▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
▲竹の間へようこそ▲
掲示板
Title
島流しリンク
自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
性と死のホームページ
★
「竹の間自薦投稿集」
★
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[2147]
■
◆爆笑問題の太田は究極の癒しである。
by:
ほ う ざん
2002/04/18(Thu)09:27
ppp01266.tyo.hdd.co.jp:61.198.1.204:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.0; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
◆「癒し」という言葉が商品的に氾濫してから、かなりの年月が経ちますね。
しかし、私に言わせれば、癒すという事のもうひとつの本質を
忘れている人達のあまりの多さには呆れます。
◆癒しというのは、まず病がそこにあるのですから、
その病の本質を洞察することが必要であるのに、
ただの馴れ合いの、べたべたした気色悪い優しさが「癒し系」と
言われたり、ナチュラルなものなら、癒しだとか、
いわば、「なでなで系癒し」「押しつけがましい癒し」「自然派癒し」
といった、私に言わせれば、非常に「おもしろ度の低い」癒しが氾濫するわけです。
◆しかし、癒し=治療というものの本当の本質は、
まず「毒を出す事」ですよ。生食医学でも「排毒」と言うでしょ。
そこで、爆笑問題の太田君みていると、
つくづく、すごいやつだと思うんですよ。
爆笑問題というのは、彼ら自身はスタイルをまったく変えずに、
何年もやってきて、キャリアがあるのですが、
ある年までは、全く、浮かばれず、
「今年こそはブレイクすると言われながら、今も不発に終わっております」
と太田君自身がテレビで言っていました。
◆ところが、ある年を境にして、いきなり、
今のようなレギュラーを持つようになったわけです。
それは時代のほうが、ようやく彼に追いついたということでした。
そして、この背景には、実は、「癒し」というものがあるのです。
世間でそれまで、さんざんに、序文で書いたような、
軟弱な、癒し、優しい=癒し、だの、
自然なら癒しだと思いこんでいる、私に言わせれば、
つまらない癒しが、出尽くして、
時代が次の何かを求めていたときに、
まさに、太田君の「突っ込み」「毒舌」「無礼」を含む横槍が、
本当の意味での「癒し」となったのである。
◆では、その癒しの本質とは何か?といえば、
それは、人の意識、そして無意識の「代弁」です。
誰かが言わねばならないこと、
言って欲しいこと、
あるいは、予測もしなかったような「先取り代弁」を
太田君がした(していた)わけです。
◆視聴者の多くは、それを単なるギャグとして笑ったかもしれませんが、
その奥にあるものは、実は、最も高度ともいえる「癒し」の構造です。
何かのアンバランス、ストレスの蓄積、不当で、つまらない常識など、
こうしたものに対する反発や、発散を、多くの気の弱い人たちは、
社会生活の中では、出来ません。
それを、タレントという立場で、
普通なら、崇め奉られてしまうような人達をも、笑いにしてしまう。
しかも、その笑いというのは、ときには、皮肉や不条理系ギャグを
微妙に(ここが大切=つまり押しつけがましくも、わざとらしくもなく)
含んでいるのです。
◆これは、計算されたものというよりは、天性のものであるというのも、
そこに嫌みや、不自然さを感じさせないポイントでしょう。
こうして、爆笑問題の二人は、
片方の田中君が、ごくごく、理性的で普通の世界を代弁する、
そして、太田君が、人々の中で、制圧されて歪んだ部分を
代弁するという、名コンビを演じているわけです。
◆だから、多くの人達は、いつ、また太田君が突っ込みをいれるのか
という事を、当たり前のように楽しみしているのですが、
さらにすごいのは、太田君は、予想した範囲以外のタイミングで突っ込みを
いれてくることです。
これを称して、私は、「先取り代弁」、もっと面白くネーミングすれば、
