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[3107]
■
■増加する「機能不全家族」について■
by:
ほ う ざん
2004/05/15(Sat)08:05:46
■機能不全家族的な傾向で育った場合に起きる、
いろいろな心理的葛藤について、
余所の掲示板で書いたものの「断片」ですが、転載しておきます。
【人の自立を削ぐ家庭環境や社会環境】
↓
↓
とにかく、親も教師も社会も、日本では、
人の自活、自立を削ぐという傾向がなぜか、戦後多いのですよね。
原因は、便利な社会ほど「依存的社会」だから
ということだと思います。
だって、たとえば、ネットというものがなかったら、
こうした場で何かを吐き出すことももう少し難しかったわけでして、
そうなると、何から何まで自分でやらなくてはならず、
その結果、自立できるようになります。
だから、便利、手軽さというのも、考えものですね。
便利さに、人は、どんどん、中毒してそれに頼るようになりますから。
カウンセラーというのも、ここぞという時ならともかく
何かあっちゃ、相談していると、これも
一種の「便利屋」でして、本当に、こんなんで、
個々が自立できるんだろうかと思ってしまいます。
まー、極端にいうと、社会それ自体が、
実は、よく言えば、助け合い、悪くいうと、
「群れに依存すること」ですからね。
だから依存も、ここまでは依存しているけど、
ここからは自立という、
その「さじ加減」が自分で出来るようになる、
ということが、要なのでしょうね。
【相手を理解するということについて】
↓
↓
理解というのは、理解「する」のではなく、
理解が「生まれる」とか、理解「される」、というのが
私の場合は実感的な感覚で、
理解をしようと思って理解する、ということはあまりありません。
じっと眺めていたら、はたと、理解のようなものが
生まれる、といった方が表現として合っているようです。
算数の問題を解くなら、理解しようと思って理解する
という事もあるでしょうが、人を理解するというのは、
「絵」を見るようなものだと思います。
悩んで理解する、つまり理解に悩むということではなく、
まるで絵画や音楽をとらえるようなものだと思います。
だから、私はたまに、掲示板などに投稿を書く人たちの事を
「それぞれの味」と言います。味覚的なものなのです。
確かに、事件を解決するときのような、
証拠集めと推測に継ぐ推測で、事の全体を理解するという
理解のし方もあるのですが、それは、通常、
恋人に対して行うものではありません。
●また、「理解」とは何をどの程度理解することを
意味しているのかの「定義」が必要になります。
なにしろ、「理解できる、か 理解できない」の二つの一つ、
などという、そんな極端な2分化は不可能です。
たとえば、私は、今窓から、おじいさんを見ています。
私はあの人が、この近所の人であると理解しています。
そして、犬を飼っていることを理解しています。
性格は、聞いた話では、穏やかだということです。
と、私は、今、チラリと見たおじいさんについて「理解」を
しています。そして、「そこまでの理解」です。
そして、理解というのは、
たとえどんなに親しくなったとしても、
このおじいさんの喩えの理解が、
「より複雑にその内容が多くなるかどうか」
というだけの話であります。
したがって、あなたが誰かの何かを理解したとか、
自分が理解されたといっても、すべては、
理解しているつもりなだけ、でもなく、
理解したぞ、でもなく、
理解していない、でもなく、
理解というものは、すべからく、
「何をどこまで理解したか」という「グラデーション」の中にあります。
【親の子供に対する「手出し」の許容範囲】
↓
↓
機能不全家族の話を聞くにつれ、毎回、思うのですが、
やっぱり、兄弟は多少、多い方がいいですね。
兄弟が多い方がいいというより正しくは、
親が子供にあーだこーだと、「干渉しすぎないで」、
ほっておくことが、本当に大切だと思います。
「ほっておく」というと、これまたすぐに、愛情不足だなんだと
言う人もいるのですが、
親が子供にする最低限の愛情とは、
具合が悪くなったらいたわり、スキンシップして、
食べ物を与え、と、動物と全く同じでそれで十分です。
あとの問題は、
かまわずに、ほっておくほどに、子供は自立しようとしますから。
それよりも、人間でも動物でも、
親の本当の義務とは「自分の後姿で子供を育てること」です。
親自体がしっかり生きていれば、
子供は、親があーだこうだ言わなくとも、
その姿を見るだけで、成長します。
ちょうど、それは、親が餌を取るようすを子供が見て覚える動物の
教育と同じです。
しかも、チーターの母親に至ると、
自立させるために、何度も子供にわざと不利や状態を作り出し、
しまいには、ある日、母親は、子供の前から姿を消します。
●兄弟が多くても、それが原因で歪むケースというのは、
末っ子とか、特にヤバイのが、祖父母に偏ってかわいがられた
ケースです。
祖父母が孫をかわいがって甘やかすのは、
それは祖父母には、扶養する責任がないからです。
自分には責任がないので、気楽に孫をただかわいがります。
親が介在していればいいのですが、
事情によっては、祖父母に幼い時期を育てられた人もいます。
また、兄弟間での立場や能力の違いからの劣等感も歪む原因になります。
●ようは、兄弟が多いか少ないかよりも、
親でも祖父母でも、誰であっても、
子供をある程度、「ちゃんと、ほっておく」、これがない事が
自立の面で、どこかがおかしくなる原因の「一つ」だと思います。
自立を削ぐ傷があまりにも深く、長く行われてきて、
しかも、偏った過剰な「偏愛 または 虐待」を、
親か、もしくは他の誰かから受けた場合には、
本当に抜け出すのには、大変な「大戦争」をやらかす必要があります。
そのときに、友人などの当事者の家族の汚染からは独立した、
部外者である人間だからこそ出来るこという事がありますが、
それは、下手をすると、今度はその者は、聞き手に回っている者や
カウンセラーに依存するということになりかねません。
基本的には、こうした歪みのある相手と話をするのはいいですが、
もしも「自己決定」の段階で、
その者が、他人の意見を頼るようなことが、もしもあったら、
心を鬼以下にしてでも、冷たく、突き放してください。
本人の無意識というか、「本体」がまだ生きていれば、
表面的には冷たくされても、
それが自分に本当に必要なことなのだと、どこかでうすうす気付き、
そのわずかな「正気の光」が、
心の中の分厚い岩盤に空いている出口を見つけるきっかけになります。
相手の愚痴を受けとめるのはいいですが、
決して、肝心なところで、助言はしないでください。
その相手を「かわいそう」だと思うのではなく、
「大切に思う」のならば。
●
●●●
【家族と、ネットの掲示板との共通点】
↓
↓
ちなみに、管理人が、細かく、投稿を仕切っていたり、
管理人が、特定の常連をひいきするといった掲示板にいくと、
実に、よく、この機能不全系の育ちの投稿者と、
そうでない正常投稿者の、癖が如実に出ます。
掲示板というものが、
管理人を親とする「家庭の縮図」と化してしまうからです。
管理人や、その他の兄弟に取りつくろおうとする姿勢や、
こびる、逃げる、戦うなど、実によくその人の性格が
現れるので、おもしろい見物が出来ます。
だから、投稿するということの中には、
自分の家庭環境そのものが現れるという面があります。
たとえば、ヤフーの掲示板のように、
別に誰が管理するでもない所では、この家族性はあまり表出しません。
管理が放棄されている=親がいない、からです。
●ちなみに、私の癖?ですか?
そりゃ、もうケンカ癖に尽きるでしょうよ(笑)
なにしろ、父親の軽薄さと、偽善と嘘を嫌というほど見たので、
サラリーマンしてたときも、どこへ行っても、
社長とはケンカしました(笑)。
私の中で黙っていられないもの、それは「偽善」です。
悪人が悪人らしく生きるのは、全くかまわない。
だが、善人ヅラさげて、実は極道、詐欺、カルト、
能書きばかりこくが、実は、ただの馬鹿・・・・
こういうのだけは許せない、という癖が私にはありますね(笑)。
だから、しまいには、役所の区長相手にケンカとか。
おかげ様で、区議会の議員を、何人か、ひきずり降ろしましたけど。
まー、単に老いぼれて歳を取ってたから辞めた、
というのもあるでしょうけど。
で、今にして思えば、サラリーマン当時の社長相手の社内での
その喧嘩のし方は、実に、下手くそでしたね。
会社全体にとって良き方向や、良き結果を導き出すための
社長との「交渉」のケンカというよりは、
個人的なケンカ、感情的なケンカがわりと多かったもんですから。
●
【誰にでもある 隠れた才能】
↓
↓
●ところで、ちょっと思い出したことがあります。
誰でもそうなのですが、
人には、かならず環境、特に親の影響をほとんど受けていない
自発的な興味とかが、なぜか、かならずあるんですよね。
つまり、苦痛とか、嫌な経験とリンクしていなくて、
親とか何かへの反抗心の反動から生まれたのではないものが。
私はこれを「無傷な鉱脈」とか、「無傷な水脈」と言います。
彼の中に、自分でこの、他人に全く汚されていない
「鉱脈」「水脈」を見つける「手伝い」でしたら、
それは、部外者にも出来ると思います。
その事について、話合うということで。
この鉱脈というのは、一言に言えば、
その本人が、何の苦労もなく、何の力みもなく、
自然に、やることの出来るものや、関心があるもの、
という形で、発掘されるはずですから。
●
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