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自殺
宇宙・悟り・意識の変化の問題を中心とする「間」です。
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[2874]
■
「エゴ」の本質は、生存しなければ、という強迫観念である。
by:
ほ う ざん
2003/09/23(Tue)12:36:52
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なんでも、まるで、「エゴ」という「属性」のせいであるかのようにして、
エゴが悪いと言う馬鹿者が多い、{精神世間}ですが、
以下に、また、休日読者サービスで、
「高度な問題」について、ごく簡単にコメントします。
もしも雨宮ダイジ的に言えば、
「断じて、君の勝手な解釈で、誤解するべからず」と
「前振り」がついた上でないと、話が成立しない、問題なのですがね。
■人間の中に、探究のかなり「最後の方」で、残る
エゴというものがある。
たとえば、
「自分は最後には、自分の意志で自殺することを決める事が出来る」
という形のエゴ。
ここでも、これを主張するのは、
そう主張することで、エゴが「自分には最後の決定権ぐらいある」と
「ほざきたい」わけである。
■で、もうひとつは、かなり気がつきにくい。
それは、
「自分には問題意識がある」というエゴ。
「悩みの解決法はわからない、
世の中や自分が変なのは感じる、
自分だって、疑問に思うことは出来る。
ただ、解決法がなくて苦しい・・・・」
と、ここまでどん底にいても、
まだ、まだ、エゴがある。
それは、自分のことについて、
「問題意識」を持っているということが、
自我が最後にしがみついている「自己存在意義」になっている。
■これだから、人は、次から次へと、
まるで、苦労を探しているかのように、
嫌だといいながらも、トラブルを背負い込むのである。
なにしろ、自分に問題意識が起きないのは、
自分の進歩が止まると思い込んでいるからである。
だから、問題意識を失うということは、
問題意識によって、自分という個性や思想を
構築してきた人種の人達にとっては、
自我の死活問題そのものである。
■「何か改善すべき点が自分にはある」、
「何か、問題がある」と、
このように思う張本人こそ、
自我であり、
そう思うことで、自我は、いつもでも、生き延びている。
■何事も、苦しみと悩みから楽になりたいというのが
最初の本当の動機であったにもかかわらず、
いつしか、問題意識中毒となるわけであるから、
問題は絶えることはない。
ひとつ片付けても、次の問題意識の登場である。
■こうして自我は、問題を意識しているのも「自分の視点」であり、
問題を解決するのも自分であると、思い込む。
問題意識がある、とか、
自分は少なくとも、変であることを見ている「視点にいる自分がある」、
というこれすらも、
実は、単なるエゴの最後のプライドにすぎないものであることには
気付かないし、その事を、教える導師もいない。
いても、豚に真珠、犬に宝石、猫に小判、馬の耳に念仏、やぎに札束、
「猿に悪知恵」という状態が、精神世間なのである。
■自分は問題意識がある、問題を意識している、
ということこそが、最後まで「のさばるプライド」であるとするならば、
絶対に、エゴをなくすなどという根本問題を解決できるわけがない。
それは、本人が「狂わないでいられる」ための、
最後の正気を保つための、言い訳であり逃げ道なのである。
自殺もしかりである。
それは、生を嫌悪しているという以上に、
自分の自我が、狂わないための「逃げ道として勘違いしている」のである。
■しかし、人は、クイズには、「最初のうちは」魅力を感じてしまう。
まさに、「クイズ=疑問や設問」によって、
それこそ、あなたの中には、「問題意識」が生まれ、
その後は、それを解決するために思考し、行動する。
ところが、解決のめどが一向に立たない、
いっこうに、謎が解けないとなると、
最初は楽しかったはずのクイズ解きは、次第に、
いつまで経っても、解けない自分にいらだち、
最後には、「私にも何も解決できない」という不毛感の連続となる。
ひきこもりなどには、これの初歩的な状態が多い。
(生きて行く自信ゼロというやつ)
しかし、そうはいいながらも、
エゴは、「まだ何か解決の道はないか」と考えたり、
「解決は出来ないが、これは私の大問題なのだ」と
思考し続けるのである。
■で、さて、ここで、「悟り」という問題を持ち出すと、
この「問題意識」そのものが、落ちてしまうということが、
問題意識の「完全なる加熱」のみによって引き起こされる。
これこそが、「公案」の本質であり、
