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[2300]
■
■孤高の瞑想■
by:
ほ う ざん
2002/06/03(Mon)06:55
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■しょうがいないですね。
竹の間の常連の方には、不用な当たり前の事ですが、
EO師の書籍や、竹の間をあまり読んだことのない方のために
ほんの少しだけ、補足しておきます。
■もう一度言いますが、
物事には、二つのベクトルがあります。
一つは上昇、ひとつは下降です。
たとえば、臨死体験とか、死んでしまうとか
そういうものは、いちおう肉体のレベルを脱ぐ、
すなわち、ひとつ、自分の中から生のファクターというか
オプションが抜け落ちるので、
方向としては、「いちおう」上昇ベクトルに入ります。
■つまり、生から何かが減算される場合に、
無明庵では、それを上昇と呼びます。
言いかえると、どんな体験をしても、
何かの新しい認識をしたり、何かの新しい遭遇をしたり、
何かの創造性が沸く、これらは、全部下降ベクトルです。
■先ほど、肉体の死が「いちおう上昇」と言ったのは、
あくまでも第1段階の肉体の束縛が落ちるという意味にすぎません。
実際には、次の身体、その次の身体、その次の身体と、
何枚かの次元の層が、まるで「拘束衣」のようになっていますから、
そのどこまでを脱皮するかによって、その上昇率は変わります。
■つまり上昇ベクトルの瞑想というのは、
生の中から、機能が失われてゆく過程の事です。
そしてより、シンプルに還元されて、その極は「絶対無」となります。
この方向を無明庵では、大抵の場合は、「瞑想」と定義します。
■一方で、下降ベクトルの路線にある手法は、
瞑想ではなく、「創造化」または「多様化」と呼びます。
これは、たとえば、気功、魔術儀式、念仏、ヒーリング、
まー、ようするに、精神世界または精神世間と呼ばれているものの
ほとんどです。アートなどもそうです。
■これらは、すべて下降方向にあり、
上昇ではありません。
むろん言うまでもなく、その「両方が必要」なのですが、
とりあえず、上昇ベクトルの瞑想は、
とにかく、「単純化への道」だと思ってください。
それは、加算ではなく、あくまでも、ぎりぎりまで
「生を脱いでゆく過程である」と。
■その事を踏まえて、
集団と個人の瞑想の区分をしておきますが、
こうした、多重身体のベールを剥がしてゆくのが瞑想と定義した場合、
それは、「高次元に至る」という言い方は間違っているわけでして、
「より高次元の身体をも捨てる」、というのが正しい表現です。
■大切な基本ですが、無明庵の技法というのは、
原則として、
社会適応するためや、創造性を生むためや、
何か、悟った人たちがするような振るまいになるためや、
洞察力を持ったり、社会改善するだの、そういう一切の事と無関係です。
むろん、関係性は、意図せずに「自然と起きること」はありますが、
無明庵の死人禅の元々の目的は、「解脱」です。
■つまり、それは、次の転生を無きものとすることです。
今回を、存在する形での最後の生にするという事です。
制限時間的に、今回の生で、それがもしも無理であれば、
少なくとも、次回の生あたりで、生を降りる、ということです。
■この事を前提とした場合には、
まず必要な作業は、自我の影響からの解放です。
ところが、自我というものは、
二つあります。
ひとつは、他人がそこに存在することで発生する自我、
もうひとつは、自分一人、または自分の記憶の中に形成されたものです。
無明庵では、なんでもそうなのですが、
「迷いや苦の本質に深く入ること」で、そこに抜け道を見つける
というのが常套手段ですから、
たとえば、自我についても、自我を否定するのではなく、
とことん、自我に入り込むことが瞑想となります。
■しかし、その場合には、なるべく「純度の高い自我」を
踏み台にするのです。
「純度の低い自我」とは、たとえば、
社会的に作られたあらゆる固定観念、それに宗教教義などですが、
これよりも、もう少し、本質的なものとしては、
「周囲に人がいることで自動的に発生する微細や緊張や体裁」です。
■これは、たとえ、どんなに親しい人であったとしても、
人間は、地上のひとつの動物であるかぎりは、
他者に対しては、細胞レベル、本能レベルでの緊張が発生します。
唯一の例外は親子の場合のみです。
夫婦は、もとが他人なので、完全には弛緩できません。
そして、それは自然界で、生存するためにプログラムされたことですから、
「間違っているわけではありません」。当たり前のことなのです。
■このような半ば「無意識的に形成される緊張」、
すなわち、「個別意識」「分離意識」は、
他者の存在自体によって引き金が、ひかれます。
しかし、もしもこの「他者」というものが外側にいないと、
今度は、自我または緊張、分離意識、といったものは、
純粋に自分の内部のシステムからだけ生まれます。
■つまり、EO師が、よく本の中で言っていますが、
「苦を可能なかぎり、減らしても、なおもそこにある苦を見詰めよ」
ということです。
苦のきっかけ、
というのは、社会や他者やいろいろな外部から持ち込まれるわけですが、
それらを全部除外しても、なおも残る苦があるとしたら、
それが「根本苦」といえます。
その根本苦は、なんであるのか?
