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[3130]
■
●雑 感●
by:
ほ う ざん
2004/06/19(Sat)07:38:31
98.147.192.61.east.flets.alpha-net.ne.jp:61.192.147.98:Mozilla/4.0 (compatible; MSIE 5.5; MSN 2.5; Windows 98)::::ja:
>〜悪気のない者ほど迷惑である〜
私、実は、「悪気のある人」って、許せるんですよ。
逆に、「悪気のない人」って、「手のつけようがない」のです。
理由は簡単なのです。書き込みにかぎらず、
日常会話でも、「悪気のある言い方」というのは、
1/自分の本心、
2/相手の本心
3/自分の建て前、
4/相手の建て前、
この4つを、傍観して、作戦を練っています。
つまり、自覚的、確信犯なわけです。
そこには、状況や自分の本心への観察が行き届いています。
だから、悪気があるという事自体が「自覚」の存在を
匂わせ、故に、どんなに悪意があっても、人としての会話が出来るのです。
ところがです。
この4つのうちのどれかに自覚が欠けている人というのは、
ACとかの人がこれ読んでいたら、簡単に理解できると思うのですが、
悪気がないということは、ようは「意識できない」ということです。
で、どうしてそうなったかというと、
子供のころに、「冷静な悪気」を持つほどに余裕こいてた
精神的な生活をしていたのではないからです。
常に、自分の振るまいや言動に、何かへの恐怖とかが
あった場合には、子供にとっては、
自分の振舞い方は、家族の中での自分の立場の死活問題であったわけです。
そうなると、人というのは、こうした死活問題にからむような
つまりは、「決断したり、対応するのに、緊急を要するような」
物事に、毎日さらされていると、
自覚的に、悪気のある事を言う暇などなくて、
すべて、「自動化」されてゆきます。
たとえば、一例として、
まるで「条件反射」のように「謝ったり」するわけです。
何かあると、すぐに「すいません」と謝っては、
そのくせ、また「自分で言った約束すらもすぐに破ったり」、
「同じ過ちを、何度も繰り返す」とった、一種の人格障害者です。
約束した事を何度も無視する「約束を守れないという人間」は、
ほぼ間違いなく、このタイプの無意識人間です。
これらは悪気のある思考によってなされるのではなくて、
あまりも無自覚に反射的になされるので、その者の「悪癖」となります。
そのために、世間では、悪気のない言動というものを
「悪気はなかったんだから・・・」と、許す悪癖がありますが、
実は、悪気がないほどに、タチは悪いものとなります。
前述の「4つの状況判断」を元にするという冷静さがないので、
その分、その表現方法は、本人の「感情」として
現れるしかないからです。
そして、自分を説明したり弁明しようとしても、
どんどんと、その言動が、ますます、ちくはぐになってゆく。
こういうタイプの、まるで「猿のような無自覚」な迷惑人間は、
きっと、皆さんの周囲にもいると思いますよ。
ということで、悪気のある人よりも
悪気のない人の方が、対話が成立しないといのうが
私が、日常生活でも、沢山観察してきたものでした。
悪気からなら、そこには少なくしも自覚があるから、対話が出来る。
しかし、悪気がないほどに無自覚で、自動的で、反射的に
なされるように訓練された癖は、
それが歪んだとき、外圧を受けたり、否定された時には、
自己説明がうまく出来なくなり、思考停止してしまい、
「屈折した、感情の爆発」としかなり得ない。
多くのACの人達が苦しみ、また解体しようと試みているのは、
子供のころに、一体、どんな駆け引きを無意識のうちに
学習してしまったかです。
その動機は、ほとんどの場合において、
家族の中に、その人の存在を脅かす者がいた場合です。
つまり、子供ながらに、必死に生き延びようとした結果が、
いろいろな病理となるケースがほとんどですから。
■
ちなみに、「全く屈折していない感情」を持つ人も、
世の中にはいますので、感情自体を否定するものではありません。
最近、私はある掲示板で、そういう女性をみかけて、
その感情の純粋さに、惚れ惚れしました。
*********
>〜掲示板でよく起きる、勘違い投稿〜
■誰かに非があっても、それが弱い(?)人であるとの判断
または偏見を持ってしまった者は、
「それは守るべきものである」、としてしまい、
叱咤し、さとす事もしない事が多いのが、現在の多くの掲示板の現状です。
■また、その逆に、
本当であれば、守るべきまたは、同意されてしかるべき
意見であっても、周囲がその発言者を「強い者だ」と判断した場合には
その「強い者は守らなくてもいい」となってしまう、
そこには、一種の「逆偏見」、「逆差別」が存在しているわけです。
これは掲示板にかぎらず、社会、世の中によくある現象です。
■そして、この構造を「意図的に悪用する者」も多くおり、
その場合には、自分を弱いと見える立場に置きつつ、
立ち回るという、逆仕切り的な、「弱い者きどり」です。
こうしたものは、どちらも、ともに毒にしかならない、
というのが私個人の意見です。
■強きをくじき、弱きを助ける=良しというものも
それが単細胞的な「思い込み」のものであれば、
ときには、それはとんだ正義の踏み違えにしかならない原因となります。
強い、弱い、若いとか、老いているとかに、かかわらず、
「くじくべきもの」は、あるのであるから。
*********
>〜ずる賢く、弱く「立ち振舞う」 子供や大人〜
一昔前までは、女性には優しく、といった風潮がありましたが、
それは、さすがに現代では、中和された面があります。
しかし、未だに存在するのは、
