▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
▲竹の間へようこそ▲
掲示板
Title
島流しリンク
自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
性と死のホームページ
★
「竹の間自薦投稿集」
★
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[2533]
■
●戦士または武士というのがいなくなった日本または世界◆
by:
ほ う ざん
2003/02/01(Sat)01:09:59
ppp03325.tyo.alpha.hdd.co.jp:61.195.83.22:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
●私は、何かと戦って、勝とうと思ったことは一度もない。
なぜならば、「勝ちにいくことを意識したとき」から、
その試合は、つまらないものになることは、
格闘技の試合を見てきた人達は知っているはずである。
(もっとも、それは勝ち負けに、明確なルールがある場合であるが。)
●私は、何かと戦って、相手を変えようと思ったことも一度もない。
相手を変えようと思った瞬間から、それは戦いが不純な
動機に満ちてくるからである。
相手を変えるのが目的であるなら、
何も戦うばかりが手段ではないからでもある。
●私にとって戦いとは、そこに正当な理由があるものでもなく、
相手を変えたいのでもなく、社会的目的があるわけでもなく、
また、何が勝ちであるかの定義すらない。
●私が何かと戦うとき、
それは、戦う事自体が、『面白いかどうか』、
それに尽きる。
戦うという中で、戦闘能力、または「戦闘神経」を引き上げることが
目的であって、勝ちは目的ではないし、相手の変化も望んでいない。
●ようは、これが、やりたいことをやる、
という事の本質である。
だから、戦争屋、戦争職人というのは、私はいてもいいと思う。
それは、状況と場所さえ与えられれば、
戦うことが好きでたまらない人間が、
サバイバルゲームのように、民衆に影響のあまりないエリアのリングでの
戦いあってもかまわないだろう。
なんなら、専用の決闘場で、殺しあっても結構。
●しかし、今、そういう者は極端に少ない。
つまり、「戦うこと自体をしたいから戦う」という者である。
ブッシュに限らず、マスコミであれ、何であれ、
政治的な戦争や宗教戦争は、報道戦争とは、
単に、「戦いという手段」を利用して
「他のモノを得る」事を目的としているだけのことである。
それは、金、軍需産業、領土拡大、メンツや支持率、視聴率。
●しかし戦士というのは、
政治のことは、知ったことではない。
残念なことに、古来より、
政治が戦士に命令をするという事が圧倒的に多いのであるが、
そうではなく、戦士とは、誰の命令も受けずに、
自分がしたくて、戦いに挑む者のことであると私は定義している。
それが戦士と、単なる戦闘ロボット(政治の駒)との違いである。
●私にとっての戦いの美学とは、
戦うことが、他の何かを得る理由ではないということ。
そのような意味では、君主のための玉砕も、
ハイテク兵器を使った戦争も、
厳密には、どれも、私の美学にかなう戦いでも戦士でもない。
●戦うために戦う。ちょうど、誰が勝つか負けるかではなく、
戦いという分野のレベルをアップするための戦い、
戦争というものがあるとしたら、そういうものだけに、私は馴染める。
●すなわち、直感、または衝動によって戦う者である。
その手段の選択には道徳も目的も理念もない。
●人間は、戦うには「目的」が必要だと思いがちであるが、
それは、食うために戦う動物だって同じであるし、
人間の産業の多く、そして心の戦いすらも、
所詮は、その「食うため」の手段が複雑になったものでしかない。
(「心理的な餓え」を商売の客にする商法は宗教やセラピーなどである)
●そこで、人間がもしも動物とは違う戦いを出来るとしたら、
それは唯一、何かの目的のための戦いではなく、
まさに、「戦いの神に奉納するような戦い」、である。
●かつて、古い時代には、
国家や殿様の命令や、それに対する忠誠心から
戦った戦士は多いだろう。
しかし、そんな中でも、戦いの現場においては、
勝敗以前に、本当に戦う事が好きだった者たちもいたはずである。
それを称して、私は、「武士」または「戦士」という。
名勝負、または、伝説とは、
そういう人達の戦いの中に生まれたものである。
●打算や、世間体に汚れて、勝ちにこだわったり、保身に走ったり、
公明正大な理由のもとで、こそくな戦い方をするような者、
そんな者が、今の政治や企業や宗教や一般人に、
あまりにも多すぎる。
●高視聴率のNHKの「プロジェクトX」などを見ていても、
開発者たちは、利益など二の次、
会社の利益のためとはいえ、それ以上に彼らを動かしていたのは
ただ、研究を完成したい、研究を世の中に出したい、
製品を完成させたい、という、
ただただ、それが好きだったという、実に単純な理由だけである。
●昭和という時代を飾った、あれらの企業の美学や美談とは、
なんのことはない、
「好きなことを、他の手段としてではなく、
その好きなことのためにやる」という単純なことから生まれたのである。
他の代償行為としてではなく、
他の目的を果たすためではなく。
売れるためではなく、
認められるためではなく。
●だから、戦士や武士もまた、
彼は、己の死に臨んでは、
「戦いの中で死ねることが本望」なのであり、
決して「勝たなければ死ねない」、
というような亡者なのではない。
●今の世の中に、
本当に、政治が好きで政治をやっている者、
本当に戦争が好きで戦争をやっている者、
本当にその仕事好きでやっている者がいたら、
とっくに、世界は、もっとユニークなものになっていただろう。
ちょうど、芸術の世界が、個人差はあるものの、
いつの時代も、そうであるように。
●今後の時代を生きる者の教訓●
3度の飯より好きなモノを持て。
3度の飯を食うためのモノではなく。
口が裂けても、
「食うためにやっているんだ」という言い訳を言うな。
それぐらいなら、やりたいことをやって、
食えなくなったら、死ね。
食うためという理由で、自分の行為を正当化するよりも、
「好きなことをしたが、死んでしまった」という方が、
遥かにその死は正当化されるものである。
だから、唯一したいことが、死ぬことである者がいたら、
「死にたい」やつは、死ね。
ただし、それは、
本当に「生きたい」という欲望を、
完全に超越した死であるならの話。
何かの条件さえ揃えば、生きたい、
というのでは、それは死にたいという事にはならない。
もしも自殺するなら、
それは死の神に奉納するに相応しい、
純粋な死への憧れと敬愛であることだ。
決して、「今の肉体を捨てて、別の生に乗りかえるためではなく」。
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(2533 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
竹の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -