかってしまった。
そして、その分、我々人類をひとつの共通の場が支配していった。
その共通の場とは、電気の光である。
●世界の多くの人達が同じような電気の光で世界を認識する。
このことは、実は非常に大きな問題を持っていると私は感じている。
いずれ、この掲示板で書く予定ですが、
他人や社会と同じものを使ったり、同じ環境にいると人は同じように
平均化するという特性があります。
ネットも似たようなソフトを使いますし、携帯電話も膨大に普及しましたが、
その最も共通の根底にあるものは「電気」です。
●最初は、交流電源が世界に普及してから、
人類が次第に没個性化したのではないかと私は考えたこともありました。
というのも、我々は目では認識できませんが、毎日のように、
50か60ヘルツの「パルス状の光の点滅」を蛍光灯で見ているからです。
しかし、関東と関西の人間に、特に10ヘルツの差によって生まれたような
性質の違いも発見されなかったので、
原因は、どうやら電源の周波数ではなさそうでした。
●そこでよく考えてみると、
我々は、目から入るほとんどの情報を、電灯がない昔は、
自然光か、蝋燭などで見ていたわけですが、
同じ太陽という光源であっても、地域によって微妙に光は違います。
また、ランプの光も、微妙に揺れています。
ところが、白熱灯や蛍光灯が普及するに従って、
そもそも世界を見るための光が、世界的に画一化してしまった。
このことは、もしかすると、没個性に関係あるかもしれないと私は考えている。
ただし、没個性は、「2面性」を持っているので、
個性と没個性、そのどちらもメリットがあるので、その是非は論じませんが、
現象としてみる限り、どうも、電灯の普及とともに、
地球全体に「個性的」なキャラクターが激減したような感じを受けています。
●一体個性とは何か?という問題について言えば、
それは2種類あると思います。
ひとつは、「量的な」個性の強さです。
普通の人でも怒りますが、
これが怒る量が格段に増えると、そういう個性とみなされます。
もうひとつは、「そもそも毛色が違う」という日本語にもあるように、
量ではなく、質、または種類の違う個性です。
この毛色の違う個性的キャラという意味では、
実は、それほど情報が流通していない昔のほうが強かったと思うのです。
昔は日本の国内で、天下を取りたくて合戦していたわけですから、
そりゃ、地域風土や、藩ごとに個性も養われていたことでしょう。
日本という国も、鎖国していた時の方が、
一見すると多彩さがないように見えて、
実はよほど、個性的な考えの人間がいたかもしれない。
閉鎖的であるということは、その中の掟に縛られるという面がある一方では、
その不自由さ故に、個性や突然変異が育つ環境ともなるのである。
●しかし今日のように、世界が、同じシステムの光源や、
ネット、通信、情報などで結ばれることは、
それによって「きっと新しい組み合わせや個性が生まれるはずだ」という
期待とは逆に、皮肉にも、情報の平均化、刺激の平均化、多様性自体の平均化は、
人から個性を奪ったのかもしれない。
●多様性は、おのおのが分離しているときには、個性となるが、
情報の流通が起きて平均化した場合には、没個性になる傾向が強い。
だいたい、個性的な人というのは、育った環境自体が個性的なことが多いものだ。
●ただし、地球は現在の時点では、
「没個性の時代」であると私は認識している。
つい、最近までは、個性を育てる教育なんぞが言われていたが、
実際には、そうした時代に戻ることは、もう無理である。
個性は、閉鎖性が作るものだからである。
共有しないということが、個性を育てる枠であり、巣であるからだ。
ただし、没個性化は、必ずしも、退屈なネガの側面があるだけではない。
それは、没個性によって「全体意識を獲得する方便」にもなるからである。
ただし、それは特定の寺や教団に入って、そこのシステムに下駄を預けて
作法や戒律や命令に従うことで、個性を滅却するということではない。
なぜならば、そうした宗教的環境は、それ自体が誰か個人が作り上げた
ひとつの個性だからである。
また、私の言う没個性とは、群から外れることにびくびくする、いじめの構造とも違う。
そうではなく、社会や学校や宗教などの個性をコピーするのではなく、