「弱い者いじめは、してはいけません」という言葉である。
子供にとっては、別に何もかもが、いじめであるわけではなく、
そこには、子供どうしの、駆け引きや、対話が成立しているのに、
「自ら自身が、未熟な大人」である者の場合は、
その目には、
それが、いじめとしか見えないものも、多くあるのである。
で、こうした洞察のない教育を、自分の子供にもしている親は、
現代の子供が昔とは違って、「小ずるい」面があることを考慮しない。
その結果、
「弱い者をいじめてはなりません」と子供が聞けば、
「おっ、弱い者やっていれば、いじめられないんだ」と
猿の智恵をつけてしまい、
その子の一生が、台無しになるということもよくあるわけですよ。
こうして、「弱い立場を逆に利用すること」を覚えた子供は、
何ごとにも本音や裸でぶつかれない「病」にかかってしまうわけですよ。
「だって、私、弱いんだもん 教」の宗家となり、
「私、あなたみたいに、強くないんだから〜〜〜傷つけないでよぉ〜〜〜」
の「伝道師」がいっちょ出来あがりです。
*********
>〜掲示板で、うかつに助け舟や仲裁を出すケース〜
■いろいろな掲示板で、たとえば、
他者の仲裁のための書き込みをする際に、こんなケースもあります。
1/相手や掲示板の場の雰囲気の事を配慮して、
極力「中立性」を保とうとしている投稿に見えるが、
実は、そうではないという種類の投稿があります。
2/そうした投稿は、結果として、
片手で人を助けるような発言をして、
もう片手で、人を残酷に蹴落としているということに気付かない。
たとえば、誰かをフォローしたり叱咤する場合も、
レスが一貫して、フォローするか、
一貫して、叱咤するかに徹すればいいものを、
安易な「バランス」をとろうとして、自滅する。
自滅だけならともかく、助けようした相手にすらも、
ある種の余計な傷を残してしまうものとなります。
つまり、「不要に助け上げたり、つき落としたりする」と、
その「落差で」相手が心に怪我をするというのが、
分からない人も多いものです。
だから、私は、叱咤する場合には、
一貫して、叩き落とすわけですよ。
叩き落され続けると、次第に相手も「耐性」がついてきますので。
それが相手の成長にも繋がります。
3/そして、では、こうした勘違い投稿者がこうなる原因は何か?
といえば、多くのうちの「ひとつの要因」として考えられるのは、
その人の中の「中立性」を保とうとする動機が、
相手や状況に対してのもの(のつもりでありつつそう)ではなく、
自分自身の中の不愉快な感情に対して、
それを「自分の居心地のいい感覚へとバランスを取ろうとする」、
その結果の発言が災いするケースです。
結果として、掲示板上で、非常に優れた投稿があっても、
それを台無しにしてしまうような、フォローを投稿してしまう。
4/こうなると、自分の感情バランスを保とうする事、
自分が嫌な感覚になりたくないことの方が
発言の動機として、すりかわってしまっているわけですよ。
そして、そういう発言というのは、相手に響かないのです。
なにしろ、本人の中で、からから回っている音にすぎないのですら。
*********
>〜人を助けようとするときの判断基準〜
分かりやすい例は、あなたが、ホームレスの方を見たとします。
いろいろな事情でホームレスになるわけで、
ホームレスにも、それこそ、非常に楽観的であったり、前向きな方もいます。
そして、その中のひとりの人が、もしもあなたに、
お酒代をください、と言ってきたとします。
それを差し出すのと、差し出さないのと、
そのどちらが正しいのかは、むろん、誰にも断定できません。
ただ、重要なことは、
頭、心、どちらを通じても、あなたがあとで後悔しない
行動に出るかどうかです。
そこでお酒代を渡すことが、その人の人生を
より退廃的なものにしてしまうかもしれない、という考えがあるとともに、
同時に、もしかしたら、この人にとっては、そのお酒が
この生涯の「末期のお酒」になるかもしれない、という考えも
浮かぶかもしれません。
また、それを言ってくるその人の姿が、
非常に、哀れさを誘うものであるか、それとも、
単なるタチの悪い酔っ払いに見えるかという
外見や雰囲気によっても、あなたの心情は影響されてしまいます。
結局のところ、正しい対応法というものは、マニュアル化はできません。
ひとつひとつのケースで違うわけであり、
また、当事者同士にか分からないことがあります。
●頭と心とは、簡単に言えば、
感覚的な心情と、論理的な思考でしょうが、
そのどちらも、あまり信用がおけない面がそれぞれにあります。
武術でしたら、こうしたことは、
何分の1秒という一瞬で判断して、
しかも考えるだけでなくて、体も、動かなければなりません。
もしも自分の中で、相反する感覚や考えに少しでも「迷ったとき」には、
いつも、迷うということは、「今は、待機しろ、待て、忍べ」
というメッセージととるほうが賢明だと私は思います。
迷いのないときには、
正しいからやるとか、正義だからではなく、
ただ、それをすることが、くしゃみをするのと同じぐらいに
自然で楽であるものです。
ある意味、これが別の投稿で書きました、
「あなたの 心地よい と感じることをしなさい」の真意です。
全く迷いの余地ないことしなさい、という意味でもあります。
少しでも迷ったなら、やめなさい、ということです。
ただし、こうしたコントロールは、
何かに身勝手な思い込みで、理由をつけては、
自分の言動を「正当化」し「言い訳ばかり」をするような人間には、
決して出来ない自制や直感です。
しかし、そういう、しょうもない迷惑人って、世の中にいますね。
*********
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