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[2575]
■
●自殺(心中)報道について
by:
ほ う ざん
2003/02/16(Sun)19:04:11
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■
■あいかわらず、不毛なコメントしか出来ない報道が
されている。もっとも、自殺を容認することは、
メディアの「建て前と」して、出来ないというだけの理由であるが。
自殺や生死の根本問題に、突っ込んだ論議をすることを
単に避けているにすぎないのであるから、それならいっそ、
つまらないコメントも、一切、いれないのがよかろう。
元東京地検のコメンテーターがこう言っていた。
「こういう若い人は、自殺を美化してるんですよ。
最近、中高年の自殺者が多いんですよね・・・・(言葉が途切れる)」
若い人は、自殺にあこがれているだけです・・・」
なんじゃ、この浅はかなコメントは?
中高年の自殺は、借金苦や不景気のせいだから、
まーまー、認めるが、若い人は、ダメだ、というつもりらしい。
さすがに、ネットのせいにする風潮はなくなったものの、
依然として、人の「死ぬ権利」は、認めないようだ。
●しかしね、どうして、こうも、いつまでも
マスコミでのこの論議は、愚かなんだろう。
そもそも、自殺を美化してはならないというのであれば、
「逆も真なり」なのである。
すなわち、そもそも、何の根拠もなく「生を美化」するのも、
視点をかえれば、全くおかしな話なのである。
生も死も、どちらも美化しない、
それが私には、普通のことに思える。
●だから、私は、自殺を「悪い」とは言わない。
肯定したり、薦めることは言わないが、
少なくとも、絶対に「悪い」とは言わないし、言えない。
●北朝鮮で、雑草や、はては、幻覚によって人肉を食べてまで、
餓えに苦しむ人達は、報道によれば、
「最後に、お腹いっぱい食べてから死ぬこと」が望みだという
ケースも少なくないらしい。
そうした飢餓を見たり、知れば、
人は、「たいへんだ」「ひどい」と思うだろう。
だが、この肉体的な飢餓状態と全く同じことが、
精神の飢餓として起きる。
それが、(自殺の全部のケースではないが)
自殺の場合にも起きることのひとつである。
永久に埋まらない内面の「餓え」。
精神というものも、また、新陳代謝をしているので、
それが飢餓状態となる事がある。
●なにかにつけて、わかったような事を言う人は、
「心の時代」だとか
「精神的側面を大切に」と、全く中身のない言葉を吐くが、
では、それほどまでに、物質よりも精神を大切に思うのであれば、
この「精神の飢餓」としての自殺願望は、
「肉体の飢餓と同列に扱われなければならない」ものだと言える。
●自殺願望というのは、本当の根っこを見れば、
それは、単純に愛情に餓えていたからとか
そういう問題ではない。
自殺の根本的キーワードは、「虚無」だ。
虚無というのは、それだけの「実体」
それだけの絶対的とも言える「普遍性」をもっている。
虚無への恐怖が生を成立させているといってもよい。
しかし、その力が尽きた者には、
必ず、虚無がやってくる。
虚無というのは、単なる悲観的思考の産物ではない。
虚無が悲観的思考を、副産物として生み出すことはあっても、
虚無そのものは、思い込みの産物ではない。
●この問題、たんなるセラピーや、
肯定的思考や、人生の目的を与えて解決するようなものではない。
自殺というのは、借金取りに追い詰められて逃げる、
失恋で悲観して死ぬというような具体的な理由もあるが、
もっともっと「具体性のないもの」、
つまり、「とにかく、あと1日とて、生きているのが嫌だ」という
ある意味で、「ごく自然な思考」が原因でもあり、
それは、「生きていくのは正しいという、これまた極端な幻想」から
覚めようとしている者の正当な叫びである場合もある。
●ただし、とても困難なのは、
実際に死んでしまうと、そのチャンスが失われるという点。
死にたいという期間が、長期または深くなりすぎて、
それ自体が力尽きるまで、自殺願望と同居しつづけ、
なおかつ、自殺だけはしない、薬物も使わない、
死ぬなら、そのまま狂って死ぬと覚悟したときだけ、
何かの扉が開かれる可能性がある。
●自殺は、考えないなら、それに越したことはないが、
それは、事実上、まともな神経で生きていたら、
不可能なことである。
そして、もしも幸か不幸か、
それが明日1日を生きる力も失うぐらい、
生を嘔吐し、生に嗚咽を感じる日々が、続くのであれば、
ただただ、永久に終わらないその苦しみに
打ちのめされ続けるという以外に、道はないのである。
ちゅうと半端に、復帰してはならない。
環境をととのえて、自殺するのではなく、
環境を整えて、自殺願望そのものと徹底的に
向き合うのである。
それは、向き合うというより、自殺願望の中に、
自分が心中するといったほうがいい。
しかし、肉体的には、死なない。
肉体を滅ぼしても、苦しみから逃れるのには、
全く無駄だから。
「肉体ではなく、精神の自殺が先である」・・・EO師の言葉である。
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