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[2797]
■
■男女具有性
by:
ほ う ざん
2003/07/15(Tue)08:57:41
fe098060.fl.freebit.ne.jp:219.112.98.60:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
◆梅の間の「第3話」に、少し関係することなのですが、
そういえば、
ネットで、ほ う ざんというと、
ごく一部では、ひとつの悪評が「前世紀」にはあったようだ。
それは、
ケンカ相手が女性でも手加減しないということ。
私には「男とか女」という言葉と同義の、大嫌いな言葉がある。
それは、レディーとか、ジェントルマンである。
まー、ジェントルマンの方は、
そこに「粋」な感じとか、ファッション性もあるし、
それを言えば、レディーという時には、「ファッション性」とかは
ニュアンスとしてはあるのだが、
それが、いったん、「弱い者」の「言い訳」として叫ばれる時、
私は、その主張を無視する。
◆現在までの男性社会の中では、
女は泣いてよし、男は泣くなが、原則であったが、
最近は、ようやく、各種のカウンセリングで男性も泣いてよし、
となって、その負担は軽減されたようだ。
これは正解である。
◆ところが、女性の方は、
父権的社会になってから、数千年が経ち、
その間、自己防衛の一種として泣くということが利用されてきた。
もっとも、そんな意識的なものではなく、
単に、感情構造が違うだけなのだが、
そもそも、いろいろな現象には理由があるわけであるから、
女性というのは、ひとつには男性社会の中で、
腕力的に弱い自己の防衛をするために、
危険な状態になると泣くという行動が本能的に採用された、とも言える。
もうひとつの見方をすれば、
泣くことで、ストレスが発散されることを狙っているのかもしれない。
子供を産む母体としては、ストレスは禁物。
そのせいで、しょっちゅう泣いては、ストレスを溜めないようにする
という面もあるのかもしれない。
もっとも、男性だってストレスを溜めてはならないが。
泣くと女性は「お肌」が荒れるようですが、
「体内」が荒れるよりは、ずっとマシなんだろうな。きっと。
◆さて、話は戻りますが、
私は、梅の間で書いたように、性別意識が希薄である。
それが私の中に作り出した一つの視点、センサーがあり、
それは、私が誰かを見るときには、
男性でも女性でも、その人の中の男女配分というより、
あきらかに、男性人格、女性人格といったものを相手にするときがある、
ということです。
◆たとえば、口先で、カワイコぶっている女性が、一旦
「言い訳の理屈」に走るときの、そのみっとみなさは、
ある意味で、子供っぽい場合もあるのですが、
子供っぽくではなく、完全に男性化したエゴと化すことがある。
そうなった場合、私は、その女性の中の母性や女性を相手にしないし、
配慮もしない。なぜならば、その時、理屈を言っているのは
男性的人格だからである。
だから、私は、その男性に向かって言葉を言う。
◆通常、これをされる側の女性で、
内省という事をしない人は、キヅついたとぼやくことになる。
ところが、そういう女性は、
自分と同じ女性に対しては、まさに男性のエゴと同じような
攻撃的なエゴ、打算性、暴力性を発揮していることがほとんどである。
傷ついたと言い張るときにだけは、女性という面を利用して泣き、
ところが、自分が横暴に振舞える環境や、自分より弱い女性に対しては、
まさに「男まさり」の傲慢さを振りまいているのである。
泣きながら、手には銃を持っている、
と、喩えられるような、そういう女性が多いのである。
最近では、これが、子供にすらも言える。
泣きながら、片手には凶器を手にしているのである。
◆そういうわけで、
都合のいいときは、男性的な理屈を言い、
都合が悪くなると、女性というキャラクターに逃げる。
そういう、ことを私は、断じ黙認しないから、
女性が「総合的な人間」としてケンカを売るのであれば、
私もまた、相手を女性としてみるのではなく、
人間として見て、その人を相手にするということである。
◆だから、むろん、逆もある。
私、場合によっては、男性を、女性を扱うように扱うこともする。
これと非常によく似た現象が、
いわゆる憑依である。
むろん、そのほとんどは、心霊現象ではなく、
それこそ多重人格的な原因であるにしても、
その時、ものを言っている相手の性別によっては、
こちらも、その性別の人格を相手にするのである。
もっとも、こうした事が私の中で、普通のこととして
日常茶飯事なのは、人間のような性別を持たない存在や、
あるいは、女のフリをした霊とか、
男のフリをした霊とか、そういうものに慣れていたせいもあるだろう。
場合によっては、人間のフリをした、「何何」とかね。
◆そういうわけで、
私は、それほど多くの相談を受けたわけではないですが、
精神的問題を抱えた子供を相手にするとき、
その相手の性別も2重的に見てきました。
そうすると、相手がたとえ男性でも、女として扱うべきときがあり、
相手が女性でも、男に対するのと同じ口調と論理を使う必要がありました。
そうした外見の性別を、臨機応変に無視した(実際には無視ではなく、
調整したり観察しているのですが)言動を、
カウンセリングの途中で、アレンジするので、
何も見えない盲目の人達には、私は単なる鬼と映るわけです。
実際には、鬼や鬼畜と化しているのは、そのカウンセリングを受けている側が、
その時に、表面化させている人格的(性質)の方なんですがね。
◆そういうわけで、
外見というのは、また、性別というのは、
人間というスケールの中の単なる「一部」であるということ。
女性当人が「女心に根ざすような問題での主張」をしている場合でも、
その性質を動かしている支配権を握っているのが、
まさに「男性的人格」であるという場合も多いのですから、
くれぐれも、性別には、惑わされないことです。
セックスや、ファッションや、文化という次元では、
性別の存在はいい。
しかし、人間関係には、性別は基本的に関係ない。
身体的、心理的な違いを生む「ファクターの一部」ではあっても、
根本的には、性別は無関係である。
それを分かっていないと、
たぶん、カウンセリングのようなものは、
確かな結果を出せません。
もっとも、そんなこと、まともなカウンセラーにしてみれば、
当たり前の事ですけど。
けど、個人で、そういう相談乗ると、ウザいね。
何もわかってない馬鹿とか、その子供の親とかが、
「うちの子は、女の子なんですよ!」とか言うのである。
私曰く「その、うちの子は女の子だから、というアンタのその
口調が、この子をダメにしたんじゃないかね?」
何かにつけて、女の子だから、などと言われたにゃ、
女の子は、ふたつの行動を取るだろう。
ひとつは、その「女の子であろう」としすぎる事で、
本人の中の、男性原理が未発達になる。
もうひとつは、反抗して、「女の子だからとは言われないようにする」。
つまり、男のように、突っ張る。まともな女性原理は育成されない。
つまり、男女どちらも、性別から来る決めつけというのは、
その子供が、どっちの道を歩いたとしても、
「屈折する」のみ。
世の親たちは、心しておくことである。
◆
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