「単なるクイズや形式的な禅問答ではない」と、ダイジが言っている事である。
a+b= の「解」を探すのが
「問題意識からその問題を解決する」というやり方であるなら
悟りというものは、
=の左側の式そのものが、消え去ってしまうことである。
ただし、それは、そもそもの、自分のかかえた「問題意識」が、
いかに、根拠なきものであるか、そもそも、問うことに意味があるのか
という事を徹底して、自問し、思考しつくしたときにだけ・・・、
つまりは、答えではなく、「問いを疑う視点」が生まれたときである。
光明体験というのは、
和尚が言ったところの、
「問いを発している者の死」であり=エゴが死ぬのであり、
そのエゴの解釈どころか、主体感を生み出している視点の死であり、
解放や悟りというものは、そこでこそ、やっと起きるのである。
■と、こういう事を、言うから、
どんな賢者が何を言っても、自分勝手に誤解する者が大半なのである。
1.「私なんか、別に問題意識なんかないさ」
2.「じゃー、問題意識を持たなければいいんだ」
後者は、これまた、立派な問題意識の罠に捕まっていることは明白だ。
そして前者は、「問題意識がないフリをしている」か
もしくは、実際にあるのにその問題意識すら全く意識できないほど
眠ったままの「無意識状態」であるかである。
■ということで、
問題意識は、そもそも問題を解決しなければいけない
何かは問題である、という思い込みによって起きるのであるが、
それ故に、問題を消し去ることは絶対に出来ない。
問題意識は、まさにその「問題に依存している」からである。
問題をかかえた家族から、自由になれない原因が、
そいつの世話をしている本人にもあるという、
共依存の連鎖(監獄)と全く同じである。
従って、問題意識は、問題意識の根本に焦点をあてることでしか
揮発するまでの熱エネルギーを与えられない。
>「最も困難な問題への直面」
しかし、ここにある最大の問題は、
生物というのは、その本当の問題意識の根本が、
「生存しろ」というプログラムによって支配されているということである。
そもそも、本当の問題意識とは、
自分をどう生存させるか、どう、狂わないようにするか、
という、「生存しろ」の命令であるので、
その命令を越えない限りは、
問題意識を生み出す本質というのは、
単に「エゴのせい」「自我が悪い」で済む問題ではない。
それは、そもそもの、
「生きろ」という生物学的な命令のプログラムを
書きかえるという作業を必要とすることになるのである。
ティエムさんが、テーマにしてきた「闇」とは、
その光の世界で宇宙の万象が、動いて、存続するための「生存命令」に
全く影響を受けない「母体」であるということ。
その母体の闇しか、
そもそもの、問題意識や自我の防衛、身体的防衛システムを
緩和したり、無効にすること、
つまり、「生存命令をイレースできるもの」は他にはない。
イレースしてしまったら、
あとは、問題意識に餌をやりながら、生きる道ではなく、
問題意識なく、問題を単に「処理することを楽しむ」という道が
残っているのみである。
宇宙の知的生物の進化の3段階を
ダグラスアダムスは、こう皮肉った。
どうやって食うか
どうして食うか
どこで食うか
すなわち、
生存こそ、すべて、と思い込んで10万年、猿が生きて、
疑問こそ、すべてと思い込んで、10万年、類人猿が生きて、
居直り(世間慣れ)した2足歩行生物が残る、・・・この3段階である。
ただし、生物や知性というのは、
徹底的に、この「無の闇」「活動停止状態」を恐怖する、
つまり、恐れるように作られている。
死ぬかもしれないという「恐怖」
狂うかもしれないという「恐怖」こそが、
宇宙が、生物産業を成立できる基本であるからね。
快楽なんぞは、
恐怖に比べたら、全然生きる力にはなり得ない。
なにしろ、とてつもない快楽を経験すると、生物は、
「もう生きていなくていいや(=もう食わなくていいや)」
と、なるからである。
まっ、ようは、その満腹が、
「新陳代謝」の法則に勝てるほどの、
恒久性と普遍性を持つかどうかですがね。
それが何万年も長く持つほどの「快」でないと、
世間にゴロゴロしているアホ教祖みたいに、
人数ばかりの教団を作り、
くだらん説教こいて、
あげくには、政治家みたいになり、
「腹が減っては、戦」 となるのである。
人類というのは、
「腹が減っては戦はできぬ」、
ではなく、
「腹が減るから戦をする」のである。
腹が空くとは、
すなわち、あらゆる種類の「餓え」である。
心理的な餓え、霊的な餓え、肉体的な餓え、感情的な餓え、
その宇宙を成立している「骨組み」の数だけ「餓え」と新陳代謝があるので、
いちいち、あげつらっていたら、きりがないね。
■
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