▲
控えの間
-
全館目次
- 松の間
■
BBS
- 竹の間
■
BBS
- 梅の間
■
BBS
- 桜の間
■
BBS
■
松竹梅の間:ログ表示
松の間
竹の間
梅の間
桜の間
★ 番号指定:
1ページの表示件数:
件
☆ 検索語 :
検索表示 新着から
古い方から
タイトルだけ表示
タイトルと5行
全部
「性と死のホームページ」 http://www.mumyouan.com/
.
より詳しい使い方の説明(9月11日変更)
▲竹の間へようこそ▲
掲示板
Title
島流しリンク
自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
性と死のホームページ
★
「竹の間自薦投稿集」
★
ブラウザーの設定などの理由で最新情報が表示されない場合があります。更新ボタンやF5キーを利用してみて下さい。
[2591]
■
「本物の導師または悟った者と偽者の違い」
by:
ほ う ざん
2003/02/25(Tue)07:43:16
ppp04317.tyo.alpha.hdd.co.jp:61.195.83.25:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
■以下は、池田さんの「くまの間」の問いに答えて、
という遊びです。
有象無象の投稿の中で、唯一、シユウさんという人の投稿だけが、
とびきり今回に限り、ちょっとだけ目立ったので、
直接に設問、あるいは設問の矛盾についてを
答える形ではないですが、ごくごく「初歩的な」コメントをしておきます。
●参考になるかどうか分かりませんが、
この導師探しに、関連することで、
EO師の次の言葉が、私の脳裏にくっきりと残っています。
******************
「悟ったやつの書いたことなんか、
全く何ひとつ、役に立たない。
ただ一点、自分がそうなったときに、
どうやら、自分は狂ったのとは違う、
という事が確認できるものであるにすぎない。
だから、私にとっても、
和尚の言葉なんか、それ「以前」には全く役に立たなかった。
実際、ある時期から私は全く和尚の本など読まなくなった。
ところが、「事後」となると、
それは、自分のいる位置をある程度認識する標識となった。
結論から言えば、
悟る前には、悟ったやつの言うことなんか、全く役に立たない。
悟ったあとも、むろん、ほとんど何の役にもたたない。
自分が発狂したのではないことぐらい、
他人に言われなくとも、分かるわけであるし。
私がその事が起きた「事後」に、
和尚の本を指先で、遊び半分に開いて、
ある1ページにある言葉を「たった一言」だけ見て思ったのは、
「あっ、こいつは、解ってるな」
たったそれだけだった。
あとは、どこ読んでも、
あいからわず、手を変え品を変え、
「その事」が書いてあるだけだった。
しかし、それは悟る前の私がいかに
和尚の事を「確かに悟っているようだ」と、
自分の体験や、知識によって思っていたのとは
まるで、まったく、ぜんぜん「次元」が違うものだった。
何しろ、自分がそれを「食べた」のだから。
その味については、どうにでも語れるし、
なんなら、嘘だって語れる。
しかし、その味を知らない者は、「嘘すら語れない」。
それぐらいの違いが、
事前と、事後には、存在する。
また、悟った者の言葉によって、
ある種の明確な認識が出来るとともに、
歴代の悟った者たちの、「長所と短所」も見えてくる。
だから、ブッダや老子の言葉足らずのところを和尚は補い、
私は和尚やダイジの言葉たらずのところを補う。
また、本当に悟ったやつがいたら、
そいつが、何を題材にして語るか見ていればいい。
少なくとも、悟っていない者を題材に説法することなんか、
ほとんどあり得ないから。罵倒やギャグにする以外には。」
***************************
●ということで、記憶している言葉としては正確ではありませんが、
趣旨はこのようなものでした。
で、最後に、シユウさんの引用した言葉は、
きわめて、重要。
>なにが正しい師の基準か?/
>基準はない、ただ、あなたの完全に成熟したエゴが、
>直観によって正しい師を見分けることが出来るのみである。
>(ダンテス・ダイジ『アメジスト・タブレット・プロローグ』p.54)
●これ故に、導師の仕事は、「悟り」というニンジンを
あなたという馬の鼻の前にぶらさげて、
走らせるだけ、走らせる、つまりはエゴを成熟させることのみにあり、
悟りを与えることではない。
エゴを成熟するとは、
より、厄介なエゴ、たとえば、悟りたいというエゴとか、
厄介で、本人が苦しむようなエゴを肥大させることである。
よって、段階的に人が楽になることはあり得ない。
導師の慈悲とは、法や戒律を与えることではなく、
疲れて、馬が倒れるまで、馬を走らせることのみである。
とも言える。
だから、師を見つけるのは、
単なる「直感」や比較宗教や、経典解釈しか出来ないバカではなく、
「成熟したエゴ」とダイジ師は言ったのである。
この「成熟したエゴ」、これをつかむまでは、
瞑想や座禅など、するな、
または何の役にも立たないと言うことである。
四六時中自分にいつも不満だらけになれない者に、
自己解体なんか、不可能ということです。
エゴの最大の特徴は、
「不満の塊」であるということ。
そして、ちっこい飴で満足することなく、
怠惰になることもなく、無気力になることもなく、
探究し続けること。
それが、どれだけ、アホみたいなことであるかが、
わかるまで。
「成熟したエゴ」を踏まえた直感だけが師を見つけるといった
ダイジは、やはり、ただ者ではないということ。
成熟したエゴと、ただの普通の人のエゴ、
または、ただの宗教探究者のわるあがきとの違い、
まずは、それすら分からないのが、人の世の常なのであるが。
もしも、その違いが知りたかったら、
悟ったといわれる人達の、直前の状態を文献で調べてみればいい。
彼らのエゴは、半端じゃない。
座禅や瞑想して、段階的にレベルアップして、ついに、悟った??
そんなこと、のたまったやつは、
全部、偽物である。
●結論の結論
本物の師を見つけることは、極めて困難である。
また、見つけたとしても、かかわる事が出来ないか、
または、かかわっても、そこから何も得ることが出来ない。
師というのは、
自分の背負った重荷で、勝手に自分で、押しつぶされそうになっている
旅人が、「ある言葉」をいったときに限り、
その者に手を貸すのである。
ただし、その手を貸すというのは、
荷物を一緒に降ろしてやるのではなく、
とびきり、重い荷物を乗せて、
旅人を、押し殺すためである。
苦しそうな旅人を見ると、
人は、ついつい、「荷降ろし」の手伝いをしてしまう。
しかし、本人がどうしてそんな荷物を背負い込んだかを
解決しないかぎり、それが止まることはない。
よって、荷物を背負っている自分がバカだとわからせるためには、
荷物を持たせて、潰す以外にないのである。
だいたい、本人は、幽霊背負っているみたいなもんで、
自分が何を背負っていることすら、分からないのだから。
■
EO師の晩年の言葉
↓
「私はただの一人も、
本物の弟子を見つけることができなかった。
その最大の理由は、
この私を必要とするほどに、
本当に苦しんでいる者を
私が見つけることが出来なかったということである。」
★
.
<<-- これ以前の投稿 10件
(2591 番)
これ以後の投稿 10件 -->>
竹の間 の最新投稿
全館目次
C mumyouan 当サイトのコンテンツの無断転載は著作権法により禁じられております。
- BlackVoid BBS CGI 2006.08.30 -