人のストレスのウンチを出しているという意味で、
太田君=【代 便 者】=高度な癒し(または癒しの基本中の基本)。
ということです。
◆こうしたことは、太田君ほど芸がなくても、
実は、皆さんも経験はあるはずです。
たとえば、私の昔知っていた禅寺の僧侶が、
「中島みゆき」のファンだったので、
私は内心、「こいつ、趣味わりーな」とおもっていたのですが、
話を聞くと、「自分が落ち込んでいるときに、それ以上暗いものを
聞くと、それよりは自分が安定感が感じられて救いがある」というような
意味の事を言っていました。
◆しかし、これって、よく思い出したら、私自身にも覚えがあって、
私は、音楽でいうと「マイクオールドフィールド」の初期の作品の
ファンなのですが、
彼のチューブラーベルズから、特に私が思う、最高傑作の
「オマドーン」にいたっては、
もはや、マイクオールドフィールドの「自閉症の病気のピーク」で、
それが創られたということが、重要なのです。
◆余談ですが、私は高校生のころに、
毎日のように「オマドーン」を聞いていましたが、
その理由というのは、やはり現実世界の醜さからは、遠くかけ離れた
美しい音色とコード進行を「オマドーン」の音楽が持っていたせいもありますが、
それ以上に、マイクオールドフィールドの、極度な自閉症というのが、
その音楽の奥に「燦然と輝いていた」からなのです。
つまり、自分の落ち込み、閉鎖性の、もっと上を行く
「自閉症の大先輩」に触れているという形での「癒し」なのでした。
マイクオールドフィールドは、「オマドーン」のその後には
「呪文」という「自分の自閉症に落とし前をつけた」と言われている
アルバム制作を通過し、その後のアルバムでは、
カウンセリングと静養によって、すっかり、変にポップなサウンドに
なってしまい、ちょっと残念です。
◆このように、
歪み、ストレス、鬱、いわば、心の病、そこまで言わなくても、
「心の疲れ」に対する、「癒し」というのは、
まずは、美辞麗句や、変な優しさや、ナチュラルといったものを
べたべたと自分や他人に「上塗り」することではなく、
そのドン底にあるものの、さらに「下を突き破る」ことで、
文字通り、「毒が排泄される」のである。
◆だから、癒しの基本中の基本というものは、
「優しさ」や「思いやり」ではなく、
共感するものを携えている者が、さらにその下を行くような
病や、歪みや、皮肉、
つまり「毒を盛ることによって、人を癒す」のです。
◆爆笑問題の太田君以前に、お笑いの世界で、これを行ったのは、
北野たけし、ただ一人です。
◆もうひとつ余談を言うならば、
「自然環境が癒しになる」というのは、非常に単細胞的な発想です。
確かに自然を破壊したのは人間です。
しかし、だからといって、すでに不自然な都会に、
緑を増やしたりして、造園業者や自然主義者が、
そこでまたまた商売をしたりすることは、
なんら、「病」の本質を見ることにはなりません。
だから、こういうのを「病の上塗り」というのです。
◆また、自然環境の中に行けば、人は癒されると思い込んでいたり
実際にそう自然の中で感覚的に感じてしまうのも、錯覚のひとつです。
もっとも普遍的な意味での「自然」というのは、
原子やそれ以下のミクロの単位そのものの中にでもあるわけですから、
EO師が都会のコンクリートの隙間に咲く1輪のタンポポに涙したように、
私達の方が意識さえ開けば、
都会のど真中、あるいは、たとえ、人工物の中にさえ、宇宙があり、
そこには「自然」があるのですから。
◆では、何が必要であるかいえば、安易に文明を否定して、
癒しと騒いで、自然を大切にすることではなく、
逆説的に言えば、今一度「その病を大切にする」ということです。
すなわち、病の本質を洞察して見ることです。
それは、たとえれば、
病んでいるなら、病んでいるで、それをひとつの、
もっとデフォルメされた醜さや、モニュメントや、芸術作品にすることです。
これは、病から「逃げようとする人たち」には決して出来ない行為です。
「病とは何ぞや」という原点に立つ人達だけが出来ることです。
◆そして、その病を、無自覚にではなく、
「意識的に」作品化することが出来たとき、
それを見たり聞いたりした人達の中には、「表現された病」こそが、
「癒し」となるわけです。
もっとも始末の悪い病とは、「制圧されて表現されない病」なのですから。