どうして、外部と分離した感覚があるのか?
何ひとつも心配事もなく、思考すらないのに、
一体何が、しっくりこないのか?
存在している今の状態そのものの中にある違和感とは何か?
■こうした、より、微細で、本質的な「障害」について瞑想すること、
これが、無明庵で言いつづけてきた瞑想の本質です。
■これ故に、一度は、雑多なレベルの自我や他者から与えられたような
一切の宗教教義やモラル、そして、
特に、それは「生存せよ」という基本プログラムをうけている
余計な部分をまずは、除外するわけです。
■たとえば、無明庵で、一切の苦行を行わない理由のひとつは、
苦行によって身体感覚を強めたり、
身体の抵抗力を強めると、
その結果として心身の生存命令を強くしてしまうからです。
そうではなくて、逆に「生存せよという命令」や緊張の要素を
なるべく可能なかぎり減らすために、
十分な睡眠や食事や休息を取り、
また、心配事を減らし、心身ともに、ベストコンディションにして、
その上で、それでもなお、
「一体何が、決着がついていないような、未完成な感じがするのか?」
という部分をドリルのような意識で掘ってゆくわけです。
■そのような点から、
意識的であれ、無意識的であれ、
微細な緊張や生存命令を発動させないために、
とにかく、余計な要素をなくすために、
他者が近くにいてはならないので、
まずは、死人禅の瞑想に限っては、
狭くても、一人になれる空間で行うことです。
場所が家になければ、外の公園でもいいのです。
■こうすると、生の要素として残るのは、
自分の思考と、あとは、五感の知覚です。
そして、もしもさらに理想的な環境があるとしたら、
それは、無音の真っ暗闇の中で瞑想することです。
これは何も、断食して、洞窟や地下に入って瞑想するということでは
ありません。
■自分の部屋でいいので、少しでも、遮光や遮音できる環境で、
1日のうちの何十分か、数時間を、
ほぼ、真っ暗で、音が少ない環境で瞑想するということです。
これは、五感の要素を除外するのに役立ちます。
なんなら、アイソレーションタンクでもいいでしょうが、
別に、そんな大げさなものは、必要ありません。
■こうすると、この孤高の状態では、自分が相手にするのは、
自分の思考、妄想、
単純な自己意識などのみとなります。
そして、この状態でなければ、どうして掘れない、
どうしても、破壊できない高次身体というものがあるのです。
■最初にも言ったように、無明庵で言う瞑想とは、上昇ベクトルであって、
それは、創造化した全次元からは、切り離すという事ですから、
まずは、「個の存在感」の原因あたりにターゲットを絞るのです。
■そのためには、心身になるべく問題がないことや、
刺激がない状態を理想とします。
ただし、言うまでもないことですが、
私が言う瞑想とは、都会の雑踏から逃避して
自然の豊かな土地へ行ってリラックスしたり、ヒマラヤへ行ったりして、
気持ちよさを探究したり、天界の妄想にふけることではありません。
■「上昇の瞑想」とは、
存在から「無」の次元へと脱皮してゆくプロセスですから、
認識される一切の、高次元世界や宇宙的な次元をも無視して、
ただ、ひたすら、何もかもを殺ぎ落とすことです。
■宇宙には、神や創造主も含めて、「何ひとつも残らない」、
という事を徹底して、実感として体験すること、
それが死人禅のひとつの目的でもあります。
本当の無執着というのは、
そういう、無の次元でしか起きませんので。
未だに、何らか理想的な意識世界、または宇宙世界、
未来のヴィジョンなどを思考の中で想定しているかぎりは、
その理想こそが障害となって、「純化」を妨げますので。
■
■「孤高」というのは、より根本的な迷いと苦を見定めるための、
瞑想の「入り口である」と言うのが、以上の話でした。
人が自分という余計な意識を喪失するのも、
また、ある意味で、生を再発見するのも、
それは、かならず、
知覚も記憶もないような、
闇や無の中に、
たった一人で、放り込まれた場合のみですから。
外部を無にして、
かつ、内部も無にして、
最後に何が残るかを探究するのでもなく、
最後に残ったものの中に「在り、かつ、何も無い」というのが、
死人禅の極点のひとつです。
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