根本的に、いかなる個性も自分の中には「保存しない」ままになること。
個性などは、常に「その場で乗りかえる」、という
「固定した個性からの自由」、
「個性を自由に駆使する意識」、というものが、
現在は、まだ過渡期ながら、
まだ若い人たちの中に育っているのかもしれない。
つまりこの子供たちは、誰かに教わったのではなく、
そもそも最初から、個性と没個性の「混血児」として地球に生まれてくる。
また、こうした「裏の動き」(地球内部の動き)は、
計画していた、あらゆる種類の地球人の個性が、
もう、「出尽くした」というのも、その一因である。
先日、もう地球には新しい覚者は登場しないといったのも、
覚者というものの、その「全パターン」が、
地球のアカシックに保存されたからである。
早い話が、「このサンプルパターンは、もう十分なので製造しない」
ということです。
地球では、すべてのファッション、ギャグ、職人技、視点、思考の論点、
犯罪者、そして覚者のバターンが「飽和した」ということです。
●さて、ひとつだけ、誤解のないように、ここで言いますが、
「個性」と「個我」は、また別問題であり、
「没個性」と「没個我」も、別問題です。
なぜならば、強烈な個性がある人でも、別に孤独感があるわけではありませんし、
個性がかなり薄いように見える人が、強烈な孤独感を味わったりすることからも、
「個性の成長と個我は比例しません」し、イコールではありません。
個性の有無、強弱にかかわらず、個我という孤立感は発生しますから。
●さて、「暗闇」について、続けますが、
光源というものが、画一化するにつれ、そこを流れる情報や刺激も
画一的になって、それに我々は知らずのうちに影響されるようですが、
逆に、すべての空間に「共通の闇」を共有するということは、
画一化とは違った共通項を人々の中に受胎することになります。
闇というのは、形体、色などが発生する以前の母体ですから、
この闇の中には、そもそも人を洗脳するような情報もありません。
そもそも、誰かが作った個性も闇の中では存在できません。
闇というのは、現象以前の母体ですから、
最も根本的なところで、個性というものから脱却する空間となります。
個性を平均化するような光やシステムを浴びて、没個性になるのではなく、
そもそも個性の全くない「闇」を浴びることで、
意識に付着した「意識運動の癖」のようなものを取り除くわけです。
●こうした効果を持つのが、できれば音すらもない暗闇に、
毎日少なくとも2時間入って、ただそこに坐っているということを
3〜4週間続けることです。
まとめて数日とか連続して篭るよりも、毎日少しずつ篭ったほうが効率が高いです。
ただし、こうした環境は、家の中では難しいですし、
音まで消すとなると、録音スタジオなどの防音施設で、
すべての電源を落とすしかありません。
●ですから、無明庵では、物理的な闇の実現が不可能な場合には、
「観念上、偽者のイメージ」でもいいので、この真っ暗な闇を、
常に、生活の中や瞑想中に、定期的に発生したり、
生活の中へともち歩くようにしています。
●この「闇」を十分に吸収して、闇に自分を侵食させるという事をしないかぎり、
思考や妄想が止まることはありませんし、無意識の抑圧が消えることもなく、
また種種の霊的エネルギーの上昇も、身体のブロックに妨げられてしまいます。
●さて次回は、頭頂留意というものもまた、
「全体意識の中を遊ぶ扉になる」という話でもします。
つまり、人間には、実は、もともと「私」という主体などはなく、
また実はそもそも生命には、「主体」というもの自体がなく、
実は、我々は、全体の中のひとつの「観察点」にすぎないということです。
存在しているのは、私でもなく、主体でもなく、
「観察点」であるということです。
そして、その観察点は、自分だと思っている場、位置などから、
その観察点を自由にずらすと、
動物や、植物や、物体の側、あるいは「特定の場」の側から世界を認識する
ということが起きることもあるということです。
ただし、これは、幽体離脱とはまた違うんですけどね…
ダイジが言っていた、サハスラーラ型の離脱に相当するのかもしれませんがね。
〜続く〜
★
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