◆最初に述べた爆笑問題も、
「今年こそはブレイクするといわれて不発のままです」と、
自分たちの不発の立場そのものを、ありのままに口にした瞬間から、
状況は一転して、確かその次の年にブレイクしたと記憶しています。
これも、「逃げないこと」「笑いにすること」の効能の一例です。
◆だから、楽しくない話題、痛む話題、非人間的な話題を、
いかにして、予想以上に、
もっとさらに楽しくない、痛みのある、非情な徹底したものにするか、
それが実は、究極の癒しや治療の「黄金の鍵」なのです。
◆子供や老人社会や、身障者の人や、または弱い立場の人達というのは、
ある種の「社会的な暗黙の聖域」に守られている。
これも、いわば、「区別」ではなく悪い意味での「差別」の一種です。
しかし、これを全く「聖域なき言動改革」することでこそ、
癒しの本質が生まれます。
ちょうど、イギリスの皇室が、皇室ギャグを容認するのもそれと同じです。
また、
「自分の心の毒は、他人に、たれ流しするな、
毒は固めて捨てろ」
これが無明庵の知的ワークのひとつです。
だから、竹の間は、いま、その「毒を形にする作業」を
皆さんに提供しているわけです。
◆そういえば、EO氏のサウンドも、
そういう意味での「癒し」があります。
決して、ニューエイジ的な、もたついた、つまらない音楽ではなく、
多くは、EO氏独特の、刺激性のある合成音を組み合わせているもので、
その中には、とても美しい旋律のものがある一方には、
不気味なものもあり、不安をそそるものもあり、
それでいて、どこか私達の本質的な「無心の意識」に
刺激を与えているのです。
◆EO氏は、たぶん、人を癒すときに、
人の「心」というそうした狭い意図や、意志が癒しているのではなく、
何かもっと未知なもの、無心な内発的なものがそこにあるようです。
他人に何かの影響を及ぼそうとなど、全くしていなくて、
ただ表現したくてしているという無心さ。
というのも、EO氏の音楽の中で、私個人がそこに「癒し」を感じるものは、
決して楽しいテンポの曲ではなく、
むしろ、どこか「もの悲しげな音」が含まれている曲が多いからです。
それは、たぶんEO氏が、
人の深い悲しみや苦痛を、すべて理解しているというところが、
そうした「技ありの癒し」を作り出しているのだと感じました。
◆同様に、EO師の、反逆的な著作物が「精神世界」という、
人の心の弱さや、意識変化を「商品」とする業界では、
多くの人達に刺激を与えた点もそこにあるでしょう。
多くの人達が、本心から、うざいと思っていた宗教家、
本心から、うさんくさいと思っていたセラピーや、超能力や、カルト集団、
本心から、アホらしいと思っていた、寺の僧侶や、サニヤシンのこと、
これらを、一網打尽に、
「地球上の、病気の猿たち」とか
「この全宇宙自体が、失敗作とも言えるフラスコで、
いろいろな惑星は、ただの感情農場で、
人類や宇宙じんたちも、そこの牧場のただの家畜たち」と言い放ったことは、
毒舌であるとともに、
それが、何ひとつ美化もない真実でもあるために、
「毒によって人を癒した」、ともいえるかもしれません。
実際、↓【ひきつりながら読む精神世界】
http://www.mumyouan.com/e/eo3.html
の読者の方々から、
無明庵に、いままで寄せられた多くの手紙に共通する言葉は
「ずっと疑問に思っていたことを、
見事にすべて言ってくれている本だった」
というものでした。
●ということで、今回は、
「癒し」の話になりましたが、
竹の間の、今のテーマにこじつければ、
私が最低だと思うもの、、、
それは、人でも、行為でも、アートでも、
それが、社会的にどうだとか、人間性がどうのこうのとか、
いいとか、わるいとか、じゃなくて、
1.「おもしろくないやつ、おもろしくない行為やもの」
2.「つまらないやつ、つまらない行為やもの」
これは、私には最低の行為である、最低の者です。
◆
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(2147 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
竹の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -