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「社交辞令的 感謝」の無意味さ
by:
ほ う ざん
2004/05/28(Fri)08:17:35
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またまた、余所様の掲示板で書いたものですが、
たまたま、やや「竹の間的な部位」があったので、転載しておきます。
>ありがとう、という感謝の言葉は、大切なコミュニケーションの
>一種だと思うのですが。
●私は禅話に出てくる「仙崖和尚さん」の逸話が好きです。
礼を言わないことで村人から批難された和尚さんの話です。
だから、ありがとうも言えないほど感謝しているという状態が
わりとあるので、軽率に礼として「ありがとう」とか言うと、
馬鹿らしく思えてしかたありません。
だから、「ありがとう」などとは、
ほとんどの場合には、単なる社交事例以外では言わないですね。
感謝を言う間に、別の形でお返しすることを決意しますし、
それを黙ってします。
というか、笑顔ひとつで、ヤボな事言わなくても、
相手には感謝の意とわかりますし。
「漠然とした頑張れ」があいまいで用途が不確定で
具体性がなく、これでは真意が伝わらないという理由で、
あまり使わないのと同じように、
「ありがとう」という、ありきたりな言葉ではなく具体性のある
用語を使うようにしています。
その方が、その人に対して、その事について言っているという
感謝の言葉のありがたみ自体が、相手にとって深まりますので。
たとえば、「では、今夜、戴きますね」とか、
「おかげさまで、本当に助かりました」とかです。
●社交事例として使う頻度の多い言葉というのは、
それを使うのが自分だけではなく、本、メディア、
いろいろな人との関係の中で、ボロボロに使い古されてゆくうちに、
時には、正しく気持を伝えられない変なものや、誤魔化しの道具に
なってしまっている事が多いものです。
「愛している」とかも、そうですが。
ですから、「固有の状況に応じた感謝の意」を私は使うます。
その方が、血が通っていると思っていますので。
ただし、普通の挨拶言葉や、普通の言葉に感情が反応する人は、
それはそれでいいと思います。
あくまでも、私流ということです。
>では、愛とは何か?
(あくまでも)私の中の定義では、
好きだも、大切にされているも、いとおしいも、
慈愛も、すごく関心あるも、守ってやりたい、自己犠牲も、
これらはすべて、私の「愛の定義」からは完全に除外されます。
では、何が私にとっての愛の定義かといいますと、
無為自然、あまりに自然で、
行為した方も、された方も、そこに人としての
感謝も、その反動の怒りも、全く起こさないようなものです。
風が吹くように、自然で、
そこに、人のこざかしい意志や、感情が介入しておらず、
神の意志とかいう、わけわからん、カルト的定義も介在しておらず、
ひたすらに、2人とも、どっちも、自然現象の中にいるように
さりげないもので、記憶にもそう残らず、
しかし、実に、的確なタイミングで、必要であった行為だと
ずっと後になってから、思い出すような、そんなものです。
これ故に、やった自分、された自分、
愛した自分も存在しておらず、愛されたことを知っている自分もいない、
という、無心な状態の中に、
私は、愛と言われているものの、最高形態を
現在までに、多く経験したり、見てきました。
ただしそれは宗教的なものではありません。
人生の時間に、無駄をなくすために
自然に身についた、経験的なものです。
●
ちなみに、自然現象のような、関係は、
別に、どこも難しいことではありません。
ただの直感です。その頻度が多いか少ないかだけです。
アーティストやギャンブラーやスポーツ選手には、
一生の間に、その自然な世界を、かいま見る人たとがいます。
頭でフルに考えぬいて、感情のテンションをめいっぱいあげて、
あらゆる意味で自分の「限界」にぶちあたった人たちです。
その先は、もうどうにも考えても、新しいものを作り出せない、
その先は、どう技術や感情をハイテンションに維持しても、
どうにもならない世界が見えたとき、
その極限的な「諦め」の中で、ぽっかり、心の通気がよくなる。
そこに、発明の回答があったり、あるいは
何気ない行為が、困難な物事を、予測もしない形で、
あっさりと、解決してしまったりすることです。
そういうものが、人の中を駆け抜けるときの
最大の特徴は、
人は、自分の存在や、生命の充実感を感じないということです。
理由は、本人がその「充実」そのものに、なりきっていて、
それを外からは見えないという事です。
同じことは、無意識で盲目的な状態の人にも
適応されそうですが、
そのふたつの「無自己」には、それこそ「天地の差」がありますので。
片方は、ただのノイズ(ただのごちゃ混ぜ)、
片方は、無音です。
どちらも、「はっきりとした音程や音色が聞えない」という点で
似てはいますが、混乱と無では、全く違うということです。
そんな状態に慣れた人には、
直感というものが、いつもその人を通過しやすくなります。
早い話が、何も考えてないわけですね(笑)。
ふっと、理由もなく、
やりたくなってやるだけみたいなもんかな。
だから、その人は、たいした事したとも全く思わないわけでして、
自分がやったとも思わないので、
誰に対して他人が感謝しているのか、何それ?謎?という感じ。
自分が息を吐いたら、植物がその二酸化炭素に感謝したなんて、
聞いたことないし。
それぐらい、感謝されても、本人は、何のことやらピンとこない。
それどころか、感謝されると、場違いな事、
何かとても「筋違いな事を」相手がしているようで、
居心地の悪ささえ、感じてしまうわけでして。
●
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